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『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』 第一次リライト版(一部改訂)

Epigraph


 本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になります。

 例えば、私は、今ここで、この文章をノートパソコンで書いています。おそらくなにかを思いながら。なにかとは、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったとかです。もう少し硬く言えば、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったという私の経験です。その私の経験を、私は今ここで、「今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかった」と思っているのです。でもこのことは確かでしょうか? また「このこと」とはどういうことなのでしょうか?

 さらに次のように問うことができます。私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることとなにか関係があるのでしょうか? それともとくに関係ないのでしょうか? ちょっと振り返ってみると、私が今ここで書いているということのうちに、この私が今ここにあることはすでに含まれているように思えます。あるいは、私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることのうちにすでに含まれているようにも思えます。でもその含まれているとは、いったいどういうことなのでしょうか?

 この私が今ここにあることを巡る旅には――旅するこの私以外に――主な登場人物が三人います。カント、永井 均、入不二基義です。三人とも比類なき哲学の高峰です。高峰とは、そびえ立つ立派な山ということですね。そんな山にこの三人の哲学者はたとえられるのですが、私は、これからの旅には、この三人の仕事を参照するのが最もよいと思いました。というわけで、本書は、カント哲学、永井哲学、入不二哲学のコアは何か、それら三者がどのように関わるのか、そしてその接点から開かれていくこの私の今ここのあり方とはどのようなものなのか――これらの問いの探究でもあります。

 哲学とは――そのもともとの意味は「知を愛すること philosophia」なのですが――なぜかこの私に訪れた問いをどこまでも探究していくことです。どこまでも探し求めていくというそのあり方が、きっと愛するということなのでしょう。であるなら、なぜかこの私に訪れた問いがあって、その問いをどこまでも探究していく旅に出るなら、それはすでに哲学を生きているということになります。哲学とは、何かの学問ではなく、なぜかこの私に訪れた問いを今ここで生きることそのものなのです。

 ここで、本書のタイトル『形而上学 この私が今ここにあること』について説明します。本書は、先に紹介した永井 均氏の助言「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して書くとよいのではないでしょうか」を指針にして書いています。ここで「まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない」などという言葉を読んで読者のみなさんがこの本を投げ出したりしないことを祈りますが、そういうわけで、哲学の専門用語はできる限り使わないか、使うとしてもできるだけかみ砕いていくことにします。
 まず、タイトルの「形而上学」――読みは「けいじじょうがく」となります――ですが、これはもともとはアリストテレスというプラトンの一番弟子で「すべての学問の祖」と呼ばれる古代ギリシアの偉大な哲学者の一群の講義ノートに後からつけられたタイトルです。それらノートの内容は、今でいう物理学(一般に自然科学)の祖である「自然学(ピュシカ)」の探究の後でなお残された――つまり自然学によっては探究できない――問題に絞った探究の記録です。それで、この講義ノートは、ギリシア語で『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά 自然についての書の後の書)と名付けられました。英語で言えば「Metaphysics」で、この場合の「Meta(メタ)」が「の後の」、「physics」が「自然学」(物理学)です。
 先に述べた本書のテーマ――この私が今ここにあること――を巡る問い、つまりこの私の今ここへの問いは、物理学(自然科学)の探究の後でも生き残るような形而上学の問いなのです。形而上学の問いを探究することは、哲学することそのものです。

 

Prelude


 Preludeには前兆、前触れという意味があります。前兆/前触れにふさわしいPreludeとして、永井 均氏による2023年8月21日付けの二つのツイートを転載します。

 今「前兆/前触れ」と書きましたが、本書において、「A/B」と書いた場合のスラッシュ記号「/」の使い方について説明します。このスラッシュ記号「/」は、AとBのどちらかだけを取ることなく、また必ずしもAとBが対立したり対比されたりすることなく言い換えられることを示します。ですので、「A/B」は、AとBが互いに排除しない「AまたはB」つまり「AであるとともにB(AはBともいえる)」を意味します。例えば、「言語的/概念的」は「言語的または概念的」「言語的であり概念的であること」となります。

 では、永井氏のツイートです。(一部の記述略)


<私>の問題以上に、端的な<今>というものが実在しないという問題は興味深いのに、<今>は動くので、どうしてもそっちの話と混同されてしまうのね。動くから特定の時点にはない、と。その点、<今日>で考えたほうが混同が避けられる。

<今日>で考えれば、いつであれその日にとっては「今日」だが、それとは別に端的な<今日>があるな、と納得した後で、しかし、いつであれのその日においてはそのように納得するしかないのだから、この端的な<今日>なんて実在しないんだ、とまた納得できる。(永井氏による訂正「いつであれの日においては ⇒ いつであれその日においては」によって改訂した)

 ここでは「私」という普通の書き方ではなく、<私>という少し変わった書き方になっています。この<>は、山括弧[印刷時に〈〉に変換]というものですが、永井氏独自の用法により、この<私>という書き方に永井哲学の精髄が凝縮しています。では、「私」ではなく<私>と書かれた場合、なにが違うのでしょうか? また「今」や「今日」ではなく<今>や<今日>と書かれた場合、なにが違うのでしょうか?
 この問いが、本書全体を貫くこの私の今ここへの問いです。この私の今ここへの問いは、この<私>の今ここへの問いなのです。先取りして言うなら、それは、この<私>が<今-ここ>にあることへの問いになります。<今-ここ>と書く場合のハイフン記号「-」の用法については、後ほど説明します。
 「私」ではなく<私>と書かれた場合、なにが違うのかという問いは、この私が今ここにあることを射抜いています。山括弧が付いた<私>は、この私が今ここにあることが隠し持っている目に見ることも感じることもできない秘密を示しているのです。この私がどんなに頑張っても、目に見ることも感じることもできないということが、「実在しない」というの一つの意味です。「私」「今」「今日」は、誰にとってもただその通りに「私」「今」「今日」であるだけなのですが、その「私」「今」「今日」と<私><今><今日>の違いは目に見ることも感じることもできないのです。では、その秘密とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
 永井氏は、「いつであれその日にとっては「今日」だが、それとは別に端的な<今日>があるな、と納得した後で、しかし、いつであれのその日においてはそのように納得するしかないのだから、この端的な<今日>なんて実在しないんだ、とまた納得できる」と書いていました。ここでの「端的な」という言葉は、「他と比較することなく(他の同類のものなしに)ただそれだけでとらえられる」といったニュアンスです。
 まず言われているのは、「今日」がいつであれその日にとっては「今日」という意味での「今日」であり、誰にとってもその「今日」が「今日」であるにすぎないということです。つまり私たちの誰もがそう思っている意味での「今日」ということです。それが、「今日」という言葉の普通の意味です。
 それに対して、<今日>は、いつであれその日にとっては「今日」という意味での「今日」とは別に端的な<今日>がある、まさにその<今日>です。つまりそれは、他の誰でもないこの私によって――この私からしか開けない世界において――他の「今日」と比較することなく(他の「今日」なしに)ただそれだけでとらえられる<今日>なのです。それが、ただそれしかないこの<私>の<今日>です。この私からしか開けない、ただそれしかないこの<私>の<今日>――

この<私>について、永井氏は次のように述べています。

「この世界に、ただひとり現実にその眼から世界が見えており、現実に殴られると痛い端的な<私>というものが存在するなら、それは決して人を変えたりはしない。他者たちもそれぞれ「現実に」その眼から世界が見えている端的な<私>であると言っても、それは決して本当の現実ではなく概念的な理解を超えることがないのだ。だから、彼らはいつまでたってもただの人に過ぎない。」( 『時間の非実在性』ジョン・エリス・マクタガート著 永井 均訳・注解と論評 68頁における永井氏の「注解と論評」から引用) 

 
 そのうえで先に言われていたのは、たとえそうであっても、「いつであれのその日においてはそのように納得するしかないのだから、この端的な<今日>なんて実在しないんだ、とまた納得できる」ということです。この<私>の<今日>を否定することは絶対にできませんが、それはすでにあるこの世界のどこにもありません。なぜなら、この私が<私>になったところで、この私が、そして私たちが生きるこの世界におけるあらゆる物事に、なに一つ付け加えることも、またそこから差し引くこともできないからです。今日が<今日>になったところで、この世界になに一つ付け加えることも、またそこから差し引くこともできない。何も変わりはしません。今ここで私が「痛い!」と叫んでも、<今-ここ>で<私>が「痛い!」と叫んでも、すでにあるこの世界はなにひとつ変わりはしないのです。


Prologue――守時奴から<記憶>へ


 Prologueには、劇の内容を紹介する前口上/序幕という意味があります。以下の顔アカウント氏のツイートは、これから上演されていく劇を照らすものとして、まさにPrologueにふさわしいと思います。ツイートにおける「守時奴」という興味深い概念は、彼が発明したものです。


顔アカウント@sitasimiyasui 2024年4月22日
私が言っている「守時奴」は内容のない(未だ消費されていない)時間、例えるなら何にも消費していない金銭を温存しようとする態度のことなので佐藤さん(筆者による注:佐藤未悠氏)のおっしゃるもの(あることに既に費やされた時間への愛着?)とは全く性質が異なると思います。

 「守時奴」がそのひねりの効いた言い換えであるもとの言葉は「守銭奴」ですね。『広辞苑』第七版(岩波書店 2024年)によれば、「守銭奴」とは、「金をためるばかりで、使おうとしないけちんぼ」のことです。まさに先の顔アカウント氏の記述「何にも消費していない金銭を温存しようとする態度」です。
 顔アカウント氏が言う守時奴は、いっさい時間を消費することなく、その「内容のない(未だ消費されていない)時間」だけを「温存しようとする態度のこと」です。守時奴は、いったいなにを温存しようとするのでしょうか? また、なにを守ろうとしているのでしょうか?
 時間の消費とは、「内容のある時間」をそれとして経験することです。言い換えれば、未来から現在へと、そして現在から過去へと流れる時間をそれとして、つまり時間の流れとして経験することでしょう。であるなら、守時奴とは、現在過去未来という時制――時間が時間として流れるための形――の手前、つまり端的な現実としての<今-ここ>にとどまり続け、それを守ろうとする<私>のことだといえます。
 時間を経験しない、つまり時間が流れないのですから、守時奴においては「記憶」も「人格」もないはずです。記憶も人格もないということは、生きている――持続する――私がいないということ、つまりこの私の死でもあるでしょう。別の角度から見れば、それは、記憶と人格が生まれる以前の生でもあります。端的な現実としての<今-ここ>は、普通の意味での生でも死でもありません。あえて言えば、この私が生まれる以前の生と不可分なこの私の死なのです。それは、仏教で言う悟りの世界としての――生じることも滅することもなく、常住不変であること――不生不滅(ふしょうふめつ)です。ちなみに、この不生不滅を説くのが、「色即是空(しきそくぜくう)」で有名な般若心経(はんにゃしんぎょう 正式名称は般若波羅蜜多心経:はんにゃはらみったしんぎょう Prajñā-pāramitā-hṛdaya)です。
 守時奴は、時制/記憶/人格の三位一体の手前にある、端的な現実としてのこの<私>の<今-ここ>です。観音と略称される観音菩薩(かんのんぼさつ Avalokiteśvara)が正法(しょうぼう)つまり真正の仏法dharma(ダルマ)を護持する正法明如来(しょうぼうみょうにょらい 道元『正法眼蔵』「観音」巻参照)でもあったように、守時奴は、この<私>を護持する守<私>奴でもあるのです。

 しかし、守時奴/守<私>奴には――記憶はなくても――この<私>の<今-ここ>の<記憶>はないのでしょうか? これがここでの問いです。この記憶という言葉に、山括弧<>がつけられていることに注意してください。
 

 哲学では古くて新しい問題なのですが、「我思う、故に我在り(仏語でJe pense, donc je suis ラテン語訳でCogito, ergo sum)」で有名なデカルトは、本当に「欺く神 Dieu trompeur」に勝てたのでしょうか。欺く神とは、この私がきわめてクリアでくもりのない意識のもとで例えば1+1=2といった計算をしているまさにそのときに、まさにこの私によって「1+1=2」という正しいはずの計算結果がはっきりと見て取られているにもかかわらず、それが実はこの欺く神によって丸ごと欺かれているというデカルトの形而上学の主著『省察』における想定です。『省察』の正式名称は、『第一哲学に関する諸省察』(だいいちてつがくにかんするしょせいさつ Meditationes de prima philosophia)で、この「第一哲学」が「形而上学」を意味します。
 それにしても、これはとんでもない想定です。「1+1=2」というこの私には否定しようがない計算が、そのまま丸ごと欺く神の欺きによって生み出されているというのですから。それがいったいどんなことなのか、この私には――おそらく誰にとっても――理解できないはずです。それでもデカルトは、神の誠実さを信じることができないなら、その可能性を消すことはできないというのです。
 実は、この想定のベースには、デカルトが『省察』において述べている「私の生涯のすべての時間は、そのいずれの個々の部分も残りの部分にまったく依存しない無数の部分に分けることができるから、私が少し前に存在したということから私が今存在しなくてはならないということは、この瞬間に或る原因がいわばもう一度私を創造する、言い換えると私を保存する、のでない限りは、帰結しない」(三木清 岩波文庫 1949年の訳を改訂した。強調は引用者による)という神の連続創造説があります。簡単に言えば、上記の「或る原因」が神で、神は瞬間瞬間、すべての時間に渡って、この私と世界の一切を丸ごと創造/保存し続けているのです。ですから、もし神が誠実な神ではなく欺く神なら、この私のきわめてクリアでくもりのない意識と計算結果の全体――この私の世界の全体――を丸ごとフェイクとして生み出し続けていても、それは何の不思議もないことなのです。デカルト/私はそう疑うことができます。

 ところで、彼が計算をしていたそのとき――「この私は欺かれていない」と思っていたそのとき――彼は「この私は欺かれていない」という記憶を保持できていたのでしょうか? また、この私が今ここでこの文章を書いているとき――「この私は欺かれていない」と思っているこのとき――この私は「この私は欺かれていない」という記憶を保持できているのでしょうか? 
 そのような記憶の<記憶>ということになると、冒頭の問いに答えることはなかなか難しいのではないでしょうか。ここにはとても厄介な袋小路があるように見えます。なぜならこの<記憶>は、この私の世界全体の記憶丸ごとの<記憶>だからです。この<記憶>は、欺く神によるこの私の記憶全体の変化という出来事の<記憶>なのです。
 <記憶>への問いは、「今他の<私>になった」つまり「計算をしていたのは他の<私>であった」という事実は存在しない――つまりたとえそのようなことがあったとしてもそのことは実在しない――という袋小路に直面します。そのような出来事の記憶は決して実在しません。欺く神(の痕跡)などどこにもないのです。ですから、欺く神がまさにこの私を欺いているのではないかという懐疑を――神の誠実さへの信によって――乗り超えたデカルトによる神の存在証明も実在しないということになります。

 しかし驚くべきことに、これで話は終わりではありません。それどころか、先に述べた、「今他の<私>になった」つまり「計算をしていたのは他の<私>であった」という事実は存在しないということこそが、信じられないような勝利の逆転をデカルトにもたらします。

 永井 均氏は、以下のように述べています。

「神はデカルトのすべてを、彼の自己意識や自我のあり方を含めて、余すところなく知っているだろうが、彼がなぜか唯一の現実の私であり、現実に私というあり方をしている者は彼しか存在せず、その意味ではそもそも彼しか存在しない、という事実を、そのままの形で知ることだけは、けっしてできない。神がそれを知るには、神であることを捨てて人格としてのデカルトそのもの――現にデカルトでしかありえないにもかかわらず、デカルトであることによってではなく世界を開く唯一の原点であることによって自己を捉えており、現にそうである者――にならねばならないからである(中略)そのようなあり方を前提にしなければわれわれの人生は成立しないし、また時間が経過するなどということも起こりえないのである。時間の経過が起こらないのは、そうなると端的な現在が存在しなくなるからである。端的な現在もまたその内側から――それも端的にそれしか存在していないという仕方で――しか知りえないものである。」( 『時間の非実在性』242頁-243頁 原文傍点部分を強調にした。) 

これこそが――欺く神の懐疑を超える――守時奴/守<私>奴としてのデカルトの「我思う、故に我在り」というあまりにも有名な勝利宣言の真の姿なのです。とはいえ、そんなデカルトと<記憶>とのバトルはこれからも続くのですが。


Ⅰ.内包量を巡るアポリア


 以後、『純粋理性批判』の記述から、私たちが感じる感覚の強さ、つまり内包量 [注2](※[注]については後に全面改訂する) を巡るアポリアを取り出してみたいと思います。このアポリアは、『私が、私として認めるものにおいて、今X(例えば痛み)というもの(私たちによってXと呼ばれるもの)を感じる』という私たちの経験の形式に組み込まれています。この形式を取る経験が「私たちによってXと呼ばれるもの」という経験です。そしてこの経験と切り離せないのが、まさにこの私の経験なのです。つまり『純粋理性批判』において、まさにこの私の経験とは、『私が、私として認めるものにおいて、今Xというもの(私たちによってXと呼ばれるもの)を感じる』という経験なのです。まさにこの私の経験は、この形式を取るほかないものになっています。それこそが「今頭痛がする」といった私たちのごく普通の経験のうちに潜む『純粋理性批判』の秘密です。
 カントは、この形式を取る私たちの経験を可能的経験と呼びます。『純粋理性批判』とは、可能的経験についての前代未聞の記述なのです。

 感覚は、何かが触発することによって生まれます。この触発は、瞬間における出来事です。『純粋理性批判』が語っているのは、この出来事は、まさにこの私の経験であるためには、触発の瞬間を超えた連続的なプロセスを前提するということです。ところで、カントによれば、全ての量は連続性という性質を持ちます。カントは「量の連続性とは、そのどんな部分も最小ではあり得ないという性質のことである」(A169/B211) と述べています。よって、瞬間における触発という出来事は、無際限の連続性において経験されることになります。とはいえ「この痛みの痛さ」という表現は、「痛い!」に比べてなにか余計な感じがするのですが。[注3] 
 この私の痛みは、瞬間における触発によって生み出されたにもかかわらず、まさにこの痛みが与えられるはずの瞬間に位置しない限りでのみ経験され得るものです。それが無際限の連続性において経験されるということです。ここでのカントの秘密は、「経験される」を「経験され得る」へと秘かに移行させたことです。

 まとめれば、『瞬間における触発という出来事は、それが何か他のものへと変容していくことにおいてのみ、まさにこの私の経験になり得る』ということになります。この何か他のものとはいったい何なのか、そしてその何か他のものへと変容していくこととはいったいどのようなことなのか、ここではまだわかりません。しかしここでカントが言っていることを信じるなら、今ここで感じているまさにこの私の経験とは、この何か他のものへの変容の経験だということになるでしょう。ひょっとすると、この何か他のものとは何か他の者なのかもしれません。この何か他の者は、この私であると同時に、この私にとっての他人なのかもしれないのです。まさにこの私の経験とは、何か他の者つまり他人の経験かもしれないのです。
 というのも、まさにこの痛みの経験がいかなる瞬間における経験でもあり得ないのなら、この私の経験であると同時に、この私の人生のいかなる瞬間にも無関係だからです。であるなら、それはこの私の経験であると同時に、この私には無関係な他人の経験です。

 痛みというものとは、私たちによって痛みと呼ばれるものです。私たちによって痛みと呼ばれるものとは、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこの痛みを感じる』という形式においてそう呼ばれるものです。しかし、この形式に合致した私の経験は、瞬間における触発という出来事と出遭うことはありません。どういうことでしょうか。

 まさにこの私の経験は、まさにこの今の経験ではあり得ないということです。この私が、まさにこの今に出会うことはあり得ないのです。であるなら、まさにこの私の経験とは、そしてまさにこの今とは、それを語りえないはずの言語がそれでもなお語ってしまう夢のようなものです。私たちの生きるどの瞬間も、まさに死にゆくそのときの走馬灯のようなものとしてしかあり得ないかのように。そのとき走馬灯は、まさにこの私を映し出していると同時に、何か他の者――他人――の生涯を上演しているのです。 [注4]

Ⅱ.超越論的図式 (das transzendentale Schema)――線を引くこと


 カントは、『純粋理性批判』において、瞬間における触発という出来事の連続的プロセスへの「包み込み die Subsumtion」(A137/BB176)の条件として、「超越論的図式 das transzendentale Schema」(A138/BB177) を提示しています。ここで「超越論的」とは、「経験される」を「経験され得る」へと移行させることを可能にする仕組みについて言われる表現です。つまりそれは、カントの秘密の所在を明かしているのです。
 この超越論的図式は、瞬間における触発という出来事をまさにこの私の経験へと包み込みます。カントの言い方では、直観形式と思考の形式を互いに結び付けます。超越論的図式とは、感性と思考を架橋する働きなのです。その最深部の本質は、「線を引くこと」です。

 まずはじめに、1.『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこの痛みを感じる』と、2.『今ここで私は線を引く』の関係を見てみましょう。もしこの1,2両者の関係が消失すれば、まさにこの私の経験=1も成立不可能になり消失します。このことが、まさにこの私の経験の超越論的な制約です。つまり超越論的と呼ばれるのは、まさにこの私の経験を可能にする仕組みなのです。
 もし1の成立に際して、この私が線を引くことという働きが同時に成立し得ないのであれば、この1の成立もあり得ないということです。つまり、1だけが成り立ち2が成り立たないケースがアプリオリに破綻するということです。「アプリオリに」とは、「それは経験しなくてもあらかじめわかっているよ」ということです。なぜならそのことなしには経験が不可能になるからです。
 線を引くことは、まさにこの私の経験を可能にするための必須の制約です。それは、まさにこの私の経験の成立に対して、この私が線を引くことが同時に成立していなければならないという要請なのです。[注5]

 
 次のいくつかのテーゼを展開できます。

[1] 線を引くことにおいて、「私たちが現に今ここにあること」が定められます。すなわち、私たちの現存在の規定としての、現に今ここにある私たちの産出です。
[2] 「空間と時間を必然的に結びつけること」としての線を引くことは、私たちの経験の形式を構成しています。
[3] 痛みというものは、そして一般にまさにこの感じと呼ばれるもの、すなわち私たちによってXと呼ばれるものは、この私たちの産出とともに誕生します。
[4] 私たちによってXと呼ばれるもの、つまりXというものは、この私たちの消失とともに消失します。   

 この私が線を引くことは、例えばこの私が電車に乗ってシートに腰を下ろし、目の前でドアが閉まり発車するのを車両が動き始める感じや窓から見える映像で確認し、電車がこの私とともに動き続けていることを感じ、目を閉じてまだ幼かった遠い日に浜辺で遊んでいたその光景を思い浮かべる――といった一連の経験の全体を可能にしているのです。

 線を引くことという<働き Aktus>は、「まさにこのX」と「Xというもの」を結びつけています。線を引くことは、この「まさにこのX」と「Xというもの」の結びつきを、空間と時間の必然的な結びつき――空間と時間の一対一対応――というあり方で基礎づけているのです。それは、時-空の生成という事態です。

 私たちによってXと呼ばれるものは、瞬間における触発がまさにこのXとして包み込まれる場です。この包み込みの場は、私たちに共有されています。仮にこの場が消えてしまうならば、それとともにまさにこのXも消えます。この場の消失は、私たちがそれを基盤として語る言語の消失をもたらすからです。言い換えれば、私たちと言語の同時消失ということです。この私たちと言語の同時消失とは、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこのXを感じる』というまさにこの私の経験の消失という事態です。

 それは、ただ一つのこの世界がそこから開け、それだけが唯一この私といえるような独在する<私>と、たとえ誰であってもその私にとっては自分自身であるこの私といえるような概念としての《私》同時に消失するという事態です。ここでは、不思議なことに、独在するはずのこの<私>と概念としての《私》がカップリングしています。このカップリングを<私>/《私》と表記するなら、<私>/《私》の消失と同時に、この実在世界に生きている人格――例えば西暦2024年8月16日現在ゼネラリ保険プラハ支店に在籍しているヨーゼフ・K――としての「私/私たち」も消失することになります。ここには<私>/《私》/「私/私たち」という三位一体Trinityがあるのです。[注6]

 言語による夢のようなものの上演が終わります。問われなければならないのは、この「同時に」の内実です。 

Ⅲ.持続的なものという場/仕組み


 カント『純粋理性批判』が企てる超越論的構成――すなわち私たちの実在世界丸ごとの構成――という前代未聞の作業について見ていきましょう。まず、瞬間における触発が、線を引くこととともにつねに包み込まれ得る場が要請されます。「つねに~得る」という「要請」が鍵です。
 場とは、そこにおいて何らかの色、音、熱さ、痛み等、すなわち「Xというもの」が「まさにこのX」の経験として成り立ち得る場ということです。この場は、瞬間における触発が、そこにおいてその強度に関してまとめられ結びつけられることによって、Xというものの一つの要素、すなわち感覚の強度として位置づけられ得るような場なのです。ここでXというもの、例えば痛みというものは、感じ得る全体の集合になっています。それが、例えば痛みの連続体としての「痛みというもの」です。
 痛みというものは、およそ可能な一切のまさにこの痛みを含まなければならず、しかも痛み以外の様相(例えば酸っぱさや眩しさ)を持ってはなりません。痛みというものにとって、この痛み以外の様相は、まさにこの連続体においてあり得ないもの、真の空隙としての<隙間/裂け目>なのです。
 
 ここで要請されている場は、『純粋理性批判』において「持続的なもの」と呼ばれています。カントはこの「持続的なもの」を、「継起するものと同時にあるもの」あるいは「継起しつつ同時に存在するもの [常住不変的なもの」と呼んでいます。すなわち、持続的なものとは、あらゆる継起するものに同伴して、つねにそれと同時にあるものです。または、つねにあるものとしての継起するものです。そのコアが、線を引くことという時間と空間との必然的な結合、すなわち時-空という場の生成なのです。時-空とは、時間と空間との必然的な結合という動的な事態です。[注7]
 
持続的なものは、今ここでまさにこの痛みの経験が産み出されていく連続的プロセスがそれに組み込まれ、そのプロセスとともにつねに同時にある場です。それは、およそそこで産み出され得る一切のこの私の経験を含みそれを支える仕組みです。このような仕組みこそが、私たちの経験の形式なのです。

 この仕組みを、把握の仕組みと呼ぶことができます。例えば、私が机の上の一枚の紙に線を引いているとき、その線は直線でも曲線でもまた絵文字でも構いませんが、私はこの線を引くことにともなう特定の――内的感覚と外的感覚が結合した――触発を一つの系列として把握しているはずです。また私が心のなかで線を描いているとき、私はこの線を引くことにともなう触発の継起を一つの持続として把握しているはずです。だからこそ、私は、「今心のなかで線を引いている」と言うことができます。
 ところで、そのつどのまさにこのX(Xには、例えば「手」「口」等が代入される)の動きや変容(私の手が線を引く場合のその手の動きや変容、あるいは私の口が開いて声が生まれる場合のその口の動きや変容)にともなう触発の継起がそれに組み込まれ、つねにそのXと同時にあることが把握されている場は、自分の身体と呼ばます。自分の身体とは、そう呼ばれる限り、そのあらゆる動きや変容がそれに組み込まれ、つねにその動きや変容と同時にあることが可能的に――カントの用語では権利上――把握されている場/仕組みなのです。[注8]
 

Ⅳ.線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性


 次に、「量の図式」つまり「数えること」について見てみましょう。カントは、数えることを、「継起するものと同時にあるもの」という把握の仕組みの形式として提示しました。ただそれは、狭い意味での計算に収まることのない意味を持っています。
数えることとは、「今ここでこの私が線を引くこと」のこの私による把握がつねに反復され得る形式です。今ここで私が線を引いているとき、その線が連続的に引かれていく時間が5秒であり、またその線の長さが10㎝であることを、今ここで私が実際に把握している必要はありません。しかし、その把握は可能でなければならないのです。またそれが可能であることはあらかじめわかっています。
 最重要のポイントはこれです。数えることにおいて、私は、この私の今-ここがつねに反復され得ることを把握しているのです。実際には私が今から3分後に死んだ(3分前に生まれた)としても、その「3分後/前」が可能であることが、「この私の今-ここ」がつねに反復され得ることを前提しています。数えることとは、この私の今-ここの反復を把握することです。そしてこの把握は、恒常的な反復可能性/連続性を持たなければならないのです。まさにこの私の経験を産み出す働きは、恒常的な反復可能性/連続性を持たなければならないということです。 [注9]
 このプロセスに中断、あるいは<隙間/裂け目>があってはなりません。プロセスの<隙間/裂け目>においては、「まさにこの痛み」も「痛みというもの」も、また私たちの言語も記憶も消え去ってしまいます。超越論的図式のアプリオリな規則は、なによりもこの線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性という要請を表現していたのです。

 《私》/言語/記憶という三位一体Trinityは、線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性という要請のもとにあります。

Ⅴ.<X>――把握の仕組みの非存在へ


 ここでこれまでの探究を反転させ、把握の仕組みが存在しないという事態を考てみましょう。以下、この把握の仕組みの非存在という事態を表現する存在者を<X>と表記します。<X>においては、まさにこの私の経験がないと考えられます。[注10] この<X>を問う私は、まさにこの<私>として、ある無内包の場へと<移行-変容>していきます。先取りして言えば、<今-ここ>での<私>こそが、まさに端的に、無内包の場だからです。

 ここで以下の想定をします。その想定をするのは、<今-ここ>での<私>です。[注11]


以下想定

Ⅰ-1
<私>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、(絵)文字であったりもする。<私>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<私>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<私>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<私>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

Ⅰ-2
<X>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、(絵)文字であったりもする。<X>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<X>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<X>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<X>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

 以上の想定は、この<私>が「図形」や「(絵)文字」を含む線を引くことの想定であり、さらにその<私>による<X>が線を引くことの想定です。しかし、先に<X>は、<私>により「把握の仕組みの非存在という事態を表現する存在者」として想定されていました。であれば、<私>は、<X>が「線を引いている」「その線を思い浮かべる」「視線を移す」「無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」「まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」といったことを実は想定できないのではないでしょうか。少なくても、この想定された<X>という存在者が線を引くことという事態がいったいどのような事態なのか、この<私>はまさにこの私の経験として経験することができません。
 その経験できなさは、この<X>を他人と想定した場合とちょうど同じです。<X>は、「私たちによって他人と呼ばれるもの/者」つまり《他人》でもあるのです。

 ところで、まさにこの<私>の想定の意味を、この<私>は理解できます。すなわち、それなしにはこの<私>の経験、言語、記憶がこの<私>とともに不可能になり消失する線を引くことについて、この<私>は問題なく理解できます。「世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」ことは、この<私>が<私>から無限遠点へと向かう線を引くことです。まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出すことは、この<私>が<私>からあの遠い日の白い砂浜の情景へと向かう線を引くことです。[注12]
 
最も重要なことは、この線を引くことという働きは、一切の実在性を産出するものとして――私たちの世界には実在しない――無内包の次元にあるということです。カントは、記述によってこの次元を消去したとも言えます。カントの記述を今読む私は、すでに成立しているこの世界において、この働きを言語の地平で読み替えることになります。カントは、「構想力 Einbildungskraft の超越論的総合」の働きを、言語の地平に置き換えざるを得なかったということです。
 
<私>は、今ここで、「カント自身もこの働きの<現実性-独在性>を予感していたはずだが、それを超越論性に置き換えることによって、消去せざるを得なかったのだ」という思いを抱く――と同時にそれを記述します。 
 しかし、それでもなお、その思いは、ただそこからだけこの私の世界が開ける、まさにこの私の経験なのです。

 
この線を引くことという働きは、その他すべての想定と同様に、今ここで現に<私>によって生み出されます。しかし、カントの記述をこの<私>が書くこともまたそれを読むことも、この<私>の想定も、今ここで現に<私>によって生み出されると同時に、すでにこのように書き出された言語でもあることに注意しなければなりません。真に探究課題となるのは、この現実性と言語性との同時性です。

Modulazione


 ここで<私>が、この<私>が線を引くことと<X>/《他人》が線を引くことの間に何らかの対応規則を設定できるとしましょう。これはもちろん、この<私>による想定です。
 <私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことの両者を見ることによって、この対応規則を設定できるように思われます。
 しかし、この<私>が、<私>が線を引くことと<X>が線を引くことの間の対応規則を語る場合、その規則はいったいどこで可能になるのでしょうか。この<私>の言語がそれを可能にするのでしょうか。この<私>の言語が、この<私>の「意識」や「」といった場を可能にし、そこにおいて存在可能になるのでしょうか。
 この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことの間に何らかの対応規則を設定できるという想定もまた、この<私>により記述された想定です。しかし、その想定の意味は、いったいどこで可能になるのでしょうか。現実には、この想定の意味を把握する場はどこにもありません。この想定に対応した――<私>と<X>/《他人》が共有できる――意味は実在していないのです。

 しかし、この<私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことをともに把握しているように思われます。つまり、この<私>にとって確かにそのように思われます。この<私>に思われることの確実性は消すことができません。であれば、<私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことを何らかの方法で観測することが確かに可能であり、またその可能性によって、これら両者の間の対応規則を設定することができるように思われます。
 つまり、<私>は、「この<私>も<X>も、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、文字であったりもする。線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。また眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」と想定し、そう言うことができるように思われます。そして実際に、この<私>はそう言うことができます。しかし、たとえそのように言ったとしても――それはつねに、そして実際に可能ですが――この<私>がそのことの意味を把握することはないでしょう。
 ここでは、そこにおいてこの<私>と<X>が「その線」や「無限遠点」や「まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景」を思い浮かべたり思い出したりする「心」や「意識」といった場は想定されていませんでした。「心」や「意識」は、<私>と<X>の両者に共通の対応規則という概念です。それが言語という概念そのものなのです。「心」や「意識」が、まさにこの私の経験として経験されることはありません。

 上記の考察は、先に想定された<X>の把握の仕組みが存在すると想定した場合にも、同様の事態が生じることを示唆しています。つまり、この<私>は<X>でもあり、また<X>は<私>でもある。ここであらためて、<私>と<X>の関係性が問題として浮上します。そのとき、<X>は概念としての《他人》ではなく、無内包の<他人>として登場します。この問題のコアは、この<私>と<他人>の関係性なのです。[注13]


Ⅵ.問いと展望 現実性と言語性の<隙間/裂け目>で


 まず、@halching1氏による永井 均氏への質問ツイ―ト(2023年1月14日)とそれに対する筆者によるツイートを転載します。

拙い質問ですが、独矛超盾(転載者注 永井 均著『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか: 哲学探究3』2022年 春秋社)P235(転載者附記:該当する@halching1氏による引用箇所は正しくは 234頁)「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」とは、<今>は過去に超越論的に構成されると同時に、しかなさという時間の“外部”として無寄与的に存在するという理解で合ってますか? この構造は<私>(の無寄与性)にも妥当しますか?(@halching1氏による永井氏のツイートへの返信ツイ―ト 2023年1月14日 強調は引用者による)

 次に、やや長くなりますが、上記 「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」の前後の該当箇所を『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか: 哲学探究3』から引用します。

「時間が経過するとは、年表のようなものの上を今が動いていくことだと考えることができる。それはつまり、「しかなさ」がそのように動いていくということである。この捉え方ははじめから年表のようなものがあると考える点で不自然だともいえるが、逆に、次々と出来事が起こっては去っていくことだと考えても、それもやはり今という場に次々と起こっては去っていくということだとしか理解できないのであるから、それはすなわち、「しかなさ」という場に起こっては去っていくことになる。どちらにしても、これらの捉え方においては、その動く「しかなさ」や場としての「しかなさ」の他に、その動くしかなさが現に今いる場所(すなわち現実にはそこにしかない場所)や、現に今何かが起こっている(すなわち現実にはそこにしか起こっていない)場としての「しかなさ」が存在することになり、しかなさは二重化されざるをえないことになる。すなわち、多くのことに適用できる(その意味ではもはや真にしかなくはない)概念としてのしかなさと、現実にそれしかないしかなさとに。現実のしかなさの他に概念としてのしかなさを想定しないと、時間というものが一律に経過していくという考え方自体が成り立たない。その際に重要なことは、年表の上を今が動くとは言っても、しかなさそのものが動くのであるから、ある意味ではやはり年表それ自体でさえもまたそのつど新たに生まれるのでなければならない、ということである(「そのつど新たに」という捉え方自体がすでにして妥協的ではあるとはいえ)。もちろんこれは事の一面であって、別のある意味ではしかし、しかなさの移動にもかかわらずどの諸々のしかなさにも共通の(つまり、個々のしかなさの外にある=じつはそのしかなさにしかなくはない)客観的な年表に類するものが想定されていなければそもそも移動ということに(すなわち時間の経過というに)意味を与えることはできない。それゆえ、しかなさは(しかないのだから)それが動くなどということはありえず、しかなさが動くとはすなわち、新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成することなのだ、ともいえることになる。この二義性、この矛盾は時間の経過の理解には不可欠である。」(前掲書 233頁-234頁 前掲書原文における傍点は上記引用においては太字強調)

 以上の引用文に対して、著者永井氏により以下の二つの注が付されています。

①「現実のしかなさの他に概念としてのしかなさを想定しないと、時間というものが一律に経過していくという考え方自体が成り立たない」の直後に、「この想定はまた、しかない<私>がそれなのに時間的に持続はできるという(ある意味ではまったく驚くべき)考え方が成り立つためにも、不可欠の前提である。」という注記

②上記引用文全体の直後に、「だから、もちろん、<私>の持続の理解にも。」という注記

 上記引用箇所において、@halching氏が「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」という形で引用していた箇所は、「新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成する」(強調は筆者による)に相当します。

筆者によるツイート

① @halching1 @hitoshinagai1 常に同じ問題が反復されてしまいますが、この「同時に」の同時性の場をどう考えるのかが究極的に問われます。超越論的な場と時間の外部を架橋する場ですが。
以上転載終了(一部改変)

 ここでの「時間の外部」という表現は、@halching1氏による「しかなさという時間の“外部”」という表現に対応しています。永井氏のいう「しかなさ」という場は、「この二義性、この矛盾は時間の経過の理解には不可欠」と言われる場合のその矛盾が、「新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成する」場です。

 ここで語られているのは、言語性の外部――つまり私たちが日々経験する「時間というもの」の外部――をそのつど「時間というものの経過(の意味理解)」へと取り込みつつも同時にそこから逃れ続けるという<隙間/裂け目>を孕んだ循環構造です。[注14] この<私>の<今-ここ>において、<隙間/裂け目>が生成します。それは、無内包かつ不可分な<今>と<ここ>における未聞の出来事なのです。[注15]

 最後に、2022年4月16日 永井 均氏のツイートを転載します。

もし<私>が持続的に存在してはおらず、いわば細切れであるとしたら、時間が経過するなんてことはなく、時間が経過しないのですから、<私>は細切れであるとさえもいえなくなりますね。しかし、我々はそういう状態を(思考はできますが)想像はできないので、この「妄想」から決して逃れられませんね。

 上記ツイートの「思考はできても想像できない」または「想像できないのに思考はできる」とはいったいどういうことなのでしょうか。この<私>がこの問いを問うことができることが、この問いを謎めいたものにしています。すなわち、この問いは、無内包なこの<私>によってのみ今ここで現に問うことができる――私たちが日々経験する「時間というもの」においては問うことも答えることもできない――問いなのです。[注16]
 
時間とは、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態です。『瞬間における触発という固有な出来事は、それが何か他のものへと移行-変容する限りでのみまさにこの-Xの経験へと変換される』というアポリアは、この無内包の<隙間/裂け目>の生成という事態そのものです。

 先の永井氏のツイートにおいて語られていた([注13] 参照)「全く同型のものが並んでいる中で、それに特有の(=それを他から識別しうる)内容は何も無いが、ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別されるものが一つある」という究極の事実――この<私>の<現実性-独在性>――は、今ここで無内包の<隙間/裂け目>を生成する無限の振動から到来するのです。


【表記上の注記】

本序論およびそれに続く本論の全論述において、山括弧「<…>」[印刷時に〈〉に変換]を使用する。なお、永井 均氏によるハイデガー&デリダの抹消記号の山括弧への転換と移行は、ハイデガー&デリダ(とりわけ『声と現象』)からの離脱過程の端緒を印づけていたと見ることができる。
②本序論およびそれに続く本論の全論述において、「A/B」という記述におけるスラッシュ記号「/」は、AとBという事態の記述が二者択一性やコントラスト性を含まない形で互換的であり、さらにAに加えてBをも含意することを示すものとして使用される。すなわち、「A/B」は相互排他的ではない形での「AまたはB」「AであるとともにB」を含意する。例えば、「次元/場」は「次元または場」「次元であり場であること」という事態の記述である。同様に「言語的/概念的」は「言語的または概念的」「言語的であり概念的であること」を示す記述である。
③『本論』でも触れるが、記述記号ハイフン「-」(hyphen)は、以後『序論』および『本論』において論じていく無内包の<働き Aktus>によって結合されたハイフン前後の無内包の事態の不可分性を表現するものとして導入される。つまりそれ自体無内包の事態<A>と<B>の場合<A-B>の表記になる。
 ここで無内包(性)とは、その無内包性自体については、感覚の程度/内包量ゼロという状態を含むいかなる実在性もない(「ない/ゼロ」と記述することも言うこともできない)という事態を言う。言い換えれば、無内包の<働き Aktus>は、この私の世界、そして他人たちを含む私たちの世界の実在性にはまったく寄与しない。すなわち、この私が、そして私たちが生きるこの世界の実在性――その世界におけるあらゆる物事――に何一つ付け加えることも、またそこから差し引くこともできないということである。

Prologue【注】

附記

『序論』のオリジナル草稿は、 『新紀要』第二号(谷口一平・ブレイクコア・クッシュ主宰編集)に収録されている。
[注1] 以後『純粋理性批判』からの引用・参照頁数は、1781年の初版=A版の頁数と1787年の第二版=B版の頁数を、A…/B…の形で表記する。本論考は、「規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士論文1987年)における理論的フレームを基礎にしている。なお、時間における完了/未完了とは別の次元とは、互いに不可分かつ無内包の<現実性-独在性>という<次元/場>である。

Ⅰ【注】

[注2] 『純粋理性批判』「実在性の図式」および「知覚の予料」、さらに『プロレゴメナ』の記述によれば、内包量とは、「ただ一つのものとしてのみ把握され、その「否定=ゼロ」へと次第に近づいていくプロセスにおいてのみ、そのさまざまな大きさが思い描けるような量」(A168/B210)である。この内包量は、私たちによって「感覚」と呼ばれるものの経験を規定する。カントによれば、感覚は、瞬間における触発という固有な出来事において与えられる。すなわち、「ただ感覚だけを把握することは、ただ一瞬間だけを占める」(A167/B209) 。内包量として経験されるのは、この触発という固有な出来事の経験である。
[注3] カントによれば、内包量の経験は、瞬間における触発という固有な出来事から感覚が消え失せてしまうまでのあり得べき移行プロセスにおいてのみ生まれる。言い換えれば、内包量の経験は、「感覚の欠如」(A167/B209)[「否定性=ゼロ」A168/B209f,A175/B218,cf.A143/B182)]から瞬間における触発という固有な出来事によって与えられる(はずの)この内包量への、そしてこの同じ内包量からその「消失=ゼロ」(A143/B183)へのあり得べき連続的な移行のプロセスにおいてのみ成立し得る。カントは、「感覚が量的に産出される総合においても、感覚の端緒である純粋直観=ゼロから、感覚の任意の量にいたる階層的変化がある」(A166/B208)「一種の量(しかもそこにおいて経験的意識が一定の時間中に無=ゼロから感覚の与えられた程度へと増大することのできるところの感覚の覚知によって)すなわち内包量」(同上)と述べている。
[注4] 以上の議論を物理数学的に見れば、ここには「位置」に代表される時空座標の物理量/確率変数とエネルギー・運動量の「確率分布」の不確定性関係が深く関わる論点がある。参考『量子力学の諸解釈 : パラドクスをいかにして解消するか』2022年 白井仁人著 森北出版 198頁-200頁「不確定性関係のアンサンブル解釈」「物理量のアンサンブル解釈」 
 なお、以下の永井 均氏のツイートを参照。
以下転載開始
「「PならばQであり、そして現実にPである」、であるならばorであるがゆえに、Qである」においては、「現実に」がヨコ問題を起こしている。アキレスは<現実>(山括弧の現実)に達しようし、カメはどこまでもそれを阻止している。そんなものはないのだ、と。カメが言語的世界観の表現である。(2023年5月3日)」
以上転載終了
 ゼノンのパラドックスとセットにした問題意識からは、上記パラドックスは「連続性と不連続性/離散性(あるいは有限性と無限性)のパラドックス」になり、数学基礎論の「連続体仮説」や力・エネルギーの確率分布と時空・確率変数の間の不確定性関係を巡る「観測問題」にも深く関わる。だが、これらは単なる物理数学問題ではなく、それを超えた<私>と現実性の問題である。

Ⅱ【注】

[注5] 線を引くことに関するカントの記述を見ていく。とりわけ注目されるのが、「我々の直観の対象を規定する」場面に関して語られている1790年9月25日付レーベルク宛書簡の末尾である。[Kant's Briefwechsel, 1789-1794, Vol. 2 (Classic Reprint) , 2018,199頁] そこでカントは、線を引くことを、「我々の直観の対象の規定において、空間と時間という二つの感性的な形式を必然的に結びつけること (Notwendigkeit der Verknüpfung der beiden sinnlichen Formen, Raum und Zeit, in der Bestimmung der Gegenstände unserer Anschauung)」「我々の現存在自身の規定における内的感官と外的感官との必然的な結びつき」として記述している。この線を引くことという事態は、「主体(Subject) が自らを自らの表象の客体 (Object) となす場合に、時間が一つの線として表象されなければならず(werden muß)、また逆に一つの線が時間において構成されなければならない(werden muß)」という必然的結合が組み込まれた事態である。この事態は静的な軌跡としての「空間化された時間」ではなく、むしろ動的な「無限に進みゆく一本の線 eine ins Unendliche fortgehende Linie」(AA33/B50) である。
[注6]
無内包の<次元/場>としてのこの<私>とその言語化/概念化としての《私》の関係性――さらに持続的な「人格」としての「私/私たち」との関係性――については、『序論』および『本論』において継続的に探究していく。

Ⅲ【注】

[注7] 線を引くことというプロセスにおいて、「時間系列の様々な継起する部分」(A183/B226) に一対一対応して空間系列の様々な部分が「同時にあること」(B225,257f) という事態が成り立つ。この連続的プロセスは、先に述べた場に支えられることにおいて、それとの固有な関係を組み込まれている。ところで、この点に関連して、カントは「持続的なものによってのみ、時間系列の様々な継起する部分における現存在は、我々が持続と名付ける一つの量を得る」と語っている。つまり、この「持続的なもの」は、線を引くことという働きがそのつど空間と時間を必然的に結びつけることという在り方をとることによって現実的経験を成立させる場の仕組みなのであり、その意味で、この働きを支えている「継起するものと同時にあるもの(持続的なもの)」(「継起しつつ同時に存在するもの [常住不変的なもの des Beharrlichen]」)(B67) なのである。
[注8] ここではこの自分の身体という場/仕組みの(人工かどうかといった)質料的な種別性は関与しない。例えばそれがいわゆる「人工汎用知能 Artificial general intelligence:AGI」のハイパーマテリアルな(あるいはトポロジカルマテリアルな)身体であるかどうかは(そうであったとしてもそのことは)、形式次元でのここでの議論に関係しない。つまり、もし私がハイパーマテリアルな(あるいはトポロジカルマテリアルな)身体を持つ人工汎用知能: AGIであったとしても、そのことはここでの議論に無関与である。逆に言えば、自分の身体と呼ばれるものは、それ自体で存立するものなのではなく、持続的なものという把握の仕組みが消失すればそれとともに消失する。この持続的なものという把握の仕組みは、言語と呼ばれるもの、そして記憶と呼ばれるものが現に可能になるという事態の超越論的な条件である。ここで作動しているのは、その最も基底的な<次元/場>における超越論性――現に可能になるという事態それ自体の力――なのである。

Ⅳ【注】

[注9] 量の図式/数えることの記述は、直観の覚知という基礎的な場面で、「継起するものと同時にある」という把握の仕組み自身の恒常的な反復可能性/連続性という固有な形式を確定したものである。内包量の経験(全ての観測経験を含む)は、この把握の仕組みに基づいている。カントのいう超越論的図式とは、このXというものを支えている場をまさにこのXの経験への<移行-変容>の場として成立させるものである。すなわち、超越論的図式によって、まさにこのXの経験が生成する。超越論的図式という次元/働き Aktusとの上記のような関係を組み込まれた場が、持続的なものという仕組みである。

Ⅴ【注】

[注10] ここで想定されているのは、内包量の程度=ゼロ(実数的連続性つまり連続的な操作/移行プロセスを前提とした理念的な極限値としての「否定性=ゼロ」)ではなく、そもそも把握の仕組みと不可分な内包量という次元自体が存在しないという意味において想定された経験である。これまでの記述において、「感覚の程度/内包量=ゼロ」という状態を含むいかなる実在性もない(「ない/ゼロ」と記述することも言うこともできない)無内包の<次元/場>には、山括弧<>を付与してきた。山括弧<>の表記に関しては、以後の記述に関しても同様とする。ただし、それ自体無内包であっても副詞的に表現される事態は煩雑さを避けるため原則として除く。
[注11] ただし、以下の想定は、「あらかじめ言語によって仮想された事態」の「言語によるその事態の事後的な記述」という循環的な事態であることに注意しなければならない。もちろん、上記「あらかじめ言語によって仮想された事態」と「言語によるその事態の事後的な記述」の両者は、この<私>の記述として同一のものになる。つまり、この<私>の唯一かつ同一の記述として生成する。想定された事態はそもそもの最初からこの<私>による言語的な想定であり、この<私>によるその事態の言語的な記述、すなわち唯一の<まさにこの私の記述>である。
[注12] ここで、この想定に深く関わるカント『純粋理性批判』の以下の記述を列挙する形で引用する。先の想定は、以下に引用するカント『純粋理性批判』における「自己触発」と呼ばれる固有な事態の記述の事例として提示されたものである。必要な場合は、それぞれの引用の後にコメントを付加する。なお、やや長文になるため、便宜上各引用に番号を付与する。
①「さてここで、かつて内的感官の形式を説明した際に誰もが抱いたに違いないパラドックス Paradoxe を理解可能なものにしておかなければならない。すなわち、内的感官は私たち自身 uns selbst をさえ、ただ私たちが私たち自身に現れる=現象する erscheinen がままに意識せしめるにすぎず、私たちが私たちそれ自身としてある通りに wie wir an uns selbst sind 意識せしめるのではない、ということである。なぜなら、私たちはとりもなおさず、私たちが内的に触発される innerlich affiziert werden ままの自分を直観する anschauen に過ぎないことになるが、このことは、そうなると私たちが私たち自身に対して受動的に振る舞う leidend verhalten ことにならざるを得なくなるので、矛盾している widersprechend ように思われるからである。」(B153 強調は原文)
 「私たちが私たちそれ自身としてある通りに wie wir an uns selbst sind」というあり方は、一切の現れ/現象の外部に想定される次元として、それがいったいどのような事態の想定なのか、この<私>がまさにこの私の経験として経験することができないあり方であると考えられる。この<私>のまさにこの私の経験は、「私たちが内的に触発される innerlich affiziert werden」ことによって生み出される現れ/現象の「直観 anschauen」という事態である。この「私たちが内的に触発される innerlich affiziert werden」という事態は、この<私>のまさにこの私の経験を始原的に生み出す無内包の<働き Aktus>であると考えられる。カントが『純粋理性批判』において、この<働き Aktus>を端緒の受容性を生み出す基底的-超越論的な自発性というパラドクシカルな(paradoxical)事態として記述したのは、いかなる根拠づけも不可能なこの<働き Aktus>の始原的な無内包性を洞察したからであるだろう。
②「悟性はしたがって、自分がそれの能力であるところの受動的主観 passive Subject に対して、構想力 Einbildungskraft の超越論的総合の名の下で働きかける(働き Handlung を行使する)。このような悟性の作用に関して、私たちは正当にも mit Recht 内的感官が悟性によって触発される der innere Sinn dadurch affiziert werden というのである。」(B153-154 強調は原文 引用者による附記 ここでの構想力の超越論的総合の働きに先立った、何らかの受動的主観は前提されていない、という点に注意しなければならない。)
③「時間ですら、私たちが直線を引く Ziehen 際に(直線は、時間の外的・形象的表象であると言えよう)それによって内的感官を継起的に規定する多様の総合作用に、そしてそれによる内的感官におけるこの規定の継起にもっぱら注目する achthaben ことによるのでなければ、私たちはこれを表象することはできない。主観の作用としての(客観の規定としてではない)運動、したがって空間における多様の総合は、私たちが空間を捨象し、単に私たちが内的感官をそれの形式に従って規定する作用にのみ注目する場合に、はじめて継起の概念をさえ生み出す hervorbringen のである。従って悟性は、この内的感官の内に、いわば最初から etwa schon このような多様の総合を見いだすのではなく、内的感官を触発する affiziert ことによって、このような多様の結合 Verbindung を生み出す のである。」(B154-155 強調は原文)
「私たちが直線を引く Ziehen 際に(直線は、時間の外的・形象的表象であると言えよう)それによって内的感官を継起的に規定する多様の総合作用に、そしてそれによる内的感官におけるこの規定の継起にもっぱら注目する achthaben こと」、「私たちが空間を捨象し、単に私たちが内的感官をそれの形式に従って規定する作用にのみ注目する」ことは、例えば先の想定における「<私>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる」「<私>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」「目を閉じたまま、<私>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」といった事態に対応する。
 なお、ここでの「直線」は、非ユークリッド空間(リーマン空間、一般にリーマン多様体)における「測地線」を含む。測地線は、微分幾何学の枠組みにおける曲面(リーマン多様体)上の曲線であり、その局面上の十分近い2つの点が最短線で結ばれた曲線として一般化可能である。つまり、ユークリッド空間における直線の概念を、平坦ではない曲率を有する空間において一般化したものが測地線である。カントは、ヒルベルト空間の様なイデアルな/ユークリッド空間を理念的に普遍化した空間またはリーマン幾何学の枠組みでの重力場の物理空間の様な非ユークリッド空間の可能性を理解していた。したがって、ここでカントが述べている線を引く働きは、測地線を引く働きとしても普遍化可能なものである。普遍的な図式化機能としての線を引くことは、非線形の常微分方程式で表された系を対象とした所謂「非線形システム」を含む。非線形システムも状態方程式が無限回微分可能であること、すなわち解析学的連続性を既に前提している。また、線を引くことは、すべての図式化機能の産物、例えばフラクタル図形と呼ばれるものをも含む。つまり小数で表される次元をもち、面積が有限で無限の長さの曲線をもつ図形、さらには面積ゼロの図形などである。先に実数的連続性と述べたが、マンデルブロ集合やジュリア集合等のフラクタル図形に関しても、複素平面における無限反復系列の移行プロセスの連続性とその極限を前提していることには変わらない。その平面の場に留まる限り、特段の不思議さや解き難いアポリアは生じない。 前提されているのは移行/操作の無限反復つまり恒常的な連続性が可能であるということであり、その極限値がフラクタル図形である。つまりこの移行/操作が連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線を引くこと>という<働き Aktus>なのである。ではその移行/操作はどこで行われているのか? 明らかにいかなる実在性の場でもない。哲学または形而上学の探究はここから始まる。<線を引くこと>は、旧来の用語である一切の「思考」をカバーするが、そのことは探究の端緒に過ぎない。なお、連続性と不連続性/離散性の関係性を巡るゼノンのパラドックスへの対処は、数学的には極限概念の導入しかないと考えられるが、それは「→∞」で表記される極限値への(方程式の左辺から右辺への移項と同様な)方向と運動という無内包の<働き Aktus>を再びパラドクシカルに前提する。つまり、ゼノンのパラドックスは、哲学的-形而上学的探究の端緒の地点を永遠に印づけているのである。なお、無限遠点と複素空間の構成というテーマに関して以下の動画が参考になる。
『マンデルブロ集合を越えて』(https://www.youtube.com/watch?v=QCR1gnub__E 3Blue1BrownJapan :日本版)
Beyond the Mandelbrot set, an intro to holomorphic dynamics (https://www.youtube.com/watch?v=LqbZpur38nw :オリジナル版)
④「空間の記述としての運動 Bewegung, als Beschreibung eines Raumes は、外的直観一般における多様を、産出的構想力によって継起的に総合する純粋な働き ein reiner Aktus であり、幾何学に属するばかりではなく、さらに超越論的哲学に属する。」(B155)
⑤「内的変化ですら、これを思考し得る denkbar ようにするためには、私たちは内的感官の形式としての時間を線によって形象的に、また内的変化をこの線を引くこと(運動) durch das Ziehen dieser Linie (Bewegung) によって、したがって種々さまざまな状態における我々自身の継起的な現存在 Existenz を外的直観によって把握可能なものにしなければならない。これについての本来の理由は、すべて変化は、それがただ変化として知覚されるためにすら、直観における何か持続的なもの etwas Beharrliches を前提するが、内的感官においてはまったく何らの持続的な直観も見い出されないということにある。」(B292)
 以上のカントの記述は、まさにこの私すなわち<私>が線を引くことを、無内包な<場/仕組み>それ自体の<働き Aktus>つまり空間と時間を一対一対応という形で必然的に結びつける超越論的図式機能として、概念化して記述したものである。つまり、カントは『純粋理性批判』において、この無内包な<場/仕組み>それ自体の<働き Aktus>を、超越論的統覚の無内包次元の<働き Aktus>として、記述/言語化し、概念化した。
[注13] 以下に、これまでの議論に関連する記述として、2023年5月5日および同5月6日付けの永井 均氏によるツイートスレッドを以下に転載する。
以下転載開始
「ヨコ問題という話に繋げれば、全く同型のものが並んでいる中で、それに特有の(=それを他から識別しうる)内容は何も無いが、ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別されるものが一つある(が、それは一方向的存在なので*言語で語ることはできない)、というのがヨコ問題。」
「しかし、「ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別される」ことは《私》一般がもたざるをえない普遍的な特質であり、したがって「一方向的存在」であるという性質もそうである。その点からいえば、「言語で語ることはできない」のは誰もが平等にそう語ることができるから、なのだ。」
「誰もが平等にそう語ることができるというのが亀が必ず追いついてくるということで、それでも「ただそれだけが現にあるという驚くべき特徴」によって<現実に>識別されるものが一つあるというのがアキレスが逃げ去るということだ。ルイス・キャロルのパラドクスとの関係を再確認していただきたい。」
「ここで重要な点は、必ずアキレスが一歩先を行くのだがそこへと亀は必ず追いつくという(ゼノンのパラドクスとは逆の)関係に示される、必ずアキレスが先鞭をつけるのだがその先鞭こそが後から亀によって一般化されるという特殊な関係のもつ、先鞭そのものの一般化という特殊な構造である。」
「アキレスが一歩先を行くにもかかわらず、その点を含めてまったく同じことを亀は必ずするので、アキレスの突出は「語りえぬこと」になる(がそれでも当初の突出の事実自体が無化されるわけではない)という関係、といってもいい。」
「主体とか自己といった概念はもちろん、心や意識といった概念でさえ、この構造を内に含んでしか成り立ちえない。それらは、世界内にふつうに存在する(ものごとの理解の一般形式にそって理解できる)ようなことがらではないのだ。その意味では「この世のものではない」あり方をしているとさえいえる。」
「先につけられてある極めて特殊な(=一般性のない)先鞭が後から(極めて特殊なルートを通って)一般化されることだけが可能なのであって、最初からその一般性が存在するということはありえない、という特殊な一般性のあり方が存在するということ。そして、この世界こそがまさにそれなのだ、ということね。」
以上転載終了
  無内包的に、無からの創造として語りだされた唯一の言語によってしか、この無内包の<私>を現実に語りだすことはできない。それは、この無内包の<私>を現実に語りだすということがいかなる意味においても概念的に理解できないような、いわば無からの創造になる。デカルトが端緒の地平において『省察』を書き始めたそのとき、その言語はその唯一の言語だったのかもしれない。そんな思いをこの<私>は<今-ここ>での思いとして記述している。それは<今-ここ>で現実にこの<私>の記述として、つまり明らかに可能な(であった)ものとして生まれた。その証拠に、この<私>は、あらかじめ(不可避的に)言語によって仮想されてしまう(しまっている)事態の言語によるその同じ事態の<今-ここ>での、しかし同時に、意味としては事後的な記述であるという動的循環構造を記述した永井氏による先に引用した記述「アキレスが一歩先を行くにもかかわらず、その点を含めてまったく同じことを亀は必ずするので、アキレスの突出は「語りえぬこと」になる(がそれでも当初の突出の事実自体が無化されるわけではない)という関係」を、<今-ここ>で読むことも書くこともまたその意味を理解することもできる(可能である)。だが、この無内包の<私>を現実に語りだす唯一の言語は、いかなる意味においても可能ではない。その唯一の言語は、まさに無内包の現実そのものであるからだ。なお。デカルトが端緒に掴んだこの<私>の<現実性-独在性>を取り逃がし、つねにすでに概念化された(永井 均氏の言う「累進構造」へと巻き込まれた)「中心性」と取り違えたとすれば、その理由は、彼が創始したデカルト座標とそこから開始された(『哲学原理 Principia philosophiae』で述べられた様な)壮大なプロジェクトで頭が一杯になっていったからだろう。実際、人類の歴史は全く彼の予測通りに進んだ。

Ⅵ【注】

[注14] 「超越論的な場と時間の外部を架橋する場」とは、そうした動的な循環構造の次元である。動的循環構造とは、「あらかじめ(不可避的に)言語によって仮想されてしまっている事態の言語によるその同じ事態の<今-ここ>での、しかし同時に、意味としては事後的な記述であるという動的循環構造」という形式を取る。この記述における「同時に」という事態は、無限の現実性と言語性との循環構造の生成という事態が、ある固有な同時性の次元として生成するという事態である。それは、この<私>の<今-ここ>という固有な<次元/場>である。この同時性(の場)は超越論的な場と独在性の場を架橋していると同時に失敗している。これまで論じてきた動的循環構造の次元を意味の構造と等置した嘗ての「構造主義」は、まさに主義だったといえるだろう。レヴィ=ストロースとともに構造主義の祖とされたラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と語ったが、ごまかしのように見える「のように」の曖昧さは構造すなわち言語的意味的構造と勘違いしたその後の有象無象の「構造主義者」たちより遥かに慧眼だったことを示している。無論上記構造主義者は、「ポスト構造主義者」たちを含めている。つまりラカンはこの「すなわち」が決して成就しないこと、この「のように~されている」次元の極め難さの洞察を死ぬまで堅持していた。もっともラカン自身にも、実のところは何がそこで起きているのか皆目わからなかっただろうから、そのように錯誤的に受け取られるほかない言葉で語ったのも仕方がないかもしれない。つまり実践の場を離れた場合、彼自身が半ば以上構造すなわち言語的/意味的構造という錯誤に陥っていた。「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」の「として構造化」という動的な事態そのものは決して言語的意味的構造ではない。
[注15] 表記上の注記】で述べたように、記述記号ハイフン「-」は、この無内包の<働き Aktus>によって結合された<今>と<ここ>の不可分な無内包性を表現するものとして導入された。この<私>は、無内包の「この<私>の<今-ここ>」という<次元/場>に固有な形式で埋め込まれている。すなわち、この<私>と<今-ここ>は、この<私>の<今-ここ>という形式を持つ一つの<次元/場>を成している。ただし、今ここで私がこのように記述することにおいてすでに、「この」「の」といった記述が示す言語性の効果が、それ自身と無内包の<次元/場>との<隙間/裂け目>において働いている。
[注16] 2023年5月14日 さのたけと@taketo1024氏のツイートを転載する。
以下転載開始
複素数全体は、次のような対応で平面の回転拡大変換の全体と同型になる訳ですが: x + iy ↔︎ [x, -y; y, x] 複素数は実在しないとする立場の人は後者の変換も実在しないとするのか、あるいは同型対応によって「実在性」は保たれないとするのか、どちらなのでしょうね。
以上転載終了
 一見当然と思われるが、複素数全体あるいは複素平面の構成自体が回転拡大変換という操作の全体と同期していることが一つの謎あるいは驚きではないだろうか。この操作は連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線を引くこと>という<働き Aktus>と考えられるが、ではその操作はどこで行われているのか? その<次元/場>は、明らかにいかなる実在性の場でもない。この<私>は、<今-ここ>でのこの<私>の操作に一つの謎あるいは驚きを見る。「複素数も複素平面も実在する」とこの<私>はいえる。この<私>がそれら両者を同時に構成し実在させているからだ。哲学または形而上学の探究課題はその先にある。またはここからようやく始まる。解析学と幾何学の分岐と統合がなぜ可能なのか。または可能だったのか。なぜ無限遠点∞の追加による複素平面のさらなる拡張や極限操作が可能なのか。これらは未踏の哲学的形而上学的探究課題であり、その探究は少なくとも通常の実在性の場では行われないだろう。なお、リーマン球面(Riemann sphere)は、無限遠点∞を追加することにより複素平面を拡張したものである。リーマン空間上の曲線運動は、同時にリーマン空間自体の構成操作になる。
 これに関連して、2023年5月14日 谷口一平A.k.a.hani-an@Taroupho氏のツイートを転載する。
以下転載開始
哲学における「実在性」は、同型対応によっては保存されない。想像上の百ターレルと現実の百ターレルの間には同型対応が存在するが、前者は実在せず後者は実在する。
以上転載終了
 上記谷口氏が述べているのは、カント『純粋理性批判』におけるアンセルムスを源流とする「神の存在論的証明批判」すなわち「存在はあきらかにいかなるレアール/事象内容的な述語でもない」(B626)(現存在はいかなるレアリテート/事象内容性でもない)であるが、ここで問題になるのは、これら両者つまり想像上の百ターレルと現実の百ターレルの両者を同時に見渡せる場がもはや通常の実在性の場ではないということである。「同型対応の変換操作」がこの<私>によって行われるその場は、通常の実在性の場にはない。なお、『純粋理性批判』における神の現存在の存在論的証明批判を「汎通的に規定された最もレアールな存在者」としての「必然的存在者の現存在」証明批判として詳細かつ深く考察した以下の論文がある。
久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」(東京大学教養学部紀要『比較文化f研究』第八輯 1968年)『カント研究』創文社 1987年所収
 デカルトは『神の存在と魂の不滅を論証する第一哲学についての省察』(Meditationes de prima philosophia 1641) の『第三省察』において、単に「私の内」にある「神の観念」の「客観的な実在性が無限であると私が明晰かつ判明に知覚するということ」によって為される神の存在証明を行っている。以下その要点を述べる。以下の記述は、私の東京都立大学(当時)大学院在学時(1986年頃)に書かれ、当時の担当教官であった実川敏夫氏にデカルト『省察』原書購読ゼミ課題論文として提出されたものの結論部分である。一部加筆改訂を施したが、ほぼ当時の記述のままである。
以下転載開始
 「私の内」とは、それが「現在」という経験の場である限りにおいて、その経験(明晰判明な知覚)が無際限に反復され得る領域である。例えば、私がその確実性をその都度確信しつつ数を数えていくことが出来るのはこの領域においてである。だが、この現在の内に留まる限り、私はこの計算を導く何らかの演算規則が常に不変であることを真に確信することが出来ない。「私の内」に存在し得ないのはこの常に不変であることあるいは永遠である。だが、この常に不変であることあるいは永遠は、「私の外に在る」と言えるだろうか? 注目すべきことに、この点について、『省察』「第2答弁」において、デカルトは次のように述べている。
「そこで私は、私が何らかの任意の仕方でもって思考ないしは知性によって、私を超えている或る完全性に触れるという、単にそれだけのことから、すなわち、数を数えていくということを通じてすべての数の内最大の数に辿り着くことは私にはできないと認知し、かくてそのことから、数を数えるという視点において私の力を超え出る何ものかがあると気づくという、単にそれだけのことから、次のことが必然的に結論されると主張します。すなわちそれは、無限の数が存在するということではまったくなく、また無限の数が、(……)矛盾を含むということでもなくて、私が、私によっていつか思考されるであろういかなる数よりも一層大きな数が思考可能であると把握するそうした力を、私自身からではなくて、私よりも一層完全な《何か或るもの》から受け取ったということなのである、と」(Ch.Adam et P.Tannery. Tome VII. Vrin.1973. p139 AT版デカルト全集 1973年 139頁)
すなわち、デカルトによる神の存在論的証明とは、すでに概念化=言語化された《私》でも人格的な「私」でもなく、<今-ここ>で省察を遂行し省察とともに生成する<まさにこの私>が、ある絶対的な差異の知覚を、そしてそうした知覚を成し得る力を、「或る他のもの」から受け取った(与えられた)という絶対的な不可疑の経験の証言なのである。そこには、私に決定的に先立つ差異の受容あるいは触発があった。もし、この<私>が、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異を規定しようとするならば、この受容或いは触発の形を確定する必要があるだろう。それこそが、カントが『純粋理性批判』において遂行しようとしたことである。だが、この差異の常に確実な、あるいは不変の規定は、少なくとも「私の内」においては不可能であるだろう。そして「私の外」においても。この絶対的な差異は、或る他のものとの出逢いがそこで誕生する、「私の内」でも「私の外」でもない或る時空の彼方の場所で与えられる――すなわち、触れられる――のではないか。言い換えれば、それは、或る<他者>の誕生と共に、その都度やって来る一つの試練あるいは訓練として与えられる。それが一体「いつ」なのか、そして「どこ」なのか、私はそのことを知ることが決して出来ないのだとしても。
以上転載終了

【参考文献】

「規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学学位論文 1987年)
Kant.I Kritik der reinen Vernunft, Meiner, Hbg.
Kant's Briefwechsel, 1789-1794, Vol. 2 (Classic Reprint) , 2018
久保元彦『カント研究』創文社 1987年

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