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母の身体の傍らで新しい時が流れる

母と配偶者の永澤 卓美 この頃には既に長らく自分で身体を動かすことができなくなっていた。



はじまり


 それは、母の身体の傍らで流れ始めた、新しい時の始まりだった。

  母の身体の力が次第に弱っていくのが感じられる。母の眠りの訪れは、その始まりが定かではなく、始まりと終わりの区別も失われ、目覚めの時と眠りの時との違いがよくわからない。横たわり眠りについていくその時間はいつまでも引き伸ばされ、流れる大気のように持続している。いまこのとき母は眠りについているのか?

 日々の生活のあれこれの出来事、自分自身の行為であるはずのこと、それが現実なのか幻なのかよくわからなくなった。それが母の口癖になった。私たちの眼には、自身の記憶が現実と幻のどちらなのかとこだわるそのことが、さほどの混乱とは見えなかったのだが。

 彼女はその身体で現実と幻との曖昧な境界を経験しているのだろうか? むしろ彼女の記憶は鮮明なのではないのか? 彼女が最も情熱を傾けて、記憶の力がほとばしるままに書き続けていたあの頃のように。確かに私はこのことを経験しているというその鮮明な経験を彼女は問い詰めている。

 母は昨日久しぶりに孫たちに会って楽しそうだった。唐突に歌も歌ったくらいだ。私は母が書き留めたその歌を母が歌うのを初めて聞いた。母が老いてからは歌声の記憶はほとんどなかったのだが、その歌はとても悲しいものだった。それ以上に悲しい歌は思いつけないほどに。

「母ちゃんご覧よ、向こうから、父ちゃんによく似た小父さんが、たくさん、たくさん歩いてる。若しや、坊やの父ちゃんが、帰って来たのじゃあるまいか。よってば、よってば、よう、母ちゃん」

「また、母ちゃんを泣かせるの。父ちゃんはね、ようお聞き。今度の旅順の戦いに、名誉の戦死を遂げられて、今じゃ、あのような仏壇に、位牌とおなりになったのよ」

「だって座敷のお位牌は、何にも物を言わないで、坊やを抱いてもくれないの。本当坊やの父ちゃんを、連れて帰ってちょうだいな……」 

 この子どもにはわかっている。何にも物を言わないで、坊やを抱いてもくれない座敷の位牌は本当は坊やの父ちゃんではないことが。そしてもちろん、母もその子どもと母親の気持ちがよくわかっていた。自らの戦争の記憶と重ね合わせながら。私はそう感じるほかなかった。それほどまでに、もういつの日か思い出せない昔の歌声と比べるなら実にか細い母の歌声が、子どもとその母との悲しみを私たちが呼吸する大気に浸透させていた。母のその歌声は坊やの父ちゃんを希求するあの子どもの声そのものになったかのようだ。

 私たちのいる部屋に、あの子どもの小さな魂と身体が渾然となった言葉が母の身体から歌声となってあふれ出た。子どもはもうここにはいない。そしてその母親も。しかし二人は今ここに生きているかのようだった。もはや失われた、母と子の歌の交換がそこで生まれたあの遠い日のように。

 母の身体が私の身体に触れようとするとき、私がそれに気づくのはいつもすでに遅い。私と母の知らないある場所で、それはすでに起こってしまっているのだから。私と母は、そこでともに生きている。



父の法事にて 母と私の甥(母の孫)呉 悠司 千葉県佐原市(現香取市佐原)



 (2013/10/21-10/23)



 母が横たわる病室で、そのとき私は母を呼んだ。それは母の名だったのか。それともいまだ言葉にならない声だったのか。どちらであっても、いまだ言葉にならない声であっても、私は母の名を呼んだに違いない。それが母に届いたのかどうか。

 母の心と身体に、私の指先が、眼差しが、触れるより前に。ベッドに横たわった母の身体。瞳 唇 掌 髪 手足 そしてその皮膚──それらすべてで、どこかに、いやいたるところに母の応答はあった。私はそれを感じ取ればいいだけだった。たとえそのときではなくても。母は横たわっていた。その身体を、動かすことはできなかった。

 母の心が静まりかえっていたということではない。ちょうど四年前に死別した夫がいないことの寂しさと悲しみで涙を溢れさせて泣いたり、泣きながらも「これが踏ん張りどころだからこれから気を強くして頑張る」と言葉にしたりした。そのときの私にとって、母の言葉と身体は別のものではなかった。

 (2013/10/28-11/01)



 母の身体はとても小さくなった。それはいつからだろうか。もう思い出せない。それとも思い出せないほど昔というのではなく、もしかするとそれは、今もすぐそこにある時の流れのなかの出来事だったのかもしれない。あるいは遠く過ぎ去った日々のことだったのか。

 昨日母が入院して初めて、二人の姉たちとともに母の車椅子を押して病棟の外に出た。病院の敷地の外れにあるあずまやまで私は母の車椅子を押していった。母にとっては二週間ぶりに外の大気にその身体を委ねることのできたひとときだった。

 あずまやに着くと、急に母は泣き出した。久しぶりに病棟の外に出ることができたことが、それほど嬉しかったのだろう。私と姉たちはそう思った。だがそのとき母の発した言葉は私たちを驚かせた。

母はそのとき、

「感動したの あなたたちのその行為に」
と言ったのだった。

 私たちは、母の身体が全身でなにかを感じたそのときに発せられたこの言葉を、母の身体とともにやはり全身で感じた。

 (2013/11/05-11/07)





「よくもこれほどひどい骨折をしましたねえ」

 大腿骨骨折から三週間近くたったとき、ホチキス様のものを抜き取る抜鉤の際に主治医が母に言った言葉だ。ばら撒かれた金属の砕片の痕跡のような痛みが母の身体のなかで持続していた。

 螺旋状に捻じれて骨が複雑に砕け折れる困難な骨折だったが、辛うじて治療不可能な状態にまで行き着かなかったのは不幸中の幸いだった。

 それがいつなのかはわからないが、いつ頃かまでは、このような場合なら手術は不可能でそのまま寝たきりになり、心身の機能は衰弱を続け、避けがたい死へと真っ直ぐに向かうほかなかっただろう。なかなか動かすことができずに爛れ崩れていく皮膚と肉と骨の塊を祈りながら見守り続ける家族がいたとしても。

 毎日四回のリハビリで全身の力を振り絞り身体を動かすたびに、母の身体は内側から疲労の波に浸されていった。リハビリを終えた後の疲れで、どうしても眠りがちになり母は目を閉じる。だが眠り過ぎれば心身の機能は解体と消失へと向かう。

 私と妻が病室に来たときに、その気配を感じた母がその瞼を開き、私たちを見つめた。まだ言葉のない束の間の、その部屋の静けさに包みこまれた母の表情のわずかな動きが私たちをとらえ、微笑へとすばやく、ゆるやかに移っていった。 


(2013/11/11-11/22)



 縦横12×8全部で96文字書くことができる桝目の集合で構成されたノートの一頁を使って、毎日決まった時間に何かを書くという生活リハビリを母がしていたのは、昨日のことだった。私がそのノートに母が書くのを見るのは二度目だったのだが、母はその二日とも、そして日付が書かれたノートの他の頁を見ると毎日ノートのほぼ一頁分を埋めていた。

 母がそのリハビリを行うのは、片足で20秒立つことを三回行うといった、初めのころは母にとってはかなりつらい、だが今はようやくそのつらさが和らいできたリハビリを終えたあとのことだった。

 そのとき母が書いていた文章は、かつて母が書いたエッセイの原石のようなものだった。そこで繰り返されたのは、母のエッセイで深く掘り下げられた母の父親の思い出だ。

 父の思い出は、父がまだ若い頃、そして母がまだ若い娘の頃の「戦後、ようやく平和になったと思ったのも束の間、父はその年の秋、脳溢血で倒れ、わずか三日の後亡くなってしまった」(母のエッセイ「父」より)という消すことのできない出来事の周りを旋回し続けていた。

 その出来事は事実として消すことができないばかりではなかった。それはそこを突き破ればもはや限界のない現実そのものしか待っていないような何かなのだった。

 その父の思い出が、母の書く文字として刻まれるたびに、母の眠りは妨げられた。だが母の感情は凍り付いてはいなかった。父の思い出を語るとき、母の眼からは涙が流れた。

 (2013/11/25-11/28)




 また次の日に、私は母が言葉を発するリハビリを行うのを見た。私と話しているときの母は、あまり聞こえない片方の耳のために時々私の声を聴き取ることができず、会話が途切れることがあったのだが、言葉を発することにさほどの困難を感じてはいなかった。  

 ごく近くにいる私や姉たちや看護スタッフとの会話ができれば、片方の耳であまり聞くことができないということは、母の心を煩わせることはなかった。私たちは静かに会話を楽しんだ。発声の際、以前のように舌を造作なく使うことはできなかったが、うまく舌を使って発声できないことは、母の照れ笑いを誘い出した。

  ふと気づくとそこに生まれていた母の笑いに、以前できていたことができないことが必ずしも母の気持ちを沈み込ませてはいないのを感じた。私は少し安心した。私は母の笑いに微笑みを返した。そこに応答が生まれればそれでよかった。

 一度生まれたその流れは、いつかどこかの時と場所で、いつまでもそしてどこまでも生き続ける。


 (2013/12/4-12/30 )




 
  今日妻からこんなメールが来た。

 「もう夕飯の支度とかあるけど大丈夫かしら、あまり遅くならないうちに。」みたいなこと、ぜんぜん変な雰囲気ではなく、春ちゃん(私の母永澤 春榮のこと)から切り出して。「はい、うんじゃあ。」と、すぐタイミング逃さず。静かにそのまま帰ろうとしたら、手を握ろうとしたから、別に拒んだりしないで指握手してきたよ。多分、春ちゃん平気だと思うけど。「生きててもお荷物になるのもやだから死のうとしなくてもいいよ。」と相手から言われるのも大事。というところが、ポイントなのかと思った。あまりポジティブすぎるのも、心理的に負担かと思ったんだけど。優しさ担当は、まもちゃん(私永澤 護のこと)でいいよ。心配させてごめんね。

 

 母の記憶(写真)



 





母と私の姉 呉 由記子





母と父永澤 意久雄の遺影 母の誕生祝 料亭にて 




肺炎による入退院を経て老人ホームに入居したばかりの頃




大腿骨骨折による入院退院を経て入居したサービス付き高齢者住宅にて




永澤 春榮著  永澤 護編著  私家版(Kindle版増補版)『戦争、そして今ーーあの日々を、一人の女性が生きぬいた』 竹林 卓氏の尽力により完成した。


 母は、2013年10月14日に転倒し右大腿骨頚部外側骨折により入院し、翌1月11日の退院を目指して毎日四回のリハビリに励んでいたが、その後サービス付き高齢者住宅・老人ホームでの生活を経て、平成30年(2018年)3月7日に享年91歳で永眠した(大正15年1926年4月20日生まれ)。最晩年の数年は、意識は保たれていたが自分で身体を動かすことも話すことも物をつかむことも粘性の高いものでなければ飲み下すこともできない状態が続いた。

 私の妻は最後まで喋ることができなくなった母に語りかけていた。私は死に際に間に合わなかった。それでも、母の心は母が生きていたその場所にあり続けたに違いない。







 母には、戦争末期一人で学校疎開先から家族の疎開先へと向かった経験がある。母はその経験を「学校疎開」というエッセイに書き留めている。(母のエッセイ『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた私家版=Kindle版の増補版に所収) 以下は、そのエッセイで記録された母の実経験をもとに創作した私の詩作品である。


詩作品 学校疎開



辿り着けるかどうか 未知の帰還


この国に敗戦が迫っていたあのとき 

地上軍の上陸後に東京が戦場となってしまえば

この国はそのことによって分断され

そのとき愛する者たちが東京を挟んで分かれて住んでいたなら

二度と生きて会えなくなると思われた

 半永久的な別れの予感が切迫していた

だがそれは予感という言葉を超えでた

圧倒的な

いてもたってもいられないほどの力だった

東京が地上戦に巻き込まれることで

東からそこを通りぬけて西へと辿り着くことも

西からそこを通りぬけて東へと辿り着くことも

不可能となり

力尽きてしまうに違いないと思われた

私は山梨に学校疎開していた

父母弟妹たちは南那須の一寒村に疎開していた

米軍の本土上陸も間近だと噂されていた

今を逃せばもう二度と家族には会えない

学友たちが迎えに来た家族と次々と家路へと向かう中で

私には誰も迎えに来なかった

もうこれ以上待つことはできなかった

私は一人で家族の元へ向かう決心をした

 ある朝 

私は誰にも告げず宿舎を後にして 

朝霧の中一人で歩き続けた

何とか汽車に乗り

米軍の攻撃の中止まった列車を降り

どこかの小さな駅で野宿し

汽車を乗り継ぎ歩き続けようやく父母の所に辿り着いた

 

父と母 弟妹たちに生きて会えた



附記 母のエッセイと「まえがき」


 以下に、母のエッセイ集『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』から、作品「母と歩んだ日々」および私が編著者として寄せた「まえがき」を転載する。


以下転載開始

母と歩んだ日々 永澤春榮


 敗戦後、母とたびたび食料の買出しに行った。そのころ、配給制度などあってないようなもので、飢えた人々は皆リュックサックを背負って農家を訪ね、なけなしの衣料などと引き換えにさつま芋、野菜その他の食料を手に入れた。米は統制品で、帰りの駅には経済警察官らしい人が見張っていた。捕まるのが怖くてホームの上を走って逃げたこともある。

 私の嫁入り用にと母が少しずつ準備してくれていた和服も、この時、農家の手に渡ってしまった。あの着物は、どこの何方が身にまとったのだろうか。知るよしもない。生きるために必死だったから、着物どころではなかった。惜しいとは少しも思わなかった。

 都会では数多くの人が焼け出され、空腹に喘いでいた。戦中・戦後のあの時代、農家の人々も様々なご苦労があったと思う。でも都会に暮らす人達の困難は並大抵ではなかった。

 買出しの行き先は、いつもは戦時中疎開していた南那須の農村だった。ある日の朝、母は突然房総の海に行くと言い出した。
「どうして海になんか行くの。知り合いの人も一人もいない所なのに。食べ物が手に入るとは思えないけれど……」

 思わず問いかけたが、母は黙っていた。そこは今でこそ賑やかな海水浴場になっているが、当時はうら寂しい漁村だった。海岸に二人で立った時、あたりには人ひとりいなくて、眼前にはただ晩秋の暗い海が一面に広がっているだけだった。

 その頃、我が家は戦争の影響で苦しい日々を過ごしていた。父は以前から血圧が高かったが、戦争中の、しかも医者も不在で薬もないという山の中の疎開先で、良い手当ての方法などなかった。終戦の年の秋半ば帰京して間もなく脳出血で急死した。まだ五十六歳という若さだった。

 音楽学校のピアノ科に入学したばかりの妹は、もともと丈夫なほうではなかったが、たぶん戦争中の食料不足や、勤労動員の過労などで健康を損なったのだろう。父の葬式後まもなく結核と診断され、療養所に入所した。やむなく私は当時通っていた専門学校を中退した。そこは五年制の学校で、ようやく一年すこし通っただけだった。あと四年近くも父の無い私が、学業を続けられるという状況ではなかった。まして病気の妹や年少の弟がいたのだから。

 池袋の焼け跡に、いち早く開校していたタイピスト養成学校に、中野の自宅から毎日通った。人より三十分早く登校し懸命に練習した。修了後、学校から推薦され、英文タイピストとして米軍基地に生きる糧を得た。初出勤の朝、母が仏壇の父の位牌にじっと手を合わせていたことを思い出す。
 ここで四、五年働いた。考えてみれば、あの基地での頃が、年齢的に見て私の青春時代だったといえるかもしれない。けれど、なんと暗く陰鬱な日々だったことだろう。家のこと、妹のことなどが、いつも私の気持を暗く塞いでいて心が晴れることがなかった。

 けれど、そんな私にも楽しかった思い出がまったくなかったわけではない。基地での同僚の女性と打ち解けて交際することが出来た。二歳年上の人だったが、今でも顔もはっきりと覚えている。眼鏡をかけたとても聡明そうな人だった。昼休み、いっしょにイタリア民謡の『サンタ・ルチア』や、グノーの『アヴェ・マリア』などの美しい歌曲を歌ったりした。私はその頃このような歌がとても好きだった。

 一時期、日本人従業員のために、寄宿舎が建てられたことがあった。簡易プレハブのようなものだったが、私は入居の許可を得て、この女性と一室で共同生活をした。いっしょに炊事をしたり、本を読みあったり、夜遅くまで未来の夢を語り合ったり。短い期間だったが、懐かしく思い出す。私の青春時代唯一の心温もる日々だった。

 当時、日本人従業員全体の支配人にSさんという日本人男性がいた。まだ四十歳代のやる気のある人だった。この人の発案だと思うが、基地の一隅に屋根だけある小屋が建てられた。小屋の隅には巨大な釜が、二、三個備え付けられ、毎日昼前になると、その中でなにかがぐらぐらと煮込まれる。中にはチューインガム、ケーキ、チョコレート、牛肉、野菜など、ありとあらゆる食べ物のかけらが将にぶち込まれていた。この正体はなにか。米軍兵士達の大量の残飯である。

 今、聞いても信じられないだろう。でもお弁当も満足に持ってこられなかったあの頃、このあつあつの雑炊は日本人従業員達の飢えをすこしでも和らげる貴重な栄養源となった。こんな酷い食料不足の時代が、五、六十年前の日本に存在していたなどと聞いたら、それこそ今の若い人など「ウッソー」と笑うかもしれない。

 日本人のメンツも捨てて米軍当局と交渉したSさんは、努力の甲斐あって見事残飯払い下げに成功し、私たちを救ってくれた。こういう飢えた日本人たちが、その後不死鳥のように甦り、戦後日本の目覚しい復興を成し遂げたのだと思うと、同じ時代を生きた人間の一人として胸が熱くなる。

 戦前、父が東京都内に持っていた何軒かの家作は、空襲で跡形もなく焼け落ち、我が家には当時住んでいた東京中野の家だけが残っていた。この家が残っただけでも運が良かったと言えるかもしれないが。

 母は一家の生活をどうするか、ずいぶん思い悩んだことと思う。だがその頃、米軍の英文タイピストは比較的給料が良く、私も少しは母の重荷を背負えたのではないだろうか。其の時はそんな自覚はまったくなかったけれど。給料日にはいつも袋ごと母に渡していた。その中からお小遣いをいくら貰っていたのか、今はまったく思い出せない。もっとも当時の私はお小遣いなどほとんど必要なかった。職場と家庭を毎日往復していただけだから。

 お休みの日など母と買出しに行く時、小学校五年生だった弟はいつも留守番だった。朝は始発の電車に乗り、夜も遅かった。その間、弟はたった一人。きっと寂しかったに違いない。末っ子で可愛がられて育った弟だけに不憫でならなかった。この弟はその後、人生に挫折して四十歳代半ば自死して果てた。その魂は今どこをさ迷っているのだろう。哀れでならない。

 子供の頃、近くの原っぱで、弟や幼友達といつも一緒に遊んでいた。黄昏時、家に帰る道すがら二人で眺めた夕焼け雲の、あの見事な茜色の美しさ。今でも目に焼きついている。弟の死が母の没後だったことが、せめてもの慰めである。

 あの頃、街なかに毛虱が発生し、電車の中などで若い米兵が何か大きな声で叫びながら、乗客の日本人の頭に、殺虫剤のDDTの白い粉末を振り掛けていた。私も仕事の帰り振り掛けられた一人である。米兵にしても日本人のために良かれと思ってしたことと思うが、でも有無を言わさぬ強引な遣り方だった。みな髪の毛が真っ白になって、浦島太郎なみの俄か老人に変身したのだが、まったく笑うに笑えぬ光景。敗戦国という屈辱が日本人を卑屈にさせていたのか、抵抗する人はいなかった。

 妹の髪にも虱が湧いていることに気付いた時、どんなにショックを受けたかわからない。妹が可哀想で涙が出そうになった。病気のうえに虱まで湧くなんて……。母と相談してそれからはいつも梳き櫛を持って行き、髪を梳いて取ってあげたが、今でも思い出す。療養所の大部屋の、あの窓際のベッドで、私が髪を梳いている間じっと目をつむっていた妹の姿。忘れることなどとても出来ない。

 病む妹をなんとか元気付けようと、心で泣き顔で笑うという複雑な心境だった。帰り道、暗い夜道を、涙を拭き拭き歩いたことも、今まで誰にも言っていないが、私の記憶の中から消えない辛い思い出である。

 だが、今になって考えれば、妹こそ心で泣き、顔で微笑んでいたのかも知れない。それとも健気で辛抱強い妹は、今あるがままの自分を素直に受け止め、静かな気持ちでベッドに臥していたのだろうか。きっとその両方だったのだろう。

 その後、妹は療養に努め、ようやく退院することができた。一年ほど自宅で静養したのち、なんとか音楽学校に復学した。妹に代って復学の手続きに行った時のこと。校門を潜って事務室の方へ歩いていった時、傍らの教室から美しいピアノの演奏が聞こえてきた。静かな曲だった。誰か学生が弾いていたのだろうか。

 私はその演奏を耳にして、あの苦しい戦争が終わったこと、真の意味での平和が到来した事を実感し、身体の中を大きな喜びというか、さらに深い感動が貫いたことを覚えている。と同時に、なにか張り詰めていた気持ちが急に緩んだのかもしれないが、訳もなく涙が出てきて困った。

 結局、私自身は、戦後の新しい民主主義教育を受ける機会はなかった。でも学校に行かなくても、その気になれば勉強することはできると思う。民主主義とはどういう思想か、新しい政治はどのようにあれば良いのかなど、それまでまったくの軍国少女だった私だが、基地やその後社会で働く中で色々なことを見聞きしてだんだん理解していった。

 また母が明治の女だったにも拘らず、買出しの行き帰りなど、当時としては進歩的な考えを時折話してくれて、とても良い勉強になった。いったい母はどこであのように新しい考えを身につけたのだろうか。新聞や本をふだん良く読んでいたからかも知れない。

 初めて婦人参政権が認められ、女性が総選挙に臨んだ時、母は「これからの日本にはきっと女の時代が来る」と言った。今まさに女の時代が花開いていることを思うと、母の先を見る眼の確かさに驚く。

 様々なことを体験し、悩んだり苦しんだりした、また時には喜んだりもした戦後の一時期だった。それらの思い出が今、しきりに私の胸にこみ上げてくる。

 戦前には、毎年夏休みになると、家族皆で房総や鎌倉の海に避暑に行っていた。一ヵ月ほどの滞在で、漁師さんの一部屋を借りての気儘な暮らしだった。海水着を着たままいきなり眼の前の海に直行。ザブンと飛び込むその快適さと言ったらなかった。お土産をたくさん持って週末ごとに訪れた父。父と浅瀬で水と戯れて過ごしたひととき。それは子供たちにとってはこの上ない楽しい時間だった。ビーチパラソルの下でこんな夫と子供達を眺めながら、母も女として至福の時を味わっていたに違いない。

 父が亡くなった時、母はまだ四十四、五歳だった。こんなに若く父と死別したとは。今から考えると早すぎる夫との別れだった。それだけに、まだ若かった母は、父と過ごしたあの幸せだった日々を、ほとんど珠玉のように大切な思い出として、胸に抱き続けていたのだろう。

 母と二人で房総の海に行ったあの時、母はどうしてあんなにも長い間、海の彼方を見詰めていたのだろうか。今でもそのことを考えずにはいられない。

 海の向こうに、母は何か見たのだろうか。私の話しかけにも一言も答えず、じっと立ち尽くしていた母の背中の表情に、言いようのない寂しさを感じないわけにはいかなかった。

 母は父との幸せだった思い出を抱いて、私と房総の海に立ったに違いない。憑かれたように、ひたすら海に向かい、海を見詰めていた母。あの時、母の脳裏に去来していたのは、父への思いであるとともに、現実の生活の労苦から、一時的にでも逃れたいとの願望もあったかもしれない。若しかしたら海からの誘惑と闘っていたのだろうか。

 母は家族のために強く生きなければならなかった。悩みも苦しみも、さらにはあの昔の父との楽しかった宝物のような思い出さえも、すべて海に捨て去るつもりで、あの海辺に立ったのだろう。その後の苦しい生活を強く生きぬくために。

 男でも苦しい戦後の混乱の中、大黒柱の父を失い、病人と子供とを抱え、心身ともに疲れきっていたことだろう。でも母は海辺に佇んで、すべてを流し去って、その後、強く生きる糧を得たのだと思う。あの海で母は再生を果たしたのではないかと、私は今思っている。

今でも、あの時の波の音が聞こえてくる。

「もう帰ろうね」 私を振り返って静かに言った母の眼差しを、はっきりと覚えている。

 波間に揺れる海藻をすこしばかり拾って袋に入れ、二人で家路についた。車窓から見る町にはもうすっかり夜の帳が下りていて、あちこちに瞬く灯火が心なしかかすんで見えた。ひとり留守番をする弟が気がかりで、帰りを急いだ。

 あの日、海から帰った後、母はなにか人が変わったように私には思えた。思い込みかもしれないが、確かに母は強くなった。それとともに家の中の雰囲気まで明るくなった。

 栃木県の麻問屋の娘だった母は、当時としては珍しく高等女学校を出ていた。歌が好きで家事の傍らよく口ずさんでいた。母には音楽の才能があったのだろうか。三味線も弾きこなした。私もいくつかの長唄の曲を教えてもらったことがある。

 どちらかと言えば、お嬢さん育ちだった母だったが、その後、生活の苦労を私に漏らすことは無くなった。弱音は吐かなくなった。生活のためには何でも臆せず行動した。意識して自分を変身させたのだと思う。私はこんな母を尊敬する。

 戦後を懸命に生きた母も、最期は認知症を患って、今から二十八年前、八月六日のあの広島原爆記念日に亡くなった。

 母が臨終を迎えた年の暑い夏の日の午後のことだった。夫と二人で母を見舞った時、母は私の顔をまじまじと見つめてひとこと言った。

「あんた、はるえさんなの」

 息が止まりそうだった。母は私のことが解るようになったのだろうか。それまで母はまわりの人が誰か解らなくなっていて、私の顔を見ても「あんた、だれ」と不審そうに呟くだけだったのに。

「そうよ。私、はるえよ」

 すると母は目に涙をいっぱいため、急に激しく泣き出した。まわりの人たちが、いっせいに母を見つめた。それでも母はおいおいと号泣し続けた。
「はるえさん。はるえさんなのね」

 私も母を抱きながら泣いた。母が可哀想でならなかった。それまで、どうしても私のことが解らなかった母。奇跡的に記憶が戻ったのだろうか。これから回復するのだろうか。わずかだが期待が膨らんだ。

 だがその後、母はまた薄明の中をさまよい出した。一週間後、静かに息を引き取ったが、あれは母の最期の命の瞬きだったのだろうか。

 母と戦後、一生懸命に生きた日々が、今は懐かしく思い出される。母の一生はやはりあまり幸せではなかった。夫と早く死に別れ、戦後の生活の苦労を重ね、最期は認知症を患って亡くなった。哀れで不憫でならない。

 あの房総の海で、じっと遥か彼方を見つめ続けていた母。
「あんた、はるえさんなの」と泣きじゃくった母。

 母の思い出は、今も激しく私の心を揺さぶる。永別の日、子供たちの嗚咽の声が低く室内を流れる中、母の魂は静かに昇天した。病室の外は咽ぶような草いきれ。蝉時雨がしきりに耳に響く暑い真夏の午後のことだった。

二〇〇四年四月五日~同八月三十日 永澤 春榮執筆


まえがき(編者 永澤 護)


 本書は私の母、永澤春榮が書いた数多くのエッセイのなかから、戦前、戦中、戦後にかけての経験、今は閉山した九州や北海道の産炭地での生活、母の両親の記憶といったテーマに絞って編者の私がセレクトし、まとめたものである。

 戦中、戦後の時期、長兄の戦死の公報(後に帰還)、父親の死、結核療養中の妹や幼い弟を抱えながら、母は東京女子医専を中退し、戦後は立川米軍基地勤務の英文タイピストとなって一家を一人で支えた。三井鉱山社員の夫との結婚を機に家族妹弟とも離れ、筑豊・北海道と移り住みながら、三人の子供を懸命に育て生きぬいてきた。

 母は子供たちの結婚独立後、二〇〇〇年頃からエッセイを書き始め、二〇一三年の現在まで断続的に書き続けている。それ以前に母が熱心に文章を書いていたという記憶はない。いま思えば、突如として書き始めたかのように見える。母は一九二六年(大正十五年)生まれの現在八十七歳なので、七十四歳から八十七歳までの十三年間にわたって書き続けていることになる。母のエッセイのうち特に本書第一章の作品は、戦前、戦中、戦後まもなくの時期の稀少な歴史的ドキュメントとなっている。東京大空襲や玉音放送、疎開先での経験の記録は、極めて貴重な歴史の証言だ。例えば、第一章の作品「一本の道」では、母が学年末試験勉強中に東京大空襲に遭い、かろうじて生き延びた経験がその状況の推移に沿って描かれている。それを読むとき、爆撃のなかで母が生き延びたというその事実が、偶然の出来事であったことがわかる。そのことの認識は、この私にとって大きな衝撃だった。母が生き延びた後の光景の描写を見てほしい。

「白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鳥たちが死んでいた。一面灰色の瓦礫の広場と化した昨日までの町々。ここに昨夜まで生きていた人々はどこへ行ったのだろう。」

 この一文に出会ったときの、母の書き留めた事実が私に与えたショックは言い尽くせない。人々は、次の朝が訪れるのを見ることができなかったのだ。

 母は、この国の人々にとって、すでにそれがどのような経験だったのか定かではなくなってしまっている、あの戦時における疎開の日々についても克明な記録を残している。母は、疎開先の那須で玉音放送を聞いたときの経験を次のように書いている。

「「日本は負けたらしいぞ」

人々が叫んだ。ポツダム宣言受諾とは、日本の敗戦の事実を告げるものと知った。

 初めて聞いた天皇の声。長い辛い十五年戦争を耐えてきたのは何のためだったのか。多くの若者は一体だれのために死んだのか。私の心の中に大きな空洞がポッカリあいた。聞いている人、みな呆然とした。誰も信じられないという様子だった。

 小学校五年の時から、戦争は常に私の身近にあった。戦争はあるのが当たり前で、終わるということなど想像も出来なかった。だが戦争はこのとき本当に終わったのである。其の時、怒りも悲しみも、喜びもすべての感情は停止した。」(第一章「蝉時雨」より)

 まだ二十歳前の若き日に、母はこの事実に直面した。この事実に直面するという経験。それは、いったいどのようなものなのか? こうした問いかけ自体が、日々の私たちの生活においては、そもそも、もはや生まれようもないものとなっている。しかし、母の記録によって、いま再びその問いが生まれ、いったん生まれてしまった以上は、取り消し不可能な問い返しの声となってこの私に迫ってくる。

以上転載終了



Images 写真と絵











 
















夕暮れの手前


 今 母の身体の傍らで新しい時が流れる。
 
 母が残した言葉とともに。


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