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小説『虹の振り子』21

第1話から読む。
前話(20)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
   鳥越玲人れいと:翔子の従兄 
   鳥越瑛人えいと:玲人の息子  

* * * * *

第4章:虹――<スイング> 04

 隣家との塀にそって孟宗竹の植えられた北向きの書斎は、とがった陽ざしが射し込むこともなく、気まぐれな風が通る日には、熱気のまとわりつく夏でも過ごしやすい。
 軒をはねる雨粒が不規則なリズムを刻む。朝から小雨もよいで、どうやら梅雨入りは確実なようだ。
 翔子は朝食の後片付けを済ませると、書斎の扉に手を掛けた。真鍮しんちゅうのレバーハンドルは歳月でひずみ、ずいぶん重たくなっている。
 幼い日、父が仕事中の書斎によく忍びこんだ。
 扉の前で深呼吸すると、心臓をきゅっと縮ませ、息を喉の奥に吸い込む。両手をのばし慎重にレバーを下げる。父に気づかれるとゲームオーバーだ。ぎぎっと鈍い金属のれる音に鼓膜まで緊張する。扉の向こうには、想像力をぞんぶんに羽ばたかせる世界が待っていた。
 鈍く光るドアノブに手をかけると、その感覚がレバーを伝ってよみがえる。この部屋には幾層にも折りたたまれた物語がまどろみ、来訪者を待っている。部屋じたいが厚い書物なのだ。時空を旅し、読み返すたびに新たな発見に胸躍らせる、書物そのものだ。
 昨日、屋敷を老人ホームにするという話のついでに、玲人から「そんなわけだから、書斎の本で翔ちゃんが大切にしているものは、イギリスに持って帰っておいて」と頼まれた。
 書斎は共有スペースになる。本を自室で読みたい人もいるだろう。紛失はもちろん不注意で破いたり、嘔吐物がかかったりすることだって十分に考えられる。絶版になっている貴重なものも多い。だから、大切な本はイギリスで保管してほしいということだった。「古書の専門家だから、価値もわかるだろ」か。簡単に言ってくれるわねと、ため息がもれる。
 レヴィ=ストロース、キルケゴール、プリニウス、キケロ……。指をさしながらたどる。歴史書、哲学書、美術書、医学書、物理、数学、天文、植物図鑑、小説、写真集から果ては絵本まで。さまざまなジャンルの古今東西の書物が、統一性もなく書斎の三方の壁を覆いつくしている。父が大学を退官する折に、経済学の学術書のたぐいの多くは処分したと言っていたけれど。
 翔子は西側の本棚でマルクスの『資本論』を見つけ、足をとめた。
 細く開けた窓から雨のにおいが滑りこむ。翔子はその背表紙を指でなぞりながら、昨日の玲人を脳裡に浮かべた。

 ホームの名を『虹の家』にすると告げたあと、玲人は虹にちなんで、もう二つ架けたい橋があると言って翔子たちを驚かせた。
 「ひとつは夢に近いけど、もうひとつは」と、ひと呼吸おいて「ぜひとも、実現させなければならない」とまなじりを引き締め発したことばに、ぴんと空気が張った。
 それは「利益を出すこと。儲かるしくみをつくることだ」という。
 利益とか、儲かるとか。およそ玲人に似つかわしくない単語が飛び出したことに、翔子はオクターブ高い驚きをもらした。
 おおらかで、儲けなど無頓着。患者の話を丁寧に聞き、不必要な薬は出さない。翔子は玲人のことを赤ひげ先生みたいな医者だと思っていた。
「僕個人は、別に利益なんてどうでもいい。赤字でも、ボランティアでもかまわない」
 だけどね、と続ける。
「それではだめなんだ。こういうしくみで運営すれば、儲けが出るとわかれば、あとに続く人が出るだろ。そうでなくては、意味がない」
 魚がいるかどうかわからない荒波の海へ、率先して飛び込むファーストペンギンになりたいのだという。
「成功すれば空き家問題にも小さな石を投じることができるかもしれない」
 いたずらを仕掛ける少年のように、にたりとする。
「空き家問題?」
 話が意外な方向に飛躍して、翔子は目を白黒させる。
「京都では町家のリノベに一定の需要はある。けど、カフェやギャラリー、ショップなどが目的だから、小ぶりな物件のほうが好まれる。芳賀家はがけみたいな中途半端に大きい屋敷は、カフェにはでかすぎるし、流行りの結婚式場には小さい。潰してマンションを建てるにも狭い。区画を小さく分けて分譲住宅を建てるぐらいだ。地方だとそんな需要も下がって、空き家で放置される」
「いわゆる有料老人ホームは、立派なハコモノを建てるから大手企業でないと手がでないけど。僕たちがこれからやろうとしている、古民家を利用した老人ホームなら、建物はあるわけだから初期投資が少なくてすむ。自治体によっては、空き家のリノベに補助金がおりるところもあるし」
 それにさ、と玲人はいう。
「意外とスタッフの人数は少なくて済むと思っている」
「ほら、ばあちゃんは、手伝いの和さんが一人で最期まで看取っただろ。あんなふうに、夫婦一組につきお手伝いさんが一人ついているぐらいの感覚がいい。基本的な運営方針は、『自立して暮らす』だから。なんでも介護するんじゃなくて、できないところだけ手を貸す」
「できるうちは食事のしたくだって、自分たちでしてもらう。安全のためにそばで見守るけどさ。今日は暑いからそうめんにしようなら、そうめんでいい。切通し進々堂の玉子サンドが食べたいとなれば、買いに行けばいい。散歩がてら、みんなで行っても楽しいよね」
「栄養管理はたいせつだ。でもさ、それにがんじがらめになって、美味しくなくなったら本末転倒。プラスチックのトレーに、冷めたおかずが少しだけ盛られていても、僕らだって食べたくないだろ。けど、経費や現場の効率を考えると、そうなる」
「スタッフも忙しいから、スムーズに食べてほしい。モソモソと食べていると、食事介助を始める。まだ咀嚼そしゃくできていないのに、次のスプーンを口の前に突きつけられても、食べる気力はわかないさ。だから、よけいに口を動かさなくなって、かえって時間がかかる」
 悪循環なんだよなと、玲人はため息をつく。
「食べることは生きることの基本だから、本来は楽しみのはずなんだよ」
「自分たちで食べたいものを作って、にぎやかに会話しながら食べる。その席にスタッフも入っていっしょに食べれば、楽しさも広がる。楽しければ、しぜんと食は進む」
「介護をする、世話をするじゃなくて。お年寄りたちの生活の輪のなかにスタッフも入る。いっしょに『やる』、共に楽しむって感覚さ。手を出すんじゃなくて、困ったときだけ手を貸す」
「そうすると、結果的にスタッフの人員も少なくて済むように思う。やってみないとわからないけどね。でも、そうなれば、経営もうまく回る。そのしくみを作って、後に続く人を増やし、希望の橋を渡したい」

 「楽しい」にまさる介護はない。そう思わないか。

(to be continued)

最終話(22)に続く→

全文は、こちらから、どうぞ。



明けましておめでとうございます。
昨年より連載中の『虹の振り子』をお読みいただきありがとうございます。
昨年末で終わらせる予定が、年を越してしまい。
おまけに今回でも終わることができませんでした。
次回で終了予定です。(また、延びるかもですが)

今年もこんな感じで、のらりくらりと物語を紡いでいきたいと思います。
どうぞ今年も懲りずによろしくお願い申し上げます。


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