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オタクとサブカルの違いについて。

「サブカルこじらせおじさん」を自称する私にとって、「MJ」といえばマイケル・ジャクソンでもマイケル・ジョーダンでも松潤でも村淳でも美保純でもなく、「みうらじゅん」一択なのである。

「そこがいいんじゃない!」精神でポップカルチャーに積極的に親しみ、自分なりの美学と批評観を持って〈好き・嫌い〉を決めていく。
1980〜90年代はファッション同様に、読む本や観る映画、聴く音楽、フード、行く店など、あらゆる事物を多くの選択肢から「選び取る」だけで、自分のアイデンティティが形成されたような錯覚に陥っていられた、豊かで牧歌的な時代でもあった。

2020年代に入り、もうとっくに暮らしが豊かとは言えなくなっている不景気の現代ニッポンで、もうとっくに若くもない年齢になった今でも、いまだにあの頃の感覚から抜け出せずにいる。
本屋とレコード屋の経営が成り立たないなんて、こんな世の中に生きている意味なんて何もないとすら思うのだ。
いわゆる「サブカルを拗らせている」と自虐的に言うわけである。

デジタル化が進んだおかげで、モノとしての書籍やCDの価値は下がったが、配信などにより日本のマンガやアニメなどのコンテンツはより世界に広まりやすくなった。いわゆる「クール・ジャパン」というやつで、世界中に日本のカルチャーのファンは大勢いて、むしろ今こそジャパニーズ・ポップカルチャー全盛期なのではないかと見る向きもあるかもしれない。
一方で、アメコミヒーローの実写映画化は世界中でヒットし、海外ドラマのシリーズは好きな時に一気観でき、乱立するアイドルグループから自分だけの推しを決めて入れあげたりなど、より多様化したエンターテインメントを個別に楽しめる自由な時代になったとも言える。
それでも「サブカルこじらせおじさん」は、マーケティングされてヒットが確約された流行りのコンテンツには興奮できず、有象無象がカオス化していた頃に一瞬だけスポットが当たった、ガラクタのような文化の残骸に思いを馳せるのである。
単なるノスタルジーと言われれば、そうなのかもしれない。

しかし、重箱の角を突つくように誰も知らない知識をひけらかしたり、今では手に入らない希少なコレクションを自慢したりして悦に入ることで、心の空洞を埋めたいわけではない。
「サブカル」は「マニア」とも違うし、個人的にはそもそも「オタク(ヲタク)」とも異なる人種だと思っている。
自分がアニメやアイドルに夢中になれないのは単なる趣味の違いだとしても、トラップビートの曲が全部同じに聴こえるのが感性の衰えだとしても、長いタイトルのラノベの文庫を買って本棚に並べる人の気がしれないと思うのもスノビズムにすぎないとしても、音楽や小説やマンガに詳しいというだけで「ああ、結構オタクなんですね。」と片づけられてしまうのには抵抗感があるのだ。
そこで「いや、自分はサブカル野郎ではあっても、オタクとはちょっと違うのよ。」と言い出そうもんなら、ますますめんどくさい奴だと思われてしまう。

もし「じゃあ、サブカルとオタクはどう違うんですか?」と尋ねられたとしたら、自分の中では明確な答えが用意されている。

対象にどっぷり移入できる人がオタクだとすると、サブカルは「それを好きなオレ(私)」という自意識が先立ってしまう人。
あくまでも自分にしか興味がない(笑)。

好きなアニメのキャラクターにガチで恋したり、アイドルのコンサートで振り付けを完璧に覚えて一緒に踊ったり、ゲームの中で本気で命を懸けて戦うというようなことが、サブカルには難しい。
なぜなら、その作品を鑑賞している時は、常に同時に「この作品のここの部分が良かった!」と誰かに語りたいという気持ちになり、それを熱弁している自分の姿を想像し始めているから。
そこには、普通の人はスルーしてしまう些細な事に気付き、「そこが俺には刺さった!」「あれは敢えてああいう表現にしているんだと思ったね!」などと、さも自分独自の意見を持っているかのように語ることによって、他人と差別化を図りたいという嫌らしさもつきまとってしまう。

だって、〈好き・嫌い〉のチョイスの繰り返しで、自分のアイデンティティが形成されてきたんだもの。
その選択の理由にややこしい屁理屈をくっ付ければくっ付けるほど、個性が際立つんだと思い込んで生きてきたんだもの。
まったく…どこまで自意識過剰なんだか(苦笑)。

ブログやTwitterなどのメディアが発達して、自己表現が容易になった当初、サブカル野郎たちは水を得た魚のように、好きなバンド、好きな小説、今年観た映画ベストテン、これからブレイク必至のお笑い芸人などについて語り始めた。
それで何かを表現できていたような気になっていた。

でもやっぱり「俺が俺が」が前に出てしまうとウザいと思われるものだし、「あえての逆張り」みたいな意見に対するカウンターも強くなっていく。
いつしか「素直に『いいものはいい』でいいじゃないか。」「この素晴らしい作品に出会えたことだけで最高の喜び。」「少数派ってことは単に人気がないってことでしょ。」「作者でもないお前が何語ってんだ。」のような意見が正論としてまかり通るようになってきた。
それはサブカルからすると思考停止のようにも思えるのだけど…。

「本当のファンならそんなことは言わない。」「彼を批判する人はファンとは認めません。」「そもそもそういう感情を抱くということが『エセ』であることの証拠ですね。」みたいな閉鎖的な言論空間の中で、サブカル野郎の出る幕は無い。「ああ、そうですか。」とすごすごと引き下がるのみ。

言い訳のように聞こえるかもしれないが、「自分にしか興味がない」サブカル拗らせ野郎だからこそ、「それぞれがそれぞれのこだわりを持っているんだなあ。」「みんな勝手な解釈してやがるなあ(笑)。」と、自分とは違う他人の意見を受け入れることができるという側面もあると思うのだ。
(だから、あえて「オタクとサブカルは違う」と言ってみてはいるものの、差別するつもりはないんです。これもひとつの屁理屈で一席ぶってみているだけで。)

作品世界の中に没入し、登場人物に心底感情移入できる人のほうが満足度は高いだろうし、それは羨ましくもある。
どこまで行っても自意識が邪魔して、心から楽しめていない奴には語る資格が無いと言う人の気持ちもわからなくもない。
でもやはり「閉じている」と感じる人とはコミュニケーション取りづらい。自分がオタクと思う人に対して苦手意識があるとしたら、その点になる。
ましてや、こっちはその音楽や映画に便乗して自分を語りたいわけなんで。そこはちょっとは遠慮しますよ、こっちも(笑)。

まあ、オタクだのサブカルだのマニアだの素人だのと線引きせずに、単純に面白い作品を見つけたら、遠慮なくいろいろ言い合える世の中であってほしいですね。
だって、現実世界はろくでもないことばっかりなんだもの。
同じ時代にこの酷い世界で生きている者どうし、本や音楽や映画やお笑いで現実逃避しなきゃやってられないじゃない。

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