djapon(ぢゃぽん)

鹿児島生まれのブラジル帰り。サブカル拗らせ中年センチメンタリスト。「村上主義者」が高じ…

djapon(ぢゃぽん)

鹿児島生まれのブラジル帰り。サブカル拗らせ中年センチメンタリスト。「村上主義者」が高じてスワローズファン。菊地成孔スクーラーのDJ &トラックメイカー。

マガジン

  • ぢゃぽんの感想。

    音楽や文学、映画などのレビュー。 サブカルこじらせおじさんの偏った思い。

  • あるセンチメンタリストの半生記

    振り返ればいろいろありました。 壮絶な生い立ちからスタートしたけれど、特に何も成し遂げていない男の半生記。

  • 南米放浪記

    1993年におよそ10ヵ月、ブラジルを中心に旅しました。 当時の記憶を辿って、体験記を綴ってみました。

  • djapon"s works

    本腰入れてDTMを始めたのは40歳を過ぎてから。 ジャズミュージシャン・菊地成孔氏のもとで音楽理論を学びながら、 まだまだ拙いですが、なんとか自作の曲を発表するところまでになりました。

最近の記事

オタクとサブカルの違いについて。

「サブカルこじらせおじさん」を自称する私にとって、「MJ」といえばマイケル・ジャクソンでもマイケル・ジョーダンでも松潤でも村淳でも美保純でもなく、「みうらじゅん」一択なのである。 「そこがいいんじゃない!」精神でポップカルチャーに積極的に親しみ、自分なりの美学と批評観を持って〈好き・嫌い〉を決めていく。 1980〜90年代はファッション同様に、読む本や観る映画、聴く音楽、フード、行く店など、あらゆる事物を多くの選択肢から「選び取る」だけで、自分のアイデンティティが形成された

    • あたらしくんのマジックについて。

      立て続けに、あるYouTubeチャンネルの動画を観続けてしまった、ここ数日。 「ブレインダイブ」と銘打った、人の脳に潜り込んで情報を引き出し考えを読み当てるという技を得意とする、新子景視(あたらし・けいし)さんというマジシャンの動画にハマって。 きっかけは千原ジュニアさんのチャンネルでの対談動画がYouTubeのお薦めに上がってきたこと。 お笑い好きなので、YouTubeでも観るのはほとんど芸人さんのチャンネル。(一番好きなのは「エガちゃんねる」なので、りっぱな「あたおか」

      • コロナ鬱だったと結論付けてみる。

        noteの更新が長らく滞っていた。 50歳になったのをきっかけに、「もうこんだけ生きてきてしまったのだから、ここらで一度自分の過去と向き合ってみるのもよかろう。」と思い、半生記を書いてみることにしたのだが。 ヤクザの父親が17歳の時にできてしまったのが自分で、彼が懲役食らってる間に生みの母親から捨てられ、親戚に引き取られたが虐待を受けた幼児期。出所してきた父親が新たに引っ掛けた女性が面倒を見てくれることになって、小学校に上がるタイミングで親子3人暮らしが始まったが、ヒモでジ

        • 東京の漫才にピンとこない。

          水道橋博士が自分にとって一番のエバンジェリスト(伝道師)である。 ブログもツイッターも、博士の影響で始めたし、博士が出演していた「小島慶子キラ☆キラ」を聴き始めたことがきっかけで、TBSラジオのヘビーリスナーになった。 なので、ライムスター宇多丸氏や町山智浩氏の影響で映画を観るようになったのも、さらに「菊地成孔の粋な夜電波」を聴いていなければ、我が人生最大の師に出会えていなかったかもしれず、自分の人生40代以降のすべての興味は水道橋博士から始まっているといっても過言ではな

        オタクとサブカルの違いについて。

        マガジン

        • ぢゃぽんの感想。
          10本
        • あるセンチメンタリストの半生記
          18本
        • 南米放浪記
          11本
        • djapon"s works
          7本

        記事

          意外と一貫性があって今の仕事。

          無駄の多い人生だ。 幼少の頃から「継続は力なり」と教え諭されるたびに、後ろめたい気持ちになった。 とにかく飽きっぽい性格で根気がないため、取り組んでいる物事を途中で放り出すこともしばしば。 焦らずコツコツと続けていって結果を出すということの大事さはわかっていても、途中で嫌になっちゃうんだもの。 興味のあることにすぐ飛びついて、パッと始める軽さはあれど、飽きたらパタッとやめてしまう。執着しないとか潔いとも言えるが、結局は我慢が足りないだけ。 でも、己の半生を振り返って

          意外と一貫性があって今の仕事。

          わたせせいぞうの絵の中に入りたかった。

          「コロナ鬱」とひと言で言ってしまうと、何もかもをコロナのせいにして、いろんなことからただ目を背けているだけと受け取られかねないが。 実際、ただ今現実逃避真っ最中。 感染症の怖さ危なさを甘く見ているつもりはないのだが、明日自分が発症してしまうかもという危機感には欠けているかもしれない。 それよりは行き場を失ってじわじわ壁の隅に追いやられていくような閉塞感を感じて、このままでは精神的に参ってしまいそうだという心配が日に日に大きくなっている。 もともと悲観的というか厭世的な

          わたせせいぞうの絵の中に入りたかった。

          お世話になった方達(南米放浪記⑪)

          今年50歳になろうという自分が、27〜28年前の南米旅行のことを、うろ覚えのまま書き綴っているわけだが。 当時、こまめに日誌を付けていたわけでもなく、出会った人の連絡先を大切にして、帰国してからも連絡を取り合っている…というようなこともない。 小さなアドレス帳に、紹介してもらった伝手の情報をその都度書き込んでいたはずなのだが、水に濡らしてしまい、ほとんどが読めなくなった…これが痛恨の極み。 結局、帰国してから各々に御礼状の一通も出さず、当時日本から手土産を持っていったわ

          お世話になった方達(南米放浪記⑪)

          愛人宅侵入と拘置所面会。

          自分の実父が亡くなってから、もう20年ほどの月日が経つ。今の自分より若い年齢…50歳になる前にC型肝炎で命を落としたわけだが、訃報を聞いて鹿児島に帰省し葬儀場に直行したら、極道関係の人たちが取り仕切る「組葬」だったのでびっくりした。 そんなにがっつり反社組織の一員だったとは思わなかったから。 「うちの父親はヤクザで…。」と言いながらも、ひっかけた女を夜の店で働かせて、そこに転がり込んで食わせてもらう、いわゆる「ヒモ」として生活していたので、暴力団関係者ではあったはずだが、

          愛人宅侵入と拘置所面会。

          中学時代は優等生?

          1984年、地元鹿児島市の公立中学校に進学。 通うことになった学校が、たまたま県立大学の代用附属校という扱いで、「附属中」というのは別にちゃんとあるのだが、その予備としてモデル校のような役目を果たす指定校だった。 鹿児島県というところはなぜか教育県ということになっていて、特に我々第二次ベビーブーマーは大学受験者数が最も多かった世代だったということもあって、当時何かと教育に関する会議や参観授業などが多く開かれていた。 中1の時の担任の先生は、みんなに「ニカウ先生」とあだ名

          中学時代は優等生?

          グレずに済んだ訳。

          日本の端っこ鹿児島県で生まれ、1980年代にティーンを過ごした自分。 父親はジゴロでヤクザ、彼が服役中に産みの母に捨てられ、小学校からは血の繋がらない育ての母と極貧の二人暮らし。 そこから立身出世したとは言えないが、特待生として学習塾に無償で通い、高校は県で一番の進学校に合格し、新聞奨学生として自活しながら一浪して早稲田大学に入った。 事情を知っている人からは言われる。「よくグレなかったねえ。」と。 確かに、中学時代に周りに感化されてヤンキーの道に進み、やさぐれた生活

          グレずに済んだ訳。

          春樹的クワイエット・ライフ

          1988年、当時自分は17歳で高校2年生。 前年に講談社より刊行された「ノルウェイの森」は、上下巻の装丁がそれぞれ赤と緑のクリスマスカラーでプレゼントにぴったりだったという理由もあいまって、その年末に爆発的な売り上げを記録し、400万部を超えるという純文学としては異例の大ヒットとなった。 社会現象とまで言われたブームだったから、そういう作品が多くの人に読まれているということは知ってはいたが、それまで村上春樹作品どころか純文学の単行本を書店で手に取ったことすらない。 幼少

          春樹的クワイエット・ライフ

          ガキの喧嘩をシノギにされる。

          小学5年生の時の話。 自分が住んでいた国道3号線沿いの安アパートのすぐ近所に、本業は描き文字などの看板屋だけど敷地の一角にプレハブを建てて、そこにテーブルゲーム機を数台並べて、2プレイ50円とかで遊べる簡易ゲームセンターがあった。 放課後、そこに集まって「パックマン」や「ギャラガ」や「マッピー」や「ディグダグ」や「ペンゴ」に夢中になる小学生男子たち、自分もその中の一人だった。 自分も貧乏だったけど、親が空き瓶に溜めていた小銭をちょっとずつちょろまかしたりして、なんとかゲ

          ガキの喧嘩をシノギにされる。

          再生

          Over The Control (問う、狂Olympic~先生、バスケがしたいです~)

          自分が作ったビートに、ペン大でご一緒しているKeysa(きーさ)さんがラップを乗せてくれました。 凄まじい熱量のラップと、ご本人による熱演、そしてそれを凝りに凝った動画に仕上げてくださったのも、Keysaさんです。 この曲を含むKeysaさんとのコラボレーションを3曲入りEPとしてリリースしました。 Spotify などで聴くことができます。 https://t.co/DrFFBrYcRN?amp=1 『Over The Control EP』 Keysa / djapon 1. Over The Control (問う、狂Olympic~先生、バスケがしたいです~) 2. ある子の精霊指定都市 3. 放火

          Over The Control (問う、狂Olympic~先生、バスケがしたいです~)

          再生

          源さんの誠実さの「不思議」。

          編曲も自らで行うシンガーソングライターであり、小劇場の舞台からキャリアをスタートして今や主演映画が数々の賞を受賞するなど演技力も高く評価される俳優であり、単著のみならず対談集なども含めて刊行された本はいずれも数十万部の大ヒットという文筆家でもある。 多彩な才能を発揮する星野源の、それぞれの作品のファンだという人は老若男女問わず日本国内外問わず、もの凄い人数にのぼるだろう。 そして、それらの作品をきっかけに星野源の人柄に魅了され、彼の活動はすべて追い続けたいと思っている熱心

          源さんの誠実さの「不思議」。

          インジオは「鍵」という字をノートいっぱいに書いてきた。(南米放浪記⑩)

          1993年、ブラジルのマセイオに滞在していた時の話。 T氏というマセイオで観光ホテルを経営している移住者のところでお世話になっていた。 ホテル脇の小屋で寝泊まりして、ホテルの備品などを修理したりする大工&ペンキ屋チームの仕事を手伝うなどして、約半年生活。 そのホテルお抱え大工のうちの一人で、仲間うちから「インジオ」と呼ばれているおじさんがいて、自分は主に彼の後ろを付いて回って、立て付けの悪いドアを修理したり、足が1本取れた椅子などを回収したりなどの小間使いをしていたのだ

          インジオは「鍵」という字をノートいっぱいに書いてきた。(南米放浪記⑩)

          そしてフィッシュマンズは1曲だけ演って去っていった。

          高校生の時から佐野元春の音楽を聴き続けて、今も自分が尊敬するアーティストの一人である。 と同時に90年代には、THE GROOVERSも好きでよく聴いていた。ロックンロールスピリッツ溢れる一本筋の通った男らしいスリーピースバンド。 そのグルーヴァーズが佐野元春のバックを務めてステージに立ったのが、1996年に赤坂BLITZで行われたイベント「THIS !」。その初日を観に行ったのだが、プレイグス、ヒートウェイブ、ソウルフラワー・ユニオンという個性豊かなオルタネイティブ・ロ

          そしてフィッシュマンズは1曲だけ演って去っていった。