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4大聖人の教えとそれにハマる人の傾向

さて、ある宗教団体が話題になってる昨今ですが、新興宗教についてはよくわからないわたしも、キリスト教や仏教・儒教・道教についてはそれなりに考えたことがあります。
4聖人の定義もいろいろですが、一般には、仏陀・キリスト・孔子・ソクラテスのようですが、ここでは少し宗教的色合いから考えたいため、ソクラテスを外して代わりに老子を加えます。

これらの聖人の教え、または、宗教に影響を受けやすい人の性質を考えてみたいというはなしです。
ことわっておきますが、まったく個人的な分析になりますので、ご理解のほど賜わります。

いきなり本題です。

まず、仏教(仏陀)から

仏教の本質は、わたしが理解するところでは
「下がる・引く・距離をとる・相対化する・無とする」というベクトルの教えだと理解しております(浅学だと呆れる方もおられるかもしれませんが)
世の無常を説き、それにべったりになるなというベクトルの教えだと理解しております。
「世の虚しさを知れ」とでも言いますか
つまり、現世に対して基本、行動主義的に解決するベクトルの行為をそんなに奨励しない教えだと理解しています。
そこから、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えたり、ひたすら座禅を組んだりという宗派が生まれます。
これらは、現世に対して、行動(や腕力)で解決するより、そこから距離をとる解毒を勧めているのだと解釈できます。
もちろん、宗教としての性格上、困窮民や病人を救うみたいな宗派も生まれましたが、基本は現世から距離をとるという教えだと考えています。
現世や社会に膿んでしまった人の解毒や癒しの要素があると思います。
現世の限界と虚しさを痛感した人がハマる(?)のではないかと考えています。


次はキリスト教(キリスト)です。

キリスト教の本質は、わたしが理解するところでは
孤独な個人や疎外感を感じる個人が、愛を以て他者と関わることを奨励するというところにあると考えます。
これは、キリスト自身が、時の権力層に迫害に近い対立に巻き込まれたからです。
非常な孤独と疎外感に悩まされたキリストは、「愛」を以て人と関わるベクトルの教えを展開しました。
そんなキリストは最終的に処刑されてしまいます。
キリスト教はそんな性質をもつため、日本では、権力機構の寵や恩益から遠く離れた層
つまり、社会階層でいえば中位より下の層によりアピールしたと思われます(江戸時代)
九州などの外様藩に影響を受ける人が多かったのです。
これはもちろん地理的に九州は、宣教師の船がたどりつきやすい場所だったせいもありますが、そんな部分があるでしょう。
もちろん、社会階層に関係なく、孤独や疎外感に悩まされる宿命やカルマを背負った人に縁ができやすい宗教といえそうです。


つぎは儒教(孔子の教え)です。

儒教は「礼を以て統治する」というところに本質があると思います。
「欲すべからざるところ為すなかれ」という現世的な道徳原理だと思います。
その性質上、人を統治する立場を宿命づけられている人や層に縁ができやすい教えだと思います。
社会階層では、中位よりは上の層に縁ができやすそうです。
「論語」に馴染んだ点を以て、人を統治したり教えたりといったことに縁がありそうです。
江戸時代では幕臣や藩主に影響力があったと思います。
「儒学」といったかたちで室町時代以降研究がつづけられてきました。


次は道教(老子)です。

老子は実在したのかどうかも謎とされており、あんまりはっきりした証拠も残ってないようですが
その教えのベクトルは、自然体の肯定というかすすめであり
「足るを知る」という自足のすすめだと考えます。
これは、個人的には、今日的な資本主義的文明下(特に都市文明下)ではその実践が難しい教えではないかとも思います。
また若い人に「老子」をあまりすすめるべきではないという意見もよく聞きました。
というのは、若い人に「足るを知る」という教えを徹底してしまうと発展性が削がれると考えるからでしょう。
明治維新の開国以降は、日本はヨーロッパ等に遅れていることの実感が(つまり「足るを知る」ではなく「不足を知る」)その発展の原動力になった部分は否めません。
そういったヨーロッパコンプレックスみたいなのを今日的観点からあざ笑うのは簡単でしょうが、今日の日本はよくも悪しくも「不足を知る」ことによって築かれたのだと思います。
「だからダメなんだ」と口で言うのは簡単でしょうが、今日の日本はよくも悪しくも「不足を知る」ことによって築かれたとは言えるでしょう。
また、特に都市では、たとえば、通勤電車の中では、前後左右を気遣っていなければならず、到底自然体などではいられません。
混んでる車内では、大股開きの自然体で座ったり、座席に寝そべったりの自然体は許容されにくいことが多いでしょう。
つまり、その実践が難しい教えだと考えます(個人的にですが)
こういった道教がアピールするのはどういった層でしょう……
わたしが考えるところでは
「足るを知る」哲学は、すでにそこそこ持ってる層
そこそこのものは大体手に入れた人が、これ以上の貪欲をセーブする欲求を持った時、それを後押ししてくれる思想だと思います。
あるいは、文明的な人為・人工に嫌気が差してる人や、そういうどこまでも続く競争的現実に自信を失ってる層にアピールすると思います。
なんかわたしは老子を否定してディスってるみたいですが、そんなことはなく、ただ意外にその実践が難しいのではないかと思います。
恋人や配偶者の前で「ブッオ・オ・オウ~」と平気で屁をこくことができるような達観を手に入れる境地(自然体)になれば、もしかすると老子の哲学も実践段階に入ったと言えそうです。みなさまどうでしょう?
まぁ、とは言え、老子の教えは、果てしなく続く競争文明の中でやはり解毒の作用があるとは言えそうです。
でも、老子以外の教えだって、どれも凡人にはその実践が生易しくはないものばかりですよね。
そんな教えを説いたからこそ、聖賢と呼ばれているのでしょうね。

ソクラテスのかわりに老子(道教)を入れて4大聖賢としましたが、ソクラテスも大学生のとき弟子のプラトンの書いた『ソクラテスの弁明』(岩波文庫)を読んで感銘を受けた思い出があります。

さて、いかがだったでしょう?

もし、それは面白い考えだ、あるいは分析だと思われましたなら
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もし、4大聖賢についていままであまりよく知らなかったという人の参考になったり、もっと深く知りたいとおもったりされたならさいわいです。

(お断り)
あくまでも独自の見解ですので、一般の見解とはかなり異なる部分も多々あると思われますし、「浅学だなぁ」と呆れる方もおられると思いますが、ご理解のほどをよろしくお願いします。

御一読ありがとうございました。

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