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子ども向けか、大人向けか?って意味あるの?論と「デザインのとびら」

こんにちは!子どもたちの未来のための、デザイン思考を活用したワークショップ「デザインのとびら」事務局です。

前回は、子どもたちと「クリエイティブ・コンフィデンス」について書きましたが、今回は、大人もこの文脈に絡めて、考えていることを書きたいと思います。

子どもと大人を分けて考える必要無し

私たちのワークショップは子どもたちに向けたものではありますが、実を言うと、大人に向けたものでもあることを意識しています。

というのも、子どもと大人、というように切り分けて考えず、どちらも一人の人間として扱おう、と言うのがそもそもの発想にあります。

社会の制度として子どもと大人っていう二極化された仕組みが出来上がっているけれど、私の個人的な経験で言えば、今日から大人!っていう感覚を持った事はなかったし、小学校の当時思ってたことと今思ってることはそんなに乖離していないようにすら感じています。

特に「デザインのとびら」のリーダーは、そこのところをずっと強調しています。子どもに対し、変に劣っている対象でもなければ弱い存在でもなく、対等な人間として扱う必要があるっていう意志を持っています。

だから私たちは特に「子ども向け」に、「稚拙な」ものを用意するつもりはないし、ワークショップに使うプロセスやツールは大人が使うものになるべく近いものを準備しようとしています。

もちろん、年齢が小さければその分ベースとなる経験とそれに支えられる力が足りていないこともあるから完全に一致というのは無理ではあるのですが、子どもに対して「こーやって接しておけばいーんでしょ、喜ぶでしょ」というのは極力しないようにしています。

そしてこのワークショップで何かを得られるのは、子どもたちだけじゃなくって、一緒に参加する大人たちも同様じゃないかと考えています。

「学びの機会」 VS 「当たり前化」

「教育」と言うと、大人が子どもに授けるものって響きがありますが、一方で「学び」と言えば、学んでいる本人が主役になれます。

その学びを得られる場所って、学校だけじゃなくって、実は生活のあらゆるシーンにあります。

例えば、親や、友達から。社会人であれば、同僚やお客さんから。
それだけじゃなくって、生活の中で誰かと接するあらゆる機会に学びの可能性はあるはずです。もっと言えば、学べる対象は人だけじゃなくって、環境や道具のように人が関与してできているものからも何かを学べるかもだし、全くの自然からも学びは大きいと思います。

つまりは、あらゆる接点、自分が知覚するあらゆるものに、学びの機会がある

大人になると、どういう訳かそういった、いろんな学びの機会であるはずの接点を「当たり前」に感じてしまうようになります。一度「当たり前」と感じてしまうと、その瞬間に不思議と学ぶ姿勢が消え失せてしまう。実は身のまわりは学びの機会に溢れているのに、それを機会とすら感じなくなってしまうのです。
一方で、子どもはまだ「当たり前」なものがすごく少ないから、あらゆる接点から、ピュアにいろんなことを学んでいけます。

だとすると人々の好奇心を失わせ、学びに強くマイナスの影響を及ぼす原因って、実はこの、ものごとの「当たり前化」じゃないかって考えられます。「当たり前」って思うと、一気に視界が狭まって創造性が阻害されますし、強固な固定観念となって思考停止に陥ったり、時にはバイアスとなって偏った見方の根本原因になったりもします。

ものごとの「当たり前化」が怖いのは、「そんなの当たり前なことでしょ」と感じさせられた瞬間、一気に感染していくところだと思います。

例えば、初めての街に旅行に行くと、最初は何もかもが新鮮に感じます。現地の人にしてみたらごくありふれた風景であっても、旅行者にとっては、どこを切り取っても飽きないものです。
それが、「ありふれた街の風景だよね」と一言、同行するツアー客なんかに指摘された途端に、どこにもシャッターチャンスを見出せなくなったりします。

「当たり前化」は基本的に、経験値のある大人が起点となります。
大人は、自分自身による「あ、当たり前」という気付きとしても、大人同士から受ける「そんなの当たり前じゃん」からでも感染していきますが、最も被害を受けやすいのは子どもだと思います。なぜなら大人に比べ圧倒的に、その子にとって「当たり前じゃないものの数」が多いからです。

そして問題なのは、大人にその「当たり前を感染させていっている自覚」がすごく薄いってことです。
そんなイノセントな大人たちによって、子どもはいつに間にか、「自由な感性」や「探究の機会」を奪われていくのです。


りんちゃんイラスト3


それは「何か」であるべきか?

例えば、子どもが絵を描いたとします。
一見何の絵か分からなかったら、大抵の大人は、ごく自然に「それって何?」て聞きますよね。

でもよく考えてみると、もしかしたら実はこの瞬間、気づかないうちに子どもの可能性をすごく狭めてしまっているかもしれません。
なぜなら「それって何?」っていう問いって、その絵が「何かでなきゃダメ」って言う前提の元に問いかけられているからです。

一見オープンなクエッションではありますが、それって実は「描かれるものは、全て何かであるべし」っていう大人の価値観を押しつけているってことでもあります。
もちろん子どもは明快に「あ、今価値観を押しつけられた!」なんてこと言わないけれど、実はどこか深層心理ではそういう感覚を持ってしまうはずです。

多くの大人は「絵とは何かであるもの」、「描くには何か理由があるもの」と思い込んでしまっています。だから子どもが「何ものでもない絵」を描くなんていう発想なんてそもそも持っていなくって、無意識に「それは何かである」と決めつけて子どもに接してしまっています。

自由な表現っていう意味では、描かれるものは具象だろうが抽象だろうが、それははっきり言ってなんでもよくって、その子の感覚をそのままに大事にしてあげたらいいはずです。

もしかしたらただ単に、真っ白な紙に色が刷り込まれていく感覚が気持ち良いだけかもしれません。クレヨンのベタっとした感覚や、鉛筆のサラッとした書き味の違いだって、子どもたちにとっては新しく、一つ一つが驚きであるはずだから。

色と色のぶつかりや、色の上に色が重なったときの見え方の違いは、それすらもはじめて感じた子どもたちには世紀の大発見かもしれません。

どういうわけか抽象となったときに、多くの大人はそもそも「何かでなきゃダメ」に洗脳されてしまっているから、それが「何であるか」を必死に探そうとしてしまうし、意味を持たせて理解しようと躍起になります。

まして子どもが抽象画を描くってことは、大人の理解を超えた領域に踏み込むってことで、「子どもが抽象画を描くなんて!」という、驚きとともに、半ば上から見下した嘲りすら感じてしまったりします。

そういう大人の態度を子どもは敏感に感じ取り、「何ものかである絵」を描かなきゃ、という強迫観念を植え付けられていきます。その原因は、大人の勝手な思い込み(実は潜在的に大人の想像しうる「正解」を追い求めることを強いている)ってことでもあるのです。

ピカソは、こんな言葉を残しています。

It took me four years to paint like Raphael, but a lifetime to paint like a child.
ラファエロのように描くのは4年かかったけど、子どものように描くには一生涯かかった

天才画家が一生涯かかって目指したものは、子どものように純粋な表現だったわけで、私たちはそれを持ち合わせている子供たちからみすみす奪い去ることに躍起になるべきじゃなくって、大事に見守ったらいいと思います。


機会を奪っているのはアートの領域にとどま
らない

大人がついつい子供から奪ってしまうものに、「探究の機会」と「自分で決められる機会」というものもあります。

「探究の機会」とは、いわゆる、

「それなーに??」
「なんで??」

っていう問いのことです。

そんなものにいちいち答えていたら大人の生活が脅かされるだけでなく、仕事で疲れきった精神はもはや崩壊寸前にすらなります。だから大人は「どーもこーもなくって、それはそーいうもの!」って決めつけてしまいがちです。

そんな大人の態度に、子どもは、それって「それ以上聞いちゃいけない問題」っていう理解をし、その問題から距離をおいてしまいます。そうやって大人たちは、大人たちの都合で子どもたちの探究の機会を奪っているのです。

「自分で決められる機会」についても同じで、大人は自分たちの生活を守るために、ついつい大人側の都合で判断をし、それを子供に従わせます。

だから子どもはそこに判断が存在した事実すらにも気づかず、物事は決定されたうえで自分に与えられるもの、という受け身の思考が知らず知らずのうちに醸成されていきます。


なりたい_なる


大人たちはいつまで無責任でい続けるんだろう?

これは、すごく根深い問題だと思います。

私たちの提供するようなワークショップで単発的に探究的な考え方を子供に持ってもらえたとしても、子供たちは日常的に周りの大人たちからその真逆の価値観を押し付けられているということだからです。やっぱり日常的に環境から浴びる価値観のシャワーの影響はものすごく強力だと思います。

そうやって育ったら、むしろ大人への不信感はますます高まり、世代間のギャップはどんどん広がっていくような気がしています。

なぜなら大人たちは子どもたちに、「未来を担えるよう、探究心を持って育て」と言う一方で、自分達の古臭い価値観の中で生きることも押し付けるからです。

そう考えれば、子どもたちに対して、未来を支える人材になれって、だいぶ無責任なことです。はっきり言って、そう思ったならまずは大人が自らそういう人になったらいいはずなんです。

問題なのは、「なりたい」と思うことは誰にでもすぐに、それこそ今この瞬間でもできるんですが、「なる」ってことはそう簡単じゃありません。なぜなら「なる」には「行動を伴う」必要があるから

大抵の大人は、「なったらいいな」で止まり、あとは自分のことでなくなってしまいます。「なったらいいな」って思ったときは「結構本気」だからたちが悪いんです。自分は「なったらいいなって思っている派」だから大丈夫、とすら思ってしまっていますよね。

一番いいのは、「そう思った」そのときに「とりあえずやってみる」ことです。

もう何でもいいから、とりあえずやってみる。
やれないにしても、誰かに話してみる。自分の思いも付け加えて。それを積み重ねることで、「なる」になれるのかもしれなません。

しくみが変わったら、考え方も変えよう

最近は、子どもたちに本当に向き合って、一緒に学びを得られるためのしくみがどんどん充実し始めています。

例えば、育休。
「仕事」という大人の都合を完全に忘れ去って、子どもとまっすぐ向き合うために用意されたこの制度は、まさに子どもの感性を大事にしながら、一緒に探究をしていくための制度と捉えたらいいんです。

テクノロジーの進歩で今後私たちの仕事はロボットに代替され、家にいる時間が増えるとか、暇な時間が増えるっていう話、よくあります。
企業の中で、次の開発テーマを創出する会議の場なんかでこの手の話になると、その時間を何とか埋め合わせる新しいサービス開発ってことになりがちなんだけど、むしろその時間は消費じゃなくって、「感性」と「探究」に向き合う時間として割り当てたらいいと思います。

子どもの、と言い切らなかったのは、大人だってその時間で感性を磨き、探究してみたっていいと思うからです。これまで仕事に奪われてしまっていた、人間的な時間を取り戻したって考えれば、そういう過ごし方のために使うのってすごく真っ当だと思います。


「デザインのとびら」のできること

私たちのワークショップは、「子どもたちに向けた」と言っているけれど、冒頭に言ったように決して子どもだけのものでもなくって、これまで話してきた文脈で言えば、大人のためのって部分も大事にしたいと考えています。

もっと言うと、「大人のための」とかって定義すらももはや意味がなくって、「今とこれからを生きるみんなのための」みたいな方がいいかもしれません。

今後はもう少し意図的にその辺の問題に立ち向かえる内容も盛り込んでいきたいです!

Text by 儘田大地  Edit by 東郷りん
デザインのとびら

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