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適性のオーバーフロー

適性の適正

「ファイナンス(金融)専攻です」と言うと少し驚かれる。確かに典型的なタイプではないのかもしれない。女性だし、背が低いし、アジア人だし、メイク薄すぎるし。驚かれて当然な気がする。

ファイナンスを専攻しているが故に、クラスメイトとの話も、投資やマクロ経済、将来のビッグファームの給料やネットワーキング等 " The Businessman" と言う感じである。そもそもよほど数学が好きか、リスキーなことが好きか、お金を稼ぎたいかという理由以外にわざわざこの専攻をする人はあまりいないと思う。

しかし、私は、お金は自分の衣食住が満たせ、これまでの教育費がペイされる分だけ稼げれば十分だし、高級車にも、ハイクラスな生活にも何の憧れもない。数字も程々に好きだが、三食の方がよっぽど好きである。何なら文字も好きだからこそ、やるべき数学の課題を差し置いてまで、今この日記を書いてしまっている。

共感性が高い私が無機質なファイナンスを専攻する理由

私は良くも悪くも共感性が高すぎる気がする。よくそのようなタイプに関する記事を拝見すると、「繊細な方が向いている仕事」「共感性の高い方は、人の気持ちを理解することが得意だから、人と接する仕事やクリエイティブな仕事がおすすめ」との文面をよく目にする。それも一理あるが、

果たして、共感性の高い人は感情労働に向いているのだろうか。

私の場合、共感性が高いためが故に、だからこそ逆に、感情を使う仕事、特に、人の人生において岐路となるイベントに携わり、彼らの人生を左右する仕事は意識的に避けた。

医師として働いたとしても、患者さんが辛そうにしているのを目の当たりにすると、私まで泣いてしまうだろう。生死を常に意識する仕事を平常心でやっていける気がしない。そもそも病院にお見舞いに行くだけでも、なんとなく負の雰囲気を感じ、具合が悪くなっていく次第である。弁護士としても、彼らの境遇や生活状況を調べるだけで余計に感情移入してしまい、考え込んでしまい、とてもではないが夜ぐっすり眠れる気がしない。

その面、ファイナンスは「対お金」「対数字」であり感情を必要としない。普通の生活をしているだけで、余分に感情を使っているが故に、仕事において、さほど感情を必要としない仕事というのはある意味私には向いているのかもしれない。

過適性への危惧

「学部を選ぶ」「職種を選ぶ」「会社を選ぶ」場合、自己分析なり、自分の適性を加味して選ぶ場合が多いと思う。他方、大学や会社側も、その分野に興味があり、適性がある人を好む。

例えば、カウンセラーは自分が強い精神をもっていた方がいいとされるが、実際大学等にて心理学を勉強し臨床心理に進む方はすでに「人の心理や感情に興味がある方」又は、「自分の感情のコントロールに興味がある方」であると思う。全く共感性がなかったり、他人の感情を気にかけないタイプの人はあまり専攻しない。よって「ある程度共感性がありながらも、カウンセリングを受ける方の負の感情に惑わされない人」という適性に対し、行き過ぎた適性、過適性が生じてしまう可能性がある。

一様性の不安定さ

過適性と似た話に、「過度な一様性による不安定さ」があると思う。多様性がより叫ばれる社会になっている。「似た適性を持つもの」を一様と捉えるならば、より多様な価値観やバックグラウンドを持つ人が集まる「多様な環境」が、ここ最近より多くの場面において好ましいとされつつある。しかし、

過度に一様な環境も不安定だし、過度に多様な環境も不安定である。

「安定性」は一定の価値観を共有した、一定の同様の適性を有しつつも、多様なバックグラウンドや考えを有するという絶妙なバランスによって初めて確保されるのではないか。その点、経済学でいうSteady Stateなり、生態学における安定性やレジリアンスなどこの「安定性」「一様かつ多様な状態」とはとても興味深い。

仕事や勉強分野に適性がありすぎるのも、なさすぎるのも問題なのかもしれない。つまり、適正かつ適度な適性が大事だったりする気がする。


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