意外と一貫性があって今の仕事。
無駄の多い人生だ。
幼少の頃から「継続は力なり」と教え諭されるたびに、後ろめたい気持ちになった。
とにかく飽きっぽい性格で根気がないため、取り組んでいる物事を途中で放り出すこともしばしば。
焦らずコツコツと続けていって結果を出すということの大事さはわかっていても、途中で嫌になっちゃうんだもの。
興味のあることにすぐ飛びついて、パッと始める軽さはあれど、飽きたらパタッとやめてしまう。執着しないとか潔いとも言えるが、結局は我慢が足りないだけ。
でも、己の半生を振り返ってみると、やたらめったらあれこれ手を出して道を見失い続けてきたわけでもなかったようだ。
小学2年生ぐらいから、当番とか係とか、クラスの中で何かしらの役割を与えられるようになるのだが、まだ自分がどういうことに向いていて、どういう作業が得意なのかもわからないうちから、迷うことなく「掲示物係」になっていた。
教室の後ろの壁に、みんなの習字の半紙を並べて貼ったり、お知らせの紙を貼ったりする仕事は、自ら率先してやっていた。
今思えば典型的なA型気質だったのだろうが、わりと無頓着な子が適当にペタペタ貼っていると、その並びの順序が気に入らないと全部剥がして並び替えたり、横一列にまっすぐ並ばないと気持ち悪いから紙テープできちんと枠を作ってから、そこに同じ大きさの紙が隙間なく並ぶように貼っていく。画鋲はきちんと四隅に、1枚の紙に対して4つしか使わない…などと、こだわりを見せて取り組んでいたように思う。
小学3・4年生になって、呼び名が「広報班」とかになっても、係の仕事と言えばその手の仕事意外は考えられなかった。
他の子たちは、例えば生き物の世話をするのが好きだったり、「緑化係」として花壇の水やりに精を出す子がいたり、プリントを配ったり授業の準備の手伝いをするのに向いている子がいたりして、それぞれいろんな役割がある中で、なぜか自分は「広報」ひとすじ。
高学年になると、すでにある物を掲示するだけではなく、掲示する物自体を作成する側にまわっていく。
クラス名簿をコピーして、そこに色分けしたシールを貼っていくチェックシートのような物や、何かの調査結果をグラフにして大きな用紙に書いて貼ったり、昔はそういう言葉はなかったが、今でいう書店員の「ポップ」にあたるような物を、ちょっとイラストを書き加えたりして作るのも好きだった。
学級新聞の編集・発行も自分が中心になってやらなければ気が済まなかったし、クラスで文集を作るとなれば、表紙のイラストも描き、みんなの原稿を集めてレイアウトを決め、自ら輪転機を回して印刷、製本までやっていた。
中学の時の卒業アルバムを懐かしい思いで開き、ページをめくってみる。
様々な学校行事のスナップ写真などのページの後ろに、「将来の自分に向けたメッセージ」などの寄稿文をクラス毎にまとめた文集部分もあって、扉絵として「好きな言葉」を署名とともに寄せ書きしたイラストのページもある。
他のクラスは、大きな木の絵とかに、みんながそれぞれ直筆で寄せ書きしているのに、自分のクラスは…当然このページも自分が担当したわけで、スペースシャトルの絵を大きく書いて、その機体部分に小さな文字で「希望 ○川△男」とかが書き込まれているのだが、これが全員分自分の字で書かれてある。
きっと、みんなでめいめいに書いてもらったら、自分の思うようなレイアウトにならないのが気に入らなくて、全部自分で代筆して仕上げたのだろう。
各自が自分の字で書き残すことに意味がある大切なページを、自分が出しゃばって残念なことにしてしまった。
中学の頃のこととはいえ、「どんだけエゴが強かったんだよ!」と、今見てもなんとも恥ずかしく、苦々しい気持ちになる。
まあ、それはいまだに反省しているのだけれど、昔からメディアに関わる仕事に対しては、そのぐらいの熱意があったということでもある。
小学校5年からは、各学級における役割のほかに、「委員会」という制度も加わった。クラスから2名くらいずつ、「美化委員」や「安全委員」などの委員を選出して、学校全体の行事などに携わるのだ。
そこで自分が手を挙げたのが「放送委員」。
その時通っていた小学校は、なぜか学校放送の設備が充実していて、全校朝礼が雨天の時には、学校の放送室の中に撮影スタジオがあり、当時(昭和60年ぐらい)でも一千万円以上すると言われた、テレビ局のスタジオにあるような立派なテレビカメラが2台も配備されていて、そこで校長先生のお話などを撮影して放送し、教室のテレビで視聴するということも行われていた。
学級新聞や文集など、コンテンツ制作の面白さにハマっていた自分は、あたりまえのように「テレビ番組を作る側にまわりたい!」と思ったんだろうね。
おそらく他にやりたい人もいただろうに、押しのけるようにして放送委員の座に着いたのだった。
テレビカメラを扱わせてもらえたのも楽しかったし、ミキサーとかの卓をいじるのも「なんかかっこええやん!」と思って、喜んで仕事していたと思う。
6年生の時も放送委員になって、昼の給食の時間に流すミニ番組みたいなのを作るのに熱心だった記憶がある。
「ぼくたちバスケットボール部は、こんどの大会に向けてがんばっていますぅ。」とかカメラに向かって言ってもらうだけの、ちょっとした紹介だったりとか、コンテンツとしては小学生が作るものだったから、たわいもない内容だったと思うけど、そういうのにアイディアを出して、実際に撮影や編集に関わって作り上げていくのが面白くて仕方なかった。
さらに言うなら、仕事の内容もさることながら、みんなは教室で食べている給食の時間に「番組があるんで。」と、放送室に向かう自分が、ちょっと特別な存在になれたかのようで、いい気になっていた。気の利いた子が、自分の給食を放送室まで届けてくれたりしてね。調子に乗っていたなあ。
そういう特別扱いにも味をしめたのか、中学に進学しても部活は放送部だった。
中学の放送部はテレビ放送の設備はなかったけれど、それでも全校集会とかで校庭にみんなは整列しているのに、朝礼台にマイクをセッティングすると、あとは放送室に戻ってミキサー卓の前に座っていられることに、やはりちょっとした優越感を得ていた。
放課後も、グラウンドで汗を流す運動部の子たちとは違って、防音設備の整った放送室にたまり、カセットテープの音楽を大音量で流してはしゃいだり、レコードから次々に録音して編集したミックステープを作成したりしていた。
…と、小中学校の頃の思い出を書き綴っているうちに気付く。
ん?…今もやってること変わってないやん!
印刷会社に派遣社員でDTPオペレーターとして勤めて長い。派遣になる以前も、「Mac見習い可」の文字を「フロム・エー」で見つけて飛び込んだのがたまたま印刷業界。
現在は週刊誌の制作に関わって、組版作業やレイアウト修正作業などに明け暮れている。
自宅に帰れば、趣味の音楽制作のためにMacを立ち上げ、DAWソフトを操作するMIDIコントローラーのミキサーのフェーダーを上げ下げしたりしている。
結局、小学生の頃から、日々やっていることは大して変わっていなかったりするもんだ。
本とレコードがあれば、それで満足…という人生を送り続けてきて、これからも続いていくのだろう。
アルバイト感覚のまま派遣社員として、50歳になろうとしている今も時給でしか生活費を得ることがなく、自分の責任でビジネスを行ったこともない。
何かの権限を行使できるポジションに就いたこともないためか、若く見られるということは、この年にして何かを成し遂げた功績もなく、従って貫禄が身に付かなかったということでもある。
それでも天職に近いとはいえるのだろうか。自分にまるで向いていない仕事に就いて、例えば苦手な対人関係で神経をすり減らす営業職や、体力勝負の肉体労働に携わっていなくて、まだラッキーだったとはいえるかもしれない。
コツコツと真面目にひとつのことをやり続けてきたつもりはまるでないのだけれど、結果的に何となく似たようなことをずっとやり続けて生きてきているのだから、いつか「やっぱ『継続は力なり』だったなあ。」と言える日がきたらいいな、とは思う。