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『ゼロ-アルファ――<出来事>のために』第一部断片22

この切り張り細工が上映された通称『マサミチ・トレーニング・ルーム』の白い壁に、いつしか不気味な落書きが浮かび上がる。

『――なぜなのかは分からないが、そしてそれが一体何なのかは結局分からないが、それは必ず追いかけてくる。変換してしまった記憶と身体。それを一体何と呼ぶべきだろうか? この仕組みに組み込まれている限り、逃げ場はないのだ。この《変換跡地界隈》において、不可解なことに増殖するウイルスと放射能が到るところで「目に見えるものになった」とささやかれるのは偶然ではない。果てのない汚染/感染の疑惑が広がる。そして徴候と錯乱の織り成す近づき難い記憶の光景。その仕組みとは、例えばこうだ。錯綜/錯乱する記憶を織り成す網の目は、そこで放射能やウイルスが〈現実に〉活動するであろう領域と、もはやどんな《隙間/裂け目》によっても区別できない。この《変換跡地界隈》においては、記憶と現実を区別するあらゆる方法を(恐らくは占領されたあの〈公会堂〉の暗黙の代理人たちによって)奪われているのである。《我々》の生存は、この《隙間/裂け目》の剥奪によって生産されているのだ。こうして記憶の汚染/感染が進む……。』

落日の訪れ。マサミチ・トレーニング・ルームの扉が、黄昏の静寂とともに今ようやく閉じられる。なぜなら、振り向けば、引き出しの付いたミロの親回路がついに華々しく瞬間退屈蒸発。いわば自爆である。それとともに、マサミチ・トレーニング・ルームも見事に超-溶融陥没。ゲーム・センター『正道』に短いながらもその生涯を捧げ尽くした若女将お千代も今はいない……。奇跡/軌跡のマサミチ・ゲーム・オーバー。(皮肉なことに、お千代はつい二週間前別れた夫留吉との間にもうけ、有無を言わさず引き取った生後三ヶ月の娘お正を、今朝この『運命の神殿幼稚園』に入園させたばかりだったのだ。) だが、なぜかミロの親回路の無数の引き出しだけは、園児たちのお茶目な笑顔に見送られながらいつまでも熱い情念の火花を贈り与えていた。火花、あるいは炎のダンス。なぜなら、可愛い園児たちを次の引き出しが待っているのだ。――耳を澄ますと、あのなつかしい『ミロの引き出しの歌』が聞こえてくる。

ミロの引き出しの歌
『浜辺に一人の測量師が流れ着いた。彼はこの《最後の街》の測量を始める。それは巨大な重力との戦いだ。もはや、誰一人それを支えることはできない。《我々》は、このまま滅び去るのか? それとも?』

【光景-2:もう一つのアンチ・ファイリング・ノート ――互いに交錯する記憶の断層で、コントロール不可能なものが《我々》の自由へと問いかけの矢を放つ】

〈私〉は『運命の神殿幼稚園のコロニー・玉屋・ベイ・ゴー・ゴー分校』の来客用控え室にいる。(ちなみにこの分校は、つい最近全宇宙的な規模の債務を抱えて潰れた伝統ある老舗『玉屋』の主人留吉が、第三セクター方式の老舗ネットワーク『完全な絶望』を介して奇跡/軌跡的に超安値で偽装売却した不動産をリフォームしたもので、今や誰の目にも明らかに絶望的と言えるこの状況の中でのほとんど唯一の希望の星として『超不良不動産リサイクル・モデル校』に指定されている。) ところで、この老舗ネットワーク『完全な絶望』は、そのあからさまな名称によってお分かりの様にきわめていい加減なもので、全宇宙的規模の超不良金融ネットワーク『ハラス商会』のいわば寄生虫頭である。とは言え、実のところ『完全な絶望』は、同商会が全宇宙的な規模で経営する無数の豚小屋[通称『ハラス事務所』]の内のたった一つをゴミ同然の超不良債権の気休め担保にして無限連鎖疑似レンタルしているに過ぎないのである。すなわち、この『コロニー・玉屋・ベイ・
ゴー・ゴー分校』は、何のことはない、実のところもはや存在しているともいないとも言えない『ハラス事務所』の一つに過ぎないことになる。言うまでもないが、全宇宙的な規模の玉屋の債務のその後を知っている者は全宇宙に一人としていない。

ふと振り向くと、『コロニー・玉屋・ベイ・ゴー・ゴー分校』の来客用控え室にあのいたいけなお正がやって来て、『最年少さん組専用標本訓練の輪』の内側にちょこんと座った。すでに勢ぞろいの皆の注目を一身に浴びたお正が世慣れた仕草で訓練管理回路のレッスン・ディスプレー『玉屋の歩み』を目覚めさせると、なぜかいつになくブルー・ベルベットの『玉屋ハット』をかぶった回路専属キャラクター『ロング・アイランド旧暦1982の夜もいつしか更けて』がしゃべり始める。

『――特に、共同体の各成員がみな同じ答えを出し、かつそれに固執するならば、誰もその答を訂正することは出来ない。仮定により、共同体の各成員はみな同じ答えを出すのであるから、その共同体の内部には、訂正者はあり得ないのである。また、もし訂正者がその共同体の外部にいるとすれば、ウィトゲンシュタインの見解によれば、彼は何らかの訂正をする「権利」を有しないのである。一体、我々がみな一致して出す答えが「正しい」か否かを疑うということに、何らかの意味があるのであろうか。(………)

共同体の成員達がお互いに訂正するように、ある個人が自分自身を訂正することがあるのであろうか。(……)結局のところ、事柄がどういう結末になるかという事は彼の意志のみに依存するとしても、人は単に幾つかの相矛盾する、野蛮な傾向性を持っているだけかも知れないのである。この状況は、共同体の場合に対しては類似していない。なぜなら、共同体においては、個々人はそれぞれ独自の意志を有しているが、ある人がその共同体に受け入れられたならば、人々は彼の反応に信頼することが出来ると判断するのであるから。

ところが、個人の自分自身に対する関係においては、この様な信頼は存在しないのである。

――― ソ-ル A・クリプキ


以上の作品のオリジナルは90年代に書かれた散文草稿『ゼロ-アルファーー<出来事>のために』の一断片である(一部改訂)。



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