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小説『虹の振り子』22<最終話>

第1話から読む。
前話(21)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
  鳥越玲人れいと:翔子の従兄
     鳥越貴美子:玲人の母、啓志の姉 
   鳥越瑛人えいと:玲人の息子  

* * * * *

第4章:虹――<スイング> 05

 翔子は『資本論』を棚に戻す。
 雨があがったのだろうか。風が孟宗竹のすきまを抜け、細く開けた窓辺でレースのカーテンを揺らす。大きく舞うカーテンの影でほっそりとした骨格の少年がはにかんだように見えた。
「れい兄ちゃん?」翔子は声をあげ目をこする。
 今の玲人とは似ても似つかない細身のシルエットは、瞬くまに霧となって透けて消えた。


「もうひとつは、僕の長年の夢だ」
 玲人はビールで皮下の血管が浮いた顔をさらに赤くし照れ笑いする。
「中学生の僕は、この家と書斎に救われた」
 翔子は幼かったから確かなことは何ひとつ覚えていないけれど。玲人は中学三年の一年間、不登校になって芳賀家で過ごした。おぼろげな記憶のフィルムに残る玲人は、いつだって翔子の隣にいる。手を伸ばした先には玲人の手があり、翔子を見下ろし、はにかむように笑みを浮かべる。母から聞いた話では、翔子はかたときも玲人から離れなかったという。

「学校に行けなくなった僕にとって、この家だけが居場所だった」
 毎朝、制服に着替えてなんとか家は出る。その背に母の貴美子は「芳賀家じゃなくて、学校に行くのよ」と念を押す。下校時刻になると家へ帰るが、「今日は学校へ行ったの?」と貴美子が訊く。それが玲人の心に鉛をのせる。
 けれど、この家では。
 叔父も叔母も祖母も。どうして学校に行かないのか、と尋ねない。
 それどころか祖母は「学校など行かなくてもよろし」と言い、「家に帰らんでも、好きなだけここに居ったらよろし」と告げ、玲人をがんじがらめに締めあげていた鎖を、涼しい顔でこともなげにぶった切った。
 無邪気な翔子の存在と、手あたりしだいに書物を読みふけった時間が、固く閉じた殻のなかでうずくまり、自らの心にナイフを向けていた少年をゆっくりと癒し、解放した。

「あの一年は、僕の原点になった」
 大人の視点では、一年も学校に行けなくてたいへんだったね、となるのだろうけど。この屋敷で暮らした一年は、僕にとって、満ち足りた幸せな時間だったと、今でも折にふれて思い返すよ。学校の勉強とか煩わしいことを何ひとつ気にすることなく、好きなだけ本が読めて。『本草綱目ほんぞうこうもく』なんか読めなかったけど、図を眺めているだけで楽しくてね。あの時間があったから、医学への興味が育った。

「あの頃の僕と同じように身動きできずにいる子たちの居場所は作れないか」
 その思いは、そうだな、医者になりたての頃からずっと僕のなかにあった。ただ、開業医をしながらでは時間的にも難しく、どんな形にすればいいのかも、おぼろげだった。
 僕は小児精神科医ではないからね。カウンセラーの資格もない。教育者でもない。
「だから、フリースクールをしたいわけじゃない」
 そういうのじゃなくて。家や学校以外の第三の居場所を作りたいんだよ。
 いや、「作る」というのも、ちょっと違うな。
 門は解放しておくから、出入りは自由。ぶらりと入ってきた子どもが、縁側でじいちゃんたちが指す将棋をただ眺めているだけでもいい。「やってみるか」の声がけで、駒の動きを教えてもらったりしてさ。年寄りの時間の流れに、しぜんと交じっている。ひと昔前の日本には、どこにでもあった光景だ。縁側でおばあちゃんが、豆の筋をとりながら子どもたちに昔話を語っているみたいな。そんなのは、映画や芝居のなかの美しい幻想だと笑われるかもしれないが。ああいう関係をとり戻せたら、最高だろ。ペニシリン発見について語る啓志けいし叔父さんの膝の上で顕微鏡をのぞいてもいい。無理にお年寄りと交わらなくてもいいさ。かつての僕がそうであったように、書斎で寝転がって好きなだけ本を読んでいてもいい。そういう時間が、その子にとっての何かのきっかけになるかもしれない。
 そうだ、逆もいいね。子どもが老人たちにゲームやタブレットの遊び方を教えるのもありだ。「教える」というのは、楽しい。自尊心にもつながる。どちらか一方が与える関係じゃなくて、互いが無意識に与えあう。何かを「しなくちゃいけない」じゃなくて、ただ羽を休める場所にしたい。今の子どもはね、忙しすぎるんだよ。物理的にも、心理的にも。
 この夢が実現すれば、ほんとうの意味で『虹の家』が地域に溶け込んだことになる。いわば究極の理想形だ。でも、そういう大きな青写真というか、夢を空に描いていれば、進むべき方向も見失わないだろう。
 そういって、玲人はさらに顔を赤くした。


 それにしても、と翔子は思う。
 ――れい兄ちゃん、きらきらしていたな。
 夢を語る青年の目をしていた。もう還暦をまわっているというのに。
 私ではなくて、れい兄ちゃんが芳賀家の跡取りだったら、もっと早くに何もかもうまくいっていたわね、きっと。
 玲人と比べ、自らの不甲斐なさに、翔子は唇をぎゅっと引き結ぶ。父と母は大きな翼を広げて、たいせつに私を育て庇護してくれた。それなのに。年老いた親に玲人に、私はまだ助けられているのか。情けない。
 ――お父さん、お母さん、ごめんなさい。
 玲人のおかげで、相続の問題も介護の問題もみごとに解決した。けれど、それがあまりにもみごと過ぎて、長年目を背けてきた翔子の喉に小骨のような自責の棘がささる。喉がひりひりと熱くなる。
 ――水、お水がほしい。
 扉をあけて勢いよく廊下に出たところで、弾力のある何かにぶつかった。
「ショーコ!どうしたの?あわてて」
 ジャンが自分の胸に頭からぶつかった翔子の肩を両手でつかみ、体勢を立て直してくれた。顔をあげると、高い位置にジャンのマリンブルーの双眸そうぼうがあった。すがりつきたくなる衝動を、翔子はぐっとこらえる。
 朝食後、ジャンは父に誘われ母を伴い三人で建仁寺けんにんじの双龍図を観に出かけていた。
「ジャン、翔子はいたか?」
 背の高いジャンの後ろから父が顔を出す。
「玲人君が昨日話していた玉子サンドをジャンが食べたいというので、切通し進々堂で買ってきたんだ。いっしょに食べよう」
 父が袋を掲げながら、斜め向かいの居間の扉に手をかける。
 開けた扉から明るい光がぱっと踊りいで、廊下で舞うほこりにスポットライトを投げる。

 雨はあがっていた。
 南向きの掃き出し窓から、陽が居間に降り注いでいる。
 翔子が膝をついて栗材のカップボードからサンドイッチの取り皿を選んでいると、掃き出し窓からテラスに出ていた父が、「おっ」と声をあげる。
「ジャン、また虹が出ているよ」
 振り返ってジャンに声をかける。
 雨あがりの陽射しが庭のそこらじゅうで乱反射し踊っている。
「まあ、今日の虹は、またみごとですこと」
 盆にガラスのティーポットとケトルをのせて、居間に入ってきた母が感嘆をもらす。
 翔子は母の手から盆を受け取り、テーブルに置くと、ジャンの隣にそっと立って掃き出し窓から空を見あげる。
 庭の築山の遠く背後あたりから、プリズムを通ったような光の帯が、大きな弧を描いて空の彼方に橋を架けている。ほんとうに、みごとだ。
「ショーコ、その涙、どうしたの?」
「えっ?」
 驚いて顔をあげた翔子の頬に貼りついたしずくのあとをジャンは人差し指の先でぬぐう。いつのまにか涙が頬に細い筋を描いていたようだ。それが陽を受けて光ったのだろう。翔子はあわてて、指先で目尻をこする。
「気分は上々よ。ただちょっと自分に失望しているだけ、いつものことよ」
「翔子、お前は自分の何に失望している?」
 振り返って、父が翔子に向き直る。
「何でもないわ……」と言いかけ、翔子は思い直して、父のまなざしを正面で受けとめる。
「れい兄ちゃんが芳賀家の跡取りだったら……こんなにも長くお父さんやお母さんを悩ませることはなかった。私はどうして、れい兄ちゃんみたいになれなかったんだろうって考えたら、じぶんが情けなくって。不甲斐ない娘で、ごめんなさい」
 また、熱いものが胸にこみあげてきそうになって、翔子はみぞおちに力をこめる。

 頭を下げる娘に、啓志は穏やかなトーンで話しかける。
「いいかい、翔子」
 子どもの頃から耳になじんだフレーズに、翔子は頭をあげ父を見つめる。
「いつだったか。週刊誌のインタビュー記事で読んだんだがね。ある著名人が、ええっと、誰だったかな。すまない、思い出せないが、こんなことを語っていた」
「親には育てる義務があるけど。子どもは三歳までのかわいらしさで、それに十二分に報いている。だから、親孝行なんて考えがおかしい。野生の動物たちは、子育てはしても親孝行をする生物などいない。そんなふうなことを語っていた」
「そのとおりだと思ったね」
 啓志は、まだいくぶん表情をこわばらせている娘を見つめながら、ふっと笑みをこぼす。
「翔子。翔子は翔子のままでいいんだよ。玲人君になる必要はない。もちろん、玲人君には感謝している。今回の件もそうだけど、これまでも体の調子をずっと診てもらってきたからね。だからといって、玲人君が息子だったら良かったなんて、考えたこともないよ。息子ならジャンがいる」
 啓志のことばに、隣で朋子がうなずく。
「そうよ。私は翔子ちゃんを育てながら、翔子ちゃんといっしょにもう一度子ども時代を楽しむことができたわ。二度も子ども時代を持てた。とうに忘れていた子どもの目で、また世界を眺めることができたの。それは、翔子ちゃん、あなたとだから私は良かったのよ」
「そうだね」啓志が、朋子のあとを引き継ぐ。
「そのお返しと言ってもいいだろうか。親の最後のつとめは、老いていく姿を子どもに見せることだと思っている」
「子どもは、そうやって将来の老いとはどういうものかを知る。いわば、未来を先に体験することになる」
「人生は一度ではない。何度でも経験できるんだよ」
 そう言いながら、父は空にあざやかな橋を架ける虹に目をやる。
「ショーコがレートになったら、僕の運命の人がいなくなるじゃないか」
 ジャンが翔子の肩に手をかけ、抱き寄せる。
 そうね。どんなにがんばっても、私がれい兄ちゃんのようになれることはない。私は私でいい。そういってくれる人たちがいる。不甲斐なさもひっくるめて、私なのだから。今さら背伸びをしてもしかたない。いつか母のように、すべてを静かに受けとめてたゆたう海になれるだろうか。

 翔子は、父を、母を、ジャンを順に見つめる。
 何度でもここに還ってくればいいのだ。
 還るべき場所を玲人は残して、未来へとつないでくれるという。私にも何かをつなぐことができるかもしれない。
 イギリスと日本と、私にはどちらにも還る場所がある。
 愛する人たちのあいだを、過去と今とを、ゆらゆらと揺れながら生きていこう。いつか、死が分かつときが来ようとも。ともに過ごした記憶は消えないのだから。
 いつでも、振り返って揺れて戻ればいい。何度でも、幾度でも。

 虹は天と地を結んで橋を架けるという。
 すそから淡く薄く、光の帯が水無月の空に透け消えていく。
 七色の鱗を光らせて龍が天に吸い込まれていくようだ。

 うっすらと尾を引く光の行方から、翔子は愛しき人たちへ視線を移しやわらかにほほ笑む。 

「今日は、私が紅茶のダンスを披露するわ」


<完>

全文は、こちらから、どうぞ。


小説『虹の振り子』をようやく完成させることができました。
現実の時間軸ではたった4日の物語なのに。
全22話、7万字超えの長編となってしまいました。
最後までお読みいただいた皆様に、心より感謝申し上げます。


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