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『マインドフルネスの背後にあるもの (存在神秘の覚醒をめぐるクロストーク) 』by 古東哲明 藤田一照 熊野宏昭 レビュー

初稿2019年3月8日


ティク・ナット・ハン、澤木興道、内山興正、鈴木俊隆


「涅槃は、探し求めるものではない。なぜなら、涅槃は私たち自身だからである。波がすでに水であるように──。波に、水を探す必要はない。波は水そのものなのだから。」

 「目覚めることが重要です。爆弾のありよう、不正義のありよう、兵器のありよう、私たち自身の存在のありようが、不可分です。これが行動する仏教の真の意味です。(略)私たちの日常生活、ものの飲み方、何を食べるかが、世界の政治状況と関わっているはずです。」

 ――ティク・ナット・ハンの言葉

 

「修行の目的とは何か――毎日が初めてというこの限りない人生に、仏祖の教えによって自己を発明する。この無限に限りはない。そこにおいて前例のない自己を発明するのが工夫である。

 「仏道とは何か?――仏に成ることだ」――そんなことはウソじゃ。仏道とは、仏道をただ行ずることである。修行してさとりをひらくのではなく、「修行」がさとりなのである。」

 「変わりづめの自己、そのときそのときが完全である。これが絵に描いたようなものであればよいけれども、水に映った月である。動きづめで瞬間ぎりしかない真実である。それで取りそこないがちである。その瞬間が一遍ポッキリの我らの人生、絶体絶命、今日ぎりの一遍ポッキリ。その瞬間を取りそこなったら、一生のお終いである。明日まで生きてるかどうか分からぬ。昨日はどこへ行ったか分からぬ。今日本当のことをやる。骨身に応えて足大地を踏まなければならぬ。」

 「無我なら芝居の役割と同じこと、何でもええ。その割り当てられた役で自己を発明する。その割り当てられた役目を妄想なく、ただそれに成りきる。堂頭は堂頭に成りきる、小僧は小僧に成りきる。これを自己に親しむという。」

「自分が死ぬと世界が死に、世界が滅する。オレが生まれたときにこの世界が生まれたのだ。するとお前が死んでもまだこの世界は残っているのではないかという。いや、オレの分はもう死んだというのだね。つまり人人(にんにん)はそのままで何の不足もない完全無欠なものである。」

 「われわれは手もと足もと三尺の所で働いておるが、しかも尽天尽地に働いておるのである。雀が空を飛ぶのでさえも空の全分(ママ)を飛ぶのである。これを現成公案 という。きわまりのない空間、きわまりないのない時間を、今ここで生きるのである。」

「魚が「水を全部泳いでしまった」ということはない。また鳥が「もう空を飛んでしまった」ということもない。しかし魚は水の全部を泳ぎ、鳥は空の全部を飛ぶ。めだかでも、鯨でも水の全体を泳いでおるーー容積の問題ではなく、質の問題である。」

――澤木興道の言葉



「「仏性」とは刻々に自己自身が行じていく動詞的なもの(…‥)いまここ自らが自らを行ずる道」

 ――内山興正の言葉

 
「心の平静さは吐く息が終わったその向こうにある。だから、あなたがただ滑らかに息を吐いていくとき、あなたは心の完全で完璧な平静さの中に入りつつある。」

 ――鈴木俊隆の言葉


澤木興道が「自己の発明」を語るのは、あらゆる刹那=瞬間が始まりも終わりもない『自己=存在=時間=行』の「起滅」としてあるという彼自身が体得した実践の型に由来している。

「終極地点」という言葉とパラダイム――「マインドフルネス」と区別された「心身脱落(向こうへの渡岸)」という解釈は誤り

 

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