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コロナ鬱だったと結論付けてみる。

noteの更新が長らく滞っていた。
50歳になったのをきっかけに、「もうこんだけ生きてきてしまったのだから、ここらで一度自分の過去と向き合ってみるのもよかろう。」と思い、半生記を書いてみることにしたのだが。

ヤクザの父親が17歳の時にできてしまったのが自分で、彼が懲役食らってる間に生みの母親から捨てられ、親戚に引き取られたが虐待を受けた幼児期。出所してきた父親が新たに引っ掛けた女性が面倒を見てくれることになって、小学校に上がるタイミングで親子3人暮らしが始まったが、ヒモでジゴロでもある親父はすぐによそに若い女を作ってそこに転がり込む。血の繋がりのない育ての親と二人アパートに残され、女手ひとつで育てられた極貧生活。情も深いが怨念も強い育ての親にいびられ罵倒され続けた日々が12年続く。全く希望の見えなかった鹿児島時代。

…当時を思い返して文章に記すのはなかなかしんどかったけれども、書くことによって幼少期のトラウマを多少払拭できたところもあり。
「一番しんどい部分はもう書いてしまったから。」と、安心してしまったことで筆が止まっていた、というのは確かにあった。
しかし、実はこのブログを親戚(親父懲役中に引き取られた家で実の姉のように一緒に育った従姉妹)が読んでいたということを知り、身内の恥を晒すような真似をしていることに対する後ろめたさもあり、それを意識して書きにくくなっていたというのも書き続けられなくなった理由の一つ。

なんとなく書くのが億劫になって、このnoteの更新が止まっている間に、世はコロナ禍に。
感染症の世界的大流行で至る所でパニックが起きた厄災だったとはいえ、幸いにも自分個人の生活には大きな影響はなかった。
飲食店などを経営している方たちが仕事を続けられず、大きな不安を抱えていたというような状況に比べれば、派遣社員として印刷会社に勤めていた自分は、コロナ禍の間も仕事が止まることもなく、普通に毎日出勤できた。
コロナ自体に感染することもなく、近しい人が感染して濃厚接触者になることもなくて、「まだ自分はラッキーなほうだ。世の中大変な人がいっぱいいるのに。」と、感謝しながら変わらぬ日常をダラダラと過ごしてきた。

そんな状況だったので、ある日急に背中から脇腹にかけて帯状疱疹が出来て拡がった時には、「何を思い悩むことがある。」「何のストレスを抱えることがあるか。」と自問自答しては首を傾げていた。
どうも50歳を過ぎると免疫低下によって帯状疱疹になりやすいというのは一般的な現象らしい。
「なんだ、単なる加齢によるものか。」と思っていたら、立て続けに「軽い痛風の疑い」と診断されたような足首の痛みにも悩まされたり、時々腰のあたりを長い針のような物で刺されたような痛みに息を飲んだり、奥歯がキーンと痛んでしばらく口開けたまま動けなくなったり、急に胸や喉がつかえる感じがして、口から浮き袋がはみ出している魚のような状態になるんじゃないかというイメージが頭に浮かび、ちょっとしたパニック障害なんじゃないかと思うようなことも度々あった。…急にガタがきたなあ。

一方でこのコロナ禍の間に、立て続けに親戚が亡くなっていった。コロナ感染とは違う要因で。
親父の弟で叔父にあたる人は、子供の頃可愛がってもらった思い出もある。なんせ自分が小学生の頃にはまだ親父は20代だったから、その叔父にも「兄ちゃん、兄ちゃん」と呼んで懐いていた。離婚し家族にも見放された末の孤独死が最期だったらしい。
さらに、親父の懲役中に引き取って面倒をみてくれた伯母と伯父(六人兄弟の五番目だった親父の長兄にあたる人とその伴侶)も立て続けに亡くなってしまった。3歳の自分が引き取られた時、養子として迎えてくれていた。戸籍上は父と母にあたった人だ。「もう身内に不幸がない限りは鹿児島に帰ることなんてないね。」と嘯いていた自分だったが、実際に「親」が亡くなったというのに、コロナ禍を理由に葬式にも出ていない。当時は「お母さん」と呼んでいた伯母には、きつい折檻を何度となく受けた。虐待というのは「あれって今思えば幼児虐待に当たるんじゃない?」と自虐的に振り返って言っているだけで、恨みつらみは何もない。むしろ旦那の出来の悪い弟の子供の面倒見を押し付けられて、さぞかし苦労されただろうと同情する気持ちさえある。
「戸籍上はお前はうちの長男になるんやぞ。」と言って、自分のことを気にかけてくれていた伯父も。最近始めたというLINEから届いたメッセージにもなかなか返信できずに、ようやく短いやり取りを交わした日から、ほどなくして突然亡くなったと従姉妹から聞いた。
50歳を過ぎても、いまだモラトリアムから抜けきらないような自分が、親戚付き合いは苦手だのなんだのと、いろんな通すべき筋を通さずにモタモタしている間に、血縁という根っこがどんどん断ち切られていった、この数年間だった。

そして今年になって、ようやくコロナ禍も終息しかけているというムードが世の中に行き渡り、安堵というよりそれは「もういいんじゃないか。」という現実逃避による楽観だとは思うが、そこに便乗するようなかたちでいろいろ心機一転を図ることにした。

まずは3月末で約19年勤めていた職場を辞めることにした。派遣社員でひとつの職場に留まるにしては異例の長さだが、派遣会社に無期雇用契約にもしてもらったので、このまま引退するまでずっとここで働くもんだと思い込んでもいた。
突然思い立ったのは「さすがに長く勤め過ぎたから。」というマンネリ感もあって、とりあえず辞めてみたくなったというだけだったのだが、コロナ禍の間もこの職場にいたおかげで、仕事が止まらずに済んだ。むしろラッキーだったのだから、コロナが空けたら新しい事を始めるべきだという思いが沸々としてきたというのもあった。それでもやはりいざ辞めるとなると結構エネルギーが要った。
辞めると決めてから自分の見通しの甘さを痛感することになるのだが、大手印刷会社でDTPオペレーターという専門職に長く就いてきたのだから、それなりに手に職がある状態で食いっぱぐれることはないだろうとタカを括っていたが、いざ次の派遣先を探すと、これが全然決まらない。
あらゆる派遣会社に登録して、仕事探しサイトから何十社とエントリーしてみるものの、「社内選考の結果、残念ながら…」という返答ばかりで、面接さえも受けさせてもらえない。「年齢は関係ありません。」とは返答されるが、本当か?
3月前半早々には次の仕事を決めて、有給休暇を消化しようかと余裕かましていたのだが、ギリギリまで決まらず。4月1日から働ける次の派遣先が決まったのは、5日前。それもその1社しか合格しなかった。
「50過ぎるとこんなに潰しが効かないものかね。」と呆然としたが、とりあえず新年度、新たな職場で仕事をスタートさせて気分も上向きになっていく…はずだった。

「新しいスキルも覚えたいので、職場を変える。」と前向きな理由を掲げて、派遣会社と交渉を始めたのは昨年10月頃からだったから、本当は年末で一区切りつけてもよかった。それでも3月末まで契約を全うして、4月から働き始めることにしたのは、新年度から長期勤務できる職場をじっくり探したいと思ったからだ。
それが選択の余地なし。唯一拾ってくれたのは、中国人留学生向けの予備校を経営している新大久保の会社(学校法人ではない)。
そこの事務局の中で、学習参考書などの自社出版物の制作などを行う。業種は違えど、作業自体はAdobeソフトを使用した組版作業だから、今までのスキルは活かせると踏んでいた。
働き始めてみると、DTP職は自分一人だけなので、すべての教科を扱うのはもちろん、学校内の掲示物や主催する模擬試験の問題修正など、やることは多い。複雑な数式が頻出する数学や物理の問題・解説など、特殊な組版作業には苦戦した。それでもなんとかこなし、慣れていけばもう少し要領良くなると思っていたのだが。
5月に入って、6月以降の契約延長について派遣会社から問い合わせがあったので、当然のように「引き続きよろしくお願いします。」と返答した。ところが派遣会社からのメールには「先方様が契約の延長を希望せず、5月末で終了されたいとのことです。」と。
なんと!…長期勤務のつもりで勤め始めた派遣先をクビになってしまった。実はバイト時代も含めて、なにげに「もう来なくていい。」と言われたことはなかったから、それなりにショックだった。
何が理由なのかは、いちおう説明らしきものはあったが、あまり納得はいかず。それよりも、こんな中途半端な時期にまた職探しをしなければならないことに対して気が重くて。

3月末で長年勤めた職場を離れて、次の派遣先を探し始めたら大苦戦した、その間に「これはいつまでも派遣ではやっていけないかも。」と強く危機感を覚えることになった。…今更?
確かに紙媒体がどんどん減っていく中で、団塊世代向けの総合週刊誌を担当していたので、「この仕事がなくなる日はそう遠くないだろうな。」という予感はあった。
しかし専門職だと自負していたDTPオペレーターで、こうも潰しがきかないとは。
そこで初めて、個人事業主として自分で仕事を受けられる状況を用意しておいて、派遣先勤務とフリーランスのダブルワークでないと食っていけないのではないかと考えるようになった。

大学を中退して、1年間ブラジルを中心に南米を放浪して帰国後、コンビニやカラオケボックスでバイトをして食いつなぎ、たまたま興味を持ったMacのオペレーションを仕事にしようとして、たまたま飛び込んだのが印刷業界
「父ちゃん社長で母ちゃん専務」の零細製版会社を3社渡り歩いた後、「もうパパママ経営の会社になあなあでこき使われるのはうんざりだ!」と派遣登録したら、大手の印刷会社で働けることになり、ようやく天職を見つけたと思ってここまできたのだが…。
なにしろバイトの延長で派遣社員になったようなもんだから、「時給いくら」でしか自分の収入を考えたことがない
営業をかけて仕事を取ってきたこともなければ、そもそも自分の技術(商品)に値付けをしたこともないのだった。
ここからフリーランスになって、やっていけるのか?
大いに不安ではある。

しかし、それでもこれまでの停滞を「コロナ鬱だった」と結論付けてみる
実際の鬱病に苦しんでいる方に対して失礼かもしれないとは思うが、あくまでもこれは自分の気持ちを整理するための自己診断である。
ただでさえポジティブシンキングというものが苦手な50歳過ぎの男が次に向かうための自己弁護である。
幼少期早々に絶望したニヒリスト気取りのサブカルこじらせおじさんが、「世の中悪くなっていく一方だ。これ以上生きていたった仕方ないだろう。」と自暴自棄にならないための、暫定による現状把握。それによる問題点の一旦の棚上げのためである。

ここ数年はちょっとしたコロナ鬱だったのだからしょうがない。しかしコロナ禍は明けた。…ほんとは明けてない。それもわかってる。完全終息にはほど遠い。みんな目を逸らしているだけだ。
でもあえてコロナイズオーヴァーと言おう。ここからでないと先に進めない。

つい先日、なんとか6月からの派遣先は確保した。時給も下がり残業も減るので大幅な収入減は避けられないが、週5で勤務し始め、社会保険にも加入できた。
今後は合間の時間を見つけて、フリーランスとして仕事を受けられるよう準備を進めていく。
区の経営相談室にも足を運び、創業計画書を作成中。
ブックレイアウトやグラフィックデザインのDTP業と、音楽制作のDTM業の2本立てだ。
とりあえず旗を立てなければ何も起こらない。
果たして賽は投げられた…のか?


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