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小説『オールド・クロック・カフェ』 3杯め 「カマキリの夢」(7)

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<あらすじ>
『不器用たちのやさしい風』で明るい脇役として登場した松尾晴樹。茨城から夜通しバイクで駆けてきた晴樹は、『オールド・クロック・カフェ』にたどりつく。長刀鉾の柱時計に選ばれ、飲んだ「時のコーヒー」が見せてくれたのは、恋人の由真との別れのシーンだった。由真は、「祇園祭のカマキリ」という謎の言葉を残して去って行く。泰郎に背中を押されて向かった蟷螂山町で、偶然、由真との再会を果たした晴樹は、由真に「ひろ」という子がいることを知り落胆する。ところが、「ひろ」は晴樹の子だった。
<登場人物>
茨城のライダー:松尾晴樹
晴樹の元恋人:由真 
     由真の子:大樹(ひろ)
   由真の父:孝蔵  
  由真の母:文子 
カフェの常連:泰郎   
カフェの店主:桂子  
 晴樹の元同僚:森本達也


* *  dream come true * *

「‥‥、パパ‥パパ、パパ、起きて」
 耳慣れない単語が、頭の上の方から降ってくる。ハイキーのリフレインが鼓膜の奥を揺り起こす。どこか遠くで、小さな声が誰かを呼んでいる。

 ザザ、サ―――、ザザ――。ぴちょん。ザザ―――。ぴちょん。
 さざ波のようにスラーでつながる小刻みな音が、途切れることなく続く。水分をたっぷりと含んだ土と、湿り気をおびた青い草の匂いが、風に流されて鼻孔をくすぐる。
 このまどろみを、あともう少し。と思った瞬間、何かがどしんと胸に突進してきて、息が止まりそうになった。
 ごほっ、げほっ。激しくむせびながら涙目をあけると、胸の上に黒髪の小さな頭があった。砲弾は、これか。

「パパ、起きて!」
 大樹がにらむ。さっきから耳の奥で響いていたのは、この声だ。
「あ、やっと起きた。この浴衣、兄のだけど。たぶん背格好が同じやから、いけると思う」
 白っぽい浴衣と墨色の縞の角帯を手に、由真が襖の傍らに立っていた。
 木目のくっきりした杉板の天井が真上にある。視線を泳がせると、床の間には祇園祭の軸が掛けられ、カマキリの置物が置かれている。そうだ。ここは由真の家の和室だ。大樹に昼寝をさせていて、俺のほうが寝入ってしまったのか。むくりと起き上がって、頭をひとふりする。藍の甚平に着替えた大樹が、晴樹の背を「よいしょ、よいしょ」と起こす。

「夕立ちがあがったら、宵山に出かけるよ。蟷螂のからくりを見たいんでしょ。雨で人が四条の繫華街に流れてるから、雨あがりは空いてて狙いめなの。日が落ちたら、カマキリも動くよ」
「先にシャワーで汗流してきたら? 浴衣はその後で着付けてあげる」
 由真は一見おっとりしているようで、てきぱきしている。だが、俺の知っていた由真とは明らかに物事をさばくテンポが違う。母になって、磨きがかかったということか。


 雨が駆け抜けた通りは、いくぶん昼間の熱気を冷ましていた。アスファルトから水蒸気がゆらゆらと立ちあがる。軒先に残った雨粒がはじける。由真の言葉どおり、ごった返していた人出がまばらだ。通り雨が人も浚っていったのだろう。雨が洗った空を、夕陽が鴇色(ときいろ)に染めている。昼と夜が交錯する時の間(あわい)に、建物も人も輪郭を残してかすんでいた。
 大樹が水溜まりを狙って歩く。跳ねた水しぶきがクロックスのすき間から侵入する。それが気持ちいいみたいだ。そういえば、泰郎も作務衣にクロックスだった。  

 蟷螂山はビニールの屋根をもつ高い木組みの囲いの下に鎮座している。これを「埒(らち)」というそうだ。「『らちがあかん』の語源よ」由真が教えてくれた。どうして周りを囲っているのかと思ったけれど、雨除けらしい。「宵山は必ずといっていいほど、いっぺんは雨がざーっと降るからね」雨がカマキリの体にかかるとシミになっちゃうの。そうなんだ。 

 あたりに夕闇のヴェールがかかるころ、カマキリが目覚めた。
 御所車の黒い漆塗りの車輪がくるくる回る。巨大なカマキリが鎌を片方ずつ、カクン、カクンと振りあげ、頭をゆっくりと左右に動かす。金の目玉がにらみをきかす。背中の緑の羽が斜め上に開くと、下から薄く透ける羽が扇形に広がり、どよめきが起こる。
 蟷螂が見えぬ何かを威嚇していた。

「お義父さんとか町内の人が動かしてるのか?」
「違うよ。さすがに素人では無理。毎年、名古屋からプロのからくり師さんが来はる。3人で動かしてるんよ」
「へぇ、そんな人たちがいるんだ。羽なんか、どうやって動かしてんだ?」
 肩に乗せた大樹よりも、晴樹の方が目を輝かせる。カマキリの一挙手一投足を瞬きもせず魅入っていた。

「大樹がお腹にいるって、いつ、わかった?」
 肩にかかる体重を感じながら、晴樹が尋ねる。
 空色に白い朝顔が乱れ咲く浴衣姿の由真は、首筋からほのかな色気が匂い立つ。低い位置でまとめた髪の後れ毛が、汗で襟足にはりついている。
「別れ話をした日の前日、私、会社を休んだでしょ。あれね、悪阻でしんどかったの」
「妊娠がわかってしばらくしたら、悪阻がはじまって。はじめは胸がむかむかする程度やった。でも、だんだん、ひどなってきて。あの日は、起きあがられへんかった。ああ、もう限界やな。隠されへんなって思った」
「それで、別れを‥」
「うん。産みたかったから。どうしても」
 肩の上の大樹を見あげる。
「シングルマザーで育った晴樹を傷つけることも、わかってた」
「ごめんね」
 晴樹を見つめる。
「俺こそ、ごめんな。辛い決心をさせて」
「ありがとう。産んでくれて」
 もう、せっかく堪(こら)えてたのに。由真の目から大粒の涙が後から後からこぼれる。化粧がくずれたやん。由真が泣き笑いをする。

「あのさ。これからのことだけど」
 スーパーボールすくいをする大樹の頭越しに、反対側にしゃがんでいる由真に話しかける。
「俺は、一日でも早く3人で暮らしたい」
「茨城で?」
 パパ、また、すくえたぁ。大樹が得意げに顔をあげる。お、すごいな。晴樹がほめると、うれしそうに笑う。
「茨城か、京都か。最終的にどっちにするかは置いといて。とりあえず、夏休みを茨城で一緒に過ごさないか?」
「うん、それは、ええよ。ひろも喜ぶと思う」
「え、何?」
 名前を呼ばれたと思ったのだろう。大樹が顔をあげる。
「パパはね、茨城っていう遠ーいところに住んでるんやけど。夏休みになったら、パパのいる茨城に行ってみる?」
「うん! 行く!」
 と、立ち上がったはずみで、ポイが派手に破けた。大樹も晴樹も由真も、「あ!」と小さな声をあげた。大樹の顔がゆがむ。泣くかなと思ったが、ぎゅっと口を結んでいる。どうやら、ばぁばの「泣いてたらバイクに乗せてもらわれへんぇ」が相当効いているようだ。
「お、ひろ。3つも取ったのか。すごいな。俺が取ったのは2つだから、ひろのほうが、多いな」
 こくん、とうなずく。「パパに勝ったぁ」もう、笑っていた。

 たこ焼きを食べたり、射的をしたり、ヨーヨー釣りを楽しんだり。
 「パパ、次、あれ!」「お、パチンコか」晴樹のほうが、大樹よりはしゃいでいた。子どもがふたりいるみたい。由真があきれる。
 街灯に群がる羽虫のごとく、露店の灯りに引き寄せられるようにして歩き回ったからだろう。遊び疲れた大樹は、晴樹に負ぶわれて寝息を立てる。我が子の体温が背にはりつき、じっとりと汗ばむ。背中で受けとめる重みと熱が、夢ではなく確かに現実なのだと、晴樹に教えてくれた。 

 
 翌朝、階下に降りていくと、孝蔵が和室で白い着物の上に、明るい薄茶の裃を付けているところだった。文子が手伝っている。
「おはようございます。なんか、すごいっすね」
「おはようさん。祭は神事やさかいな。もう、帰るんか?」
 孝蔵は裃の先を整えながら訊く。
「すみません。出かける前の忙しい時間に。帰る前に挨拶だけしときたくて」
「親に報告したら喜んでました。詳しい話を聞きたいから、とにかく早く帰って来いと言われたんで、蟷螂山の出発を見送ったら帰ります。明日、仕事もあるんで。週末に両親を連れて、改めて挨拶に来ます」
「そうか。気ぃ付けて帰りや。隼で走ってどのくらいかかる?」
「休憩をはさみながらなんで、8時間ぐらいですかね」
「隼も見納めか」
「次は親を連れて来るから新幹線ですけど。また、隼で来ますよ」
 晴樹は孝蔵の足もとに正座して、いったん姿勢を正してから、畳に額がこすれるほど頭をつける。
「5年も、由真さんと大樹を放ったらかしにしていた俺を‥‥認めてくださって、ありがとうございました」
 孝蔵が袴を払いながら座る。文子も並ぶ。
「ちょっと強情な娘やけどな、よろしゅう頼むわ」
 両膝に拳をついて、孝蔵が頭をさげる。
「ほんでな、俺も隼に乗せてな」
 顔をあげた晴樹に、にかっと笑みを返す。


 蟷螂山の前には、裃を着けた町衆たちが集まっていた。裃なんて時代劇の衣装だと思っていたので、違和感もなく風景になじんでいることに驚く。さすが京都だな。晴樹は妙な感心をした。孝蔵は数人の男たちと談笑していた。晴樹たちに気づいたのだろう。振り返って晴樹を指さすと、周囲にいた男たちもこっちに目を走らせる。とりあえず、晴樹はその男たちにぺこりと頭を下げた。
 昨夜まで三色幕が掛かっていた台座には、みごとな友禅が飾られていた。正面には鶴が、台座の右の胴には孔雀が、左には鴛鴦(おしどり)が描かれている。羽のひと筋ひと筋までもが流れるように優美だ。友禅のことは何もわからないが、まさに宝だと思った。何よりも目を奪うのは、背面の一幅だ。御所車の屋根からだらりと垂れ下がった長くて立派な友禅には、天翔ける孔雀が描かれている。幻想的な松や竹の吉祥柄が彩る天上の苑(その)に、美しい羽根を優雅になびかせ舞い降りる孔雀。これを掲げて都大路を練り歩く、蟷螂山町の人たちの誇りがまぶしい。

 裃姿の男たちが蟷螂山の前に整列すると、法被姿の若者が山の周りの定位置につく。いよいよ出発だ。町内のあちこちから拍手が湧きおこり、「いってらっしゃぁい」の声が追いかける。山は西洞院通りを粛々と進み、四条通りに出ると東に折れる。拍手が鳴り止まない。
「鉾の辻に行こ」由真が耳打ちする。
「鉾の辻?」
「四条室町の交差点が『鉾の辻』って呼ばれてて、いろんな鉾が見れるの。室町通りから菊水鉾と鶏鉾が出てくるし、函谷鉾(かんこぼこ)と月鉾は目の前やし。長刀鉾も四条烏丸に待機してる。出発の順番待ちで山鉾が集まって来るから、けっこう壮観よ」
 由真はすいすいと人垣を縫う。晴樹は大樹を抱きあげ慌てて後を追う。

 四条通りに入った蟷螂山に向かって、幼稚園児たちが「カマキリさぁん」と手を振る。声援に応えるように、カマキリが鎌を振りあげ、羽を広げる。子どもたちの歓声が空に吸い込まれる。
 コンコンチキチン、コンチキチン。シャン、シャン、シャン。
 あちこちの辻や通りの奥から、お囃子がこだまする。
 東の空で威勢を放つ太陽は、四条通りをまっすぐに射ていた。今朝も早くから陽射しがきつい。蟷螂山の曳手たちは、黒い陣笠を被っている。
「あれが月鉾。真木の先に三日月がついてるでしょ」
「あっちが、函谷鉾」
 晴天に届けとばかりに、それぞれの鉾の長い真木が空をまっすぐに衝く。豪華な山鉾たちが、長刀鉾を先頭に四条通りに集まる。そのみごとさ。絢爛たる都の誇りが、あたりを睥睨(へいげい)して居並んでいた。
 コンコンチキチン、チキチン、コンチキチン。シャン、シャン。ぴーひゃらひゃら。コンチキチン。
 それぞれの鉾が奏でるお囃子が和音となって重奏の調べを響かせる。
 掛け声とともに、長刀鉾が四条烏丸を出発した。蟷螂山も鎌を振りあげながら近づいて来る。俺もいつか「蟷螂の斧」になれるかな。傍らの大樹と由真に視線を走らせながら、晴樹は目の前を通り過ぎるカマキリの雄姿を見あげる。真夏の太陽に向かって透ける羽を広げていた。


「パパ、どこ行くん? ひろのパパになってくれたんと、ちゃうん?」
 昨夜、一応、説明したつもりだったのだが。やっぱり、わかってなかったか。大樹はすでに半泣き状態だ。抱きあげて切れ長の目に視点を合わせながら、話す。
「パパは仕事があるから茨城に帰るけど、土曜日にまた来る。今度は茨城のじぃじとばぁばも一緒に、ひろに会いに来るから」
「茨城のじぃじとばぁば?」
「ゆみちゃんにも、たっ君にも、じぃじとばぁばが、二人いてはるやろ。なんで、ひろのじぃじとばぁばは、一人やの?って、言うてたやん」
 由真が助け舟を出す。
「あ、そっかぁ。ひろのじぃじとばぁばも、二人になるん?」
「そうさ。それに、夏休みになったら、ひろが茨城に来てくれる約束したの、忘れたか?」
「忘れてへん!」
「じゃ、ゆびきりな」
 小さな指に、節の目立つ指をからませる。
 いけ垣の隅でカマキリが一匹、鎌を振りあげていた。

 隼のエンジンをかける。
 ドドッ、ドドドドドドドッ。
 隼が目覚める重低音に、「かっちょえー!!」と大樹が目を輝かせる。大樹を抱きあげて、じぶんの前に座らせ、小さな手にグローブの手を添えてハンドルをつかませる。
「どうだ?」
「ひろも、大きなったら隼に乗る!」
「じゃあ、土曜日な。泣かないでお利口にしてるんだぞ」
「うん!」
 大樹の腰をつかんで、由真に渡す。ヘルメットのシールドを下ろす。
 大樹、由真、文子が手を振る。バックミラー越しに、大樹がいつまでも大きく手を振っているのが見えた。あそこに俺の家族がいる。胸の高鳴りが隼の鼓動と連動する。

 片側3車線の広い堀川通りを白い躯体が駆け抜ける。風が隼の速度で併走する。疾風のようだった昨日が脳裡を駆け巡る。 
 そうだ。『オールド・クロック・カフェ』に寄ろう。
 「時のコーヒー」が奇跡のはじまりだった。きっと今なら泰郎が、カウンターで新聞を広げながらコーヒーを飲んでいるはずだ。


(3杯め Happy End)

「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白


本作の主人公、松尾晴樹が脇役として登場する、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』も、あわせてお愉しみください。

https://note.com/589sunflower/m/me08a78c52363


『オールド・クロック・カフェ』1杯めは、こちらから、どうぞ。

2杯めは、こちらから、どうぞ。


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