<教育>の場を造型する実践プログラムへの序論――線を引くこと 『グローバル化とアイデンティテイ・クライシス』 by 宮永 国子(編著) 所収論文 概要
本論は、グローバル化における<教育>の場の造型をテーマとする。本論において、グローバル化は、資本主義世界市場の普遍化という事態から波及する諸事象の生成場面と定義される。また、<教育>の場とは、批判的な自己形成過程の場を意味する。ここで批判的とは、他者との関係において相互的であり、かつ他者とのやり取りにおいて不可避で創造的な危機をはらむということである。
人は、この私が他者と応答し合うその時と場所が持続している限り、容易には死ねない。たとえその他者の言葉が、この私を突き放し続けるものとして経験されたとしても、この私への他者の構えがその都度真剣なものであり、他者に応答するこの私の構えがわずかでも残っている限りにおいて、その構えは、根源的には受容の構えであり得る。そして、この受容の構えは、同時に、他者に対して応答し得ることという根源的な意味における責任の構えでもある。重要なことは、他者に対するこの受容と責任が、この私との関係における他者を持ちこたえさせ、他者の生存を立て直すという、他者に対する支持機能を持っていることである。批判の持つこうした他者との関係における相互性は、互いに互いにとっての他者を排除ないしは抹消しないという我々の現実の構えを、それ自身の存立条件としているのである。先に述べた、根源的には受容の構えであり得るという表現は、このことに根拠を持っている。
本論は、グローバル化における<教育>の場を造型する実践プログラムへの序論として位置づけられる。プログラムの鍵となる概念は、この私と他者が、多様な場と実践を、呼びかけと応答の時空の創造において結びつけることである。本論では、この概念を、<線を引くこと>と呼ぶ。
以上の記述を踏まえて、本論では、1でカントにおける批判の一断面を抽出しながら他者の不可避性をテーマ化し、2でグローバル化における自己と他者の統御装置について論じる。最後に3では、<線を引くこと>の実践プログラムを、職業的教員としての筆者自身の教育現場における実践をモデルとして提示する。
超越論的図式の働きとは、この私の経験が現実化するその都度の過程であり、あくまでも現実の他者と関わるその都度の実践の力に他ならない。<線をひくこと>を支え、同時にこの私の痛みがこの私にとって痛みであることを支えている自分の身体は、それが自分の身体であり得るためには、他者の身体へと向けられた他者への呼びかけを必要とする。そして、その呼びかけと同時に、その他者もまたこの私への呼びかけの過程へと包み込まれ、他者を介した自己触発の過程という持続を孕んだ自分の身体を獲得することが可能になる。カントの批判において、我々の経験世界の可能性を究極的に支え、担うのは「統制的原理の図式」[678/706,699/727,usw.]、すなわち理念である。批判においては、この私の痛みがこの私にとって痛みであるために不可避な理念かつ現実の存在として他者が導入される。この私が私自身の痛みに気づくために不可欠な<線を引くこと>という働きは、まさにこの私の自己が向き合う他者へと向けられた<線を引くこと>の実践なのである。
我々にとって見えも聴こえもしない場所へと我々によっていわば埋葬された、あるいは埋葬され続けている者たちの叫びに応えることが、この私への試練として求められている。我々が呼びかけられるとすれば、そして我々が呼びかけ、応答する必要があるのは、この我々にとっての危機的な他者である。もしどこかに民主主義(的公共性の主体)と呼ばれる何かがあり得るとするなら、そのどこかとは、まさにこの応答と呼びかけの試練のただなかでしかない。だとすれば、<線を引くこと>とは、その何かに出会い、呼びかけに応える危機的な場面で、あらゆる困難の克服を賭けて、多様な線どうしの予期し得ない出会いの時空を創造しようとする終わりなき実践である。それは同時に、この私の自己と他者を奪還=創造する実践でもある。