「ま、何があっても私はデザインできるから」ノマドがスクール設立するまで -デザイントーストのキラキラしない誕生秘話・前編-
デザイントーストを一人で立ち上げた代表ほりに、オンラインデザインスクール立ち上げに至るまでの紆余曲折をインタビューしました!
インタビュー by デザイントースト メンターふぁむ子
ほりさんは何年も色んなところを行ったり来たりで生活されてますよね。以前は海外に5年ほど滞在していた経験もあるとか。
はい、帰国後も含めたら7年近く定住していないです。
ただ、実をいうと、20代の頃は海外に全く興味がなかったんですよね。海外に憧れもないし、外国人とのコミュニケーションは怖いし…家族で行く海外旅行も「面倒だな」って感想しかなくて。
え!意外ですね。昔から、海外の文化や暮らしに興味があるんだと思っていました。
全然です!海外旅行も何度か行ったことはありましたが、全て人に誘われて。自分から行きたいと思ったことは一度もなかったかもしれません。
日本のサブカルチャー文化やアートが好きだったし、音楽もインディーズ音楽を好んで聴いてる暗いタイプだったんです。多分アメリカンドラマやパリス・ヒルトンみたいなイメージが強くて「外国ってピタピタの服を着た陽キャの人たちが、毎日パーティーしてるような所でしょ?」みたいな偏見があって(笑)。海外に行くなんて考えた事もなかったです。
海外で働こうと思った理由と行き先
海外生活に興味を持ったきっかけは何だったんでしょうか?
美大を卒業してからずっと、広告企画・グラフィックデザイン・Webデザインの仕事をしていたんですが、職場環境のストレスで鬱屈していた時期があったんです。毎週知らない人たちと記憶がなくなるまで飲んだりしていて。
そんな時、ある居酒屋のトイレにある”海外に行こう!”というポスターが目に入って。「海外に行ったら人生変わるかな」なんて話していたら、その場にいた友人の知人が外国で働いているという話を聞いて「日本人で海外で働く人なんて本当にいるんだ!」と思いました。
ワーキングホリデーの制度も、盛んに利用されるようになってきた印象があります。
まさに、友人に「ワーホリに行ったら?30歳までだよ」と言われて、翌日すぐ調べました。
当時いた会社では、20代後半にもなるのに、お茶くみや電話番ばかり任されていました。「女性は結婚して辞めるんだから、キャリアなんて必要ないでしょ」と言われたり、デザイナーなのにデザインを任せて貰えない。
「私の方が、先輩より絶対にいいデザインを作るのに!」と毎日悔しくて、キャリアも思ったように積めないまま時間ばかり過ぎる事に焦りを感じていて、今すぐ状況を変えたいと思っていました。
いくつかの職場で既に同じ事を経験していた事もあり、もしかして海外なら、少しは実力を評価してもらえるんじゃないか?と期待があったんです。
海外といっても色々ですが、確かに女性が日本より働きやすい国はありますよね。
最初は、日本語でも働ける海外就職先を探したのですが、その場合お客さんも日本人ということですよね。せっかく外国に行っても日本人に囲まれるなら、結局日本と同じじゃないか?と思いました。なので、目標は現地就職!と決めて退職。その2か月後にはフィリピンにまずは語学留学に行っていました。
その後はオーストラリアへ行きました。それが暗黒時代の始まりでした(笑)
暗黒時代!(笑)オーストラリアでは、どちらの都市にいらっしゃったのですか?
一番いたのはシドニーです。最初の1ヶ月は色んな街に行きました。ブリスベン、ゴールドコースト、メルボルン、バイロンベイ…。あくまで当時、英語力がなかった自分の感じ方なので実際は違うかもしれませんが、語学学校では同じクラスでも人種同士でグループが完全に別れている印象を受けました。
それで、最終的にシドニーに来てみたら、現地の店でアジア人が働いていたり、外国人が地域に根付いていたので「努力次第でなんとかなりそうだ、ここに住もう!」と思いました。
初めての海外、仕事・生活・お金
ワーホリ中はお仕事はされていましたか?
していました。最初は語学学校に通いながら、そこで無償インターンで新規受講生の入会案内等のお手伝いをしていたのですが、あっという間に金銭面でカツカツになってしまって(笑)
空き時間はクラウドソーシング上で記事のライティングの仕事などをしてました。
えっ!デザインじゃないんですか?
デザインの値段がオンラインであまりに安すぎてやる気にならなかったのと、東京では毎日毎日、無理やりデザインアイデアを出していたので、ちょっと疲れていて。ライティングは経験がなかったこともあり単価が安いことはそこまで気にならず、がむしゃらにやっていました。
お金は、それでなんとかなりましたか?
いえ、全然(笑)シドニー中心部は住居費が高いんです。最初は狭い4人シェアルームで2段ベッドなのに、家賃が月13万くらいしました。プライベートもデスクもないし、お喋りもとびかい集中して勉強もできない状態で。
ええ!高すぎる…!東京都心部でもなかなかないような条件ですね!?
街の中心部の方が仕事のチャンスも多いので、郊外に住む選択肢はなかったのですが、毎日85円くらいのインスタントヌードルを食べる貧乏生活でした。
その後家賃9.5万円くらいの部屋に引っ越しました。今は円安なのでもっと高いでしょうね。
聞いてるだけでハラハラします(笑)引っ越し先はいかがでしたか?
部屋自体は同居人1人だけだったのでそこはよかったです。ただ、フラットメイトの1人(友人ではない)はドラッグをやって暴れてドアを壊したり、共有スペースには常にセクシー小説家の人がすっ裸で寝ていたり、殴り合いのケンカが勃発したりと、
変人の集まりで、毎日がアメリカのコメディドラマのようで…何があっても驚かなくなりました(笑)
シュールですね…!同居人も美大出身の方だったとか?
はい、同部屋で同居していたタイ人は、彫刻を学んだあとTVプロデューサーをしていた人でした。タイで1番有名な美大を出ていたこともあり、落書き一つにしてもクオリティが高くカリスマ性のある人で、かなり影響を受けました。
その人も当時はオーストラリアに来て、まずはウェイター業務をしていたのですが、今は現地で本人がやりたかった、絵を描く仕事をメインにできているようです。元々行動力のある人で、コネも何もない状態からコツコツと積み上げ、夢を掴んだんだなと。
その人とは、仲間うちで演奏を録音したり、ペインティングのプロジェクトに混ぜてもらったりと、世界が広がるきっかけをもらいました。
タイの方との関わりが多かったのなら、英語力も伸びたでしょう?
適度に英語環境ではありました。タイ人の集まりに行くと皆タイ語で話すので100%ではないのですが…笑
私の場合「日本人とは絶対つるまないぞ」と思っていたので英語は伸びたものの、孤独で辛かったので…今は日本人の友人を作ることも、長く現地で生きる力として必要だったと思います。
というのは、ロンドンに行っていた日本人女性は「ワーホリすごく楽しかった!」と言っていて、自分とあまりに感想が違ったので驚いんたんです。ただ彼女は、日本人といつも一緒で楽しかった反面、英語があまり伸びなかったようです。
どちらも良い点悪い点、ありますね。
まさかのトラブルが続く日々…
孤独だったんですね。海外に出た日本人同士、助け合うみたいな場面に救われたりは?
個人的に、助けてくれる方はとても助けてくれ、冷たい人はすごく冷たい、という両極端な感じでした。遊び目的のパリピ勢と思われていたからからかもしれませんが。
ある現地の方に「デザインのアピールチャンスだよ」とお知り合いの日本人だけでやっているラジオ番組収録に誘ってもらったことがありました。
ただ、彼女がラジオ出演する際に、司会の方に私を紹介いただき名刺を渡したのですが、透明人間のような扱いを受けた上「甘えている」と説教された時は、呼んでくれた方にも申し訳なかったです。でもこれは私も、ビジネス風のジャケットでも着ていたら反応は違ったかもと少し反省しました。
とはいえ最も学びになった事は、助けてくれる人に感謝し、後は気にしないスキル。現地で最初の頃は、原因の分からない冷たい対応を受けると毎回「自分には人をイラつかせる何かがあるのだろうか?」等と、悩んで落ち込んだりしましたが、今は例えば英語が通じない時ですら私の英語が分からない方が悪い!と開き直る事ができるようになりました(笑)
自責・他責の切り替えで心を守るというか。
じゃあ同居人の方だけが、心の支えだったんですね。
それが、同居人は当時お付き合いしていたパートナーだったんですが、カリスマ性がある反面、ギャンブルと女好き・酒癖悪くて説教する、というちょっとモラハラ気質がある人でして(笑)
フリーランスになるために、駆け出しでネットで色んな仕事にトライしている時も「ネットばっかりやってないで働け」と言われ、肩身が狭くて、隠れて仕事していました。稼いでないと逃げ場がなくなり心が弱くなるのか、当時は何も言い返せなくて。
ちょ、泣きっ面に蜂すぎませんか?トラブル続きすぎてびっくりです。
オーストラリアのワーホリ時代は、人生で1位2位を争うくらい辛い時期でしたね。泣きっ面に蜂、その上更にタライが何度も何度も落ちてくるような感じで、これいつ終わるの?という(笑)
両足を怪我したり、百日咳にかかったり、仲が良かった同僚に嫌がらせを受け人間不信、金銭の不安、言語の問題と。でも、一番は悩みを話せる理解者がいなかったことです。いつも落ち込む度、こんな事もできないなんて、自分はなんて無能なんだ…と常に自分を責めてしまっていました。
英語も聞き取れず、電話にも出たくない、英語恐怖症じゃないかというくらい人とコミュニケーションが苦痛になっていましたね。
でも不思議と日本に帰りたいとは思わなかったです。
大変だったんですね…てっきりデザインのお仕事を楽々ゲットして順風満帆なんだと思ってました。
全然です!いいデザインの仕事もないし、当時ジャパニーズレストランでもいいから頑張ろうと思って、いくつか働いたんですが全然続かなくて。デザインの一歩外に出ると、本当に自分ってポンコツなんだなと情けなかったです(笑)
でも、すべて経験してよかったなと心から思います。今、日本で働く外国人の方も、海外でウェイターしてる人も、並々ならぬ努力をしているんだと分かるようになりました。異文化で誰にも守られず1人で生きる力がある人は本当にすごい。
窮地を救ってくれたデザインスキル
とはいえ、デザインのお仕事ができることで、救われたりもしましたか?
めちゃくちゃ、自分を支えてくれていましたね。
先ほど話した語学学校の無償インターンでも学費割引をしてもらった代わりにデザインを無料でしていたんですが、イベントの告知フライヤーや現地の冊子広告を作ったりと、マネジャーにデザインで頼りにされることも多かったです。
実は、これは同僚から疎まれるタネでもあったんですが「あら、私って羨ましいと思われるほど輝いて見えるのね」と誇らしく思うことにして(笑)あとはデザインで評価されて、有無を言わせないぞ、と。
素敵ですね!専門スキルがある人ってレアなのでしょうか?
専門スキルを持つ人は少ない気がします。その同僚も専門スキルがなかったので、悔しかったのかなとも思います。
感じたのは、例え母国で優秀な学歴で、すごい研究者や数学者でも、国をまたいだ瞬間にただの「カタコトで話す外国人」になってしまうんです。でもデザインの「かっこいい」は世界共通で、どんな国の人にもすごい!って言ってもらえる。
私は運よく差別化が図れてラッキーでした。英語面で現地人に負けても、バイトの集団採用面接で中国人にリーダーシップで負けても「まあでも、私はデザインができるから!」と余裕を持てるところがありました。
現地で仕事って本当に大変ですよね。ほりさんの暗黒ライフに転機はありましたか…?
安心してください、ありましたよ(笑)
就職するなら現地カレッジに行くべきかと思い、日本人がやっている留学エージェントに相談にいった際、たまたま雑談中に日本でデザインをやっていた話をしたら、
なんと、「実はちょうど依頼があるんだけど、フリーランスで制作してみない?」って言って頂いたんです!
次回、初のフリーランス仕事が舞い込む!?紆余曲折を経て、やっとほりのフリーランスデザイナーのキャリアが始まりました!
後編ではオーストラリアワーホリ以降の海外生活のその後と、デザイントースト誕生までを一気に語ってもらいます!
後編はこちらから!
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