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『月獅』第2幕「隠された島」    第8章「嘆きの山」<全文>

第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第7章「もうひとつの卵」<全文>は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
(第1幕)
ある晩、星が流れレルム・ハン国エステ村領主の娘ルチルは「天卵」を宿し王宮から狙われる。白の森に助けを求めるが、森には謎の病がはびこっていた。「白の森の王(白銀の大鹿)」は「蝕」の期間にあり本来の力を発揮できない。王は「隠された島」をめざすよう薦める。ルチルは偵察隊レイブンカラスの目につくよう断崖から海に身を投げた。
(第2幕)
「隠された島」に漂着したルチルは、ノアとディアの父娘と島で暮らしはじめた。天卵は双子だった。金髪の子をシエル、銀髪の子をソラと名付ける。固く握られて開かなかったシエルの左手から、グリフィンが孵った。けれども、グリフィンの雛は飛べなかった。

<登場人物>
ルチル‥‥‥天卵を生んだ少女(十五歳)
ディア‥‥‥隠された島に住む少女(十二歳)
ノア‥‥‥‥ディアの父 
シエル‥‥‥天卵の双子の金髪の子
ソラ‥‥‥‥天卵の双子の銀髪の子
ビュー‥‥‥グリフィンの雛
ギン‥‥‥‥ハヤブサ・ノアの相棒
ヒスイ‥‥‥ケツァール・ディアの相棒

 隠された島は嘆きの山の支配下にあるといっていい。
 島のなりたちがそうなのだから。
 カーボ岬の先端にあったヴェスピオラ山が噴火して大陸から切り離され、海を漂う浮島になった。五百五十年も昔のことだが、山にとってはひと眠りほどの時にすぎぬ。
 ――なぜ噴火したのだったか。くら憤懣ふんまんのようなものが爆発したような気がする。あの男が必死で鎮めようとしていたな。だが、人ひとりの力で何ができるというのだ。愚かなことよ。噴火のあと何かが吾に飛び込んだ。そうして吾は眠りについた。
 ああ、あの少女はおもしろい。吾と仲良くなろうなど小賢しいわらわよ。鈴のような声と歌で、澱となって淀んだものをわずかではあるが払ってくれた。だが、共に眠っていたものがどこかへ行った今、吾の寂しさはもはやそのくらいでは晴れぬ――。

 グリフィンはいつまでたっても、飛べなかった。
 鋭いくちばしと鉤爪をもった小型の毛ものに双子は夢中になった。
 競うようにグリフィンを追いかける。歩けるソラは、そこら中のものを蹴り倒しながら追う。グリフィンは床に散乱する壺やたらい、羽根箒や木蓋などのすきまをかいくぐり、ソラの手をすり抜け、もたもたと這うシエルの背に跳び乗る。翼でひらりと飛ぶのではない。頑丈な後ろ脚でジャンプする。シエルの服を鉤爪でがしりとつかんで背に這いのぼる。それをめがけてソラが猛突進し、シエルの背に倒れこむ。グリフィンは寸前で跳びのき逃れる。ソラに押しつぶされたシエルが泣く。
 そんな光景が日に何度も繰り返された。
 逃げる途中も翼をばさばさっと羽ばたかせて風を起こし飛びあがろうとするのだが、椅子の座面ほどで落下する。
「ビューは、なんで飛べないんだ」
 ノアが首をひねる。
 ビューとは、グリフィンの名だ。いつのまにか皆がそう呼ぶようになった。
 グリフィンの雛は常に翼をばたつかせていた。飛べないことがもどかしいのか、食事中でもばたつかせるから餌があおられて飛び散る。羽ばたくたびに、びゅっびゅっと空気が震える。そのようすにシエルはグリフィンを指さし、まわらない舌で「びゅー」「びゅー」と言うようになり、それが名になった。ノアは複雑な顔をしていた。
 もう一つ、ノアをとまどわせていることがある。
 ビューは食欲旺盛だ。ハヤブサのギンが仕留めてきた魚を次から次へとたいらげる。日に十匹以上は食べている。それにもかかわらず、ほとんど大きくなっていない。
「グリフィンの雛は、ひと月もすると成獣と同じ大きさになるはずなんだがなあ」
 ノアは腕を組んで考えこみ、ヴェスピオラ山を仰ぎみる。
 ビューが孵ってからノアは、嘆きの山をにらむように眺めていることが多くなった。
「また、山を見てるの?」
 ルチルはソラに泣かされたシエルをあやしながらノアに近づく。
「なんだ、またソラにやられたのか」
 ノアはシエルの頭を撫でる。シエルは目尻に涙の粒を残したままノアを見あげて笑う。ノアの厚い手はシエルを安心させるようだ。
 ――天卵の子に母はいても、父はいない。
 お父様の言葉が耳をかすめる。父という存在の重さを思わずにはいられなかった。
「ノアは天卵のことも、グリフィンのこともよく知ってるのね」
「そりゃ、君よりも長く生きてるからな」
 それだけだろうか。
 お父様が知っていたのは『黎明の書』が伝えていることだけだった。天卵の子が三倍の早さで成長するとは教えてくれなかった。ましてやグリフィンなど伝説の神獣としか知らないだろう。けれどノアは、かつて天卵の子にもグリフィンにも遭ったことがあるかのように生態に詳しい。白の森の王とも古い知り合いだという。ノアとはいったい何者なのだろう。どうして隠された島で暮らしているのだろう。
「最近、よく山を見てるわね」
「嘆きの山のようすが気になってな」
「ビューと関係がある?」
 ノアがほおっと目を細める。
「どうして、そう思う?」
「ビューが孵ったときも。飛べないとわかったときも。その窓から山を眺めてた」
「窓に寄りかかるのが癖なんだ」
 ま、思い過ごしさ。とノアはルチルの肩をぽんと叩き、猪をさばいてくると出て行った。
 ――思い過ごしだろうか。
 ルチルはシエルを床におろし、嘆きの山を眺める。その横をかすめるように翡翠色の翼に赤い腹毛が映える美しい鳥が、すーっと窓から滑りこみディアの肩に舞い降りた。

 ――泉より先にひとりで行ってはいけない。
 五歳の日に父と交わした約束をディアは守った。いや、守らざるをえなかったというべきか。好奇心の止められないディアは、こっそり泉を越えようと何度も試みたが、そのたびにギンに見つかっていた。
 迷いの森の入り口に近づくと、すっとギンが現れディアの額をつつき髪を引っ張る。しかたなく泉まで戻っても許してくれない。その日はあきらめて帰ったが、家に入るまでギンはそばを離れなかった。父さんは戸口で腕組みをして立っていた。
 それで懲りるディアではない。泉で遊んでいるふうを装いながら空を確認し、ギンに見つからないよう樹々の葉蔭を選び藪や樹間を歩いた。それでもハヤブサの目をくらますことなどできず、先回りした枝先から鋭い眼光で睨まれ連れ戻された。
 そんなことを何度か繰り返していたある日、父さんが丸太小家の前からディアを呼んだ。エメラルドグリーンに輝く翼と赤い腹毛のコントラストがあざやかな鳥を肩に止まらせている。戸口に続く丸太の階段に腰かけ、ディアにも座るようにうながす。
「何度も泉を超えているそうだな。ギンにやっかいをかけてるだろ。なぜ約束が守れない」
 ノアは娘に静かに問いただす。
「お山の上まで行きたいんじゃないの。山と遊んであげたい。だってひとりぼっちは、つまんないでしょ」
「おまえの気持ちはわかった。鳥や毛ものたちだけでなく、花や草、風とさえも心を通わせようとしているのは知っている。生きとし生けるものすべてを等しく愛することができるディアを父さんは誇りに思う。だがな、迷いの森から帰れなくなったらどうするつもりだ」
 ディアは口をつぐんでうつむく。わずか五歳では想いと好奇心が先走り、その先を考えていなかった。
「山の上には決して近づかないと約束できるか」
 ディアは立ちあがり、父の前に立つ。
「約束する。ぜったいに守る」
 決意に満ちた灰金色の瞳をノアは無言で見返す。海風が樫の葉を揺らす。
「よし、ならば、こいつをおまえにやる」
 ノアは左肩に止まらせていた美しい鳥を右腕にとる。ギンより少し小さいが、小鳥たちよりはずっと大きい。
「こいつは雄のケツァール。美しいだけでなく賢い。森に連れていきなさい。帰り道を教えてくれる」
 ノアが腕をひと振りすると、ケツァールはディアの腕に飛び移った。つぶらな瞳がディアを見つめる。美しい緑の翼をディアはそっと指先で撫でる。
「名はどうする?」
 ケツァールが片翼を広げる。緑の羽毛は陽をあびて宝玉の翡翠色に輝く。
「ヒスイにする」
「いい名だ。ヒスイ、ディアのこと頼んだぞ」
 ヒスイはもちろん、というように赤い胸をふくらませる。

 ディアは迷いの森では、意思を森に明け渡す。自分からどちらに行こうと思わない。森が示す道を進む。山を恐れず、迷路を迷路として心から楽しみ、山に話しかける。ヒスイは迷いの森でディアが迷子になりかけると、「ディア、こっちだ」と前を飛ぶ。陽が傾きかけるよりも早くディアに帰ろうとうながす。夜もディアの部屋の止まり木で眠った。
 ヒスイはディアのよき相棒だった。
「私にもね、シロフクロウのブランカがいたのよ」
 ルチルはあるとき、ディアに話した。ヒスイとディアを見ていると思い出しちゃった、といって。
 
 ヒスイは双子の見守りもしている。やんちゃなソラは、すぐに家から脱走しようとする。生れて三月みつきが過ぎるころには、ソラは走り回るようになり、ますます目が離せなくなった。ルチルはソラよりも発達の遅れがちなシエルの世話に手をとられる。しぜんとソラの面倒はディアとヒスイ、シエルはルチルという役割分担ができあがった。
 ルチルはそのことを気に懸けていた。
 双子なんだから、二人平等にしたい。同じだけ抱いてやりたい。だがその想いはいつも空振りに終わる。一人っ子でおっとりと育ったルチルは、ソラのすばしっこさについていけない。扉のすきまからソラが脱走するのに気づいても、あっと思ってから動き出すまで一拍ほどの間があく。
 同じ天卵から生まれた双子なのに、能力も性格もまるっきり違い、成長するにつれその差は顕著になった。ソラは好奇心が旺盛でなにごとも恐れず、要領もよく動きも機敏だ。一方、シエルは臆病ですぐに泣き、おっとりしていて何をやってもソラにおくれをとる。
 それでも双子は仲が良かった。どんなに泣かされてもシエルはソラを追う。ソラもシエルの姿が見えないと探す。
「ルチル、ルチル」
 ディアが囁くような声で手招きする。ディアの指さす先をのぞくと、シエルとソラが頭を互いのおなかにくっつけ、向き合う勾玉のようになってテーブルの下で丸まって眠っている。卵の中にいたときのようだ。ディアとルチルは、ふふ、と顔を見合わせて微笑む。

 騒動を起こすのは、たいていソラだった。
 グリフィンのビューはいっこうに成長しない。だが、その小ささが二人にとってはちょうど良いおもちゃになっていた。ビューはシエルのそばを好んだ。それがソラは気にくわない。
 ある日、ソラはシエルの肩に乗っていたビューに背後から忍び寄り捕まえるのに成功した。きつく握りしめられたグリフィンは、逃れようと鋭いくちばしで容赦なくソラの手をつつく。ソラの手が血で染まる。ルチルは悲鳴をあげた。
「ソラ、ビューを放して!」
 ディアがソラの手をつかんで指をこじあけようとするが、ソラはどんなにつつかれても放さない。ヒスイがグリフィンを攻撃する。シエルはソラの血をみて大泣きする。小鳥たちも飛びまわって騒ぎたてる。
「いったいなにごとだ!」
 部屋に駆け込んだノアは、グリフィンを鷲づかみして血だらけになりながらも、泣きもしないソラを見つけると、にたりと笑った。
「たいしたもんだ」
 といいながら、ソラを膝に抱きあげる。
「立派な狩人だな、ソラ」
 ソラの頭を厚い手で撫でる。
「ビューは好きか。遊びたいか」
 ソラがこくんとうなずく。
「じゃあ、これはどうだ」
 ノアがソラを背後から羽交い絞めにする。ソラが足をばたつかせる。
「苦しいだろ」
 ノアが手をゆるめる。
「ビューも同じだ。このままじゃ死んじまう。放してやれ。ビューおまえもだ。黄金を傷つけてどうする」
 グリフィンはぴくっとして、ソラの手に突き立てていたくちばしを引っ込める。ノアが太い腕をグリフィンの脚もとに差しだす。ソラが固く押さえこんでいた手を放すと、ビューはノアの腕に跳び乗る。
「ソラ、えらいぞ。腕を出せ」
 ノアはグリフィンをソラの腕に移す。
「ここを撫でてやるんだ」
 ノアが指の背でビューの胸毛を撫でる。ソラがまねる。
「いいか、ソラ。シエルもだ。グリフィンは誇り高い神獣だ。敬意をもって接しなきゃならん」
 ソラが大きくうなずく。シエルもこくこくと叩頭する。
 ビューが首を伸ばして両翼を広げる。まだ小さくて威厳はない。
 ノアが口にした「黄金」をルチルは聞き逃さなかった。微かだが確かにビューはその言葉にぴくりと反応した。ソラは、いや天卵の子はグリフィンにとって黄金なのだろうか。幼いころに読んだ物語のグリフィンは洞窟の奥の金の財宝を守っていた。同じようにこの子たちを守ってくれるのだろうか。でも、ビューは飛べないし、シエルやソラよりずっと小さい。今はまだ二人の遊び相手でしかないけれど。

 誰もがソラの好奇心の強さを甘くみていた。
 春を迎えるころには、シエルも走り回り二人はますます活発になった。絶えず海風に曝されている島は、雪が舞うことはあっても積もることはないが、冬の突風が吹き荒れる。家に閉じこもる日も多く、それだけに春の訪れは双子だけでなくルチルもディアの心も解放した。
「ピクニックに行こう」
 ディアが籠にパンやミルクを詰めながらいう。双子がはしゃぎまわる。
 ことあるごとに二人は「ピック、行こう」と籠を引きずりながらせがむようになった。最初は山のふもとまで。次はアナグマの巣まで。その次は、と少しずつ距離を延ばした。六度めで泉までたどり着いた。
 それにしても、とルチルは感心する。
 泉までは家から一キロはある。卵から生まれてまだ一年も経たないのに、この成長ぶりはどうだろう。人の三倍の速度で成長するとノアはいっていた。だとすると、人の子の二歳ぐらいだろうか。それでもきっとこんなには歩けない。泣き虫のシエルでも、ちゃんとついてくる。
 泉は双子たちのお気に入りの場所になった。
 水を飲みにリスやアナグマ、キツネザルなどが姿をみせる。それが二人を喜ばせた。だが回数を重ねるにつれしだいに、ソラは泉の先の森に興味を示しだした。
 泉から先には絶対に行っちゃダメと、きつく言い渡してある。それでも気づくと迷いの森に向かうソラの背を見つけ慌てる。そのたびにヒスイが連れ戻す。
 そんなことが続いたある日、ディアが「行ってみようか」と言いだした。
「だめよ、ノアからも二人を連れて行くなって言われてるでしょ」
「あたしも小さいころ父さんから禁止されてた。危ないから泉より先に行くなって」
 ディアは石をひとつ泉に投げ入れる。ぽちゃん、と音がしたのがおもしろかったのだろう。双子がすぐにまねしだした。
「で、どうしたと思う? あたしが父さんの言いつけを守ったと思う?」
 ディアが挑むような瞳でルチルをのぞきこむ。
「もちろん、ノー。こっそり何度も迷いの森に入って、そのたんびに、ギンに連れ戻された。父さんのほうが諦めちゃって、それでヒスイを相棒にしてくれたの。道に迷ったらヒスイを頼れって」
 ヒスイがディアの肩であざやかな翡翠色の羽を広げる。
「あたしみたいに好奇心が強いとね、ダメって禁止されちゃうとよけいにやってみたくなるんだなぁ」
 ディアがぱんぱんと尻をはらって立ちあがる。
「ソラもきっとそう。あの子のほうが、あたしより怖いもの知らずでしょ。ほら、ビューに血が出るほど突っつかれてもびくともしなかったし」
 あれはびっくりしたよねえ、と石投げにむちゅうになっている双子の姿を追う。シエルはうまく投げられないようで、石が前に飛ばず背後に落ちてばかりだ。かたやソラは両手に小石をつかみ、二石を同時に投げ入れている。
「独りでこっそり挑戦されるほうが怖くない? みんなと一緒のほうが安全でしょ」
 ディアの活発で好奇心旺盛な気性にソラは似ている。それにソラはなかなかの知能犯で、歩けるようになると、こっそりシエルをつねったり叩いて泣かせ、皆の注意がシエルに向いている隙に家から脱走しようとした。
 ――迷いの森よりも怖いのは、山頂付近の磁場だ。
 ノアの注意を思い出す。ノアは全力でディアを止めてくれと言っていた。でも、ディアを止めても、ソラの勝手な行動は止められない。ならばディアのいうように、しっかりと見守りながら好奇心を満たしてやったほうが、危険は少ないのではないか。
 ソラがビューを羽交い絞めにしたとき、ノアはソラを同じように羽交い絞めにすることで戒めた。あれからソラは、ビューを無理やりつかまえたりしない。あの子は体験させて納得させなければいけないのかもしれない。それに、これからどんな危機が二人を待ち構えているのかわからない。おそらくふつうの子よりは、ずっと大変な目に遭うだろう。危険だからと先に排除するのではなく、危難を乗り越える力をつけて欲しい。
「ディアのいうとおりかもしれない。勝手に行動されるほうが危ない。ディアはソラをお願いね。私はシエルと手をつなぐ。行ってみましょう。迷いの森へ。私も興味があるわ」
 もちろん森の危険性と山頂の怖さについてはしつこいほど説明した。勝手に走らないこと、とくにソラにはディアとつないだ手を離さないことを誓わせた。
「森を抜けると草原が広がってる。でも、絶対に進んじゃダメ。あたしだって父さんと一度しか行ったことがない。ほんとうに怖かった。山に飲み込まれて死んじゃうんだからね。帰れなくなるよ」
 シエルはディアの訓戒を聞いただけで怯えて泣きだし、行きたくないとぐずる。ソラは、わかったあ、とにこにこしてる。ディアはソラの前にかがんで両肩をつかみ、ソラに視点を合わせる。
「いいこと、ソラ。山につかまっちゃったら、かぁかにも、シエルにも、あたしにも、父さんにも会えなくなるんだよ」
 いつもの朗らかなディアとは違う真剣なまなざしに、ソラはこくんとうなずく。
「かぁかに会えなくなるの?」
 双子たちは、ルチルのことを「かぁか」と呼ぶ。
「そうよ」
 ルチルも膝をついてソラの目をみる。
「わかった」とソラが大きな声でこたえた。
「よし、じゃあ、行こうか」とディアがソラの手をぎゅっとつかんだ。

 泉のまわりは高い樹木がなく、そこだけぽかりと空いた穴のように天に向かって開けている。だからいつでも明るい。ところが、迷いの森では高い樹木が陽射しをさえぎり、進むにつれて蔭が濃くなりたちまち鬱蒼とした。見あげても厚く重なる葉裏が連なるばかりで、空はかけらも見えない。白の森も樹木が生い茂り空は見えなかったけれど、白く輝く光が森のそこかしこに神々しいほど降り注いで明るかった。だが、この森は光が届かず昼なのに冷やりと昏い。
 嘆きの山には意思があるという。迷い込んだものを閉じ込めて帰さない。ルチルの背がぶるっと震える。シエルは怖がってルチルの胸にしがみついたままだ。光の届かない昏さが、あたりを不気味にしている。正体の定かでない不安にルチルは飲み込まれそうになり、シエルを抱く手に力を籠める。一方、前を行くディアはソラと朗らかに歌いながら歩んでいた。

 カサカサっと微かに葉の擦れる音をルチルの耳がとらえた。落ち葉を踏みしめているような音だ。森ではあたりまえの音だが、ちくりとした違和感を抱いた。ディアがソラの手を握って先頭を進む。ヒスイはディアの前を優雅に飛ぶ。ディアから遅れがちになりながらも、ルチルがシエルを抱いて追う。ビューはシエルの肩に止まっていた。だから後ろには誰もいないはず、なのに。
 カサカサッ、サクッ、ガサガサッと葉を踏む音が遠く背後から聞こえてくるのだ。音はしだいに近づく。
 しゅるカサッ、シュルシュる、ガサッシュルしゅる――
 落ち葉の擦れる音に、躰をくねらせて地を這うような音が混じっていることに気づいた。ぞわぞわとした嫌悪感がつま先から背筋をつたって這いのぼりルチルの全身を駆け巡る。
 蛇……? 
 ルチルは蛇が苦手だ。三インチほどのメクラヘビですら怖い。図鑑のページをめくるのも嫌だ。絵とわかっていても触れただけで指先からぞわぞわする。トートたちがおもしろがって、ルチルの目の前にカナヘビをぶら下げ卒倒させられたこともある。蛇を目にしただけで全身の血が逆流する。
 振り返るのが恐ろしかった。音は確実に近づきしだいにはっきりと形をもつ。
 怖い――。でも、私がシエルを守らなければ。
 意を決して振り返って、ルチルは凍りついた。
 真っ赤に焼けただれた鱗をくねらせ、赫黒い大蛇が落ち葉を巻き上げ、下草を薙ぎ払いながら迫って来ている。頭だけで太い丸太くらいある。尾の先はどこにあるのか、うねる波のように続いて果てもわからない。赤い目に金の瞳が禍々しくきらめき、その瞳に射られると背筋が凍りつき微動だにできなかった。大きく開けた口には鋭い毒牙が上下に並び鎌首を持ちあげている。赤い舌をシュッシュッツと突きだす。
「キャ――っ!」
 頭頂から恐怖の叫びをあげると、あたりは一瞬のうちにランプの火が落ちるように闇となった。暗闇に金の目だけが光る。シューシューシューと毒牙から漏れる呼吸が周囲の空気を震撼させる。シュルシュルシュるっと地を這う音がしだいに速くなる。大蛇への恐怖と、闇の恐怖がルチルを襲う。音と気配が迫る。シエルを胸の下に隠して地面に突っ伏し奥歯を食いしばった。喰われる――!

「……ル、……チル、ルチル、ルチル!」
 バシッと頬をぶたれたような鈍い衝撃が走って、ルチルはぼうっと目をあける。ディアがルチルの肩を両手でつかんで揺すっている。
 ルチルは飛び起きる。
「逃げて! 早く! 赤い大蛇が……。早く、早く逃げて。シエル、シエルはどこ?」
 ルチルは髪をふり乱して錯乱する。
「ルチル、ルチル落ち着いて。幻だから」
 ディアがルチルをきつく抱き留める。
「まぼろ……し?」
「そう、迷いの森のいたずら。たぶん正体は、これよ」
 ヒスイがミミズを咥えている。
「そんなはずない。真っ赤な鱗の大蛇が迫ってきたのよ。金の目をして、鋭い牙が光るのも見た。地を這う音も聞いたわ」
「この森ね、迷路になってるだけじゃないの。人の心も迷わせるんだよ。怖がる心につけこんで幻を見せて楽しむの。びくびく怯えてるとね、巨人が現れたり、獰猛な獣が牙をむいて襲ってくるのが見えたりする。でも、その正体は大木だったり、ネズミだったりするの。ルチルも森にからかわれたんだよ。ほら、このミミズも赤いでしょ」
 ルチルは躰の芯から力が抜ける。シエルはルチルの足もとで泣きじゃくっていた。
 ルチルはほおっと大きく安堵の息をつく。心なしか森が明るくなった気がする。シエルを抱きよせ、ディアに向かって微笑みかけたそのときだ。
「おいディア! ソラがいないぞ」
 ヒスイが叫んで森の真上に飛びあがる。
 なんですって。
「ヒスイ、森の出口はどっち!」
 ディアが空に向かって張り裂けんばかりの大声で叫ぶ。
「オレが連れ戻す」
 ヒスイが叫び返して、翼をひるがえす。
「待って! おまえじゃソラを運べない。ギンに父さんを呼んでと伝えて、急いで」
 ディアが駆け出す。

 私のせいだ。私が森の幻影に惑わされて、失神なんてするから。ルチルの心臓がせりあがる。シエルを抱えてディアの後を追う。何度も木の根に引っ掛かりつまずきそうになる。白の森で駆けたときはひとりだったけど、今はシエルを抱いている。転ぶわけにはいかない。シエルを抱きしめ、心のうちで祈る。どうか、どうかまにあって。
 突然、明るい陽射しが降りそそぎ、森がとぎれ丈の高い草がなびく原が広がった。明るさに慣れない目をしばたたき、開けた草原を見渡す。「あー!」腕の中のシエルが手を伸ばす。
 その指さす先に目をやると、青い衣の幼子の背が見えた。銀の髪が風になびいている。
 まにあった――。
「ソラー、止まってえ!」
 ディアが叫ぶ。
 びくっとしてソラが振り返った瞬間、その躰が宙に浮き火口のほうへと流された。
「いやあああ、ソラー」
 抱いていたシエルを放って駆け出そうとするルチルを、ディアが腕をつかんで止める。
「ルチルはシエルを守って。シエルを抱いて安全なところまで下がって。大丈夫、あたしがソラを取り戻してくるから」
 そのときだ。
 大きな翼の影が走った。空気がぴりぴりと震える。突風が巻き起こり、ルチルは飛ばされそうになりシエルを抱きかかえて膝をつく。ディアのオレンジの髪が逆立つ。
「あれは何?」
 見たこともないほど大きな翼が弾丸のごとくソラに向かう。その飛翔が空気を直線で切り裂く。あんな怪鳥に攻撃されたら、ソラはひとたまりもない。
 翼が起こした突風に草原の草がいっせいに地にひれ伏す。ディアが強風に吹き飛ばされそうになりながらも駆け出そうとする。
「待て、ディア」
 ギンが高い天から叫ぶ。
「あれはグリフィンだ」
 ギンが舞い降りる。遅れてヒスイもディアの肩へと急降下する。
 グリフィンですって。
 ルチルはシエルの肩に乗っているはずのビューを探す。いない。
 ディアと目を見合わせ、視線を巨鳥へと転じる。
 グリフィンはソラを通り越すと、くるりと旋回して飛ばされてくるソラを、翼を広げ厚い胸で受けとめた。前脚の鉤爪でがしりとソラの脇をつかむ。だが翼が徐々に下がり、じりじりと火口へと下がっていく。あれほど大きな神獣でも引きずられるほど、火口の磁場は強いのか。ルチルは両手を握りしめる。

「ビュイック、何してるんだ」
 森の奥から突然、激しい怒声が飛んだ。
「おまえの力はそんなもんじゃないだろ。羽ばたけ!」
 振り返るとノアが駆けてくる。
 グリフィンは磁場の力を背で受け、必死で堪えている。垂直の姿勢を水平に立て直すこともできないようだ。翼はソラを抱え込むように前方に丸まり、広げることもかなわない。
 だがノアの𠮟咤にその獰猛な気性をたぎらせ、山の力に抗い翼をぐぐぐっと広げる。
 ルチルは自らの手の甲に爪を突きたてて両手をきつく握りしめる。ディアもひと言も発しない。誰もが息をすることも忘れて屹立する。
 グリフィンは渾身の力で両翼を開ききった。垂直の滞空姿勢は天に突き立った十字架のようだ。ばさっばさっと、二度翼をはためかせる。あたりを薙ぎ払う突風が起こり、はるか離れた森の樹々まで揺らす。それを反動に水平飛行に姿勢を立て直すと、再び弾丸となって空を切り裂き猛進した。
 ルチルが暴風に目を眇め、ひと瞬きする。目を開けると、大きな影が立っていた。
「やはりおまえはビュイックか……」
 ノアが納得するように漏らす。そのつぶやきには応えず、グリフィンは前脚の鉤爪でつかんでいたソラの両腕を放す。ソラは着地すると、くるりと振り返って巨大なグリフィンの胸に抱きつこうとした。
 そのとたん、見あげる小山のようだった巨躯がどんどん小さく縮んでいき、またたくまに掌サイズのグリフィンに戻った。その場にいた皆が呆気にとられ、なにごとが起こったのかと目をこすり言葉を失う。ノアでさえも。
 丈の高い萱に埋もれるようにして、小さなグリフィンが広げた翼を折り畳んでいた。
 シエルだけがその姿に、「ビュー」とうれしそうに手を伸ばす。
 ルチルは膝をついて伸びあがり、きつくソラを抱きしめる。涙をソラの銀髪にこすりつけた。

「おまえたちは、ギンについて家に戻れ。俺はビューと話をする」
 小さくなったグリフィンを掌に乗せて告げると、ノアは傍らの岩に腰かけ、早く行けとばかりに手を振る。
「さて、と」
 ノアは小さなビューの奥にいるものに話しかける。
「ビュイック、聞こえるか。そして答えられるか」
「ああ」
「そうか。いったいどうなってる」
「ノア……生きてたんだな」
 小さなグリフィンが鋭い眼光をノアに向ける。
「詳しくはまた話す。それよりも、なぜ飛べない。なぜ小さいままだ。そして、なぜさっきは……」
「よくわからん。だが、こいつがじゃましていることだけは確かだ」
「こいつとは、ビューか」
「ああ」
「なぜ一つの躰に二つの魂が同居してる」
 確かなことはわからないが、とビュイックと呼ばれたグリフィンが語る。
 ヴェスピオラ山の噴火を鎮めるため火口に飛び込み眠りについていた俺は、黄金が生れる気配を感じて目覚めた。なかまのグリフィンのアズールが天と地の境で迎えに来ていた。だが、「今度こそ黄金を守る」と告げ、微かに光る輝きを追って急降下し海に飛び込んだ。
「覚えているのは、そこまでだ」
 ビューの姿のまま、声だけのビュイックがいう。その声すらももやがかかったように聞き取りにくい。
「気づいたらこうなってた」
 海中で光輝く黄金をつかんだと思った。だが気づくと、光の殻のような中に意識だけが収まっていた。羽ばたこうとしても翼がない。羽ばたく感覚もない。躰を自由に動かすことができない。いや、躰自体が存在しなかった。透明な殻の内からビューの意識と目を通して外界を眺めていた。何度も内側からビューに呼びかけた。聞こえないのか、わざとなのか。ずっと無視されてきた。なぜ、こんなことになっちまったのか。
「ビューはおまえの分身というわけでもなさそうだな」
「ああ。幼くとも、こいつもグリフィンだ。強い意志をもってる」
「さっき覚醒できたのは、なぜだ」
「天卵の危機にこいつの意識が一瞬フリーズした。その隙に交代することができた」
「意識の主体がおまえになると、躰も能力も元に戻るというわけか」
 ノアは驚き、ふうむ、と考えこむ。
「そういう……ことみたい……だな……」
 かすれがちだったビュイックの声は、とうとう聞こえなくなった。
 すっかり隠されてしまった意識に向かって、ノアは語りかける。
「俺はな、ビュイック。おまえがそこにいることは、ずっと感じていたさ。だから、あいつらがビューと呼ぶようになったとき、おまえの愛称みたいで不思議な気がしたよ」
 双子が危機に直面すると、ビューとビュイックは入れ替わることができるということか。だが、それすらこの一回では不確かだ。何がビューの成長を蓋しているのかはわからんが。ビュー自身が成長することが一番であることは変わりない。
 ノアは小さなグリフィンを肩にとまらせる。あいかわらず飛びたいのか、翼をばたつかせている。
「おまえの成長のたがを早くはずしてやらねばな」
 強い意志の光を放つ金の瞳を見つめながら、ノアはつぶやく。
 嘆きの山は、獲物を取り逃がしたことを悔しがっているのか、ひと筋の細く白い煙をあげていた。


第8章「嘆きの山」<了>

第9章「嵐」に、続く。



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