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反日カルトの教祖も晩年は普通のおじいさん? (信者の人権を守る二世の会・公開シンポジウム)親子の絆断絶に終止符を・二世と有識者による反日カルト批判についての考察

先ず、素朴な疑問ですが、(日本国内の)旧統一教会の教会員は初詣に出かけることはなく、お守りもお札も手にすることはないのでしょうか?


先生(文鮮明教祖)がエバ国家に定めてあげなかったならば、日本は既にぺちゃんこになっていたのです。雑多な神様を信じる民族、いわしの頭も信じる日本ではないですか。唯一神をあがめるキリスト教の伝統から見るとき、多くの神様をあがめることはサタンにも劣ります。そのようなものをエバ国家に選択したのです。神様の復帰の愛の基準があるので、そのようになったのです。そうでなければ、かわいそうな民族になっていたのです。

『環太平洋摂理』(光言社、2001年)第4章 第3節「エバ国家としての日本の使命」

第二次世界大戦を中心として見るとき、日本はアジアにおけるエバ国家です。サタン側のエバ国家です。「八百万の神」というのは、唯一神とは関係がありません。それはいわしの頭まで崇拝する民族だからです。「八百万の神」と言うのですか。これは、サタン側の民族であり、サタン側のエバです。天照大神とは何ですか。女性です。ですから、エバ国家です。サタン側のエバ国家を代表しています。このエバ国家は、西洋文物が摂理圏に帰ってきて、アジアで最初に経ていく所であることを(サタンは)知っています。イギリスからずーっと島に帰ってくるということを知っているのです。

『環太平洋摂理』(光言社、2001年)第4章 第3節「エバ国家としての日本の使命」

大善の前に小善は悪 . . . 神様のみ旨のための金集めなら(この世的に)悪いことをしてもよい

神様と共に 原理研究会の思い出(激しい万物復帰)

ビデオセンター(教団の勧誘施設)に誘った際、『宗教ではないか?』と聞かれたら、『違います』とはっきり答えるように言われます。これは教祖の言葉などを通じて『大善の前に小善は悪である』『天の法は地の法に勝る』と教えられているから。つまり、神さまのために嘘をつくことは問題ないとされているのです。このあたりは霊感商法を見てもわかる通り。霊など見えていないのに、先祖の悪霊がついているとか、水子の霊がいるなどと言うのです。

多田文明 勧誘施設で「宗教では?」と聞かれたら「違います」とはっきり答えるように言われる

統一教会では『天法(統一教会の教え)は地法(地上の法律)に優る』と指導されており「天(神)のために吐く嘘は吐いても良い嘘」として奨励されているという。

他人を騙してお金を巻き上げても神のために使われるのであれば構わないというわけだ。

統 一教会には『万物復帰』なる教義があり、信者は「世の中の全ての財物は神の物であり、それらを全て神の下へ返さなくてはならない」と教え込まれている。他人を騙して土地・建物や金品を騙し盗ってもそれは神の下へ返す行為であり、教団内に於いては『正しいこと』となる。統一教会信者が霊感商法を正当化する所以だ。先日ファンイベントを開催した教団の広告塔・桜田淳子も約20年前、霊感商法についてコメントを求められ「物を売ることのどこが悪いんですか?」「普通のビジネス」などと答えている。

鈴木エイト 統一教会信者が自動車販売詐欺で2億円持ち逃げ、犯罪収益を献金か?

信者の人権を守る二世の会』(上意下達と報連相が徹底している組織においてはありえないことですが、20代の家庭連合二世が自発的に集まり立ち上げた(かもしれない)任意団体)が4月と6月に公開シンポジウムを開催したそうです。


第1回 シンポジウム「親子の絆断絶に終止符を」(2023年4月23日)

【基調講演】
小嶌 希晶(二世の会代表)
福田ますみ(ジャーナリスト)
徳永 信一(弁護士)


第2回 シンポジウム「二世と有識者による反日カルト批判についての考察」(2023年6月18日)

【来賓】
細谷 典男(取手市議会議員)
徳永 信一(弁護士)

日帝の統治と真摯に向き合え!大法院判決に対する僕的回答(徳永信一)
憲法と「旧統一教会」(細谷典男)抜粋


長尺なので倍速で再生してもシンポジウム全体を視聴するのに数時間かかります(第1回シンポジウムについてはダイジェスト版も公開されています)が、二つのシンポジウムのうち、第2回シンポジウムの内容を簡潔にまとめた次の記事が目に留まりました。


(前略)

二世信者たちは「統一教会の教義は反日ではない」と主張するが、旧統一教会創始者である文鮮明氏の発言録「文鮮明先生み言葉選集」には、数々の反日的な文言が述べられている。

二世信者は、これら「文鮮明先生み言葉選集」についてどう考えているのか。

「(メディアで報じられるまで)私は知りませんでしたので、びっくりしました。いったい何故こんな発言をされたのか、教義の講師に聞いたところ『文鮮明先生が反日運動をしていた頃の発言であり、当時は過激な発言があった。文鮮明先生は日本に留学後、韓国に帰国してから日本を愛するようになった』そうです。また、前後の文脈や時代背景について触れずに、これだけ抜粋されているのには悪意を感じます。私は2回、文鮮明先生にお会いしましたが、『普通のおじいさん』という印象でした」(小嶌希晶氏)

(後略)


例えば、下記の映像を見ると、小嶌希晶氏が仰るように、晩年の教祖に会えば『普通のおじいさん』(やや恍惚の人)という印象を抱いたのかもしれません。

尚、上記の映像に記録されている通り、教祖は後継者指名を何とか書面(色紙)に認めたようですが、教祖の没後間もなく文享進氏(七男)は文国進氏(四男)と一緒に追放されました。

また、確かに、ご家族と反目しあうこともなく幸せな毎日を過ごしていらっしゃる2世・3世の皆さんについて、昨年来(日本)国内のマスメディアはほとんど報じてきませんでした。

とはいえ(嫌なことを目にしないよう・耳に入れないようにする自己防衛本能が人類には備わっている上に、旧統一教会と関連団体・友好団体が日本語の書籍や写真や映像から不都合な部分を全て削除し続けてきたとはいえ)、「私は知りませんでしたので、びっくりしました。」は不勉強な発言ではないでしょうか。

難解な経典や論文ではなく、アマゾンでも販売されている『真の御父母様の生涯路程』のような書籍(この記事の末尾に1巻の内容を幾つか引用しました)にざっと目を通すだけでも、日本統治下の朝鮮半島(現在の北朝鮮)で育ち、日本名(江本龍明、本名は文龍明)も名乗り(名乗らされ)、『いわしの頭も信じる日本』『(日本人は)いわしの頭まで崇拝する民族』といった表現が容易に飛び出すくらい日本語を流暢に操り

太平洋戦争中に(現存しない)早稲田高等工学校へ留学し(日本へ進出した当初は早稲田大学卒業と学歴を詐称し)、抗日運動・独立運動に参加していたのではなく特高(特別高等警察)のスパイとして活動していたという説もある教祖と

統一教会創始者、文鮮明師の日本留学70周年を祝う大会が2011年4月10日、早稲田大学(東京都新宿区)に隣接するホテルに約1300人を集め、盛大に開催されました。

文師は1941 年4 月1 日、初めて日本の土を踏まれ、早稲田大学付属の早稲田高等工学校で学びながら、真理探究の日々を過ごされました。統一教会では4月1日を「日臨節」と呼び例年、記念行事を開催。今月1日にも、文師が第一歩を記された下関の地で特別集会が行われました。

大会では冒頭、東日本大震災で犠牲となられた方々の慰霊と被災地の早期復興を願う式典を挙行。大津波で亡くなられた宮城県石巻市の中垣美範(よしのり)さん(45)の義理の姉、高木淳子さんご夫婦が代表して壇上に設けられた慰霊塔に献花し、続いて参加者全員が黙祷を捧げました。

終戦時(0回目の光復節(韓国)・解放記念日(北朝鮮))に2歳であった総裁が日本を毛嫌いしていた・していることは疑う余地がありません。(教祖は日本へ留学後、韓国に帰国してから、より一層、日本を憎むようになったと推測されます。一方、一つ前の記事『偽予言者―韓鶴子総裁の肖像(刺繍)2022年』でもふれた通り、総裁はとことん嫌日のようです。)


・・・


例えば、(以前の記事『誰よりも日本を愛した教祖 − 天宙聖和3周年記念ミュージカル(2015年8月30日、清心平和ワールドセンター)』でもふれましたが)、教祖の生涯を描いたミュージカル「誰よりも日本を愛した人」には統治中の悪行を赦す代わりに日本を搾取する構図が鮮明に描かれています。映像を見れば、旧統一教会や国際勝共連合と手を携えてきた右派の政治家・論客や(他の宗教法人を含む)政党支持団体は気を失うかもしれません。

また、教祖と総裁に(日本)国内の右派の政治家や論客やメディアに対する配慮が少しでもあれば、ご夫婦で(お孫さん達と一緒に)搭乗中にシコルスキー S-92A(大型ヘリコプター)が不時着(墜落)してから3年余りが過ぎた(東日本大震災の発生から9ヶ月ほど経った、教祖が聖和(逝去)する9ヶ月前の)2011年12月4日に、もう1機所有していたシコルスキー S-92A に搭乗して鬱陵島(うつりょうとう / ウルルンド)へ向かうついでに、ご夫婦で(お孫さんも一緒に)竹島(独島)へ立ち寄ったでしょうか。

昨年来繰り返し報道されているように、国境問題・領土問題に限っても、文鮮明教祖が親日には程遠い考えの持ち主であったことは明らかです。

そのような考えの持ち主が創った旧統一教会と関連団体・友好団体のうち、例えば、国際勝共連合は尖閣諸島問題については中国を徹底的に叩いてきました。

一方、竹島(独島)については(一度も韓国を非難することはなく)沈黙を貫いてきましたが

『日本と韓国の国境をどのようにするのですか?日本は独島を自国の領土だと主張しています。このバカ野郎たち!それはだめです。』(み言葉選集 332巻)

『九州地方は韓国の土地です。四国も。わかりますか?沖縄とこの三つが韓国の土地です。対馬も韓国の土地です。』(み言葉選集 473巻)

『これからは祝福された日本の女性たちは、君が代よりも独島の歌をもっと歌わなければなりません。』(み言葉選集 479巻)

慧眼の持ち主は数十年も前に旧統一教会と関連団体・友好団体の実態を見抜いていました。

親日のふりをした教祖と総裁の唱える教義が、半世紀以上に渡り、数万人単位で(日本)国内に拡がった状況を、右派の政治家や論客やメディアは引き続き傍観するのでしょうか。

尚、お時間があれば、鈴木エイト氏の記事(下記引用)もご参照ください。


真の御父母様の生涯路程 1 巻

第五節 日本東京留学時代 一九四一・四~一九四三・九

四 抗日地下学生運動

将来に備えた調査活動

私は二十代のころに、神様の前に「この民族を救おう」と誓いました。日本国民が天皇のことを思う心よりも、私が韓国の三千万を代表した立場で神様を愛する心が、もっと強いと信じました。それゆえに、日帝は滅びると信じました。

日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。偽りが真を打てば、残る法がありません。ですから私は心の中で、「打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろう」と思いました。

先生が東京で勉強している時に、先生は東京をたくさん歩き回りました。行ってみない所がありませんでした。将来の計画があったためです。「今から数年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と考えながらです。

学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当し得る期間になれば、滅びなけれぱならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、「私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を」と語りかけ、木を眺めても、「怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう」と語りかけて歩いたのです。

神様の息子が一線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになっていたのです。それゆえに、先生は知らないことがありません。学校に行くようになれば、事務所の責任者に会って、学校の秘密を調査しました。日本がどうだということをみな知って、どこまでもつだろうかということを占っていました。

それから、大学総長から高位層の大臣の家庭の仕事までしました。私が字を上手に書いたので、それが可能だったのです。それで日本の背後の黒幕だとか、腐敗した内容をよく知っているのです。

韓国人留学生会地下活動

皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。

私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。その時、「何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい」と言いました。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、「死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい」と言ったのです。

文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに八時間から九時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。

日本の帝国主義をどのように克服するか。そのためにいろいろな工作も行い、地下運動もして、最高の実力者たちにも連結して、そうした道を開拓したのです。きのうのことのように、忘れられません。先生の心全体を投入したために、忘れられないのです。

私は、学生時代には共産主義者とも友達でした。日本の帝国主義を打倒するために、闘争するところにおいて、共同目標のもと、共同戦線を広げていきました。その時は彼らが友達の中の友達であり、なくてはならない同志の中の同志でした。ところで、今はなぜ分かれたのでしょうか。彼らと私たちが行く方向と目的が相反するために、分かれたのです。

要注意人物

先生の後ろには、いつも刑事たちが付いて回りました。私が韓国に来るようになれば、彼らが前もって電話をして、「なにがしが今韓国のどこに行く」と連絡をします。そのようにして、先生が駅の改札口を出れば、願わない人々が来て、今来られたか」と言います。

先生は学生であっても、要注意人物でした。しかし普通の人は、先生をよく知りませんでした。先生は何度も留置場に引っ張られました。東京にいる時には、一ヵ月に一度は警察署に呼ばれました。その警察署は、早稲田通りをはさんで早稲田大学の反対側にありました。

二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。

愛国愛天

国を愛することのできない人々が、天を愛することができますか。私は今や全部再審査をしようと思います。国を愛することができない人は、絶対に天を愛することはできません。

日帝時代には、憲兵と警察が付いて回ったのです。北韓に行っては、共産党と戦ったために共産党が付いて回ったのです。南に来ては、大韓民国がそうだったのです。先生の運命がそうなっているようです。私が、垣根を越えて略奪行為をしたのでしょうか。誰よりもこの国、この民族を愛し、誰よりも大韓民国のために祈ったのです。私がこの国のために流した涙は、瓶にいっぱいになるのです゜いかなる愛国者と呼ばれている人も、私はうらやましくありません。

国の問題を念頭においたときは、堂々と愛国者にならなければなりません。そうすれば、それを越えて忠臣の中心になるのです。そして忠臣の峠を越えて、聖人、聖子になるのです。国のために命を捧げることのできない人は、忠臣になることはできません。聖人になることはできません。先生をよく理解しなさい。日本のことが分からない男だと思っては、大間違いです。

真の御父母様の生涯路程 1 卷 - 第五節 日本東京留学時代

真の御父母様の生涯路程 1巻

第六節 解放直前の最終準備 一九四三・一〇~一九四五・八

三 京畿道警察部での受難(一九四四・一○~一九四五・二)

日警の苛酷な拷問

先生は学生の時にも、監獄の出入りを当たり前のようにした人です。また日帝の拷問台の前で、図太く振る舞った人です。そのような歴史が多い人です。日本人たちに、たくさん拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。若者たちを捕まえて、焼きごてを当てたりしながら拷問をすれば、服のままで大便をしながら、自分がしていないことまでも、「した」と言ってしまうというのです。

日本人が悪いことをしたということを、すべてよく知っているのです。私は、監獄暮らしもしました。日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされた人です。

全四肢に死亡の血が回るほど、また血が何杯もあふれ出るほど、むちでたくさん打たれました。日帝時代には、軍靴を履いた足で腹を蹴られる拷問も受けました。二人が左右から手をつかみ、二人が上から踏むというのです。そうすれば腹の皮がどのようになりますか。破れますか、張り裂けますか。それで便所に行って、一度座ってから立ってみなさい。それは、どんなにつらいことでしょうか。

先生は日帝を滅ぽすと言ったために監獄に入れられて拷問を受けましたが、一番つらいことは何かといえば……。一度やってみなさい。角材を持ってきてここに置いて……。日帝時代には軍隊で履く革靴があったのです。鋲を打ってカツカツと音がするその革靴で踏むのです。それは、やられてみない人には分からないのです。

日帝時代に、先生はどんなに監獄に入れられて、飛行機の拷問をされ、電気の拷問をされても、びくともしませんでした。「打て、こいつら! 打て! お前の棒が強いか、私の決心が強いか、ためしてみよう」と、そのような闘いをしてきたのです。監獄に入っていき、一日中たたかれ拷問される立場にあっても、板の破片に縛りつけられ、ねじ曲げて絞られる時にも、「こいつら、やってみろ、こいつら」と思いながら、耐えたのです。

血を吐く場で、十本の指から血を出す場でも、これが十個の国家の血に代わり、十個の民族の血に代わる祭物として捧げることができるならば、どんなに栄光だろうかと祈祷しました。

日帝時代、私が十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れることができない拷問も受けました。それを十二時間も受けながら、奇跡的に生きて出てきました。殴られて後ろにばたっと倒れ、死ぬほど血が流れ出ても、「打ってみろ! その棒が折れるか、私の骨が折れるか」と、耐えたのです。

一度は十四時間も取り調べを受け、拷問をされ、はって二十メートルも行くことができないほどになって、何度も気を失っては覚める、そうした過程がくり返されても、私は口を開きませんでした。

拷問を受ける心情と祈祷

日帝時代に監獄に行って、血と涙が入り乱れる拷問を受けながら出した悲鳴は、人類への神様のみ旨が成され得る頂上の場を追求しながら出した声でした。その悲鳴の頂上に上がることができなくては、不平を言うことができないのです。

父と本音を吐露できる立場で「父よ!」と呼びながら、「神様! 私の血は昔の先祖たちの血とは違います。裏切りの心情を抱いて、神様を恨む中で血を吐いて倒れ死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家と世界人類に同情してください! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげられるようにしてください! 私を先に立たせて、彼らの生きる道を開いてください!」と、血を吐きながら祈祷してきたのが先生の道でした。

「ぶん殴れ、私が大韓民国を愛する愛国心が大きいか、お前が日本を愛する愛国心が大きいか」、そのようにしながら、とても意義深い戦いをしたのです。先生が監獄に入った時は、日本の帝国主義時代でした。それで、その時、先生は国を裏切る逆賊の立場に立たずに、かえって監獄に入ったことを感謝しましが)゜私が救いを受けるより、私一人が死んで国の恨みが解け、国が解放されるならばどんなにいいだろうかと考えたのです。これが統一教会の伝統的思想です。

日本の監獄に入ったゆえに、私は韓民族の悲惨さを知りました。日帝がどんなに悪いかということを監獄に入って知りました。監獄に入って拷問を受けて、血を流す過程で同志たちと共にありながら、初めて韓国の悲惨な姿を知るようになったのです。このような民族を誰かが解放しなければならないという義務を感じたことも、監獄に入ってからです。監獄は、先生にとって偉大な先生になりました。復帰摂理路程において、誰も触れることのできない基礎を築くことのできる一時だったというのです。

命を懸けた黙秘権

先生は血を吐いて、生死の境を何度も行き来しました。しかし監獄では、共に仕事をした同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私一人で戦った」と言いました。殺すと威嚇されても口を割らなかったのです。話さないといえば話さないのです。

百余名の命が私一人にかかり、生死の問題がかかっているので、舌を切るならば切ったのであって、話すことができますか。話さないのです。「話さないぞ。打ってみろ。お前は打つけれど、私は殴られることにおいてお前に勝たなければならない。それが私の責任だ」と考えたのです。机の足四つが全部こなごなに折れていくように殴られて、全身に真っ黒い血のあざができても、二日も白状しなかったのです。「こいつは死ぬまで話さない」と言うくらい話しませんでした。いくら拷問されても、一言も話さないのです。責任者としての自分の秘密を守るのです。

角材で身の毛がよだつような拷問をされた時も、話しませんでした。義理を守ることができなければならないのです。一度約束をしたならば、自分が滅びても守らなければなりません。そのように拷問をされて、一夜過ぎれば、その日は悲しい日であると同時に、忘れられない日として残るのです。

今でも、名前を覚えているのです。道警察局の拷問担当者がいくら拷問しても、白状しないのです。「白状しない」、それで終わりです。三百六十五日、いくらでもしてみろというのです。何度、気絶して起きても、「なぜ起こすのか。少し寝かせてくれ」と冗談を言うのです。「もう少し寝ようと思っているのに、どうして起こすのか、こいつ」と言うので、拷問しても友達になったのです。誰が来ても、私は「おいおい、そうするから痛くない。痛いようにしろ、痛いようにしろ」と言ったのです。それでも解決しないことは明らかなのです、一こと言えば済むのですが…。「お前たちは無理やり印鑑を押したが、裁判所に行けば私は真実を話す」と言ったのです。男ならば、自分の思いどおりにしなければならないでしょう。先生はそのような男なのです。

先生が取り調べ官ならば、一番の取り調べ官です。日帝時代に多くの熟練した検事、判事の前でただの愚か者のようなふりをして、みなのみ込んでしまったのです。調書を作成する時に、愚か者のふりをしたのです。それで、「いやー、あのような者が、一介の責任者になることができるのか。幼稚園の子供のようだ」と言われました。そのようにすれば、重要なことは隠して越えていけるのです。そして、調書を作成して印鑑を押せば、何でもないというのです。そのような作戦をしました。愚か者のふりも、時にはしなければなりません。そのように先生は熟練した男なのです。

怨讐の許しと祝福

私を監獄に閉じ込めても、私の心と私の理念は閉じ込められません。私を打てというのです。打てば今まで私が神様の前に歩いてきた道と、神様が築いてこられた道とが連結されるというのです。ですから、怨讐を愛することのできる心がどんなに強いか鑑定しろというのです。打つならば打て! 私がお前を憎むか、憎まないか。むちで打たれて血を吐きながらも、「ああ! よく打たれた。歴史的なすべての怨恨の人類に代わって殴られた。私は殴られても忘れよう。記憶しないようにしよう」と思いながら、「神様! 彼らを許してください」と祈ったならば、それはどんなにすてきですか。その立場を越えなければならないのです。そのためには、私自らを殺す立場に立てなければなりません。そうすれば簡単だというのです。

昔、日帝時代、監獄で私をひたすらに踏んでは殴った人がいました。その時私が考えたことは、怨讐を愛せというけれど、踏んで殴られると、私の性格ならばすぐに足でけり返してしまうはずなのに、「こいつ、さあ、お前やってみろ。耐えてやろう。死ぬ境地に行っても耐えてやろう」と、そのように考えたのです。

私は彼らに怨讐のようには対しませんでした。彼らに福を祈ってあげるべき責任が私に残っているために、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを研究しました。監房で悩みながら研究したのです。しかし人には良心があるので、朝、人々がみな出たあとに、誰にも分からないように私に謝罪するのです。それが人なのです。それを見れば、人間は誰でも同じだというのです。彼らも良心は欺けないというのです。

危険防止策

拷問される場に出ていっても死にません。拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。水を飲ませて拷問するのです。そして腹でもどこでも、ぎゅうぎゅう踏みます。それゆえに、それに耐えるためには浣腸をしなければなりません。おしっこの代わりに、おしりからみな抜き出さなければならないのです。血を出さなければなりません。血を出せば破壊が起こらないのです。爆発しません。破れないのです。それゆえに、神様がどんなに知恵の王であるか分かりません。

皆さん、とても疲れると鼻血が出るでしょう。鼻血が出なければ脳出血になるのです。鼻血が出るのは、その防止策です。疲れてだるくなる時、血圧が高くなるので、切れて出てくるのです。それと同じように、拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。ですから、唇をかむとか舌をかむとかして血を流して、穴を開けなければなりません。そのようなことを私が教えてあげて、多くの人々を救いました。私のような人の生涯路程は、平安なものではなく、易しい道ではありません。今まで、数多くの死の道がありましたが、その峠をすべて越えてきたのです。

監房の中の寒さ

先生は監獄生活をたくさんしたために、いろいろな経験をたくさんしました。監獄は寒いのです。日帝時代には、本当に寒かったのです。火をたいてくれないのです。火鉢がないのです。十年そこに住むようになれば、十年間服を着て暮らさなければ生きられません。ですから、いつも暖かいわきの下は何の停留所なのか知っていますか。何の安息所なのか知っていますか。しらみ、しらみです。ここには縫い目があるのです。ここから、さーっとやって、ここから下りていく縫い目をこうして押すと、真っ赤になるのです。寒い所でこれを捕まえて放っておくと、二十匹くらいいると、お互いに口をぶつけ合いながら集まってきて、それが丸くなるのです。一度やってみてください(笑い)。私はその専門家です。私の話が信じられなければ、やってみてください。

それは、そうなるのではないですか。寒いのですから。皆さんも、寒ければ身を縮めるでしょう。同じことです。彼らも口が外に出るのを嫌がるのです。みなおしりだけ出すのです。おしりは丸くなっているので、寒さをあまり感じないのではないですか。

しらみの足や口が出れば、どんなに寒いか。ですから、しらみたちが潜り込み、しきりに中に入ろうとするのです。栗の実のようになるのです。それを一度口に入れてジャキジャキ……(笑い)。性悪な人は、どうなるか知りませんが、それまでも食べることができます。

母親の涙

ないお金を集めて外国まで送って勉強させたのに、監獄に引かれていくのです、監獄へ。日帝時代から、母が監獄に訪ねてきて涙を流すとき、母のことを考えれば、そのようなことをしなければよいのですが、母は何も言うことができなかったのです。母は何も言えなかったというのです。

「私は母の息子として間違ったことはしていません。文なにがしの家門に生まれて、その家門を汚すようなことはありません。大韓民国固有の伝統的思想を中心としてみる時、良心の呵責はありません。私は、たとえ獄苦を味わう身になったとしても、息子がかわいそうだと涙を流すような母を願いません。ここで忠告をし、激励して、『あすの希望のために行きなさい』と言うことのできる母が、私には必要です」と言いました。

親不孝です、親不孝。そのような親不孝がありません。日帝時代にひたすらに監獄暮らしをしたのです。日本から帰ってくれば、警察署が、すぐに私を呼び出すのです。私を恐れるのです。かといって私が拳骨を振るうのではないのです。父母が来て涙を流すようになれば、私は青天の霹靂のように号令するのです。「あなたの息子である文なにがしという人は気の小さい男ではありません。私の目にこびりつくものは、お母さんのためよりも世界と神様です。その悲しみを解くためです」。それで、この道に来ていると言いました。

釈放(一九四五・二)

出る時は、彼らに親切にして出てこなければなりません。およそ五、六時間ひどく拷問を受けて気絶して、ばたりと仰向けに倒れる時、その時むしろ彼らから同情の気持ちがわいてくるのです。その時の気持ちが本物なのです。彼らは「ああ! あの時の、なにがしはどこにいるか」と思い出すのです。享楽を追求する人には、このようなことをどんなに説明をしても、絶対通じません。

皆さんのように、若い時は本当に良い時なのです。苦労しても、苦労した跡が残りません。私がよく知っています。先生が皆さんぐらいの時、拷問もたくさん受けてみました。いくらむちで打たれ、水で拷問をされて体が張り裂けたとしても、死にません。およそ二週間過ぎると、すべて元通りになりました! 二週間よく食べると、以前と変わらなくなったのです。ですから、苦労は老いてするのではなくて、赤ちゃんを生む前にしなければなりません。

ここに立っている文なにがしは、一生の間、数回監獄を往来しましたが、滅びませんでした。漢江のほとりに立って、私が痛哭したことを誰も知りませんが、私は知っています。

四 解放直前の内的な準備の仕上げ

日帝治下で内的な準備

韓国は、四十年間日本の支配を受けなければなりませんでした。日本は、サタン側の女性国家でした。四十年期間に日本は韓国のすべての文化的伝統、そして甚だしくは韓国の言語までなくそうとしました。先生自身も、その期間に日本人たちによって投獄されました。そのように日本政府によって投獄され、抑圧を受けた韓国人たちがたくさんいました。神様によって召命されるために、その人々は愛国者、孝子、または社会に献身する人々にならなければなりませんでした。愛国者たちは、国のために彼ら自身を捧げると決心した人々です。神様の摂理のためにも、そのような人々が必要でした。神様が摂理のための基台を探して広められる時は、常にサタンの反対の下で役事されます。その時先生は、一人の青年として、迫りくる公生涯のために自らを準備したのです。

一九二〇年代を中心として神様は既に準備されました。先生が生まれて人生問題に呻吟しながら、道理、天理を明らかにして、宗教問題、愛の問題を明らかにするための歩みをしながら、解放の時代まで越えてきたのです。解放の時代、その時、私は何歳だったのでしょうか。数えの二十六歳でした。

先生においては、個人の患難時代がありました。私自身に対する患難です。そのような患難の瞬間がありました。深刻な瞬間でした。み旨の道を行くことができるのかできないのかという問題がありました。未知の世界を開拓しなければならないのですが、幾重にも泰山峻嶺によってふさがれている所を越えて、また越えてその世界を明らかにすることができるのか。歴史時代にそのように身もだえしながらも通り過ぎていった人は、どれほど多いだろうか。そのようなことを考える時、深刻なのです。その時、間違って決定していれば、今日の統一教会はなかったのです。自分のことを考える一念が少しでもあったとしたら行くことができなかったのです。そのようにしながら、未知の世界を開拓してきたのです。

その時先生は、皆さんが今習っている原理のどんなことも決して話すことができませんでした。なぜなら、先生が韓国の解放直後にこの仕事を始めることを神様に約束したために、その時には話すことができませんでした。神様のみ旨は、一人によってのみ成就されることはありません。共に働くことのできる対象がいなければなりません。

解放前夜の祈祷

ソウルを中心として高い山の頂きに行き、悲壮な涙を流して痛哭した時がありました。この大韓民国は、どこに行くのか。「ため」に生きる天理の大主宰であられる神様の懐を離れて、どこに行くのか。また、私は、解放前に北岳山から始めて全部歩いた人なのです。それで、「大韓民国よ!悲しむな。世の中は滅びても、お前は滅びないだろう」と、頭を下げて祈祷しました。私がいる限り滅びません。我が国の先祖たちの怨恨が多く、神様の怨恨が多いのです。

ソウルに来るようになれば、私が三角山に行ってそのように歩き回りながら祈祷した、その時が忘れられません。皆さんには、そのような何かがありますか。世の中は分からないけれど、愛の道、愛の塔は高く積まなければならないのです。

解放前の最後の日を送りながら、国のために神様の前に懇々と身もだえしながら祈祷した事情や、世界に対して身もだえして祈祷した事情を、みな打ち明けたい心が切実であるけれども、言うに言えない胸痛い内容があるというのです。

全国の神霊集団を踏査

私がこの道を出発するようになる時、韓国の有名な牧師たちにみな会ってみました。熟したか、熟していないか、みな調べてみたのです。誰が何点で、誰は何点か、点をつけて出発した人です。その人々は私を知りません。うわべだけで見れば、私は若者であり、頭もぼうぼうなので、過ぎ行く旅人としか考えなかったでしょうが、私は彼らの中身を見抜いて、すぐに天の報告書に記録して出発したのです。報告して出発をしたのです。

先生は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつき始めた時から、聖書の内容を中心して深く探求していくと、神様の摂理はこうだということがすべて分かるようになったのです。そして、二十五歳で、解放とともに新しく出発するようになったのです。

先生はまず、地下教会を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳から、地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。

既に二十代の前に、あらゆる有名な復興師たちを訪ねてみました。「堕落はどのようにして起こったと思いますか」と、堕落論を見て尋ねるのです。誰も彼もすべて訪ねてみました。また日本に行き、優れているというものはすべて目を通してみたのです。その結果、「お前たちは天の秘密を知らない。将来、私の手帳の中にある秘密の記録が出る時、お前たちはひざをついて降伏しなければならない」と、そのように考えたのです。天の秘密はこうだということを、私はよく知っていたので、すべて訪問したのです。鶏龍山やあらゆる所の人々を訪問したのです。優れているという者たち、何人かは全くの無知で、「鄭道令になる」と言っていたのです。

真なる信仰団体は、みな地下に入っていました。その時先生は、たとえ年齢は幼かったとしても、地下運動していた信仰団体だとか、すべての韓国の実情をよく知っていました。

解放の時を予知

文先生は賢い人なのです。文なにがしという人は、そのように未熟な人ではないのです。あらかじめ千里を見通して生きる人なのです。既に十代に、少年時代に、国がどのようになるかを知っていた人です。きのうも、私の従弟(文龍基氏)が話していました。「何と!一九四五年になれば四月にはドイツが滅びて、八月には日本が滅びると話していたことがみな当たって、自分が思うに、大学さえ出ればあのように天下をみな知って、未来まではっきりと分かるんだな」と考えたというのです。

先生が今日語っている原理は、二十代にすべて準備していたものなのです。見てください。五十年前に語ったことが、今日すべて成就しているというのです。今になって話しているのではありません。その時は、韓国という国もなかったのです。そのような歴史を見れば、恨が多いというのです。

真の御父母様の生涯路程 1 卷 - 第六節 解放直前の最終準備




(abridged)

"We honestly believed that if a person bought a flower, it would bring him closer to God," said Marjorie Laflin of Milwaukee, who raised funds on the street for the Unification Church in Chicago before leaving the church in 1981. "If we had to, we would lie and say we were with a Christian youth group or an antidrug crusade. This was called heavenly deception."

(abridged)


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