自己の統合への問い――《国家=資本》補完システムとしての学術・哲学の限界地点へ
『現代思想』2022年7月号 特集=「加害者」を考える -臨床・司法・倫理-所収の小松原織香氏と森岡正博氏による巻頭討議は大変興味深く示唆的だった。特に「自己の統合」の可能性と不可能性を巡る対話。 この自己統合の可能性あるいは不可能性への「問い」が学術・哲学研究者によってはっきりと自覚されていることは殆ど無いだろう。
上記から転載
「森岡さんのおっしゃるところの「血塗られた次元」において、制度というのはそもそも無効(中略)ただ「私はそう思う」としか言えないような世界: 松原織香氏」
「もし仮に統合が生じうるとすれば、それは現在の学術のパラダイムが崩れるとき: 森岡正博氏」
以上転載終了
デカルト、ライプニッツ 、パスカル亡きあと哲学・学術は強固な国家システムに補完的に取り込まれた。先進国の住人ヒュームの「因果律批判」(「帰納」あるいは「時間」への根底的な問い)が齎した体制の危機に慌てて自ら前代未聞の「超越論的哲学」という国家補完システムを創出し手当てした後進国の住人カントは典型的である。「超越論的哲学」によってはじめて《我々=人間》が創出された。これこそが《我々=国民》の超越論的な根拠であり土台となる。端緒からカントの偉業を前提としてドイツ民族=ドイツ帝国システム自体を体現したヘーゲルのシステム補完的性格は言うまでもない。
「科学者」のアインシュタイン 、ハイゼンベルク 、シュレーディンガーの三者は明らかに哲学者でもあったが、国家と超多国籍資本が融合した《国家=資本》システムが遂行する「人類補完計画」に取り込まれたのかもしれない。
言うまでもないが(また学術・哲学 に限らないが)いったん国家のサブシステムになってしまえばシステムから離脱することはサブシステムとしては半永久的に不可能。まさに自己(の統合の可能性と不可能性)が問われる。
しかし現状の国家サブシステム化した学術・哲学システムを破壊再創造しない限り自己の統合は不可能であることへの上記対話の問いかけがこれ程稀有なのだから学術・哲学は国家システム(同時に超多国籍資本)に食い潰されて終焉するという予想が生まれる。
もはや国家と資本が活用し食い潰す余地が無くなった時点で資本(国家予算)流入はゼロになり消滅させられる。自分自身を誤魔化しながら永久に適応=隷属し続けるかどうかの死活的な選択だが殆ど無意識レベルに留まっているだろう。
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