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勝共連合は民族主義運動の敵だ‥文鮮明王朝建設に利用される日本の若者(朝日ジャーナル 1985年2月1日号)− 統一教会と国際勝共連合に騙され続けた右派の政治家や論客(1)

公明党の立場を忖度したザル法(いわゆる被害者救済法案)が衆議院本会議で可決されました。対カルト施策の大きな一歩となるのか、小さな一歩に過ぎないのか、遠からず判明するのでしょうが、法律が骨抜きになった結果、創価学会のみならず宗教界の大半が安堵しているかもしれません。

以前の記事で、占領中の悪行を赦す代わりに日本を搾取する構図が鮮明に描かれたミュージカル『誰よりも日本を愛した教祖 − 天宙聖和3周年記念ミュージカル』を紹介した折や、文鮮明教祖と韓鶴子総裁が2011年12月に竹島(独島)を訪れたことを記した折にもふれましたが、旧統一教会(反日)と日本国内の右派(嫌韓)が半世紀以上に渡って手を携えてきたことは甚だ不思議です。

また、別の記事で半世紀以上に渡る右派と旧統一協会との蜜月関係は笹川良一氏と岸信介元首相まで遡ること(但し、笹川良一氏は途中下車したこと)教祖を「宗教を軸にした国際的錬金術師」であると評した畑時夫氏(民論社会長)が「勝共ということで日本の政治家はだまされた。これが統一教会ということなら、政治家もこれほどまで接近しなかっただろう。」と語ったことにもふれましたが、銃撃事件以降、雑誌や新聞に掲載された右翼の重鎮のインタビュー記事を読むと、反共の一点を除き、彼等が旧統一教会や国際勝共連合と距離をとってきたことがわかります。

この関連で旧い文献を検索していると、朝日ジャーナルが原理運動を追求する記事を次々と掲載していた1980年代に一水会代表(当時)鈴木邦男氏が同誌に寄せた文章が目に留まりました。(下記に引用しましたが、複写した誌面からOCRで文字起こししたため、誤字脱字が散見されます。)

慧眼の持ち主は40年も前に旧統一教会・原理研究会・国際勝共連合の正体を見抜いており、長年に渡って教団に利用されてきた右派の政治家や論客は不勉強であったと言わざるを得ないようです。


朝日ジャーナル(1985年2月1日)27巻4号 88~92頁

原理運動 追及第6弾 --「原理運動」と「右翼」--「反共」連帯から「愛国」対立へ

勝共連合は民族主義運動の敵だ -- 文鮮明王朝建設に利用される日本の若者 / 一水会代表 鈴木邦男

すずき くにお 一九四三年、仙台市生まれ。早大時代から右翼・民族派運動に入り、全国学協委員長などを務めた。『時代の幽閉者たちに』『現代攘夷の思想』などの著書がある。

「右翼、民族派の人たちが統一教会・原理研・国際勝共連合のことをどう思っているか書いて下さい」と『朝日ジャーナル』の記者に言われた時には正直いって気が進まなかった。たしかに右翼の中には「反共の同志だ」と思ってる人はいる。また、「原理はウサン臭くて嫌だが勝共は仲間だ」と公言する人も多い。警察の公安や公安調査庁の人間だって反共なんだから仲間だし、日本に共産革命が起きた時には一緒に決起してくれると信じている<純朴>な人も多いこの業界だから、原理運動をそう思っても仕方はない。

しかし、少なくともわれわれ民族派、また新右翼といわれる若い人間にはそんな混同を起こす人間はいない。だから、『朝日ジャーナル』の記者の話を聞いて、何を今さらと思ったのである。それに、右翼全体なんてどうでもいいという気もあった。多くの右翼が原理・勝共を反共の味方だと思っているのなら、それでもいい。何もおせっかいをして、原理・勝共の実態はこうなんですよと<告げ口>することもあるまいと思っていた。

ところが、筑紫哲也氏の「原理-不可解な右翼の沈黙」(本誌一二月一四日号)を読んで少し考えが変わった。この種の挑発にはやはり乗るべきだと思った。それに『世界日報』事件で追放された副島嘉和、井上博明両氏が『文藝春秋』に書いた内部告発を読んだ時の衝撃も忘れられない。原理とは大学時代からの長い付き合いだが、最近の<豹変>ぶりも見てきた。

原理運動が初めて日本に入って来たのは二五年ほど前だというが、本格的にやり始め、世間の耳目を集め出したのは、それからしばらくしてだと思う。原理運動のことを知ったのは、僕が昭和三八年、早稲田に入ってからだった。

それから二、三年して早稲田で全学ストライキがあり、それが全国の学園紛争に火をつけて全共闘時代の幕開けとなった。それに刺激され対峙する形で民族派学生運動も出てきたし、一時は全国三〇大学自治会を握り、「民族派全学連」を結成しようというところまでいった。その学生運動の嵐が起こる前から、原理研は駅前で黒板を出して演説したり、個人オルグをしていたが、大学に入りこみ、サークルをつくったりして組織的、全国的に活発にやりだしたのはこの早大ストのころからだと思う。

全共闘と民族派と原理。この三つの違った運動があの早稲田の一点から、ほぼ同時期に生まれ、全国に広がり燃えさかって行った。換言すれば、全共闘に刺激され、全共闘を反面教師としながら民族派も原理も、己の組織化を急ぎ、全国的な広がりをつくっていったのである。われわれもそうだったが、原理研が今やっている大学でのサークル、学内新聞づくり、自治会奪権闘争‥‥などは完全に全共闘から学んだものである。逆接めくが、今の原理運動も民族派の運動もある意味では「全共闘の遺産」なのである。全共闘との付き合いについてはこれまでも書いたことがある。今回はもう一つの原理について書く。

はじめに、「何を今さら」といったが、われわれ、戦後体制打倒をめざす「一水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわれわれは明らかにした。

また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といった体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。

小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味はない」と、正直に言っていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としてはそれも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天皇制を守り、憲法改正、スパイ防止法の制定を」と言っている。

統一教会・原理研と勝共連合は別だという言い訳は通じない。やってる人間は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのかどうか。ずっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこにある。そんな疑問に答えてくれたのが副島、井上両氏の『文春』のレポートこれが『統一教会』の秘部だ」だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張でもないことを知った。

反共は方便、実際は共産主義

イエスが再臨する「東方の国」は韓国であり、韓国語が祖国語となって世界は一つになるという。何故、「東方の国」が韓国かというと、中国は共産化したからサタン側の国であり、日本は「代々、天照大神を崇拝してきた国として、さらに、全体主義国家として、‥‥韓国のキリスト教を迫害した国」だから、これも「サタン側の国家」だという。また、「第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった」という。

これは、『原理講論』に書いてある通りである。そして、韓民族がいかに「サタン」の日本によって侵略され、迫害されてきたかがこれでもか、これでもかと書かれている。『文春』の告発レポートでは、さらに驚くべき事実が書かれている。韓民族が選民であり、他民族に優越しており、再臨主とは、すなわち文鮮明氏のことであり、文氏によって世界は統一され、必然的に韓国は世界の中心となり、韓国語が世界の共通語となる。こう説かれているという。

また、われわれ民族派としては見逃せないこととして「敬礼式」についても『文春』に書いている。これは文鮮明氏をメシア、王の王とみなす象徴的な儀式だそうで、本文から引くと‥‥。

「統一教会が四代名節と呼ぶ記念日には、早朝五時からの敬礼式という儀式があり、そこでは聖壇に座った『文氏』とその家族に対し、統一教会の主要幹部が三拝の拝礼を行う。場所はだいたい『文氏』の私邸であるアメリカ・ニューヨーク州のイーストガーデンである。その際、天皇陛下をはじめ、レーガン大統領、全斗煥大統領ほか主要国の元首の身代わりを、それぞれその国の教会幹部が担当し、文教祖一族に拝跪して全世界の主権者が文教祖に拝礼したという儀式を行うのである。日本の天皇陛下の身代わりを演ずるのは、日本統一教会会長の久保木氏なのである。何とも奇妙で、そして国民の象徴として天皇を上にいただく日本国民としては見逃せぬ情景ではないか」

全くもってひどい話である。文鮮明氏は精神、信仰の王国ではなく、現世の王国を夢み、その独裁者たらんとする。これはまるで弓削道鏡だ。「彼らは反共だから味方ではないか」と言っていた右翼の人々も、これを読んだら、とてもそんなことはいえないはずだ。実際、「許せない」「こんな反日集団は敵だ」と激高していた人が多くいた。僕としても前から、その性格は漠然とは知っていたが、これだけ証拠をつきつけられては改めて愕然とする思いだった。

これを見ても分かるように、原理・勝共は決して右翼、民族派ではない。では、一体何なのか。

まず第一に、これは裏返しの共産主義である。「原理研が治った」青年も言っていたが、反共を唱えてはいるが、内部の生活はむしろ共産主義だという。人生について考えている青年や悩んでいる青年をオルグってきては「合宿」につれ出し、何日もロクに眠らせずに「洗脳」をする。はじめは「そんな馬鹿な‥‥」と心の中で抵抗していても、しまいには疲れ果てててしまい、批判し抵抗することも面倒になって全面的に受け入れてしまうという。「思想的強姦」である。また、洗脳の途中で頭の回路が外れて気が狂ったり自殺したりした人間も多いという。さらに自由を許されない共同生活、文氏の決める人と結婚する集団結婚式。本場の共産主義国家、ソ連や中国でも、ここまでは共産主義化していない。

自分たちの内部生活は共産主義で、外部に向かっては反共を唱えている。その反共も本心かどうかは分からないが、本心だとしても、日本の民族主義とは一切無縁のものである。さきほど見たように、これはソウルを中心とした反共インターナショナリズムである。初期の共産主義がモスクワを中心としたインターナショナリズムだったのと同じ構造である。共産主義と同様に、この原理・勝共もまた、最も反日本的、反民族的運動である。

第二に、その「反共」すらもが本当かどうか怪しい。「統一教会・勝共連合の宗教活動、愛国運動は『文鮮明氏』の野望を実現することを目的とした方便なのである」と、副島氏も告発している。

世界の王になるためには、ます韓国の王(大統領)にならなくてはならない。韓国は反共バリバリの国である。文氏は日本の人と金を湯水のように使って、全世界的規模での反共活動の「実績づくり」をしている。そのための反共であり、韓国→世界の王に向けての手段である。反共運動の全部が全部、仮面とは言えないにしても、原理運動と世界の王になることが第一の目標であり、反共運動は二の次、三の次であろう。

また、反共活動を一緒にしている自民党や体制派文化人にたいしては、勝共連合には入るように勧めるが、統一教会、原理研には入れようとはしない(なかには一部の例外もあるが)。原理運動をしている人間は想像を絶するストイックな生活をしている。物欲でこり固まった自民党や体制派の人間をストイックに改造はできない。反共という衣をつけて、ハナから利用するためだけに近寄っているのだ。あるいは、そうした金と物欲に目がくらんだ自民党サイドの人間に対し、「いつか必ず自分たちの前に拝跪させてやる」と復讐の念を燃やしているのかもしれないが‥‥。

虐殺兵と似た目つきの原理研

第三に、これは全体主義である。茶本氏は「ファシズムへの道」だというが、その通りだ。文氏は、いわはヒットラーであり、『原理講論』は、さしずめ『マイン・カンプ』である。『マイン・カンプ』の中には徹底した日本人軽視、黄禍論があったが、日本語板ではそれを削除し、ヒットラーの力の前に幻惑されて日本は手を結んだ。それと同じように韓民族が選民であり、世界の中心だということは、日本語版の『原理講論』では意図的に削除されてきた(最近は居直って日本語版にも出しているが)。これと同じ過ちを日本の体制側、そして一部の右翼は再び犯そうとしている。

第四に、この狭量なストイシズムは宗教としては光輝いて見えるが、世俗的権力の奪取、文王朝の建設を目指すという政治の世界に入るや、必ず悪い結果になるということだ。ロベスピエール、カルヴィン、松平定信‥‥と、その先例は歴史上にいくらでもある。ツヴァイクの『権力とたたかう良心』によると、宗教改革に成功したカルヴィンは、他人のどんな小さな過ちも許せない狭量、厳格な人間で、徹底した恐怖政治を敷き、「罪ある者が神の裁きをまぬがれるくらいなら、むしろ罪のない者が処罰される方がいい」と公然と告白したという。また、カルヴィンやロベスピエールはそのいい例だが、「禁欲と苦行のひとというのは、いちばん危険な専制君主の典型である」と、ツヴァイクは言う。

それをもっと推し進めればカンボジアのポル・ポトになる。古い体制、古い倫理観の人間は殺して、殺し尽くした。人口の半分も殺したというが、国民の半分を殺して達成しなければならない革命とは一体何なのか。地獄のカンボジアを実際に見てきたある新聞記者はこんなことを言っていた。古い体制の人間を殺す尖兵は、少年たちだったという。その少年兵たちの目は、人間の生死はもとより、もう何事にも感動を示さないし、いわば<ゾンビ人間>の目だったという。そして、その目はちょうど原理研の人たちの目に似ていたという。未来を暗示するようで、何かゾッとする話だった。

「贖罪意識」につけ込む文鮮明氏

第五に、彼らもまた、<狼>だ。これだけでは何のことか分からないだろう。僕は一〇年近く前、三一書房から『腹腹時計と<狼>』という本を出したが、その爆弾事件の<狼>とあまりに似ていると思うのである。個人的なまじめさにおいて、また、日本の戦争に対する贖罪意識の余りの強さにおいて‥‥。両者にとっては先の戦争はまさしく原罪である。日本は韓国や中国に侵略し、残虐の限りを尽くしたひどい国だ、と教えられ、一途に信じ込む。だから、再び、そうした国に経済侵略してゆく企業には爆弾を投げるという<狼>。彼らの中には「自分の祖父や父は兵隊になって侵略したから自分はその贖罪のために新左翼運動に入った」と公言するメンバーもいた。

それに対し、侵略した「サタンの国」(日本)からは、いくら金をしぼり取り、人間を消耗品のようにつかってもいいという原理・勝共。朝鮮人参、印鑑、大理石のツボ、花売り、街頭カンパ等、ありとあらゆる方法で日本から金をかき集める。詐欺まがいの商法で、ピンク産業以外は何でもやっているという(もっとも統一教会としては、上からの指令はしていないと逃げているが)。末端の会員ですら月に一〇〇万円のノルマを課せられ、日本全国からは月に二〇億円、年に二四〇億円もの金がアメリカの文鮮明氏の元に送金されているという。合法、非合法を問わない強引なやり方で「サタンの国」からは徹底的に金をしぼりとり、文王朝のために日本人は手足として使い、使い捨てにすればいいという考えだ。

会員もそれに甘んじている。これは日本の戦争に対する韓国側の復讐なのかもしれないが、日本人会員にとってはそうすることによって「侵略戦争」の贖罪ができると思っている。<狼>グループ同様、屈辱的な贖罪史観、敗戦コンプレックスを色濃く引きずっている。

第六に、文王朝建設のために日本人の<献身の美徳>が最大限に利用されている、ということだ。いつの時代にも、他人のため、世界のために体をかけて働いてみたいと願う正義感の強い青年たちはいる。方向性は違っても、戦前の青年将校、在野の右翼運動、日本赤軍‥‥。そして多分、原理運動に飛び込んだ人たちも大部分はそうした純粋な動機からだろう。

今の日本のように皆が皆、自分さえよければいい、金がすべでだ、マイホームだ、酒だ女だとうつつを抜かしている時代にも、人生を思いつめ、命をかけて恵まれない人のために尽くしたい、世の中を変える捨て石になりたいと思う青年たちはいる。

戦前のように反体制右翼の国家革新運動があった時には、そこに飛び込んだかもしれない。全共闘華やかしなりしころならば、そこに飛び込んで行ったかもしれない青年たち。原理運動に入った人たちもそんな青年たちだろう。パンの耳を食べて生活し、クズ屋をしたりしながら酒もタバコも一切の娯楽もやらず、ひたすらストイックに運動をしている原理運動の人たち。学生時代、「生長の家」や右翼では生ぬるい、こんなことでは世の中は救えないといって原理運動に飛び込んで行った人々を何人も何人も知っている。「生長の家」や民族主義運動にかかわっていた自分たちとしても、そうした人々を引きとめられなかったふがいなさを痛感していた。

今どき、珍しい純粋でストイックな青年たちだ。だからこそ、惜しいと思う。これが日本のためになる、日本人の先祖の贖罪はこれしかない、これこそ世界の平和のためだと思って献身的に運動している人々だろう。だが、その献身性は残念ながら反日、反民族的な文王朝のために利用されているだけなのだ。あるいは、日本の原理運動の指導部はそれに気づいているのかもしれないし、日本的原理運動を考え模索しているのかもしれない。しかし、『世界日報』事件でも分かるように日本のトップ・久保木氏を飛び越えて、アメリカの文氏からの指令によって、そうした萌芽はつぶされている。

脅威の野望、あなどれない力

だから文氏にとって、会員ではあっても日本人には心を許せないのだろう。本誌(『朝日ジャーナル』昭和六〇年一一月三〇日号)でも書いてたが、アメリカでは最高幹部は韓国人、実務をとりしきる中堅幹部は日本人、第一線で手足となって働き、金を稼ぐのも日本人、それに加えて日本からの大量送金‥‥。そういう構図になっている。この日本人の無我の献身性に支えられて原理運動は、あたかも世界の一大組織のように見えているだけである。日本人会員が目覚め、日本的原理運動を目指すのが一番こわい理由もそこにある。そのへんを副島氏ら(『文春』)はこう言っている。

「『文鮮明氏』と韓国人の統一教会幹部には、日本統一教会内に日本人としての誇りを持つ人間が現れることの警戒心が強い。日本人に対しては、とくに尊大になる。この『文鮮明氏』の日本統一教会とその幹部への強い不信と、そこから来る強圧的な姿勢の根底には、韓国・朝鮮人としての日本人に対する、反日感情がある。‥‥日本の復興は朝鮮戦争の特需によるもので、韓国・朝鮮人の犠牲のうえに日本の繁栄が成り立っているという理屈である。だから、教祖は、日本から莫大な金額を持ち出すことも、そのために日本人会員が苦吟することにも、良心の呵責を感じないと断言している」

これでは、いつまでたっても日本人会員は贖罪に苦しみ、敗戦コンプレックスをひきずる<狼>だ。文鮮明氏の反共は、多分は北から命からがら逃げてきた体験からくる恨みだろう。祖国語を韓国語にするというのも、あるいは日本によってかつて韓国人が日本式名前を押しつけられたことへの復讐かもしれない。宗教家に恨みや復讐は似合わない。久保木氏を始めとした日本の原理運動の人々も、できることならば文鮮明氏と手を切り、独立し、日本的原理運動を目指したらいい。贖罪や敗戦コンプレックスの『原理講論』からも解放されてだ。文氏のために祖国日本への「復讐の手先」とされたのではたまるまい。そして心にもない反共運動の仮面も捨てて、本来の宗教運動に戻ったらいい。まァ、これは無理かもしれないし、いらぬおせっかいかもしれないが。

ともかく、原理・勝共の青年たちを「反共だから仲間だ」「選挙に応援に来てくれるから同志だ」と安易に考え、付き合っていたら大変な目にあう。彼らのストイックなまじめさは見とめる。自民党青年部にも右翼にも、こうした青年が少ない。だからこそ、彼らに感激するのだろうし、その気持ちは分かる。われわれだって、くやしい。だが、彼らは決して自民党や右翼の使い走りではない。彼らの力を見そこなってはいけない。

彼らの力をもってしたら全国で一人や二人の国会議員を身内から出すのは簡単だろう。それをあえてしないのは、もっと大きな野望があるからだ。元、原理研にいた友人に聞いたが、それは久保木氏を日本の首相にしようという野望だという。世界の独裁者は文氏で日本の首相は久保木氏というわけだ。自民党や保守的文化人、右翼に近づき、それらの人々をシンパにしようとしてるのもそのためだし、大学でのオルグもそれを射程にいれてなされているという。

そういえば、大学の自治会乗っ取りや学生新聞発行にアタックしているところはみんな一流大学ばかりだ。東大、北大、名大、阪大、京大‥‥と、将来エリートになる大学生のみを狙い撃ちしている。そう言っては悪いが、二流、三流、駅弁大学は初めから相手にしていない。

こうした野望は今は夢物語だ。ちょうど「日韓トンネル」と同じように。しかし、それに向かって進んでいることは事実だろう。今の反日・反民族的体質のままそれが進められたら、日本にとっても一大脅威である。

何度も言うように、決して彼らをあなどってはならない。むしろ民族主義運動の<敵>として彼らを認め、その力を評価してやるべきだ。彼らにとっても、その方が気が楽だろう。「反共だからわれわれの仲間だ」「自民の手先だ」「何でもいうことはきく」と、今、安易に考え、あなどっている人間は、必ずそのしっぺ返しをくうであろう。そしてその時ではもう遅いのだ。


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