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誤解という生きづらさ

またか。
また私は誤解されたんだ。

ものすごく悲しい。
もう泣きたい。



今も、これまでも
私はどちらかというと
厳格な役割を担うことが多い。

理学療法士時代は
医療安全の役職にいた。

インシデント・アクシデントを
調査、分析、指導をする仕事だ。



私は患者さんの安全を
一番に思っていたし
スタッフも病院自体も
リスクから守りたいと思っていた。

私の原動力は愛情だった。

だけどそれを誰かに
理解されることはなかった。



面倒くさい。
口うるさい。
仕事を押し付けてくる。
批判的で厄介者。

言われなくてもわかる。
態度や表情、言動に出ている。

私にではなく
私の上司に言うスタッフもいた。



愛情を込めて仕事をしていた。

私はみんなの味方で
みんなを守りたかった。

でも愛情を注いでいる相手からは
理解されず攻撃される。

こんなに悲しいことはなかった。



今日はそんな理学療法士時代を
思い出してしまった。



私が
ルールや第三者の見解や
文書や形式を
重んじているのは
単なるこだわりではない。

私が
お願いをしたり
意見を伝えたりするのは
感情論とかメンタルとか
そんな自己中心的な理由ではない。



大切なものを守りたい。
ただそれだけなのだ。



誤解される。
それが今はとても恐ろしい。

誤解される。
それが私の生きづらさ。