大河ファンタジー小説『月獅』 第2幕「隠された島」<全文>
第2幕「隠された島」
第5章「漂着」
海から駆けあがってくる風が、洗いたての服をぱたぱたとはためかせる。飛ばされないよう、ディアはすばやくピンチで留める。
今日も風が蒼い。
「よし、これが最後。うーん、本日も洗濯物が早く乾きそう」
風にもてあそばれて頬や額に乱数のように貼りつく美しいオレンジの髪をむぞうさに払いのける。ディアはじぶんの髪がきらいだ。まっすぐで細い髪は、束ねてもすぐにほどける。そうして強い海風のほしいままにされる。ディアの髪は太陽の色だと、父さんはいう。でも、ディアは父さんの銀灰色の髪のほうがずっと好きだ。ゆるく波打つ銀の髪は蒼き海風に透け、精悍な顔を崇高にする。
「どうしてわたしの髪は父さんに似なかったんだろうね」
灰金色の瞳で空を仰ぎながら、肩に止まったケツァールのヒスイにつぶやく。鳥は美しい緑にきらめく翼を片方だけ広げ陽に透かす。赤い腹毛がディアのオレンジの髪となじむ。
いつもと変わらぬ気持ちの良い風が島を吹き抜ける。
たぶん今日も、昨日や一昨日と似たような、そして明日も明後日も同じような一日がずっと続くのだと思っていた。
「ディア、ディア、ディア!」
「たいへん、たいへん!」
「ディア、たいへん、ディア!」
「はやく、早く、来て、ディア! 来て!」
突然、青や赤や黄や色とりどりの小鳥たちが、けたたましく鳴きわめいてディアの服やオレンジの髪をついばんで引っ張る。
「痛っ、痛い、痛い。わかった、わかった、行くから。放して。引っ張らないで、痛い」
「何があったの!」
鳥たちに引っ張られようにしてディアは、島唯一の砂浜へと続く坂道を駆けおりる。
両側から岬がゆるく弧を描くように伸び、その内側に波のおだやかな白いサンゴ礁の砂浜がある。島の大きな腕に守られているようで、ディアはこの浜でよく水遊びをし、海にもぐり魚を獲る。ときには泳ぎに飽きたシロイルカたちが遊びに寄ることもある。
島は周囲せいぜい十マイルほどと小さい。東の浜以外は切り立った崖に囲まれている。断崖といってもそれほど高くはなく、浜の南側などせいぜい海抜数メートルといったところだろう。そこからなだらかな丘陵が広がり、北に聳える小高い山へと続く。山はその昔、火山だったらしい。父さんによると、六百年近く噴火していない。
「六百年前に噴火したなんて、どうしてわかるの」
ディアが揶揄うようにいうと、父さんは、
「海岸の地層をみればわかる」という。
いくら物知りの父さんでも、そんな昔のことはわかりっこない、とディアは思う。
十二歳になった今では考えられないけれど、五歳のあの日までは何をするにも父さんといっしょで、ディアの傍らには常に父がいた。
島にいる人間は父とディアの二人だけだったから、ディアには子どもどうしで遊んだ経験がない。だから遊ぶということがどういうことかよくわからなかった。父さんが山羊の乳を搾る隣で子山羊と駆けっこする。父さんが麦の種を撒く畑の畔でカエルを捕まえる。父さんが小屋を建てる横で小鳥たちと歌う。毎日は楽しくそれ以上の何かがあるなど考えもしなかった。
季節ごとに木の実や果実、キノコを採りに山にわけいる。幼いころは父さんが背負うしょいこに腰かけて、十分に歩けるようになると手を引かれて、父と山道を登る。
だがいつも、中腹にある小さな泉までだった。
「あのね、ディアは大きくなったから、も少し歩ける」
「そうか」
ははは、と笑いながら父はディアのオレンジの髪を大きな掌でわしゃわしゃと撫でる。ディアが瞳を輝かせ、すくっと立ちあがって歩き出そうとすると、「また、今度にしよう」といってディアの手をがしりと握って坂道をくだりはじめる。
次も、その次も、いつも泉で引き返す。
その日ディアは心に決めていた。
父さんが「帰ろうか」と腰をあげると、さっと離れ手を背に隠した。
「どうした」父がディアの顔をのぞきこむ。
「あのね、ディアはね、だまされないの」
金の目が父を真剣に見据える。
ふむ、と父は腕を組む。
「ディアは、もう、りっぱに歩けるから。お山のうえまで行けるの」
挑むように父を睨む。
ふーむ、と父は大きくひとつ息を吐くとディアを見つめた。
「よし、わかった。ただし、ひとつ約束できるか」
ディアの顔がぱあっと輝き、泉を縁どる草むらでぴょんぴょん跳ねる。
「ディアは大きくなった。だから、泉まではひとりで来てもいい。けど、ここから先、山の上までは決してひとりでは行かないと約束できるか」
「うん」と即答し、首がもげそうなほど全身でうなずく。深く考えていないことがまるわかりだ。父はまたひとつ大きなため息をこぼし、ディアの前に身をかがめる。
「泉より先は危険がいっぱいだ。父さんでも怖い」
それに、と言って立ちあがると、空に向かってピーーっとひと声長く鋭く指笛を吹く。
何かが樹木の折り重なる枝葉のすきまから一直線で降下してきた。
バサッ。
あたりの空気をなぎ倒して大きな鳥が一羽、父の肩に舞い降りた。下から見あげると白に黒の縞模様だった翼は、折りたたむと黒っぽい銀色にきらめいていた。
「ハヤブサのギンだ。こいつが常に見張っている。これの目をすり抜けることは、まず無理だろう。ディアが泉を超えたら父さんに報せてくれる。こっそりは無理だ。わかったか」
猛禽類特有の鋭い眼光でぎろりと睨まれ、ディアはこくこくとうなずく。
「ギン、おてんばな娘なんでな、よろしく頼むよ」
ギンはディアを一瞥すると、ふいと視線を前に戻す。相手にされていないことがわかった。
「さて、行くか」
父さんは肩にギンをとまらせたまま、ディアの手をつかんで片笑んだ。
道々どうして危険なのかを話してくれた。
「頂上までの山道は、ころころと道筋が変わる迷いの森なのさ。うっかりすると、父さんでも迷う」
分かれ道にぶつかると父は肩にとまっているギンに、どっちだ、と訊く。そのたびにギンは舞いあがり上空から確かめる。草原からのながめでは低い山に見えたが、鬱蒼とした樹間の道が延々と続いて途切れない。足が重くだるくなってきた。
「くたびれたろう。おぶってやる」
父さんがディアの前で背を向けてかがむ。ディアは激しく首をふり、「ダイジョブ」と小さな声でぼそりとつぶやく。
「無理するな。山がおまえを揶揄ってるんだ」
ディアはきょとんとする。
「この山はな、寂しがりやなのさ。子どもが来たもんだから遊んでやがる。まっすぐ頂上に向かって登ってるようにみえるが、おそらく螺旋状にぐるぐると周らされてる。三倍くらいは歩かされてるはずだ」
「だから、ほら」
また背を向けてディアをうながす。ディアは父の背に体をあずけ、肉の盛りあがった肩に顔をぎゅっとこすりつけ涙をぬぐった。ギンは道案内するため枝葉を縫いながら飛んで行く。
山がどうやって認知しているのかはわからない。だが、ディアがおぶわれたことでつまらなくなったのだろうか、しばらく進むと急に視界が開け山頂が姿を現した。
白茶にすすけた丈の高い草の原が広がっていた。穂先に白い綿毛のようなものをつけている。それが陽を浴びて金色に染まり、気ままにはしゃぐ風に撫でられ、あちらに、こちらにと無秩序にもてあそばれる。さえぎるものがないため海風が狂喜乱舞している。肩まで伸びたディアの細くてさらさらしたオレンジの髪は、払っても払っても顔に貼りついて離れない。しばらく進むと尾根がぐるりと輪になっているのがわかった。それを縁に椀のようにくぼみ、その中央に泉の五倍ほどもある大きな水たまりが父さんの肩越しに見えた。
「あれは湖。火山が噴火したその昔、山の先っぽが吹っ飛んだあとに雨水がたまってできたものだ。これ以上近づくと‥‥」
言いながら、父は突然、草原に膝をつき辺りの草をぎゅっとつかんで両腕を突っ張る。
どうしたのかと、ディアが背から降りようとすると
「降りるな! しっかりつかまってろ」
鋭い声で一喝された。
こんなに激しく叱られたことはなかった。ディアは脅えて父の首にしがみつく。父は四つん這いの姿勢で、そろそろとバックしはじめた。なぜそんな体勢をとっているのか、ディアには見当もつかない。肩からのぞく横顔は、唇を真一文字に引き結び、額には汗の玉が浮いていた。
五メートルほど下がると、ようやくその場に尻をついて体を起こした。ディアの足も地面に着く。父さんはさっと手を背に回してディアを抱きとり、胸の前できつく抱きしめた。腕のこきざみな震えがディアの背に伝わる。父さんの赤銅色の腕と海のにおいのする胸は大好きだけれど、あまりにきつく抱きしめられて息が苦しく足をばたつかせた。
「ああ、すまん」
父は我にかえってディアを解き放つ。
「火口には強い磁場があって引き込まれるから気をつけなきゃならん。今日は特に強かった。山がイラついているのか、ふざけているのか。いずれにしても父さんが油断した。怖い思いをさせて、すまなかった」
ディアには父の言っていることの半分もわからなかったが、山にも感情があることは、小鳥たちとおしゃべりするのと同じくらい自然なことのように思えた。山とも仲良くなることができればいいのに。ディアは火口の外輪に目をやる。
「今みたいに引き込まれそうになる危険もある。迷いの森になっているということもある。けどな、いちばんの危険は、山が寂しさに耐えきれなくなって火の粉とともに嘆きの礫を降らせることだ」
「だから、決してひとりで近づくんじゃない。わかったな」
「そうだ、この山には名前がある。ヴェスピオラ山、嘆きの山ともいう」
小鳥たちの危急の報せに、ディアが真っ先に思い出したのは山のことだ。嘆きの火の粉を散らしているのだろうか。だが、山の咆哮は聞こえない。吹きすさぶ潮風の甲高い声が耳をかすめるだけだ。それに小鳥たちがディアを引っ張っていくのは、山とは反対の海岸につづく道だった。
浜への坂道を駆け降りる。視界が開けると、波打ち際に何か黒い物が横たわっているのが目に入った。鳥たちが集まって、けたたましく鳴きかわしている。流木よりも柔らかそうで、黒っぽいイルカか何かに見えた。砂の上に散り散りに乱れているのは枝葉ではなく、もっとしなやかな縄か紐か海藻のようだった。
人魚という生きものがいると、旅の途中で休息に立ち寄ったアカウミガメが話してくれたことがある。腰から上は人で、足はなく腰より下はイルカの姿をしているという。「見たことあるの?」ディアが甲羅を両手でつかんでゆすり興奮でうわずった声で尋ねると、「いや、わしも長老様から聞いただけで見たことも、会ったこともない」ディアの剣幕にたじろぎ、もうしわけなさそうにする。
その人魚かと思った。
近づくにつれ確信にかわる。あれは、きっと人魚よ。そうよ。ディアの鼓動が速くなった。だって、人が横たわっているようにみえるもの。
砂浜に出ると、履いていた靴を空に蹴飛ばして裸足で走る。
ケツァールのヒスイが先導するように斜め前を飛ぶ。
人魚、人魚、人魚と、胸が跳ねて足が躍る。
だが近寄ると、半分がっかりして、十倍驚いた。
腰から下は海水を吸った布がぴたりと貼りついていたため、遠目ではイルカかクジラの腹のように見えたのだが、布の先から伸びているのは尾ひれではなく二本の脚だった。
人間だ。父さん以外の人をディアは初めて見た。
傍らにひざまずいて胸に耳を近づける。かすかに鼓動が聞こえた。まだ息はある。胸が豊かに膨らんでいるから、たぶん女の人だ。最近、ディアの胸が少し丸みを帯びて腫れてきた。何か悪い病かと、父さんに見せたら「ディアもだんだん大人の女性になるんだよ」と頭を撫でられた。
「誰か! 父さんを呼んできて。早く!」
生きものたちには自然界を生き抜くルールがあるから、むやみに助けてはいけないと教えられてきた。傷ついたものや死んだものは、別の誰かの生きる糧になるのだからと。
でも。この島に流れ着いた初めて見る父さん以外の人間。助けなければと、ディアの本能が激しく告げている。
「どうした!」
助けを求めるディアの叫びよりも早く、太い声が海風を切って轟く。ハヤブサが水平に空気を切り裂いて滑空してきた。ギンだ。浜の異変を察知して父さんに報せたのだろう。
「人か。息はあるのか」
尋ねると同時にディアを押しのけ、すばやく女の胸に両手を合わせて置くと規則正しいリズムで圧しはじめた。一、二、三、四‥‥三十を数えたら、鼻をつまんで口にかぶりつく。食べるのか? びっくりして、思わず引き離そうとディアは父の肩を引っ張った。
「口から空気を入れてるんだ、邪魔しないでくれ」
怒鳴ってまた胸を圧す。こんなに必死の父さんは初めてだ。上空で騒いでいる海猫たちをギンが鋭い眼光で睨みあげる。
ごぼっ。
ひとつ大きな音をたてて、女は腹にたまった水を吐きだした。空気が肺に届いたのだろう。げほっ、げほっと何度かむせ返す。涙なのか海水なのか。鳶色の目から水滴があふれ充血した瞳が大きく見開かれた。
大丈夫か、という父さんの問いかけには答えず、自身を取り囲むものたちを確かめるように、ゆっくりと潤んだ瞳をすべらせる。一巡するとディアに照準を合わせた。
「ここは‥‥どこ?」
かすれた声が尋ねる。ディアは何と答えていいのかわからず、「浜‥‥?」と首をかしげ、あわてて「東の浜」と付け足した。
「どこ‥‥の?」女はげほげほとむせながら問い返す。
生まれてから島しか知らないディアは、質問の意味すらわからなくて助けを求めるように父を見る。
「ここは漁師や海賊すら気にかけぬほどの小さな島でな。名はない」
「隠された島‥‥ではないのですね」
女は目を曇らせて押し黙ったが、はたと気づいたように、上半身を起こして周囲をあわててさぐる。
「たま‥‥私のにもつ、袋はどこ?」
「天卵のことか」
さっと女の顔が強張る。
ディアには「てんらん」という単語がわからない。
父さんは立ちあがると膝の砂を払い、波打ち際を右に歩む。その先の砂地に何か茶色いかたまりのようなものが転がっていて、赤や黄や青の色とりどりの小鳥たちが群れてはしゃいでいた。鳥たちの色の氾濫と太陽のまぶしさに邪魔されて定かではないが、かすかに光っているように見える。
「これか」
父さんは小鳥たちを追い払い、片手で高く袋を掲げる。しなった底辺のあちこちから海水が雫となって軒の小雨のごとくぽたぽたと並んで垂れる。砂まみれの袋は淡く光っていた。
「返して!」
女はあわてて立ちあがる。ふらふらとよろけながら歩み、砂に足をとられて倒れこんだ。すぐに両腕を支えにして顔をあげ、父のほうへと腕でにじり寄る。
「どうやら礼儀を知らないようだな。まずは、命を助けられた礼をいうべきじゃないのか。それに自分が何者なのか名乗るべきだろう」
女は胸に貼りついた砂を払いもせず正座し、父さんをきりりと見あげる。
「助けてくださったことは、心から礼を申しあげます。ありがとうございます。けれど故あって、名乗るわけにはまいりません。そして、どうかそれを返してください。私にはもうそれしかないのです。命よりもたいせつなものです」
「ふむ。この袋のなかの光るものが天卵であるとすれば、警戒するのもうなずける」
女はきっと父を見据え、今にも隙をついて飛び掛かりそうだ。
はははは。父さんが雲ひとつない青空に向かって楽しげにひと笑いする。
「悪かったな、返すよ。俺はノア。そっちは娘のディア。島にいる人間は俺たちふたりだけだ。そしてどういうわけか、この島は外の人間からは『隠された島』と呼ばれているらしい」
女はその言葉に両手を口で押え、まなじりをあげる。
父は女の前にかがんで微かに光る袋を手渡した。
女はそれを胸に抱きしめてしばらく額をつけていたが、ひとつ大きく吐息をもらすと顔をあげ、涙をこぼしながら片頬に笑みを浮かべた。
「で、どこの誰から『隠された島』の話を聞いたんだ」
まだ女はためらっていた。海風にさらされて赤銅色に光る太い腕と銀灰色の髪をむぞうさに束ねた男を、信じていいのかどうかを。
「ま、いいさ。厄介なものを守らなきゃならないんだ。海賊に追われたか、崖から落ちたか、乗ってた小舟が転覆したか。いずれにしても大変な目に遭ってきたんだろう。疑う、警戒するってのは、生きていくための基本だ。話したくなったら、話してくれ。ずぶ濡れじゃあ風邪もひく。俺は先に戻って風呂のしたくをしておくから、ディアと来るといい。ディア、頼んだぞ」
父さんは背を向けて手をひらひらと振る。ギンがさっと肩に飛び乗った。
「待って。お待ちください」
父が歩みを止めて肩越しに振り返る。
「数々のご無礼、お赦しください。私は、レルム・ハン国エステ村の領主イヴァンが娘、ルチルと申します。お察しのとおり私はふた月前に天卵を産みました」
鳶色のつぶらな瞳がまっすぐにノアをとらえる。
「そうか」
ノアは陽に灼けた顔に刻まれた皺をなぞるように、わずかに眼尻を下げてうなずく。
「ルチルというのか。腹もすいてるだろう。くわしい話は飯を食ってからでいい。脚の感覚がもどったら、ディアとゆっくり上がってきてくれ。ぼろ家は坂の上にある。俺たちが信用できないなら、浜の先に洞窟がある。そこでも雨風くらいは凌げるだろう、お姫様育ちにはちときついけどな。好きにしてくれ」
ギンが高く空に舞いあがる。先回りするつもりだろう。父さんは流れ着いた流木を拾いながら丸太小家のある草原へとゆるやかにカーブする坂道の先に消えた。
第6章「孵化」
「何もないが、昨日しとめた猪のシチューだ。猪は食えるか?」
テーブルには湯気のあがった鍋が置かれていた。
ルチルは海で冷えきった体を温め、ようやく体の芯が息を吹き返すような気がした。
風呂は戸外にあった。
なだらかな草原の丘の上に丸太造りの小さな家があった。その隣に簾で囲った一画があり、ここがお風呂よ、とディアが案内してくれた。
小さな池のようなものがあり、内側は石が敷き詰められている。石はしっくいで固められていて細かなすきまには貝や小石が埋め込まれていた。近くに熱水の湧き出る沢があり、そこから湯を引いているのだという。温泉というものがあると、いつかカシが話してくれたことがある。自然に湧き出る湯の泉があって、年中冷めることなく熱いくらいでとても心地よくて腰痛にも効くのだと。「どんなものか入ってみたいんですがねえ。ノリエンダ山脈を越えたその先の先ぐらい遠いんだそうですよ。生きてるうちに一度は行ってみたいもんです」とカシが云っていた温泉とは、これのことだろうか。
簾は海側をのぞく三方を囲っていた。空と海を眺め風に吹かれながら鳥たちと一緒に入るの、とディアが浜から続く坂道で話してくれた。
簾もね、とディアがいう。
「去年まではなかったんだよ。去年の誕生日にね、簾を立てるって父さんが言い出して。海が見えなくなるから嫌だっていったらさ‥」
と、くるりと振り返る。
「海のほうだけは開けていいことになったけど。おかしいよねえ」
なんと返そうかとルチルがとまどっていると、ディアは返事を期待したわけではなかったようで続ける。
「この子はヒスイ。あたしの相棒よ」
ディアの傍らをつかず離れず翡翠色の美しい翼をもつ鳥が飛ぶ。ちらちら見える赤い腹毛が印象的だ。ケツァールという鳥なの、と教えてくれた。
ディアは丘の上の家に着くまでさえずるようによくしゃべった。くるくると自在に変わる表情。少し走っては振り返ってルチルを見つめ、大きく首をかしげて笑う。ぴょんぴょん跳ねながら走っては戻ってくる。
――リスみたい。
湯につかりながらルチルは思い出してくすっと笑う。
カーボ岬から海に飛び込んで何日が経っただろうか。偵察隊のレイブンカラスは、ルチルと天卵が海に没したことを王宮に報告したろうか。白の森はぶじだろうか。
陽はちょうど中天を通りすぎたところで、金の鱗のように水平線の波がさんざめいている。その美しいゆらぎを眺めていると、ようやく助かったのだと実感できた。いっしょに湯につけている卵も、心地いいのだろうか、まぶしいくらいに黄金に輝いている。毎朝髪を梳いてくれたカシのやわらかな手の感触を思い出し、カシ、とつぶやいてみる。
「お父様、お母様、ブランカ」
声に乗せたとたん、これまで蓋をしていた感情があふれだし、熱く苦いものが喉を逆流する。涙の粒がとぎれることなく零れて湯に消える。ルチルは低く嗚咽を噛みしめながら、しばらく頬をつたいあふれる雫を流れるにまかせた。
「遠慮せず食べろ」
ノアが猪肉のシチューを皿によそいながらいう。ディアが貸してくれた単衣はルチルが着ると膝がみえたが、湯あがりの脚を風が撫で心地いい。
「山羊のミーファのミルクで作ってるんだよ。野菜は朝採ったばかり。山羊のミルクはきらい?」
ディアはテーブルから身を乗りだすようにしてシチューをすすめる。
ノアは皿に取り分けるとさっさと食べ始めたが、ディアはルチルから目を離さない。ルチルはディアに微笑むと、ひと匙すくってすする。喉をあたたかいものが滑りおり、胃の腑がじわりと温まる。ふうっと、ひとつ深い息をはき、おいしい、とつぶやく。ディアは、ぱあっと顔を輝かせ、ようやく椅子に腰かけて食べ始めた。
心からおいしいと思った。
そういえば、ずっとまともな食事をしていなかった。地下へ降りる前に、カシがパンやチーズを袋にいっしょに入れてくれていた。でも、暗い穴道を駆けるのに必死で口にすることはなかった。タテガミに乗って逃げているとき、シンから「食っとけ」といって渡された干し肉を齧ったくらいだ。こうしてテーブルについて、温かな食事ができることのありがたさを感謝せずにはいられなかった。領主の館では、食事は時間になればあたたかなものがテーブルに整えられていた。それを太陽が朝昇るのと同じくらいあたりまえのことと思っていた自分が、今は恥ずかしい。
天卵はノアが用意してくれた籐の籠に置いている。籠には藁が敷かれていて、まるで鳥の巣みたいだ。
ディアは好奇心が抑えられないのだろう。天卵とルチルにちらちらと視線を走らせる。訊きたいことが山ほどあるの、と顔にかいてある。それでも、ノアが「話したくなったら、話してくれ」と宣言したことを守っているのだろう。シチューをすすりながら器用に休みなくしゃべっているが、「人魚ってみたことある?」とか「きのうはシロイルカといっしょに泳いだんだよ」と話すばかりで、かんじんなことは尋ねない。
食事がすむころには、ルチルの心は決まっていた。
「隠された島のことは、白の森の王から聞きました」
ルチルはスプーンとフォークをテーブルに置いて姿勢をただす。
「大海のどこかに『隠された島』があって、そこなら追手から逃れて天卵を守ることができるだろうと。ただし、どこにあるかはわからない。常に嵐に守られているとも、海をただよう浮島だとも伝えられていて、白の森の王も見たことがないとおっしゃっていました」
「ハクのやつめ」
ノアが小さく舌打ちする。
「ハク‥‥とは?」
「知らなかったか。白の森の王の名だ」
ルチルが目を丸くする。
「白の森の王のことを知っているの?」
「まあな、古い知り合いさ」
「でも‥‥白の森の王は、隠された島がどこにあるか知らないと‥‥」
ルチルは混乱する。
ノアは頭を掻き、腕組みをして、目をつむる。しばらくその姿勢で何かを逡巡しているようだった。窓辺で鈴なりになって騒々しく止まり木の争奪戦を繰り広げていた小鳥たちも察したのだろうか、しんと口をつぐむ。
沈黙をやぶったのは、ディアだった。
「白の森の王って、だれ?」
目を開けたノアとルチルの視線がぶつかる。口を開きかけたルチルをノアは掌で制した。
「海のずっと向こうに大陸がある。大陸というのは、この島を何百個いや何億個つなげたくらいの大きな陸だ」
「島じゃないの?」
ディアが首をかしげる。
「周りを海に囲まれた陸地を島というなら、大陸も海に囲まれているから島になる。だがな、とてつもなく広くて、山をひとつ越えると海は遠い。その大陸に白の森という広大な森がある。森はこの島よりもずっと大きい。白の森を四つの村が取り囲んでいる。ルチルは東のエステ村領主の娘‥‥で、合ってるか?」
ルチルがうなずく。
「その白の森の王が、ハクって名の裑が透けた大きな白銀の鹿だ」
ノアが白の森の王のことを知っているのはまちがいない。王の御姿を正確に知っている。ノアも森に入ったことがあり、記憶を消されなかったということか。白の森の王はノアを信頼していると受け止めていいのだろうか。
「ふた月ほど前のある夜、流星が私のからだに飛び込み、星を宿しました」
ディアが驚いてそのつぶらな瞳をみはる。
「ああ、俺も見た。三つ流れたな」
「最後に流れた四つめが、私のからだに」
「そうか。何か起こりそうな予感がした」
「一週間後に天卵を産みました。はじめは鶏の卵くらいの大きさだったのが、こんなに大きくなった」
ルチルが天卵に視線をすべらせる。
「王宮に見つからないように気をつけていたのだけれど」
「どうして、見つかっちゃいけないの?」
それはな、とノアが『黎明の書』の一説を諳んじる。
「天、裁定の矢を放つ。光、清き乙女に宿りて天卵となす。孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。正しき導きには佳ごととなり、悪しき誘いには禍玉とならむ」
「何の呪文?」
ディアが不思議そうな顔をする。
「『黎明の書』という古い書物に記されている。重要なのは、『孵りしものは、混沌なり、統べる者なり』の箇所だ」
「どうして?」
「天卵から孵った人物は、世界を混乱に陥れるか、あるいは世界を統一すると伝えているからだ。天卵が王宮から追われるのはこの言い伝えのためさ。レルム・ハン国の王様にとっちゃ、天卵で生まれた者が国を乱すかもしれないし、王の座を脅かすかもしれないってことだからな」
お父様もそうおっしゃっていた。だから、王宮に天卵の存在を知られてはならないと。
「でも、王宮の偵察隊のレイブンカラスに見つかって、追手から逃れるために白の森をめざしました」
「どうして森に?」
そうか。ディアはこの島から出たことがないから、白の森のことを何も知らないんだ。
「白の森には人が入ることができないからよ。国王様でも」
なぜ、とディアの好奇心はとまらない。
「森の周囲は木や蔦が網の目のように生い茂って閉ざされているの。入ろうとすると木が枝やつるを伸ばして弾き飛ばされる」
「でも、ルチルは入れたのでしょ?」
「心からの祈りが白の森の王に届けば、森は開かれる」
ルチルは答えながら、ディアの次の「どうして」は避けなければと強く思った。「どうしてずっと白の森にいなかったの」と尋ねられれば、森の危機について話さざるを得なくなる。ノアは蝕のことを知っているのだろうか。白の森の秘密について、私が語るわけにはいかない。どうしよう。
「ここはどうして『隠された島』と呼ばれているのですか」
ルチルはディアの関心を白の森から遠ざける質問をする。
「常に嵐に守られている、といったな。だが、それはない。見てわかるように、嵐どころか、多少の風はあっても海は穏やかだ」
「じゃあ、どうして?」
ディアの「どうして」が方向を変えたことに、ルチルは胸をなでおろす。
「浮島だからさ」
「浮島? なに、それ」
「海に浮いていて、海流にのって漂流する。小さい島だし、地図にも描かれていない。船乗りたちの間で噂になったんだよ。行きはあったのに、帰りの航海では忽然と消えていたってな。それと……」
とノアが窓の外を指さす。
「あの山の磁場の影響で島の周りはコンパスが狂う。いわゆる魔の海域さ。それもあって『隠された島』と呼ばれるようになった」
「ふうん。葉っぱの小舟みたいなのね。好きなところに進んだりできるといいなあ」
ディアが無邪気に笑う。
「さあ、どうかな。食事がすんだなら、おまえも陽が陰る前に風呂につかってこい」
「お互い、まだ言えないことを腹に抱えているだろ」
ディアのよく響く声が遠ざかるのを待って、ノアがルチルの前に湯気のたゆたうカップを置く。窓辺でにぎやかにさえずっていた小鳥たちはいっせいに姿を消し、明るい歌声を輪唱で追って飛んでいった。もちろんヒスイも。
「ここには好きなだけ居てくれていい」
「頼るあてのない私にはとてもうれしい。でも、迷惑をかけることはまちがいありません。王宮に見つかるかもしれない。とんでもない事態に巻き込んでしまうかもしれません」
「ああ、そうだな。だがまあ、それも縁というものだ。あるいは運命ともいうか。ここに流れ着いたということは、天の意思もあるんじゃないのか。俺もやり残したことがあるからな」
「それに、そいつを」とノアは籠のなかで光る天卵に視線を向ける。
「禍玉にするわけには、いかんだろう」
この島にたどり着いて他人目を気にしなくてよくなったからだろうか、それともルチルの心が緊張から解放されたからだろうか。天卵は輝きを増している。
白の森の王に「隠された島」をめざすよう勧められたとき、ルチルはうかつにも、そこに人がいる可能性に思い至らなかった。浜で目を開けたとき、人がいることに驚くと同時に警戒した。けれども、不用意にこちらに踏み込んでこないノアのようすに信頼してもいいのではないかと思いはじめている。少なくともノアは、ルチルよりもはるかに天卵とは何かを知っているようだ。お嬢様育ちのルチルは、赤ん坊の育て方すらまるで見当がつかない。もうカシはそばにいないのだ。ノアに教えを乞うしかない。
「とろこで、ハクは元気か」
先ほどうまくかわしたと思っていた話を不意にふられルチルはうろたえる。
「ひょっとして蝕がはじまったか」
ノアのほうから核心に触れてきて、ルチルは気管がつまり心臓がぎゅっとなる。
「はは、図星か。ハクがいったん懐に受け入れた雛鳥、それも天卵を抱えた雛鳥を危険に晒すような行為にでるとは考え難いからな。何かあったのかと思ったのさ。警戒しなくとも、蝕とは何か心得ている」
ノアは顎をなでる。
「それにしても、周期が早いのが気になるな」
腕を組んで椅子の背に深くもたれる。
蝕の周期まで知っている。ノアとはいったい何者なのだろう。白の森の危機について話してもいいのだろうか。シンは、一連の森の危機は蝕について知るものの仕業ではないかと疑っていた。ならば、ノアも疑うべきなのか。わからない。わからない。誰か教えて。
――自分の頭で考えることさ。
シンの言葉が耳の奥で響く。
「ノアはどうして白の森について詳しいの」
「言ったろう、ハクとは古い知り合いだって」
「でも、白の森の王は隠された島がどこにあるか知らないと。それに‥‥。隠された島にノアがいることも教えてくださらなかった」
「ハクは白の森から出たことがないし、あいつは森そのものだから、そもそも出ることができない。この島のなりたちも知らんだろう」
「島のなりたち?」
「この島はもとは白の森につながる半島だった。ほら、そこの窓から山が見えるだろう。あの山、ヴェスピオラ山が噴火して大陸から切り離された。カーボ岬はそのときにできた崖さ」
「私はカーボ岬から海に飛び込みました。追手から白の森を守るために」
「そうか……」
ノアは口を半ば開けたまま顎を撫でる。
「よくその覚悟ができたな、たいしたもんだ」
華奢な娘にみえるが、芯には剛いものを秘めているのかもしれない。天卵の母に選ばれるだけのことはある。
ノアはルチルをしげしげと見つめる。
「一つ忠告しておくが、山の中腹にある泉より先には行くなよ」
ルチルは、どうして、と首をかしげる。
「泉より先は迷いの森になっている。あの山は嘆きの山ともいって、寂しがりやでな。山にやって来るものを迷わせて楽しむ。君みたいな素直なお嬢さんなら、揶揄いがいもある。えんえんと迷わされるぞ。だが迷いの森は遊びみたいなもんだ。もっと危ないのは」
迷いの森以上の危険があるというのか。驚いて顔をあげる。
「山頂付近は磁場が強くて、うかつに近づくと火口に飲み込まれる。ぜったいに近づくな。休火山で火口は湖になっているが、風呂に使えるぐらいの湯は沸いてるんだ。火口がどのくらいの熱水を吐き出しているかはわからん。鳥たちも山頂は避けて飛ぶ。知らずに通る渡り鳥たちが次つぎに墜落していくのを目にしたこともある。彼らにとっちゃ、とんだ災難だ。島の位置が海流の影響で変わるんだからな。例年の飛行ルートに島が移動していれば一貫の終わりさ」
なんということだ。ルチルは驚きで固まった口を両手で押える。
「天卵が孵ったら気をつけろ。ディアにもな」
「え、どうして」
「あの子も山の危険性はわかってる。一人ならなんとかなるだろう。そのくらいの知恵と経験も積んでいる。だがな、自然や大きな力というのは時に理不尽なんだ。幼子を連れてると……何が起こるかわからん」
ディアのくるくるとよく回る大きな瞳を思い出す。あの目でにっこりされたら、断れるだろうか。無邪気にさえずるように途切れることなく話すディアを止められるだろうか。
「ディアはすでに君にむちゅうだ」
遠くから小鳥たちのコーラスを従えた明るい歌声が近づいてくる。
「そろそろ島から出て人とふれあわせようと考えていた。だから、ルチル、君が島にやって来たのは、渡りに船というのかな、ありがたいと思っている。ディアのこと、よろしく頼む」
ノアが両手を膝について頭をさげる。
どうして「隠された島」と呼ばれる孤島に親子二人だけで暮らしているのか。母親はなぜいないのか。訊きたいことは山ほどある。だがそうした質問をうまくかわされた気がする。
――ものごとには、すべからく「時」というものがある。
お父様がよくおっしゃっていた。今はまだ、その「時」ではないのかもしれない。
* * * * *
島についてから天卵は、呼吸を解放するかのようにゆるやかな明滅を繰り返していた。小鳥たちもはじめは「この卵光ってるわよ」「変なの」と口やかましく騒ぎたてくちばしで突っつく不届者もいたが、そのたびにディアが「こらあ!」と追い払ってくれていた。ある朝、青い羽のオオルリが自分よりもずっと大きい天卵の上にうずくまり卵を温めだした。すると真似るものが日に日に増え、オレンジや青や緑の多彩な羽がにぎやかに席取りをする。それを天卵もよろこんでいるようで、鳥たちの鳴き声に合わせて歌うように明滅していた。
「温めたら孵るってもんでもないんだけどな」
本能なのか、と鳥たちのようすにノアは苦笑しながら、心の臓の音を聞かせてやるといい、と教えてくれた。家事が一段落するとルチルはできるだけ卵を抱いていた。天卵を慈しんでやっているというより、わたしが慰められているのかもしれない、とルチルは卵に頬ずりする。
自身が何もできないことを思い知り、ルチルは日々へこんでいた。
世話になるのだから手伝いをさせてくれと申し出た。
それなのに。料理ができないのは致し方ないとしても、洗濯のしかたすらわかっていなかったことが情けなかった。
小屋の裏を流れる小川に洗濯物を運ぶと、ディアから長方形の板を手渡された。等間隔で溝が刻まれている。
――この板は何? これも洗うのかしら。
尋ねようと振り返ると、ディアはてきぱきと洗濯物を二つのたらいに選り分けているさいちゅうだった。
腕まくりをして川べりに立膝になり右手につかんだ板を川につける。左手で洗おうと前のめりになると、水流が想像以上に速く、板はするりと滑って流れにもっていかれてしまった。あっと思った瞬間に、ルチルは姿勢をくずし派手に水の跳ねる音を立てて顔から川につっこんだ。
「どうしたの!」
ディアが叫んで、腰から引きあげてくれた。
とっさに両手を川床についたため、顔を水面に激しく叩きつけたくらいですんだが、上半身はびしょ濡れだ。
あはははは。ディアの明るい笑い声が響く。
「ルチルは自分を洗濯したんだね。お陽さまが元気だからすぐに乾くよ」
「ごめんなさい。板を流してしまったの」
「だいじょうぶ。葦の淀みでひっかかってるはずだから。待ってて」
言い終わらないうちにディアは駆け出し、ほらね、と板をもって戻ってくると、しなびた薄茶の草を一束ルチルに渡す。葉の裏にぬめりがあった。
「この石鹼草を濡らしてよくもんで、板の上で擦るの」
ディアが板に押しつけて擦るにつれて、細かな泡が生まれ膨らんでいく。たちまち板は大小無数の泡で包まれた。それをほんの少し掌ですくいディアがふっと息をふきかけると、陽の光を浴びて七色に輝く小さな泡が空にただよい弾けた。ふふ、とディアが笑って振り返る。
「光の泡で洗うときれいになるよ」
泡立った板に衣服を押しつけ揉むように洗いはじめた。
「ルチルは洗濯板を知らないんだね」
ディアはふしぎそうに首をかしげる。
「シーツとか大きいものはたらいにつけて、足で踏んで洗うんだよ」
スカートの裾をもちあげ歌を口ずさみながら、たらいの中で楽しそうに足踏みしている。
「ほら、気持ちいいから、ルチルもやってみて」
一事が万事こんな調子で、床の水拭きから山羊の乳の搾りかた、竈の火の熾しかたまで、年下のディアにすべて教わらねばならなかった。自らに向かって吐くため息は心の底に澱となって沈殿していく。
「お嬢様って何もできない人のこと?」
夕食の席でディアが訊く。悪気はかけらもないことはわかっている。思ったことが言葉になるだけ。わかっている。でも、さすがにこたえる。
「できないんじゃなくて、しなくてもよかったというだけさ」
ノアが七輪で焼いていた魚の串をはずして皿に盛りつける。
「どうして?」
ディアの「どうして」がまたはじまった。
「代わりに料理をしたり、掃除をしたり、洗濯をしてくれる人たちがいる。そして、その人たちの仕事を奪っちゃいけないのさ」
カシや召使いたちがすべてを整えてくれることをルチルはこれまであたりまえのことと疑わなかった。
「へえ。つまんないね」
うつむいてスープを啜っていたルチルは、はっとして顔をあげる。
「床を水拭きすると、す―っと滑って楽しいし。魚釣りも洗濯も山羊の乳を搾るのも、どれもすっごく楽しいのにね」
ディアにとって家事も遊びのひとつなのだ。ディアとなら天卵から孵った子も、毎日を楽しめる、どんな状況でも生きていける子に育てられそうな気がする。
卵が孵るまでに手際は悪くともあらかたの手順を覚えることができたのは良かった。一日の仕事を終えると赤ん坊の服のこしらえ方をノアが教えてくれた。ディアとおしゃべりしながら、服を縫い、糸を紡いで靴下を編んだ。情けないほど不格好なできではあったけれど。
それにしてもこれらの布や白蝶貝のボタンは、どこで手に入れたのだろう。布まで作っているようすはない。
「近くを通る船に交換してもらうのさ」
汲みたての清水や新鮮な山羊のミルクは重宝される。
「航海で貴重なのは水だからな。たいてい欲しいものと交換してくれる」
近づいてくる船影や船団を見つけるとギンが報せる。気前よく取引に応じてくれた船は、帰りの航海で島が消えていることに驚き「隠された島」との通り名が広まったらしい。
「あたしもね、その、ブツブツコウカンていうのに行きたいって、もう何度も何度もお願いしてるんだけど。まだ、一度も連れてってくれないの」
ディアが頬をふくらませる。また今度な、とノアが立ち上がる。
ノアは何を恐れているのだろう。どうしてディアを隠したがるのだろう。
「隠された島」とは、ディアを隠すための島のようだ、とルチルは思った。
美しい満月の夜だった。
ルチルとディアは一年でもっとも美しい月夜を楽しもうと、海をのぞむ草原に並んで座っていた。二人のあいだに天卵の籠を置いて。ヒスイはディアの肩に止まっている。
夕陽が群青に透ける闇をつれて水平線の彼方へと遠ざかってゆく。入れ違うように闇を統べる白い月が姿をあらわし、海原は透明に輝きはじめた。
白い月光が草原を明るく照らす。すべてを支配する太陽の明るさではない。闇を透明にする明るさだ。世界が澄んでいく。ルチルの胸の澱も晴れていくような気がした。群青の波間に白く月の道がたゆたっている。
ルチルは天卵を身に宿してからのことを思い返していた。
たった二月ほど前のことなのに、以前の暮らしは遠い昔のことに思える。トビモグラに守られながら地下を駆けているとき、「これは悪夢で目が覚めれば屋敷のベッドにいるのよ」と頭の奥で繰り返していた。それが今ではどうだろう。この草原に天卵といること、ディアと月を眺めていることこそ確かな現実で、屋敷で過ごした日々のほうが幻のように思える。島に来て、何ひとつ満足にできないと知った。父母の大きな羽の下で雛鳥として守られることに満足し、世界を見ようとも飛び立とうともしてこなかった。自らの毎日が誰かの労働によって成り立っていることにも無頓着だった。手があかぎれで荒れ、柔らかな足裏がまめで固くなろうとも、自らの体を駆使することは、今ここで生きている、そのことを確かな手触りで実感させてくれる。
この月はお父様とお母様を、カシを、ブランカを同じように照らしているのだろうか。シンはラピスを抱いて白の森から月を眺めているだろうか。それぞれの場所に、それぞれの生きる現実がある。
そういえば今夜はディアが静かね。そっと隣に目をやると、ディアは惹きこまれるようなまなざしで月を見つめている。海風がディアのオレンジの髪を巻きあげ、月と同じ色に輝く。
月光に呼応するように、脇に置いていた籠のうちで天卵が明るく瞬きはじめた。みるみる光量を増していく。ディアも気づいたのだろう。二人で顔を見合わせる。
月が中天に昇りきったそのときだ。ひときわ鋭い月光が一条まっすぐに天卵を射た。するとあたりの闇を薙ぎはらうように、卵が燦然と黄金の光を放ちはじめた。あまりの眩しさにルチルは一瞬、目をつぶる。
「父さん、卵が!」
ディアが叫ぶよりも早く、ノアがたらいと木桶を携えて駆けてきた。
「今夜あたりじゃないかと思っていた」
「天卵が孵るのでしょうか」
「ああ。天卵は満月の夜に孵るといわれている。しかも、一年でもっとも力の高まる望月を選ぶとは。この卵が天命を背負っていることはまちがいないようだ」
天卵は煌々と輝きを放つ。
まるで月光のエネルギーを吸い取って自らの輝きに変えているようだ。光と光がつながりあい拮抗する。月から降りそそぐ銀の輝きと、地上から放たれる黄金の輝き。それらが中空で弾けあい光の粒が散乱する。
なんて美しいのだろう。
ルチルは恍惚として「いのちの……輝き」と小さくつぶやく。
「まさにいのちの輝き、この世に生まれるという覚悟の光だ」
籠に手を伸ばそうとするディアの肩を押さえながらノアがこたえる。
卵は天頂に達するほどのまばゆい光のきらめきを放った。
あたりが昼のように輝く。
ピシッと鋭い高音をたて殻にひびが入る。稲妻が走るように亀裂が広がっていく。
卵が割れる。天卵が孵るのだ。
ルチルは籠の脇に膝をつき、両手を胸の前で固く握りしめ喉の奥をぎゅっと縮こませる。ディアは父の手を振りほどきルチルの肩を抱く。ノアは立ったまま娘たちと天卵を見守る。ハヤブサのギンは草原の真上であたりを警戒しながらホバリングしていた。ヒスイはディアの肩に止まり美しい尾をぴんと張っている。小鳥たちも次つぎに集まってくる。五頭の山羊たちは、白い顎ひげが地面に届く長老山羊を囲んで光に慄き固まっている。山からサルやイノシシも降りてきた。島中の生きものたちが集まってくる。天卵の光を遠巻きにして、生きものたちの輪が幾重にも取り囲んでいた。
亀裂が卵の両端に達すると、天に向かってひときわ強烈な閃光が放たれ、殻が粉々に弾け飛んだ。打ち上げ花火のように目的の高度に達した光は暈となって開き、地上にまばゆく澄んだ黄金の光の粒が降る。
おぎゃ、ほぎゃ。ほぎゃあ。
光に目を奪われていたルチルは、静寂をはらう泣き声にはっとして視線を地上にもどした。まぶしい光に目を眇め籠のうちを見る。
黄金の髪を額にはりつけた頭がみえた。横を向いてこちらに背を向けている。ルチルは目を細めたまま視線をゆっくりと左にずらし、そこで目を見開いた。赤ん坊の足もとにもう一つ頭があったのだ。こちらは銀髪だった。互いの顔を寄せ合い、二つの勾玉が向かい合うような形でおさまっていた。
「なんと、双子か」
ノアも驚きの声をあげる。
第7章「もうひとつの卵」
「ソラ、引っ張っちゃだめー」
丸太小家にはにぎやかな叫び声が響き渡る。風が笑うように吹きすぎる。
ディアの阻止もむなしく、麻袋から小麦粉が散乱し床に白い山を築く。傍らで双子がきゃっきゃっと笑い声をたてて粉まみれになっている。二人は粉を手ですくっては撒き散らす。ふわりと浮いた粉がきらきらと光る。陽の光によるのではない。双子たちの躰がぼうっと輝いているのだ。光背かオーラをまとっているようだ。
ルチルは金髪の子を抱きあげ顔の粉を払うと、椅子に腰かけ、右の乳房を吸わせる。ディアはソラと呼ばれた銀髪の子をかかえあげ、左の膝に置いてくれる。ソラは自ら乳にむしゃぶりつく。
「二人いっぺんは、たいへんだろう。一人ずつにしたら、どうだ」
ノアにあきれられるが、ルチルは首をふる。
双子で生まれたのだから二人一緒がいいように思うのだ。それにノアの云うとおりなら、乳を与えるのもあとひと月かふた月で終わってしまう。
「天卵で生れた子は、ふつうの子のおよそ三倍の早さで育つ」
双子が孵る前にノアが教えてくれた。
野生の生きものたちと同じように、天卵の子は生れてすぐ歩けるのだとも。ただし二足歩行ではなく四足歩行、つまり這い這いができるということだった。
これがやっかいの元凶だった。
とにかく這いまわってあらゆるものに手を伸ばす。小麦をぶちまけるぐらい、たいしたことではない。水桶を倒して床を洪水にする。油断していると箒の先をくちゅくちゅ噛んでいる。油壺をひっくり返していた日は、洗濯物を抱えたディアが滑って派手に尻を打っていた。
「シエル、だめ!」「ソラ、待って!」と二人を止めるディアの声がたえず響くようになった。
ルチルは双子にシエルとソラという名をつけた。
金髪の子はシエル。銀髪の子はソラと。キンとギンはどうかとディアは云ったけれど、首をふった。
「父さんのハヤブサがギンだから?」
「そうじゃなくて。金貨のほうが銀貨より高いでしょ。そんなふうに優劣をつけたくないの」
「金のほうが銀より上なの? 銀もきれいなのに」
ディアが眉をしかめる。
「金も銀もどちらもそれぞれの美しさがある。だがな、市場では金貨のほうがたくさんの物と交換してもらえて、価値が高いとされてるんだ」
ノアはため息まじりに続ける。
「鉱石としての金と銀に優劣はない。どちらも大地がこしらえる岩の一部さ。そこに価値というくだらん物差しをつけ目の色を変えるのは人間だ」
「ふうん、変なの」
ディアは納得がいかないように首を振っている。
「だがまあ、キンとギンという名はやめたほうがいい」
「どうして?」
「金髪の子がキン。銀髪の子がギンじゃ、すぐに覚えられちまう。王宮から狙われてるんだから、記憶に残りやすい名前は避けたほうがいいだろう」
「シエルとソラは、どうでしょう」
親子の会話にルチルが割って入る。
「シエルもソラも、大空を表します。この子たちがどんな使命を負って生まれたのかはわかりません。でもどんなときでも、心に空を持っていてほしいから」
「いい名だ」
「あんたはシエルだって。君はソラね。あたしはディア。よろしく」
ディアが双子を抱きあげて、それぞれの頬にキスする。
「だけどノア」
とルチルは首をかしげる。
「もう、王宮から追われていることを気にしなくてもいいんじゃないかしら。だって、卵のときは天卵とわかったけど。今では見た目は、ふつうの子と変わらないもの」
卵が孵ってからずっと思っていたことを口にする。
「そう思うか」
ノアは顎をさする。
「卵から孵ったときに比べるとずっと弱くなっているし、俺たちは慣れもあって忘れがちだがな。よく見てみろ、この子たちの躰。ぼんやりと光っているだろう。成長するにつれて制御できるようになるから、光が外に漏れることもなくなる。だが、緊張したり危機に瀕すると、とっさに輝きを増す」
あっ、とルチルは両手で口を押さえる。
「追手が迫っているような危機的な状況になればなるほど輝くから、目立ってよけい危険になる。それをうまくコントロールできるようにならなくちゃな。一歳を過ぎたら訓練をはじめよう」
ノアはほんとうによく天卵のことをわかっている。どこでその知識を得たのだろうか。
シエルとソラはノアのいうとおり通常の三倍のスピードですくすくと成長していた。あとひと月も経たないうちに歩きだすだろう。すでにつかまり立ちをしてテーブルの上のものに手を伸ばそうとしている。
ルチルの乳も順調に出ている。ただ、それだけでは双子の成長には追いつかないため山羊のミルクを山羊革の袋に入れて与えている。赤ん坊のディアはこれで育ったそうだ。ということは、ディアの母は産後の肥立ちが悪くて亡くなったのだろうか。
乳を飲み終えると、ソラにミルクのたっぷり入った山羊袋を渡す。ソラは床に座って両手で圧しながら器用にひとりで山羊のミルクを飲む。だが、シエルは、ルチルの膝にのせて袋を圧すのを手伝ってやらなければいけない。
シエルの左手は産まれたときから固く握ったまま開かないから。
異変に気づいたのはノアだ。
天卵から孵ったばかりの双子の放つ光がしだいに鎮まると産湯につけた。一人ずつ手早く体を洗ってやっていたのだが、金髪の赤ん坊を洗っていて手が止まった。
「この子の左手が開かないな」
ルチルは銀髪の子を湯につけていた顔をあげ、視線を向ける。赤ん坊をくるむ晒を取りに小屋に戻っていたディアも、どうしたの、とたらいを覗きこむ。
ノアは金髪の子の頭を支えながら、ひとさし指で赤ん坊の右手をちょんちょんとつつく。すると開いてノアの指をぎゅっとつかむ。けれど、左手に同じことをしても握りしめたまま開かない。こじ開けようとしてもだめだった。
「そっちの子を貸してみろ」
ルチルが銀髪の子をノアに手渡す。銀髪の子は両手とも難なく開いた。
「しばらく様子をみてみよう」
ノアにわからないことが、ルチルにわかるわけもなかった。
できることなんて膝に抱きあげ、握ったままの左手の指を撫でてやるくらいだ。
左手が機能しないためシエルは右手でしかルチルの乳房も圧せないし、ミルクの革袋もうまくつかむこともできない。這うスピードもソラより遅い。つかまり立ちも危なっかしい。ソラのほうがシエルよりも何でも早くできるようになり、そして上手にできた。双子のちがいが顕著になるほど、ルチルはせつなくなった。もう、ひと月をとうに越しているのにシエルの左手は固く握られたままで、ルチルは開かないシエルの左手を両手でくるんで持ちあげ、月明りにかざしてそっとキスをする。
シエルの左手が、生後二か月を前にしたある日、突然、開いた。
思い返せばその少し前から、しきりに右手で左の拳をさすっていた。さすりながら、ぐふっ、ぷぷ、ぐふっと奇妙な笑い声を立てていたから、なにか一人遊びでも見つけたのかしらと思っていた。
いつものように椅子につかまり立ちをしたときだった。
ぐふふふふっと、くぐもったような妙な笑い声をあげ、椅子にのせていた左手の拳を、不意にくるりと返して掌側を上に向けた。くすぐったいのか身をよじりながら、小指から順に一本一本、五本の指をゆっくりと開いていったのだ。
ルチルは驚いて手に提げていたミルクピッチャーを落としそうになった。
それだけではない。開いた手から茶色い斑の入った小さな鶉のような卵がぽろりと転がり出た。
「どうして。どうして卵が、シエルの手に」
ルチルのとまどいにかまうことなく、卵は椅子の上を転がる。慌ててつかもうとしたが、まにあわず反対側から落下した。
――割れる!
ルチルは息を詰まらせて、シエルを抱きしめる。
卵がぽーんとピンポン玉のように跳ねて‥‥ ひと周り大きくなった!
ルチルは目をみはる。シエルは卵の跳ねるようすにきゃっきゃっと声をたてて笑っている。
卵は跳ねるたびに大きくなる。
ちょうどそのとき、脱走したソラを追いかけていたディアが、ようやく捕まえたのだろう、抱きかかえて入ってきた。ノアも一緒だ。
ディアが驚いて叫ぶ。
「あれは毬? それともトビネズミ?」
「ちがう。シエルの手……左手から、たま……卵が」
ルチルは焦って口がもつれる。
「卵だと!」
ディアとノアも、部屋の中を跳ねまわりながら大きくなる卵になすすべもなく呆然と立ちつくす。小鳥たちは不規則な卵の動きに羽を散らして逃げ惑う。卵はルチルがテーブルに置いたミルクピッチャーを倒し、棚に並んだ塩やハーブの瓶を蹴散らし、灰壺に突っ込んでそこら中に灰をばらまく。シエルとソラの笑い声だけが響く。
アヒルの卵ほどの大きさになると、最後に大きくバウンドして天井に激突し、その勢いで床を叩き卵が割れた。
時が一瞬、止まった。
皆が固唾をのみ、つぶれた卵に視線が集まる。
殻を下から押しあげるようにして、黄金の翼が羽を広げた。殻の欠片がついている。ばさっとひと振りして払う。胸に埋めていた首を伸ばすと鋭い嘴が現れた。
鷲か――、と誰もが思ったそのとき、ゆっくりと上体を持ちあげた。
黄金の翼の下から現れた前脚は猛禽類の鋭い鉤爪を備えていたが、立ちあがると白い毛並みのたくましい獣脚類の下肢が躰を支えていた。
どよめきが伝播する。ごくりと、ルチルが唾を呑み込んだ。
鷲の躰にライオンの下肢をもつという伝説の神獣グリフィンか。
姿は伝説のとおりなのだが、身の丈はルチルの両手に乗るほどしかない。グリフィンの幼生だろうか。ルチルは答えがほしくてノアに目をやる。
「ビュ……」
ノアは孵ったばかりのグリフィンをまじまじと見つめ、何かをつぶやきかけて口をつぐんだ。口を真一文字にきつく結び天井を仰ぐ。
グリフィンの誕生に驚いているのでも、喜んでいるのでもない。そのまま窓辺まで歩むと、窓枠に両手をついて遠くヴェスピオラ山に目をやる。
ノアはグリフィンに遭ったことがあるのだろうか。
小さなグリフィンは翼のぐあいを確かめるようにそろりと羽を広げ、バサッバサッと振る。ふらふらとよろつきながら羽ばたいていたが、風が起こり、埃が舞っただけで飛び立てはしなかった。
第8章「嘆きの山」
隠された島は嘆きの山の支配下にあるといっていい。
島のなりたちがそうなのだから。
カーボ岬の先端にあったヴェスピオラ山が噴火して大陸から切り離され、海を漂う浮島になった。五百五十年も昔のことだが、山にとってはひと眠りほどの時にすぎぬ。
――なぜ噴火したのだったか。昏い憤懣のようなものが爆発した気がする。あの男が必死で鎮めようとしていたな。だが、人ひとりの力で何ができるというのだ。愚かなことよ。噴火のあと何かが吾に飛び込んだ。そうして吾は眠りについた。
ああ、あの少女はおもしろい。吾と仲良くなろうなど小賢しい童よ。鈴のような声と歌で、澱となって淀んだものをわずかではあるが払ってくれた。だが、共に眠っていたものがどこかへ行った今、吾の寂しさはもはやそのくらいでは晴れぬ。
グリフィンはいつまでたっても、飛べなかった。
鋭いくちばしと鉤爪をもった小型の毛ものに双子は夢中になった。
競うようにグリフィンを追いかける。歩けるソラは、そこら中のものを蹴り倒しながら追う。グリフィンは床に散乱する壺やたらい、羽根箒や木蓋などのすきまをかいくぐり、ソラの手をすり抜け、もたもたと這うシエルの背に跳び乗る。翼でひらりと飛ぶのではない。頑丈な後ろ脚でジャンプする。シエルの服を鉤爪でがしりとつかんで背に這いのぼる。それをめがけてソラが猛突進し、シエルの背に倒れこむ。グリフィンは寸前で跳びのき逃れる。ソラに押しつぶされたシエルが泣く。
そんな光景が日に何度も繰り返された。
逃げる途中も翼をばさばさっと羽ばたかせて風を起こし飛びあがろうとするのだが、椅子の座面ほどで落下する。
「ビューは、なんで飛べないんだ」
ノアが首をひねる。
ビューとは、グリフィンの名だ。いつのまにか皆がそう呼ぶようになった。
グリフィンの雛は常に翼をばたつかせていた。飛べないことがもどかしいのか、食事中でもばたつかせるから餌があおられて飛び散る。羽ばたくたびに、びゅっびゅっと空気が震える。そのようすにシエルはグリフィンを指さし、まわらない舌で「びゅー」「びゅー」と言うようになり、それが名になった。ノアは複雑な顔をしていた。
もう一つ、ノアをとまどわせていることがある。
ビューは食欲旺盛だ。ハヤブサのギンが仕留めてきた魚を次から次へとたいらげる。日に十匹以上は食べている。それにもかかわらず、ほとんど大きくなっていない。
「グリフィンの雛は、ひと月もすると成獣と同じ大きさになるはずなんだがなあ」
ノアは腕を組んで考えこみ、ヴェスピオラ山を仰ぎみる。
ビューが孵ってからノアは、嘆きの山を睨むように眺めていることが多くなった。
「また、山を見てるの?」
ルチルはソラに泣かされたシエルをあやしながらノアに近づく。
「なんだ、またソラにやられたのか」
ノアはシエルの頭を撫でる。シエルは目尻に涙の粒を残したままノアを見あげて笑う。ノアの厚い手はシエルを安心させるようだ。
――天卵の子に母はいても、父はいない。
お父様の言葉が耳をかすめる。父という存在の重さを思わずにはいられなかった。
「ノアは天卵のことも、グリフィンのこともよく知ってるのね」
「そりゃ、君よりも長く生きてるからな」
それだけだろうか。
お父様が知っていたのは『黎明の書』が伝えていることだけだった。天卵の子が三倍の早さで成長するとは教えてくれなかった。ましてやグリフィンなど伝説の神獣としか知らないだろう。けれどノアは、かつて天卵の子にもグリフィンにも遭ったことがあるかのように生態に詳しい。白の森の王とも古い知り合いだという。ノアとはいったい何者なのだろう。どうして隠された島で暮らしているのだろう。
「最近、よく山を見てるわね」
「嘆きの山のようすが気になってな」
「ビューと関係がある?」
ノアがほおっと目を細める。
「どうして、そう思う?」
「ビューが孵ったときも。飛べないとわかったときも。その窓から山を眺めてた」
「窓に寄りかかるのが癖なんだ」
ま、思い過ごしさ。とノアはルチルの肩をぽんと叩き、猪をさばいてくると出て行った。
――思い過ごしだろうか。
ルチルはシエルを床におろし、嘆きの山を眺める。その横をかすめるように翡翠色の翼に赤い腹毛が映える美しい鳥が、すーっと窓から滑りこみディアの肩に舞い降りた。
――泉より先にひとりで行ってはいけない。
五歳の日に父と交わした約束をディアは守った。いや、守らざるをえなかったというべきか。好奇心の止められないディアは、こっそり泉を越えようと何度も試みたが、そのたびにギンに見つかっていた。
迷いの森の入り口に近づくと、すっとギンが現れディアの額をつつき髪を引っ張る。しかたなく泉まで戻っても許してくれない。その日はあきらめて帰ったが、家に入るまでギンはそばを離れなかった。父さんは戸口で腕組みをして立っていた。
それで懲りるディアではない。泉で遊んでいるふうを装いながら空を確認し、ギンに見つからないよう樹々の葉蔭を選び藪や樹間を歩いた。それでもハヤブサの目をくらますことなどできず、先回りした枝先から鋭い眼光で睨まれ連れ戻された。
そんなことを何度か繰り返していたある日、父さんが丸太小家の前からディアを呼んだ。エメラルドグリーンに輝く翼と赤い腹毛のコントラストがあざやかな鳥を肩に止まらせている。戸口に続く丸太の階段に腰かけ、ディアにも座るようにうながす。
「何度も泉を超えているそうだな。ギンにやっかいをかけてるだろ。なぜ約束が守れない」
ノアは娘に静かに問いただす。
「お山の上まで行きたいんじゃないの。山と遊んであげたい。だってひとりぼっちは、つまんないでしょ」
「おまえが鳥や毛ものたちだけでなく、花や草、風とさえも心を通わせようとしているのは知っている。生きとし生けるものすべてを等しく愛することができるディアを父さんは誇りに思う。だがな、迷いの森から帰れなくなったらどうするつもりだ」
ディアは口をつぐんでうつむく。わずか五歳では想いと好奇心が先走り、その先を考えていなかった。
「山の上には決して近づかないと約束できるか」
ディアは立ちあがり、父の前に立つ。
「約束する。ぜったいに守る」
決意に満ちた灰金色の瞳をノアは無言で見返す。海風が樫の葉を揺らす。
「よし、ならば、こいつをおまえにやる」
ノアは左肩に止まらせていた美しい鳥を右腕にとる。ギンより少し小さいが、小鳥たちよりはずっと大きい。
「こいつは雄のケツァール。美しいだけでなく賢い。森に連れていきなさい。帰り道を教えてくれる」
ノアが腕をひと振りすると、ケツァールはディアの腕に飛び移った。つぶらな瞳がディアを見つめる。美しい緑の翼をディアはそっと指先で撫でる。
「名はどうする?」
ケツァールが片翼を広げる。緑の羽毛は陽をあびて宝玉の翡翠色に輝く。
「ヒスイにする」
「いい名だ。ヒスイ、ディアのこと頼んだぞ」
ヒスイはもちろん、というように赤い胸をふくらませる。
ディアは迷いの森では、意思を森に明け渡す。自分からどちらに行こうと思わない。森が示す道を進む。山を恐れず、迷路を迷路として心から楽しみ、山に話しかける。ヒスイは迷いの森でディアが迷子になりかけると、「ディア、こっちだ」と前を飛ぶ。陽が傾きかけるよりも早くディアに帰ろうとうながす。夜もディアの部屋の止まり木で眠った。
ヒスイはディアのよき相棒だった。
「私にもね、シロフクロウのブランカがいたのよ」
ルチルはディアに話した。ヒスイとディアを見ていると思い出しちゃった、といって。
ヒスイは双子の見守りもしている。やんちゃなソラは、すぐに家から脱走しようとする。生れて三月が過ぎるころには、ソラは走り回るようになり、ますます目が離せなくなった。ルチルはソラよりも発達の遅れがちなシエルの世話に手をとられる。しぜんとソラの面倒はディアとヒスイ、シエルはルチルという役割分担ができあがった。
ルチルはそのことを気に懸けていた。
双子なんだから平等にしたい。同じだけ抱いてやりたい。だがその想いはいつも空振りに終わる。一人っ子でおっとりと育ったルチルは、ソラのすばしっこさについていけない。扉のすきまからソラが脱走するのに気づいても、あっと思ってから動き出すまで一拍ほどの間があく。
騒動を起こすのは、たいていソラだった。
グリフィンのビューはいっこうに成長しない。だが、その小ささが二人にとってはちょうど良いおもちゃになっていた。ビューはシエルのそばを好んだ。それがソラは気にくわない。
ある日、ソラはシエルの肩に乗っていたビューに背後から忍び寄り捕まえるのに成功した。きつく握りしめられたグリフィンは、逃れようと鋭いくちばしで容赦なくソラの手をつつく。ソラの手が血で染まる。ルチルは悲鳴をあげた。
「ソラ、ビューを放して!」
ディアがソラの手をつかんで指をこじあけようとするが、ソラはどんなにつつかれても放さない。ヒスイがグリフィンを攻撃する。シエルはソラの血をみて大泣きする。小鳥たちも飛びまわって騒ぎたてる。
「いったいなにごとだ!」
部屋に駆け込んだノアは、グリフィンを鷲づかみして血だらけになりながらも、泣きもしないソラを見つけると、にたりと笑った。
「たいしたもんだ」
といいながら、ソラを膝に抱きあげる。
「立派な狩人だな、ソラ」
ソラの頭を厚い手で撫でる。
「ビューは好きか。遊びたいか」
ソラがこくんとうなずく。
「じゃあ、これはどうだ」
ノアがソラを背後から羽交い絞めにする。ソラが足をばたつかせる。
「苦しいだろ」
ノアが手をゆるめる。
「ビューも同じだ。このままじゃ死んじまう。放してやれ。ビューおまえもだ。黄金を傷つけてどうする」
グリフィンはぴくっとして、ソラの手に突き立てていたくちばしを引っ込める。ノアが太い腕をグリフィンの脚もとに差しだす。ソラが固く押さえこんでいた手を放すと、ビューはノアの腕に跳び乗る。
「ソラ、えらいぞ。腕を出せ」
ノアはグリフィンをソラの腕に移す。
「ここを撫でてやるんだ」
ノアが指の背でビューの胸毛を撫でる。ソラがまねる。
「いいか、ソラ。シエルもだ。グリフィンは誇り高い神獣だ。敬意をもって接しなきゃならん」
ソラが大きくうなずく。シエルもこくこくと叩頭する。
ビューが首を伸ばして両翼を広げる。まだ小さくて威厳はない。
ノアが口にした「黄金」をルチルは聞き逃さなかった。微かだが確かにビューはその言葉にぴくりと反応した。ソラは、いや天卵の子はグリフィンにとって黄金なのだろうか。幼いころに読んだ物語のグリフィンは洞窟の奥の金の財宝を守っていた。同じようにこの子たちを守ってくれるのだろうか。でも、ビューは飛べないし、シエルやソラよりずっと小さい。今はまだ二人の遊び相手でしかないけれど。
誰もがソラの好奇心の強さを甘くみていた。
春を迎えるころには、シエルも走り回り二人はますます活発になった。絶えず海風に曝されている島は、雪が舞うことはあっても積もることはないが、冬には突風が吹き荒れる。家に閉じこもる日も多く、それだけに春の訪れは双子だけでなくルチルもディアの心も解放した。
「ピクニックに行こう」
ディアが籠にパンやミルクを詰めながらいう。双子がはしゃぎまわる。
ことあるごとに二人は「ピック、行こう」と籠を引きずりながらせがむようになった。最初は山のふもとまで。次はアナグマの巣まで。その次は、と少しずつ距離を延ばした。六度めで泉までたどり着いた。
それにしても、とルチルは感心する。
泉までは家から一キロはある。卵から生まれてまだ一年も経たないのに、この成長ぶりはどうだろう。人の三倍の速度で成長するとノアはいっていた。だとすると、人の子の二歳ぐらいだろうか。それでもきっとこんなには歩けない。泣き虫のシエルでも、ちゃんとついてくる。
泉は双子たちのお気に入りの場所になった。
水を飲みにリスやアナグマ、キツネザルなどが姿をみせる。それが二人を喜ばせた。だが回数を重ねるにつれしだいにソラは泉の先の森に興味を示しだした。
泉から先には絶対に行っちゃダメと、きつく言い渡してある。それでも気づくと迷いの森に向かうソラの背を見つけ慌てる。そのたびにヒスイが連れ戻す。
そんなことが続いたある日、ディアが「行ってみようか」と言いだした。
「だめよ、ノアからも二人を連れて行くなって言われてるでしょ」
「あたしも小さいころ父さんから禁止されてた。危ないから泉より先に行くなって」
ディアは石をひとつ泉に投げ入れる。ぽちゃん、と音がしたのがおもしろかったのだろう。双子がすぐにまねしだした。
「で、どうしたと思う? あたしが父さんの言いつけを守ったと思う?」
ディアが挑むような瞳でルチルをのぞきこむ。
「もちろん、ノー。こっそり何度も迷いの森に入って、そのたんびに、ギンに連れ戻された。父さんのほうが諦めちゃって、それでヒスイを相棒にしてくれたの。道に迷ったらヒスイを頼れって」
ヒスイがディアの肩であざやかな翡翠色の羽を広げる。
「あたしみたいに好奇心が強いとね、ダメって禁止されちゃうとよけいにやってみたくなるんだなぁ」
ディアがぱんぱんと尻をはらって立ちあがる。
「ソラもきっとそう。あの子のほうが、あたしより怖いもの知らずでしょ。ほら、ビューに血が出るほど突っつかれてもびくともしなかったし」
あれはびっくりしたよねえ、と石投げにむちゅうになっている双子の姿を追う。シエルはうまく投げられないようで、石が前に飛ばず背後に落ちてばかりだ。かたやソラは両手に小石をつかみ、二石を同時に投げ入れている。
「独りでこっそり挑戦されるほうが怖くない? みんなと一緒のほうが安全でしょ」
ディアの活発で好奇心旺盛な気性にソラは似ている。それにソラはなかなかの知能犯で、こっそりシエルをつねったり叩いて泣かせ、皆の注意がシエルに向いている隙に家から脱走しようとした。
――迷いの森よりも怖いのは、山頂付近の磁場だ。
ノアの注意を思い出す。ノアは全力でディアを止めてくれと言っていた。でも、ディアを止めても、ソラの勝手な行動は止められない。ならばディアのいうように、しっかりと見守りながら好奇心を満たしてやったほうが、危険は少ないのではないか。
ソラがビューを羽交い絞めにしたとき、ノアはソラを同じように羽交い絞めにすることで戒めた。あれからソラは、ビューを無理やりつかまえたりしない。あの子は体験させて納得させなければいけないのかもしれない。それに、これからどんな危機が二人を待ち構えているのかわからない。おそらくふつうの子よりは、ずっと大変な目に遭うだろう。危険だからと先に排除するのではなく、危難を乗り越える力をつけて欲しい。
「ディアのいうとおりかもしれない。勝手に行動されるほうが危ない。ディアはソラをお願いね。私はシエルと手をつなぐ。行ってみましょう。迷いの森へ。私も興味があるわ」
もちろん森の危険性と山頂の怖さについてはしつこいほど説明した。勝手に走らないこと、とくにソラにはディアとつないだ手を離さないことを誓わせた。
「森を抜けると草原が広がってる。でも、絶対に進んじゃダメ。あたしだって父さんと一度しか行ったことがない。ほんとうに怖かった。山に飲み込まれて死んじゃうんだからね。帰れなくなるよ」
シエルはディアの訓戒を聞いただけで怯えて泣きだし、行きたくないとぐずる。ソラは、わかったあ、とにこにこしてる。ディアはソラの前にかがんで両肩をつかみ、ソラに視点を合わせる。
「いいこと、ソラ。山につかまっちゃったら、かぁかにも、シエルにも、あたしにも、父さんにも会えなくなるんだよ」
いつもの朗らかなディアとは違う真剣なまなざしに、ソラはこくんとうなずく。
「かぁかに会えなくなるの?」
双子たちは、ルチルのことを「かぁか」と呼ぶ。
「そうよ」
ルチルも膝をついてソラの目をみる。
「わかった」とソラが大きな声でこたえた。
「よし、じゃあ、行こうか」とディアがソラの手をぎゅっとつかんだ。
泉のまわりは高い樹木がなく、そこだけぽかりと空いた穴のように天に向かって開けている。だからいつでも明るい。ところが、迷いの森では高い樹木が陽射しをさえぎり、進むにつれて蔭が濃くなりたちまち鬱蒼とした。見あげても厚く重なる葉裏が連なるばかりで、空はかけらも見えない。白の森も樹木が生い茂り空は見えなかったけれど、白く輝く光が森のそこかしこに神々しいほど降り注いで明るかった。だが、この森は光が届かず昼なのに冷やりと昏い。
嘆きの山には意思があるという。迷い込んだものを閉じ込めて帰さない。ルチルの背がぶるっと震える。シエルは怖がってルチルの胸にしがみついたままだ。光の届かない昏さが、あたりを不気味にしている。正体の定かでない不安にルチルは飲み込まれそうになり、シエルを抱く手に力を籠める。一方、前を行くディアはソラと朗らかに歌いながら歩んでいた。
カサカサっと微かに葉の擦れる音をルチルの耳がとらえた。落ち葉を踏みしめているような音だ。森ではあたりまえの音だが、ちくりとした違和感を抱いた。ディアとソラは、ルチルたちの少し先を歌いながら歩んでいる。ビューはシエルの肩に止まっていた。後ろには誰もいないはずだ。
カサカサッ、サクッ、ガサガサッと葉を踏む音が遠く背後から聞こえてくるのだ。音はしだいに近づく。
しゅるカサッ、シュルシュる、ガサッシュルしゅる――
落ち葉の擦れる音に、躰をくねらせて地を這うような音が混じっていることに気づいた。ぞわぞわとした嫌悪感がつま先から背筋をつたって這いのぼりルチルの全身を駆け巡る。
蛇……?
ルチルは蛇が苦手だ。三センチほどのメクラヘビですら怖い。図鑑のページをめくるのも嫌だ。絵とわかっていても触れただけで指先からぞわぞわする。トートたちがおもしろがって、ルチルの目の前にカナヘビをぶら下げ卒倒させられたこともある。蛇を目にしただけで全身の血が逆流する。振り返るのが恐ろしかった。音は確実に近づきしだいにはっきりと形をもつ。
怖い――。でも、私がシエルを守らなければ。
意を決して振り返って、ルチルは凍りついた。
真っ赤に焼け爛れた鱗をくねらせ、赫黒い大蛇が落ち葉を巻き上げ、下草を薙ぎ払いながら迫って来ている。頭だけで太い丸太くらいある。尾の先はどこにあるのか、うねる波のように続いて果てもわからない。赤い目に金の瞳が禍々しくきらめき、その瞳に射られると背筋が凍りつき微動だにできなかった。大きく開けた口には鋭い毒牙が上下に並び鎌首を持ちあげている。赤い舌をシュッシュッツと突きだす。
「キャ――っ!」
頭頂から恐怖の叫びをあげると、あたりは一瞬のうちにランプの火が落ちるように闇となった。暗闇に金の目だけが光る。シューシューシューと毒牙から漏れる呼吸が周囲の空気を震撼させる。シュルシュルシュるっと地を這う音がしだいに速くなる。大蛇への恐怖と、闇の恐怖がルチルを襲う。音と気配が迫る。シエルを胸の下に隠して地面に突っ伏し奥歯を食いしばった。喰われる――!
「……ル、……チル、ルチル、ルチル!」
バシッと頬をぶたれたような鈍い衝撃が走って、ルチルはぼうっと目をあける。ディアがルチルの肩を両手でつかんで揺すっている。
ルチルは飛び起きる。
「逃げて! 早く! 赤い大蛇が……。早く、早く逃げて。シエル、シエルはどこ?」
ルチルは髪をふり乱して錯乱する。
「ルチル、ルチル落ち着いて。幻だから」
ディアがルチルをきつく抱き留める。
「まぼろ……し?」
「そう、迷いの森のいたずら。たぶん正体は、これよ」
ヒスイがミミズを咥えている。
「そんなはずない。真っ赤な鱗の大蛇が迫ってきたのよ。金の目をして、鋭い牙が光るのも見た。地を這う音も聞いたわ」
「この森ね、迷路になってるだけじゃないの。人の心も迷わせるんだよ。怖がる心につけこんで幻を見せて楽しむの。びくびく怯えてるとね、巨人が現れたり、獰猛な獣が牙をむいて襲ってくるのが見えたりする。でも、その正体は大木だったり、ネズミだったりするの。ルチルも森にからかわれたんだよ。ほら、このミミズも赤いでしょ」
ルチルは躰の芯から力が抜ける。シエルはルチルの足もとで泣きじゃくっていた。
ルチルはほおっと大きく安堵の息をつく。心なしか森が明るくなった気がする。シエルを抱きよせ、ディアに向かって微笑みかけたそのときだ。
「おいディア! ソラがいないぞ」
ヒスイが叫んで森の真上に飛びあがる。
なんですって。
「ヒスイ、森の出口はどっち!」
ディアが空に向かって張り裂けんばかりの大声で叫ぶ。
「オレが連れ戻す」
ヒスイが叫び返して、翼をひるがえす。
「待って! おまえじゃソラを運べない。ギンに父さんを呼んでと伝えて、急いで」
ディアが駆け出す。
私のせいだ。私が森の幻影に惑わされて、失神なんてするから。ルチルの心臓がせりあがる。シエルを抱えてディアの後を追う。何度も木の根に引っ掛かりつまずきそうになる。白の森で駆けたときはひとりだったけど、今はシエルを抱いている。転ぶわけにはいかない。シエルを抱きしめ、心のうちで祈る。どうか、どうかまにあって。
突然、明るい陽射しが降りそそぎ、森がとぎれ丈の高い草がなびく原が広がった。明るさに慣れない目をしばたたき、開けた草原を見渡す。「あー!」腕の中のシエルが手を伸ばす。
その指さす先に目をやると、青い衣の幼子の背が見えた。銀の髪が風になびいている。
まにあった――。
「ソラー、止まってえ!」
ディアが叫ぶ。
びくっとしてソラが振り返った瞬間、その躰が宙に浮き火口のほうへと流された。
「いやあああ、ソラー」
抱いていたシエルを放って駆け出そうとするルチルを、ディアが腕をつかんで止める。
「ルチルはシエルを守って。シエルを抱いて安全なところまで下がって。大丈夫、あたしがソラを取り戻してくるから」
そのときだ。
大きな翼の影が走った。空気がぴりぴりと震える。突風が巻き起こり、ルチルは飛ばされそうになりシエルを抱きかかえて膝をつく。ディアのオレンジの髪が逆立つ。
「あれは何?」
見たこともないほど大きな翼が弾丸のごとくソラに向かう。その飛翔が空気を直線で切り裂く。あんな怪鳥に攻撃されたら、ソラはひとたまりもない。
翼が起こした突風に草原の草がいっせいに地にひれ伏す。ディアが強風に吹き飛ばされそうになりながらも駆け出そうとする。
「待て、ディア」
ギンが高い天から叫ぶ。
「あれはグリフィンだ」
ギンが舞い降りる。遅れてヒスイもディアの肩へと急降下する。
グリフィンですって。
ルチルはシエルの肩に乗っているはずのビューを探す。いない。
ディアと目を見合わせ、視線を巨鳥へと転じる。
グリフィンはソラを通り越すと、くるりと旋回して飛ばされてくるソラを、翼を広げ厚い胸で受けとめた。前脚の鉤爪でがしりとソラの脇をつかむ。だが翼が徐々に下がり、じりじりと火口へと下がっていく。あれほど大きな神獣でも引きずられるほど、火口の磁場は強いのか。ルチルは両手を握りしめる。
「ビュイック、何してるんだ」
森の奥から突然、激しい怒声が飛んだ。
「おまえの力はそんなもんじゃないだろ。羽ばたけ!」
振り返るとノアが駆けてくる。
グリフィンは磁場の力を背で受け、必死で堪えている。垂直の姿勢を水平に立て直すこともできないようだ。翼はソラを抱え込むように前方に丸まり、広げることもかなわない。
だがノアの𠮟咤にその獰猛な気性をたぎらせ、山の力に抗い翼をぐぐぐっと広げる。
ルチルは自らの手の甲に爪を突きたてて両手をきつく握りしめる。ディアもひと言も発しない。誰もが息をすることも忘れて立っていた。
グリフィンは渾身の力で両翼を開ききった。垂直の滞空姿勢は天に突き立った十字架のようだ。ばさっばさっと、二度翼をはためかせる。あたりを薙ぎ払う突風が起こり、はるか離れた森の樹々まで揺らす。それを反動に水平飛行に姿勢を立て直すと、再び弾丸となって空を切り裂き猛進した。
ルチルが暴風に目を眇め、ひと瞬きする。目を開けると、大きな影が立っていた。
「やはりおまえはビュイックか……」
ノアが納得するように漏らす。そのつぶやきには応えず、グリフィンは前脚の鉤爪でつかんでいたソラの両腕を放す。ソラは着地すると、くるりと振り返って巨大なグリフィンの胸に抱きつこうとした。
そのとたん、見あげる小山のようだった巨躯がどんどん小さく縮んでいき、またたくまに掌サイズのグリフィンに戻った。その場にいた皆が呆気にとられ、なにごとが起こったのかと言葉を失う。ノアでさえも。
丈の高い萱に埋もれるようにして、小さなグリフィンが広げた翼を折り畳んでいた。
シエルだけがその姿に、「ビュー」とうれしそうに手を伸ばす。
ルチルは膝をついて伸びあがり、きつくソラを抱きしめる。涙をソラの銀髪にこすりつけた。
「おまえたちは、ギンについて家に戻れ。俺はビューと話をする」
小さくなったグリフィンを掌に乗せて告げると、ノアは傍らの岩に腰かけ、早く行けとばかりに手を振る。
「さて、と」
ノアは小さなビューの奥にいるものに話しかける。
「ビュイック、聞こえるか。そして答えられるか」
「ああ」
「そうか。いったいどうなってる」
「ノア……生きてたんだな」
小さなグリフィンが鋭い眼光をノアに向ける。
「ああ。詳しくはまた話す。それよりも、なぜ飛べない。なぜ小さいままだ。そして、なぜさっきは……」
「よくわからん。だが、こいつがじゃましていることだけは確かだ」
「こいつとは、ビューか」
「ああ」
「なぜ一つの躰に二つの魂が同居してる」
確かなことはわからないが、とビュイックと呼ばれたグリフィンが語る。
ヴェスピオラ山の噴火を鎮めるため火口に飛び込み眠りについていた俺は、黄金が生れるけはいを感じて目覚めた。なかまのグリフィンのアズールが天と地の境で迎えに来ていた。だが、「今度こそ黄金を守る」と告げ、微かに光る輝きを追って急降下し海に飛び込んだ。
「覚えているのは、そこまでだ」
ビューの姿のまま、声だけのビュイックがいう。その声すらも靄がかかったように聞き取りにくい。
「気づいたらこうなってた」
海中で光輝く黄金をつかんだと思った。だが気づくと、光の殻のような中に意識だけが収まっていた。羽ばたこうとしても翼がない。羽ばたく感覚もない。躰を自由に動かすことができない。いや、躰自体が存在しなかった。透明な殻の内からビューの意識と目を通して外界を眺めていた。何度も内側からビューに呼びかけた。聞こえないのか、わざとなのか。ずっと無視されてきた。なぜ、こんなことになっちまったのか。
「ビューはおまえの分身というわけでもなさそうだな」
「ああ。幼くとも、こいつもグリフィンだ。強い意志をもってる」
「さっき覚醒できたのは、なぜだ」
「天卵の危機にこいつの意識が一瞬フリーズした。その隙に交代することができた」
「意識の主体がおまえになると、躰も能力も元に戻るというわけか」
ノアは驚き、ふうむ、と考えこむ。
「そういう……ことみたい……だな……」
掠れがちだったビュイックの声は、とうとう聞こえなくなった。
すっかり隠されてしまった意識に向かって、ノアは語りかける。
「俺はな、ビュイック。おまえがそこにいることは、ずっと感じていたさ。だから、あいつらがビューと呼ぶようになったとき、おまえの愛称みたいで不思議な気がしたよ」
双子が危機に直面すると、ビューとビュイックは入れ替わることができるということか。だが、それすらこの一回では不確かだ。何がビューの成長を蓋しているのかはわからんが。ビュー自身が成長することが一番であることは変わりない。
ノアは小さなグリフィンを肩にとまらせる。あいかわらず飛びたいのか、翼をばたつかせている。
「おまえの成長の箍を早くはずしてやらねばな」
強い意志の光を放つ金の瞳を見つめながら、ノアはつぶやく。
嘆きの山は、獲物を取り逃がしたことを悔しがっているのか、ひと筋の細く白い煙をあげていた。
第9章「嵐」
海面はぴくりとも揺らがないほど平坦に凪いでいた。
張った弦のように空気がひりひりし、海猫の鳴き声もなかった。
あれが予兆だったのかもしれない。
その日は双子の二歳の誕生日でルチルは木イチゴのタルトを作っていた。
お菓子作りはルチルが唯一ディアよりもできることだ。
館にいた頃、料理人のハミルおばさんに何度も何度もお願いしてタルトやクッキーの作り方を教えてもらった。「火や包丁やら危ないものばかりですだ。ここはお嬢様の来るところではねえ」とはじめは追い返された。大人の言いつけにはたいてい素直に従うルチルだったが、このときばかりは諦めなかった。ハミルが季節の果物や木の実を使って作るタルトは、夢のようにおいしかったから。昼食の後片づけが終わる頃あいをみはからって台所をのぞき、お願いを繰り返し続けた。とうとうハミルはひとつ大きなため息をもらすと、二人ぶんはありそうなふくよかな腰に両手をあて、ルチルの背の高さまで上体を傾け目線を合わせた。
「火に近づかねえ。包丁は勝手にさわらねえ。言いつけは守れるだか」
十歳のルチルはこくこくとうなずく。
「じゃあ、明日また、おいでなせえ」
ハミルがでっぷりと太った体を揺らして笑っていた。
島に漂着してはじめてリンゴのタルトを焼いたとき、ひと口食べたディアはテーブルに勢いよく手をついて立ちあがった。
「なに、これ! 甘くておいしい。こんなの食べたことない。ルチルは魔法が使えるの?」
らんらんと目を輝かせている。立ったまま、残りを手でつまんで口いっぱいにほおばる。どうやらケーキやタルトなどの甘い菓子を食べたことがなかったらしい。
「菓子をこしらえるという発想がなかったからなあ」
歓喜する娘をみて、ノアが首筋を掻く。
「おまえたちも、食べてごらん」
ディアはタルトをひと切れ窓辺に置く。またたくまに小鳥たちが群がった。
ディアに与えた衝撃はそうとう大きかったらしく、たびたび作ってくれとせがまれた。双子が生まれてからは忙しく、なかなかタルトを焼く時間を見つけられなかったけれど。クッキーならシチューを煮込むあいだに種を作ることができる。島に流れ着いて半年が過ぎるころには、ルチルもそれくらいの手際は身につけていた。双子たちを寝かせたら、お茶をいれクッキーを皿に盛ってディアをねぎらう。ランプの明かりがテーブルに光の輪を広げる。娘たちのおしゃべりは尽きることがなかった。
双子が生まれて二年。たいへんだったのは最初の一年で、近ごろはずいぶん落ち着き、ルチルにもタルトを焼くゆとりができた。この日のために山で摘んできた木イチゴを瓶詰にしてある。去年の秋に集めたクルミや木の実もくだいた。生地をこねて、窯に火をくべる。ノアは昨日しとめた猪をさばく。ディアは鼻歌を口ずさみながら山羊のミーファの乳をしぼっていた。
二歳といっても六歳相当だから、二人ともたくましく成長していた。ソラは走る、跳ぶ、泳ぐの基本的な運動能力はもちろん、海に潜ってモリで魚をつかまえる腕もずいぶん上達した。まだ弓は扱えないが、縄の先に石の錘をつけた投石具で十回に一度はナキウサギをしとめることができるまでになっていた。一方、シエルは水を怖がり潜ることができない。かわりにマテ貝や二枚貝を掘りあてるのは得意だ。薬草やキノコもよく見つける。穏やかな性格は生きものたちに好かれるらしく、シロイルカや小鳥たちに囲まれシエルの周りはいつも明るくにぎやかだ。ビューもたいていシエルの肩にいた。
あれほど二人で取り合いをしたビューは、少し大きくなったがそれでも鳩ぐらいの丈でしかなく、あいかわらず飛べないため、ソラの興味はしだいに他のものに移り今では見向きもしない。
嘆きの山での一件以来、ギンとヒスイが根気よくビューの飛行指導をしていた。躰が未発達なことが原因なのか、ムササビのように枝から地面への滑空はできるようになったが、翼で風をとらえて自在に飛翔することは一向にできるようにならなかった。
ノアはビューが眠りにつくと、起こさないように止まり木ごと戸外に持ち出す。海を臨む丘まで行き、意識の深淵で潜んでいるビュイックに語りかける。ビューがぐっすり眠っているとビュイックと交代することができるのだ。すると、体躯も成獣のビュイックに戻る。鳩ほどの鳥獣が、みるみるうちに身の丈三メートルの怪鳥になる。
「ビューの発育を邪魔してるものはなんだ。何があいつに箍をはめてる」
ノアはグリフィンの巨躯に背をもたせかける。翼を折り畳んでいても黒い小山のようだ。
「あの山のせいかもしれん」
「嘆きの山か」
「ああ。俺が飛び立ったからな」
隠された島が白の森から切り離される原因となった五百五十年前のヴェスピオラ山の噴火。それにノアが巻き込まれたと思ったビュイックは、噴火を鎮めるために火口に飛び込んだ。山の怒りと嘆きをなだめながら眠りについていたが、黄金のめざめを感じとり、山から飛び立ったのだった。
「だから、おまえをビューの意識下に抑え込んでいるというのか」
「わからんがな」
「おまえとビューの交代がもっと自由になればいいんだが。そうすりゃあ、おまえを通じて、飛行のコツもつかめるようになるんじゃないか」
ビュイックは無言で黒く鎮まる嘆きの山に顔を向ける。
「完全に意識がぶっ飛んでるときしか交代できないんじゃ、ビューは何も学べんだろ」
「まだこいつの精神は幼い。グリフィンとして黄金を守り抜く覚悟ができていない」
「覚悟か……」
「あの日、ソラの危機に怯えるだけで己がなにもできなかったのは、そうとうショックだったようだ」
「なら、それが箍を外すトリガーには……なんでならなかったんだ」
「神獣としての誇り、悔しさ、無力感。それらがこいつのうちで葛藤してる。だから俺にやすやすと席を譲りわたそうとしない」
「そうか。それはまた……」
と言いながら、ノアはビュイックに預けていた背を立て、くるりと向き直り、はるか頭上にある顔を見あげる。
「みどころがあるな」
「ああ。自らの力で乗り越えようともがいている」
「もがいた魂ほど美しいというからな。力を解放する日が楽しみだ」
漆黒の海原を白い月の光が撫でていた。
「ノア、王宮の船だ!」
ギンが叫びながら蒼天を切り裂いて急降下する。
「レルム・ハンの旗をかかげた船が沖に停まって小舟を降ろしはじめている」
「上陸するつもりか。何隻だ」
「一隻だ」
そうか、と一隻だけであることにノアは強張りを少しほどく。
「天卵の子がいると、知れたのでしょうか」
ルチルが蒼ざめる。
「わからん。一隻だから単なる巡回偵察かもしれんが」
ノアは遠眼鏡で船影を確かめる。双頭の鷲が向き合う王国の旗が帆柱にはためいていた。
「こんな絶海の孤島にものものしい船で乗り込むなど、何か目的があるとしか考えられん。ギン、最近、偵察隊のレイブンカラスの姿は見たか」
傍らのハヤブサに問う。
「ワタリガラスの群れは見た。渡りの季節だから気にも留めなかったが……紛れていたのか」
ギンが己の落ち度だと喉を鳴らす。
「島にとどまるのは危険だ。南の洞窟に船を隠してある。食料や水、衣類など必要なものをまとめて洞窟へ急げ。ギンが案内してくれる」
ノアが矢継ぎ早に指示を出す。
「山羊も二頭だけ連れていこう。ミーファとチチがいいだろう。鶏もな。船で何日放浪することになるかわからん。鶏の卵は貴重なタンパク源になる。頼んだぞ、ギン」
「父さん、ソラがいない」
ディアが慌てる。
「またか。シエル、ソラはどこだ」
シエルが、わからないと首を振る。
「かくれんぼしてた。ぼくが鬼」
ノアが天を仰ぐ。
「ソラぁああ、出ておいでぇ」
「ソラあー、どこー」
ディアが叫ぶ。ルチルも声を張りあげる。
「かくれんぼをしてたんじゃ、呼べばよけいに出て来んだろ、みつかると思って」
ノアが顔をしかめる。
「とにかくおまえたちは急げ。ソラは俺がなんとかする。それからギン」
ノアは傍らに控えるハヤブサを振り返る。
「いつでも出航できるようディアに準備を指示しておいてくれ。ヒスイはソラを探すのを手伝ってほしい」
そこで言葉を切り、「ルチル、ディア」と二人の娘に目を据える。
「ソラを心配する気持ちはわかる。だが、これ以上の混乱は避けねばならん。俺がソラを確保すると同時に船を出す。一刻の遅れが全員の危険につながる。シエルを守って船から一歩も出るな。皆が助かる道はそれしかない。とくにディア、絶対に勝手な行動はするな、わかったな」
父の逼迫した鋭いまなざしに、ディアは大きくうなずく。
「ルチルは服をお願い。あたしは食べ物と水を用意する」
ディアとルチルが山羊と鶏を従えて南の海岸に続く獣道をくだって行くのを見送ると、ノアは空に向かって指笛を吹く。ケツァールのヒスイが緑の翼をたたんで斜線で急降下する。
「見つかったか」
「家のまわりにはいない。山を探す。小鳥たちにも頼んでいる。小舟が七艘、浜に着いたぞ」
「わかった。ギンと手分けして探してくれ。見つけたら洞窟の船に連れて行け。俺のことはかまうな」
翡翠色の翼が陽にきらめき、銀の翼のハヤブサと合流して点になる。太陽の白光に目を眇めながら二羽を見届けるとノアは納屋をめざした。
ソラが家に潜んでいる確率は低いだろう。ルチルとディアが荷造りをしていて見つけられないはずがない。納屋の片隅で着ていた短衣と短袴を脱ぎ捨て長衣に着替える。裾をまくり、右の太腿に短剣を二挺くくりつける。左の腿には槍の穂先を五本さげ、衣の丈を膝下に調節し腰紐を結ぶと納屋を出た。家に戻り、シエルとソラに関わるものを手当たりしだい炉にくべる。炎がよろこんで火勢を強める。炉の隅の灰を搔き集め小さな布袋に詰める。それを六個作り細い縄にくくりつけ、首飾りのように首に通して胸もとに隠すと、ノアは戸外に出た。
浜に続く坂道を弓と槍で武装した一団があがってくるのが見えた。念のため丸太小家の床下の暗がりを覗き、「ソラいるか。いるなら出てこい」と声を掛けたが姿も見えなければ、けはいもなかった。
ノアは鎌を持って小麦畑に向かった。黄金に輝く穂が波打ち、収穫のときを待ちわびていた。せっかくの実りだが諦めざるをえない。ソラはどこだ。穂を刈り取っているふうを装いながら、ノアは姿勢を低くして銀髪の子を探した。
「法務省王宮警護部辺境警備長官を兼務される法務大臣ダレン伯閣下である」
金のモールが飾る深紅の儀仗服に勲章を山のようにつけた小太りの男が、兵に守られて坂道をのぼってきた。おそらく辺境警備長官とは名ばかりの名誉職なのだろう。軍の指揮官としての豪壮さも、鋭利さもなかった。王城で美食と権力をむさぼっている輩だ。
「ご尊顔の拝謁、恐悦至極に存じます」
ノアは鎌を足もとに置いて跪拝する。
それを兵の一人がさっと取りあげる。
「このような辺境の小島に何用でございましょうか」
恭しく尋ねながらノアはダレン伯の周囲に目を走らす。
――実質の指揮官はどいつだ。
伯爵の左斜め後ろに腰に太刀を佩刀した隻眼の男がいた。手のしぐさだけで控えていた兵を要所に配置する。こいつだ。
ダレン伯はよほど己を誇示したいのだろう。部下を押さえて自らノアに尋問しだした。
「天卵はどこだ。隠し立てすると、貴様にも罪が及ぶぞ」
「天卵とは……『黎明の書』に伝えられている伝説の卵のことでございましょうか。あれはただの伝説ではございませんか」
「うむ。余もそう思っておった。ところがだ。二年前にエステ村領主の娘が天卵を生んだとの情報がレイブン隊より奏上され、王宮はひっくり返った。天卵は王の御世を乱す凶兆であるからのう。卵のうちに排除すると御前会議で決定した矢先に、娘は卵を抱いたままカーボ岬より身を投げたと、これまたレイブンカラスからの報告があがった。いやはや、皆、胸を撫でおろしたわい。これで一件落着、王の偉大なる治世もご安泰と安堵しておったのじゃ」
ふううっと大きくひとつ息を吐き、床几を持ってまいれ、と命令する。
あれしきの坂道で息切れするとは。戦の指揮などしたことがないのだろう。床几にでっぷりと太った尻を乗せようとして転びそうになり、二人の下僕が背を支える。もう一人がクジャクの羽根扇であおぐ。それを苦々しげに一瞥し、隻眼の男は次々に兵に指示を与えていた。
大きなしわぶきをひとつ吐くとダレン伯は、
「ところがだ」
と前のめりになる。ところがだ、というのが口癖らしい。
「ひと月ほど前じゃったかのう。星夜見の塔がなした卜占に『天は朱の海に漂う』と出たのよ。王宮が震撼したわい。海の藻屑と消えたのではなかったのか、とな。真っ先にレイブン隊が疑われた。当然よのう。すると、カラスどもが星夜見の読み違いであると騒ぎ立てよった。あやつらは、甚だしくうるさい。致し方なく星夜見をやり直したが、同じ卜占が出た」
ふはははは。あのときのカラスどもの顔よ、まっことおもしろかった。
のけ反って笑う背を二人の下僕が支える。
「しかも、その騒動のさいちゅうに投げ文があったのじゃ」
ノアを見つめて、にたりとする。
「天卵は隠された島に秘されている、と記してあったわ」
「閣下はここがその隠された島だと仰せでございますか」
跪拝し叩頭礼で恭しく対峙するノアの言葉使いは慇懃ではあったが、その口調には刃がきらめく。槍をもった兵士がノアの両脇に立っていた。
「ではない……とほざくか」
「このような小さき島に名などあろうはずもございません。昨夜は海が荒れもうした」
わざとそこで口をつぐむ。先は言わずともわかるだろうと、顔をあげ目で脅しをかける。
「航路を誤ったと申すか」
伯爵に代わって隻眼の男がにらむ。
ノアは無言で目を伏せる。
そのときだ。探索に向かっていた兵が一名足早に戻ってきた。
「閣下、裏山に続く道に子どもの足跡が無数にありました」
「山か……。捜索するには人数が必要であるな」
伯爵はちっと指を噛む。隻眼の男がすぐに指令を出す。
「第一隊と第二隊の二十名はここに残って警護にあたれ。残りの第三から第五隊までは全員山に向かって第六隊と合流せよ。娘と幼子だ、そう遠くには行っていまい。草の根分けても探し出せ! 王国の安寧に関わる。見つけ出した者は、王の覚えもめでたくなると心得よ」
「はっ」
これで半数以上が山に入った。あと二十名か。まだ動けない。ノアは跪拝しながら空を見あげる。ギンとヒスイの影はない。まだソラは見つかっていないのか。
「子の足跡をなんと説明する」
「私には娘がおります」
「ほう。で、その娘はいまどこに」
「遊びまわっているのでしょう。活発な娘ですので」
「この期におよんで……」
金の杖をぐっと握って、ダレン伯が苛立たしそうに立ちあがる。
「余を愚弄するか!」
手にしていた杖でノアの左肩を力まかせに打ち、返す手で右を打擲しようとした、そのときだ。
山のほうから恐怖のうねりが響きわたった。叫喚と悲鳴と猛々しい咆哮が次々にあがる。「かかれぇええ!」という鬨の声まで響いてきた。
「あ、あ、あれはなんだ!」
戦場さながらの絶叫と鬨の声に伯爵がうろたえ脅える。
(迷いの森で幻影を見せられてるな。同士討ちになっているのかもしれん)
ノアは嘆きの山を見あげる。
「き、貴様、兵を隠しておったか」
恐怖でダレン伯の顔が引き攣っている。
「この者を縛りあげよ!」
ノアは無言を貫く。混乱させておくほうが恐怖も増幅される。
隻眼の男がノアの胸倉をつかみながら、残りの兵に「ただちに援軍に向かえ!」と指示すると、背後から伯爵の金切り声があがる。
「な、な、何をしておる、グエル少佐。て、て、撤退じゃ」
慌てて床几から立ちあがり、勢いあまって叢にひしゃげた蛙のように倒れこむ。
グエル少佐と呼ばれた隻眼の男は背後を振り返り、鋭い目でダレン伯を睨みつける。
「撤退ですと? 兵を見捨てると申されるか。此度の捜索の陣頭指揮を執ると仰ったのは、閣下ですよ。これから陣頭指揮を執っていただきます。そこを動かれるな!」
恫喝すると、控えていた近衛兵が槍で伯爵の動きを止める。
ふんと鼻を鳴らすと、グエル少佐はノアに視線を戻し、その喉もとに太刀を這わせる。
「何を隠している。海賊どもを助っ人に引き入れたか」
怜悧な声が迫る。風がノアの首すじを撫でる。
その風よりも微かだった。だが他人よりも鋭敏なノアの耳は、きりきりと弓を引き絞るような音を拾う。音の聞こえた方角――少佐の斜め背後にわずかに視線を動かす。
黄金の穂を波打たせている小麦畑のなかにぼおっと輝く光を目の端でとらえた。光はしだいに強くなる。
雀が一羽ノアの肩にとまり、何かをつぶやいた。
「ディア、だめよ。船で待つように言われたでしょ」
ルチルがディアの腕を取って押しとどめる。
雀がけたたましく鳴きながら飛んできて、ソラを見つけたと騒ぎたてたのだ。
「ノアにも報せているの?」
ルチルは雀に尋ねる。
「あたいはディアに報せに来ただけだから、わかんない」
「ほら!」
ディアが声を強くする。
「父さんはまだソラを見つけていないんだよ。早くソラをつかまえないと、またどっかに行っちゃう。父さんが心配したのは、みんながばらばらになることでしょ。ルチルはシエルとここにいて。あたしはソラをつかまえて戻ってくる。居場所はわかっているんだから、だいじょうぶよ」
ね、とディアはルチルの両手をぎゅっとつかんで訴える。
ルチルはぐっと下唇を噛む。迷っている時間はない。
顔をあげるとディアを見つめ返し、目と目でうなずき合う。
「まかせて」
言うが早いかディアは飛ぶように駆け出した。
双子はふだん光らなくなっていたが、緊張したり興奮すると輝きだす。
小麦畑の淡い光はまちがいなくソラだ。雀もそうささやいた。ノアは確信する。
この状況に驚いているだろうし、緊張しないほうがおかしい。輝きが増して兵士に気づかれる前になんとかしなければ。
この場に残っているのは、伯爵と少佐と近衛兵二名、それに伯爵の側仕えが三名か。戦闘要員は少佐と近衛兵の三人だけ。なんとかなるな。
隻眼の少佐に胸倉をつかまれながら、ノアが冷静に算段した瞬間だった。
びゅっつ!
何かが空気を水平に切り裂く高音がした。
一瞬、ノアをつかんでいる少佐の手がゆるむ。
その隙をノアは逃さなかった。
自らの関節を瞬時にはずす。縛られていた縄が足もとに落ちる。
放たれた矢が力なくグエル少佐の頬を掠めるのと、ノアが胸もとから灰を詰めた小袋を引きちぎり、少佐の片目に向かって投げるのが同時だった。ノアはすぐに身を屈め、太腿に隠した短刀を少佐の脚に突き立てて駆けだし、近衛兵めがけて目つぶしの灰爆弾を投げる。
「ソラぁああああ、走れぇええ!」
ノアは走りながら、弓を構える近衛兵と少佐に槍先を次々に投げる。
駆けてくるソラをあと数歩で確保できると思ったときだ、黒く大きな影がノアの背後から飛来した。
――ビュイック!
ノアは速度を少しゆるめる。
巨大な影を率いる翼がソラめがけて入射角で降り、鉤爪でソラをつかむとV字ですばやく上昇した。ノアは立ち止まって天を見あげる。
良かったと呼吸を整え、遠ざかる巨鳥の姿を目で追う。
そのときだ。頭上でギンが叫ぶ。
「ノア、グリフィンじゃない、コンドルだ! コンドルがソラを」
「なんだと!」
ギンが弾丸と化してコンドルを追う。ヒスイも続く。
ノアは茫然として己の両の掌を見つめる。あと一歩早ければ、ソラを抱くことができた手を。何もない掌を。黒い影の飛来に、一瞬、速度をゆるめた己を激しく責めた。
「ソラぁあああああ」
ディアの甲高い絶叫が響きわたり、ノアは我に返る。
ディアが天を仰ぎ、体を引き絞るようにして声を張りあげ、小麦畑の端でくずおれている。なぜ、ここにディアが。
――まずい。
ノアは伯爵と少佐たちのほうを振り返る。ノアの投げた槍先を肩と脚に受けた少佐と近衛兵の三人は膝をついて、コンドルが天卵の子をさらっていった方角を見つめていた。ダレン伯は腰を抜かしてひっくり返っている。
あの三人をまいて、一刻も早くディアとともに洞窟にたどり着かねば。シエルまで失ってしまう。
ノアはディアに向かって駆けだした。
どどどどど、ごごごごごごっつ。
突然、地の底から大地を突きあげる不気味な響きとうねりが湧きおこった。不穏な圧力をともなう音が島を震撼させる。
「な、な、な、なにごとだ」
ダレン伯の震える金切り声をノアは背で聞く。
大地を揺さぶる地鳴りに足をとられる。足裏全体で踏ん張らなければ、立っていることすら危うい。膝を曲げて重心を下げた。
――いかん! 嘆きの山が目覚めた。
山が、ヴェスピオラ山が、咆哮をあげ嘆きの礫を撒き散らしはじめた。火の粉が噴水のごとく吐き出される。天に向かって幾発もの花火が絶えることなく轟音をあげて打ち上げられる。
金縛りにあったように棒立ちするディアに、ノアは低い姿勢で駆け寄る。 娘の頭をわが胸に押し付ける。自らの頭と両手できつく保護すると横抱きにし、ひとつに束ねた二本の丸太のごとく横転し丘をころがり落ちる。崖の手前の樫の大木に背をぶつけて止まると、ディアに「走れ!」と叫んだ。
したたかに打った背が軋んだが、洞窟に続く獣道をディアと跳ぶように駆けた。
洞窟の天井近くの岩場に身を滑りこませると
「ディア、飛べ!」
と娘をうながす。
洞窟は遥か昔に溶岩が流れてできた。その岩場にぶら下がっている数千匹のコウモリが、山の異変に狂ったように飛び交い、視界を妨げる。
それらを手で払いのけ、ディアが、ノアが、飛び降り甲板に着地すると、ノアはすばやく錨を引き上げる。
「帆をあげろ」
ディアとルチルはそれぞれ帆柱に取りつき、縄を引き、帆を張る。
洞窟の奥から地を切り裂くような轟音が近づいてくる。
「来るぞ!」
「ルチルはシエルを抱いてマストにしがみつけ。ディアもだ」
岩が崩れる。出口を見つけた濁流がなだれ込み、船体を直撃し、船は荒れ狂う海へと弾き飛ばされる。船尾にしがみついたノアが島に目をやると、ぼこぼこと滾る溶岩流の真っ赤な舌先が海にたどり着いたところだった。
嵐は一昼夜続いて、海は凪いだ。
天を轟かせる雷鳴が絶えまなく炸裂し、怒りを爆発させた山はそれに応戦するがごとく真っ赤な火花を吐き続け咆哮した。天と山が激闘を繰り返した。だが、ついに容赦なく降る驟雨が山の怒りを鎮圧し、嘆きの雨となって慰めた。
ギンとヒスイを伴ってグリフィンが船に戻ったのは、嵐がおさまり、海が東から光を映しはじめたころだった。船は波と風の意思にあらがうことなく南の海上を漂う。
誰もがそれぞれの思いを抱え、憔悴しきっていた。
噴火の危機から脱すると、ルチルとディアは荒れ狂う嵐よりも激しく号泣した。ディアはまにあわなかったことを。ルチルは母なのに助けにもいけなかったことを、二人は後悔して吠えるように慟哭した。シエルは兄弟を失ったことを理解しているのかどうかはわからなかった。だが、「かぁか、かぁか、助けて!」と叫び続けた。それがソラの声に似ていて、ルチルとディアの胸を締めあげる。シエルはふたりに抱きしめられ、泣きながら眠った。
間一髪で島から脱出するとノアはすぐに、ビューがいないことに気づいた。
濁流の衝撃で船から落ちたのかと危惧したが、ルチルによると、山の唸りが起きる直前にヒスイがやって来て、ソラがさらわれたと告げると、成獣のグリフィンになって飛び立ったという。
それを聞いてノアは、あの一瞬の己の判断ミスを激しく罵った。
グリフィンは船にいたのだ。ソラを助けにあのタイミングで飛来するはずがねぇ。それなのに俺は、黒く大きな翼影をてっきりビュイックだと思っちまった。ああ、俺はいつもいつも、肝心の判断をまちがう――。
ノアは己の掌を見つめ、天を仰ぐ。
昨日のできごとが幻のごとく、空はどこまでも高く澄んでいる。はるか西の水平線に薄く煙をたなびかせるヴェスピオラ山が見えた。
シエルはめざめると、ルチルの服の裾を引っ張りながら小声で「お腹がすいた」という。泣き疲れて視界も頭も茫洋としていたルチルは、はっとなった。
――そうね、こんなときこそ、食べなくちゃ。
双子の誕生日のお祝いに焼いたタルトを思い出した。ディアが、これは絶対に持っていこうといって、小麦袋の上に乗せていたはず。ルチルはシエルを抱いて船室に下りる。
グリフィンは船に戻っても小さくならなかった。
「ビュイック、ビューはどうしたんだ」
「起きてはいる。だが、意識の深淵で落ち込んだまま、浮上してこようとしない」
「そうか」
「ヒスイの報せに、一瞬だが、俺と交代することに抵抗した。それが原因でコンドルを見失ったと思っているようだ」
誰もがソラを想って、それぞれに己を責めていた。
ディアは帆柱にもたれて放心していた。瞳は開いていたが、何も見ていなかった。ソラの生意気で、いたずら好きで、好奇心の強く明るい笑顔が浮かんでは消える。「ソラ」とつぶやき、また涙ぐむ。
甘い香りが鼻をかすめ、ディアは顔をあげる。ルチルがタルトの皿をもって目の前にしゃがんでいる。
「うまく焼けたと思うの。ほら、ディアも食べて」
ね、こんなときこそ食べなくちゃ。ルチルが口の端をゆがめ泣きそうな顔で微笑んでいる。
ソラとそっくりな、でもどこかしら表情のちがうシエルが、ディアを心配そうにのぞきこみ、その頬にそっと小さな手をのばす。
ディアは木イチゴのタルトをひと切れつまみ、かぶりつく。
「ソラにも食べさせてあげたかったね」
ディアが目尻の玉を人差し指で拭いながら、ルチルを見つめて微笑む。
甘くて、甘くて、胸をしめつける味がした。
『月獅』第2幕「隠された島」<完>