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「数字と向き合った日々」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』 より

 夫の転勤で二十年近く九州や北海道と炭鉱町を巡り、漸く東京本社に戻った時、私は五十歳に間もなく手が届く年齢になっていた。

 社宅から社宅へと何回もの引越し、子供たちの受験、夫の単身赴任など、本当にあっという間に過ぎた日々だった。東京を出る時、まだ幼稚園年少組と、二歳をちょっと過ぎたばかりだった娘たちは、すでに大学生となり千葉市内に下宿していた。九州で生まれた末っ子の一人息子も、もう中学生だった。 

 帰京後、家族がそろって住み始めた社宅はマンションの三階で、それまでの田舎町では見たこともなかった文化的な施設が整っていた。最初、瞬間湯沸かし器の操作がわからず慌てたり、近くの大きなスーパーに始めて買い物に行った時には、品物の豊富さに驚いたりした。毎日の生活が格段に便利になって来て、どうやら、快適な都会生活が送れそうな予感もして来た。

 だが、そんな街での暮らしにもだんだん慣れて来た頃、私の胸の中には、小さな空洞がぽっかり開いてきた。家族がみな会社や学校に出た後、私はいつも一人。もともと人付き合いは苦手だったが、あまりに社会との接点の無い生活、コンクリートの壁に囲まれた生活に、私はなにか空しさを感じずにはいられなかった。今のように公民館などでいろいろの講座などがある時代でもなかった。胸の中に次第に大きくなっていく空洞を埋めることが出来なかった。今から思えばたいした悩みでも無かったと言えるが、当時は真剣に悩んでいた。

 おおげさに言えば、ただ自分が生きる意味を掴みたかったということだったろう。このまま一生を終わるのだろうかという漠然とした不安感にも襲われた。

 幸い子供たちは大きくなり私の手を離れていた。田舎の社宅街での人間関係の煩わしさからも解放されていた。私は一度働きに出てみようと決心した。

 結婚後は全くの専業主婦で、しかも五十歳近い自分がいきなり職を見つけることは、至難の業と覚悟して仕事を探し始めた。私は九州時代、子育ての傍ら一年間通信教育で勉強し、複式簿記二級の資格を取っていた。しかし、夫の転勤による慣れない土地での生活が続き、なかなかそれを生かすことはできなかった。

 帰京してはじめて、就職活動を始めた時、こんなに早く職が見つかるとは思っていなかったが、暫くしてある中小企業の経理係として職を得ることが出来た。雇用情勢が良い時代だったのも幸いだった。

 私は熱心に仕事に励んだ。だんだん面白くなってきて、毎日出勤するのが楽しくなってきた。朝、急いで家事を片付け電車に飛び乗った。娘時代以来久しぶりの通勤生活。混んだ車内も新鮮な刺激と受け取れた。

 複式簿記の仕事は私に向いていた。学校時代から数学が好きな学科だったからか、事務机に向かって計算機片手に数字を扱うことがなんら苦にはならなかった。帳簿付けなど面倒と嫌う人が多いと思うが、私はそれが楽しかった。少し変わった人間だったのだろう。

 どうしてこんなに複式簿記が好きだったのだろうか。今、思うと、それは複式簿記の「均衡の美」に強く惹かれていたからだと思う。この均衡の美とは、帳簿とか表の、左と右の金額がぴたっと一致して美しい平均を保つことをいう。何百万と、どんなに大きな数字でもどこかでたった一円でもミスがあれば、其の均衡はすぐさま失われる。会計帳簿の左と右、つまり借方と貸方の数値の正確な一致が絶対の条件である。もし合わないときは、どこかに間違いがある証拠と私は懸命に原因を探した。帳簿の隅から隅まで調べる。面倒な仕事だったが、嫌だとは少しも思わなかった。不一致の原因が分かって、左右ぴたりと一致し、帳簿や表が美しい均衡を再び取り戻した時は、満足感でいっぱいだった。そのために、記帳、計算、転記などに常に細心の注意が必要だと毎日肝に銘じて仕事をした。経理の仕事には一円のミスも許されないと、かつて上司に言われたこともある。

 この仕事は天性私に向いていると思った。そういえば、女学校時代、数学、特に幾何が好きだったことも、これと合い通じているように思う。簿記で均衡の美を追求することも、幾何で正確な「証明」を考えることも、私にとっては同じことだった。何れもきちんとした結果を出すことが必要だったからである。またそれが出たときの喜びも同じだった。

 今でも学校で幾何という科目があるのか、私は知らない。でも戦時中、私はH先生という背の高い男性教師にそれを教わった。勤労動員の合間の短い時間だったが、まるでパズルでも解くように、幾何のさまざまな問題の証明を考えるのはとても楽しかった。戦後何年か経ってクラス会が開かれ、先生の元気な姿に再会できた時は嬉しかった。先生が兵隊に取られたという噂があったからである。今でもそのときの写真が残っている。若かりし時の私自身の面影も一緒に。

 夫の仕事の関係で埼玉に引っ越すまで、この職場で足掛け五年近く働いた。その間、さまざまな人生勉強も経験した。お金を得ることの大変さ、男性社員が家族のためにどれほど苦労して働いているか、上司や同僚との人間関係の難しさなどなど。でも仲の良い友人と出会えた。それらの人々は今、どうしているだろうか。

 長いようで、短くもあったこれらの日々。充実してはいたが、さまざまな苦労もあった。そんな時職場の自席の前に坐るとまた元気が出た。そういえばあの席は上司の謹厳課長のまん前だった。

 あれから二十数年の月日が過ぎ去った。好きな数字と向き合った日々の思い出は、多くがすでに遠い霧の中に、うっすらとその姿を残すのみになった。今では一場の夢といった思いもする今日この頃である。          

二〇〇六年二月一八日 執筆


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