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『月獅』第3幕「迷宮」          第10章「星夜見の塔」<全文>

第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第2幕「隠された島」は、こちらから、どうぞ。
第9章は、こちらから、どうぞ。

(第1幕)
レルム・ハン国エステ村領主の娘ルチルは「天卵」を宿し王宮から狙われる。白の森に助けを求めるが、白の森の王(白銀の大鹿)は「蝕」の期間にあり力を発揮できない。王は「隠された島」をめざすよう薦め、ルチルは断崖から海に身を投げる。
(第2幕)
ルチルは「隠された島」に漂着する。天卵は双子だった。金髪の子をシエル、銀髪の子をソラと名付ける。シエルの左手からグリフィンの雛が孵るが、飛べず成長もしない。グリフィンの雛のなかに成獣のビュイックが閉じ込められていることが判明する。浜に王宮の船が着き、ルチルたちは島からの脱出を図るがソラが見つからない。小麦畑のなかで光るソラを見つけたそのとき、ソラがコンドルにさらわれ、嘆きの山が噴火した。

<登場人物>
(第2幕までの主要登場人物)
ルチル‥‥‥天卵を生んだ少女(十七歳)
ディア‥‥‥隠された島に住む少女(十四歳)
ノア‥‥‥‥ディアの父 
シエル‥‥‥天卵の双子・金髪の子
ソラ‥‥‥‥天卵の双子・銀髪の子
ビュー‥‥‥グリフィンの雛
ビュイック‥ビューの中に閉じ込められているグリフィンの成獣

(第3幕の登場人物)
シキ‥‥‥‥孤児(十二歳)
ラザール‥‥レルム・ハン国星夜見寮の星司長・シキの養親
コヨミ‥‥‥幼くして亡くなったラザールの息子
エランダ‥‥月司長(月夜見寮のトップ)
ダレン伯‥‥内務大臣・「隠された島」へ天卵の捜索に向かう
オニキス‥‥左の副星司長
ルアン‥‥‥右の副星司長

第3幕「迷宮」

第10章「星夜見の塔」

天、裁定の矢を放つ。
光、清き乙女に宿りて天卵となす。
孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。
正しき導きにはごととなり、
悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ。 

『黎明の書』「巻1 月獅珀伝」より跋


 群青の闇を月がうすく照らしていた。
 シキは星夜見ほしよみの塔へと続く石段を、銀水を満たした手桶を提げてあがる。塔までの石段は「星のみち」と称し、石英のかけらが埋め込まれている。それらは星の位置によって光る場所が変わる。塔までの道は幾筋も枝分かれしながら螺旋でのぼる迷路になっている。光が示す道しるべに従って登壇しなければならない。あやまてば、銀水はたちまち蒸発し霧散する。シキはときどき夜空を見あげ星の位置をたしかめながら径をたどる。闇が怖くなくなったのは、いつからだっただろう。こうして闇夜をたどっても、もう震えることはない。青いローブの丈は膝上までと短く、その下に短袴たんこを履いているから歩きやすくはあるのだが、肩から下がっている前垂まえだれが時おり突風にあおられ、顔を塞ぐのがやっかいだった。風に乱されぬようシキは総髪に切りそろえた黒髪を頭の高い位置で結っている。きつく結ったつもりだったが、後れ毛が顔に貼りつく。急いでいたため鬢油びんあぶらを塗り忘れた。
 ラザール星司長せいしちょう様はきっと今夜も星夜見をなさるだろう。星盤に注ぐ銀水は欠かせない。急がなければ。このところまた不穏なことが続いている。
 二年前に星が四つ、次つぎに流れた。それと前後して、レルム・ハン国には厄災が続いている。
 一つの災いが次の災いを招き、それがまた次の綻びを生み、互いに縺れ連なる鎖となって、この国の中枢をがんじがらめにしていく――そのような予感がしてならないのだよ、とラザール様はおっしゃり、常にも増して星夜見ほしよみに精勤されるようになった。
 かれこれ五日も塔に籠られたきりである。シキはこの国の行く末よりも、五十をとうに超えているラザール様のお体のほうが心配だった。もうたいせつな人を失うのは嫌だ。

 五年前の七歳の夏にシキはラザールに拾われた。
 シキが七歳になってまもない頃、村が賊に襲われた。
 母はありったけのパンと革袋に入ったミルクをシキに持たせ、怖がらないようにと父はシキの耳に綿を詰めて塞ぐと、シキを床下のかめに隠した。
「けっして声を立てるな。怖くてもそこから出るな。床の上が静かになっても、パンとミルクがなくなるまでは出るんじゃないぞ」
 父と母にきつく抱きしめられた。母がシキの顔じゅうにキスをする。その手が震えていた。「生きるのよ、シキ」と、頬ずりした母の涙がシキの頬をしめらせた。
 父がシキを甕に降ろし、蓋が閉じられ、シキは闇に閉じ込められた。
 木蓋にはところどころ隙間があり微かな光が漏れていたが、シキは固く目をつぶった。ほのかな明かりはかえって、暗くて狭い甕に閉じ込められていることを思い起こさせる。目を閉じていれば忘れられる。シキはひたすらに祈り、眠った。どのくらいの時間がたったのか、いや、何日がたったのかもわからなかった。シキは目を開けずに手探りでパンをかじりミルクを飲んで、また眠った。
 父さんの言いつけを守り、パンとミルクが底をつくまで甕のなかで膝をかかえてうずくまっていた。ずっとそうしていたかった。床の上がどうなっているかを知るのが怖かった。
 ――生きるのよ、シキ。
 母さんの声がどこか遠くで聞こえたように思った。空腹が聞かせた幻聴かもしれない。だが、それが朦朧と怯えるシキの背を押した。
 つぶっていた目を開けた。蓋の隙間から弱よわしい光がこぼれている。埃がそのかすかな光の筋をくるくると回ってのぼる。
 シキは甕の縁に手をかけて立ちあがった。頭に押されて蓋が落ちる。そのまま上体を引きあげ、甕から這い出た。甕は床下の土に半分埋められている。シキは耳に詰めていた綿をはずし、床上の物音をうかがう。
 ピチチチチ。鳥のさえずりが聞こえた。ネズミだろうか。小動物が走る細かな足音がした。他に物音はない。父さんや母さんの声や足音は聞こえなかった。
 シキは頭上の床板をそろりと持ち上げ、床上に顔を出した。
 突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いたネズミたちが、いっせいに走り出し壁の穴から姿を消した。床には小麦粉が撒き散らされ、棚に並べてあった瓶類を薙ぎはらったのだろう、割れたガラスが散乱し、酢漬けの汁だろうか、べとべとしていた。父と母の姿はない。人のけはいはなかった。
 表の扉が開いていて、ぎぎーっと風に軋んでいた。
 シキはガラスのかけらを踏まないように気をつけながら戸口に近寄り、開いた隙間から外をうかがった。三メートルほど先に若草色の衣の裾が見えた。別れるまぎわ母は若草色の長衣を着ていた。
 シキは扉を大きく開けた。久しぶりの光に目がちかちかする。
 瞳を眇めて地面をなぞりながら、若草色の衣へと視線を走らせる。こげ茶の短衣にズボン姿の父が母をかばうように折り重なっていた。父と母はシキを守るために、わざと家から出て賊の注意を自分たちに引き付けたのだろう。
 シキは裸足でよろよろと近づく。
 父の背は肩から腰にかけて斜めに袈裟斬けさぎりにされ、赤黒く血が固まっていた。母はどこを斬られたのだろうか。伏せたまま流れた血は土と混じって、わからなかった。母の左手を両手で胸にとると、シキは、ぐうっ、ぐふっ、ぐうっと奥歯を噛みしめながら泣いた。空を見あげ、唇を嚙みしめ声をたてずに泣きじゃくった。
 ――生きるのよ、シキ。
 風にのって母の声が聞こえた気がした。
 シキは涙でかすむ目で辺りを見回した。村人が幾人も斬られ土をつかんで倒れている。柳が風に揺れていた。村には人のけはいがなかった。もう誰もいないのかもしれない。
 七歳のシキに墓を掘る力はない。
 いつか戻って来たときにわかるようにと、ドングリを植えた。花を摘めるだけ摘んで両親の亡骸なきがらの上から降らせた。
「父さん、母さん。ごめん、ごめんね」
 父と母の服からボタンを一つずつ引きちぎり、たいせつにポケットにしまい込んだ。
 そうして家に戻ると、わずかに残っていた食料を袋に詰め込み、シキは家を出た。
 生きようと思った。父と母が守ってくれた命を生きようと。涙でぐしゃぐしゃの顔で決意した。
 見あげた空には、雲がひと筋まっすぐに伸びていた。
 ――あの雲の指す方へ行こう。

 シキは歩き続けた。
 家畜小屋から卵をくすねたり、干してある芋を盗ったり、畑の野菜をかじったりした。パンを盗めた日は大収穫だった。夜になると、納屋に忍び込んで眠った。
 雲はまだまっすぐに伸びていた。父母が進むべき方角を示してくれているようだった。
 ある日、街道から外れた山道に馬車が一台止まっているのを見つけた。
 そっと辺りをうかがうと、道端から少し下がった窪地に泉がある。そのほとりで身なりのよい男が顔を洗っていた。御者ぎょしゃも馬に水を飲ますのだろう。手桶をもって泉のほうへ降りていく。
 今なら馬車に積んでいる食い物か金目のものを盗める――。
 そう考えて近づいたときだ。大きな手に肩をつかまれた。
「そこで何をしている」
 泉で顔を洗っていた男が立っていた。法服のようなものを着ている。
 逃げようともがくシキを御者が押さえる。
「そなた、親は」
 首を振る。シキは賊に襲われ親を亡くしたことをぽつぽつと尋ねられるままに話した。
「そうか。可哀そうに。酷いめにあったのだな」
 男はなぐさめるようにシキの頭を撫でると、片膝をついてシキと目線を合わせた。
「だが、今、そなたがしようとした盗みは、生きるためとはいえ、村を襲った賊がしたことと変わりはないぞ」
 あっ、とシキは男を見、そして頭を深く垂れてうつむいた。
 男は馬車のコーチから何かを取り出し、シキの前にかがむ。
「ほら、腹がすいているのであろう」
 パンをさしだしながら言う。
「欲しければ、こっそり盗むのではなく、わけてくださいと頼めばよいのだ」
 シキが顔をあげる。男は、ほら、とパンをシキの手にのせる。
「遠慮せずに食べなさい」
 シキはもう一度男の顔をうかがい、最初はおずおずと、途中からはむちゅうになってパンをむさぼり食った。ときどき喉を詰まらせて目を白黒させる。
「どこか行く当てがあるのか」
 シキは空を見あげて雲を指さす。
「あの雲の先」
「雲の先に、頼れる人がいるのか」
 首を振る。
 男はしばらくシキのようすを見つめていた。
「私はラザールという。そなたの名は?」
「シキ」
「シキ、行く当てがないなら、私のところに来ないか」
 シキはパンをくわえたままぽかんとする。
「私にも家族はいない。こんな老いぼれとでも良ければ、一緒に暮らしてみないか。嫌になれば出ていけばいい。それまでのあいだベッドと食事は確保できる。どうだ?」
 ラザールが目尻の皺を深くする。
 シキはこくこくと頷いた。
「ではまず、そこの泉で水浴びをしてきなさい。私は鼻がいい。そう臭っちゃ、馬車で一緒に何時間も揺られると私の鼻が曲がってしまう」
 ラザールはわざと顔をしかめて笑う。
 野生の毛ものは、まめに毛づくろいするし水浴びもするから、案外、臭わない。だが、突然に親を失ったこの子にはそんな知恵はなかった。おそらくかめに閉じ込められてから一度も水浴びすらしていないのだろう。シキからはえた臭いがただよっていた。

「驚いた。女の子だったのか」
 シキはちょうど泉からあがったところだった。
 体を拭く手拭いを渡し、ラザールはしばらく腕を組んで思案していた。
 シキがラザールの短衣をかぶる。ぶかぶかだ。腰紐でたくしあげて調節した。
「シキ、男として生きてみないか」
 ずり落ちる肩口を必死でたぐりあげていたシキは、きょとんとする。
「男の服を着て、男のようにふるまうのは嫌か」
 シキは大きくかぶりを振る。男だとか、女だとか、どうでもいいと思った。ベッドがあって食事がある。それ以上になにを望むというのだ。

 ラザールは遠眼鏡で星を観測しながら、シキと出遭った日のことを思い出していた。
 馬車に盗み入ろうとする子を取り押さえて驚いた。黒髪はぼさぼさでわらやら草やらが引っかかって鳥の巣のようになっていたが、怯えて振りむいた面差しが似ていたのだ、コヨミに。いや、似ていたのは黒髪と蒼い瞳だけだった。だが、雷に打たれたように一瞬、あの子が還ってきたのかとわが目を疑った。そんなことはあろうはずがない。コヨミが亡くなってすでに二十年近く経つというのだから。
 星夜見ほしよみは夜の仕事だ。夕刻に登壇し、明け方に帰る。星の異変があると王宮で王のめざめを待ち、ときには朝見ちょうけんの儀に陪席し卜占ぼくせんの予見することを語らねばならない。そうなると昼夜をまたいで屋敷には戻らない。何事もなかった夜であっても帰ればすぐに睡眠をとるから、そもそも家の者たちと時間が合わなかった。
 その晩、コヨミは頬を紅潮させ潤んだ目をして見送りに出てきた。額に手をやると熱っぽかった。ヤン先生を呼ぶようにと言いおいて屋敷を出た。月が中点をよぎる頃だったか、コヨミの容体が急変したとの報せがあった。だが、その日は一人で星夜見に臨む初めての夜だった。うまくやり遂げれば、副星夜見士長ふくほしよみしちょうから正星夜見士長せいほしよみしちょうに昇進できる試観の意味あいもあり、若きラザールにとっては特別な夜だった。「ヤン先生がついてくださっているなら大丈夫だ」そういって遣いを帰した。星夜見をなし遂げ、日が昇ってから屋敷に戻ると、コヨミは冷たくなっていた。
 ベッドの傍らにヤン医師が立ち、沈痛な面持ちで首を振る。コヨミに縋りついていた妻は泣き腫らした顔を向けると、「わが子の命より、星のほうがたいせつなのですか」と絶叫した。ほどなくして妻は出ていき離縁した。
 昇進はしたが、愛するものを失った。
 コヨミの不調を察した時点で登壇を思いとどまっていたら、傍についてやっていたら。悔恨が消えたことはない。医術師でもない自分が居たとて、コヨミを救えたかどうかは甚だ疑問ではある。だが、星夜見を続ける限り、夜の不在はまぬがれない。もう二度と家族を持つまいとラザールは誓い、独り身を貫いてきた。
 それなのに。シキを捕まえたとき胸が震えた。コヨミ、とつぶやきそうになった。コヨミは男の子だった。シキは女の子だ。決定的なちがいが明らかになってもなお、長く見失っていたコヨミを見つけたような衝動が胸をおおった。がりがりに痩せて泥だらけの細い手足をさらした子を、どうしても放っておくことができなかった。
 夜に一人にすることはできない。登壇する夜は連れて行こう。
 だから、「男として生きるか」と愚かなことを訊いたのだった。
 神聖な星夜見の塔に女があがることは禁忌とされていたから。

 すでに星司長という星夜見のトップの座についているラザールにとって、星童ほしわらべという名目で幼いシキを塔に伴うことはわけもなかった。髪を肩で総髪に切り揃えて結い、短衣に短袴たんこを履かせれば、わざわざ男の子だと告げずとも、誰もが男児と思い込んだ。
 賊に襲われかめの闇に閉じ込められていたシキを、宵闇に連れ出すのはどうかと逡巡もしたが、屋敷に残すよりはいい。星のみちの前に出るとランタンの灯りを消す。星明かりに従ってみちをたどるためだ。すると、つないでいた手がぎゅっと強く握られた。見下ろすと、シキが固く目をつぶっている。ラザールも強く握り返す。
「ほら、シキ。だいじょうぶだから目を開けてごらん。星が道を示してくれているよ。どんな闇にも光はあるんだよ」

 シキは砂地が水を吸うように字を覚え、星の巡りについてさまざまな知識を吸収した。屋敷に迎えた当初、シキは一人になることに怯えた。星夜見ほしよみの塔はもとより、館に帰っても片時もラザールの傍を離れようとしなかった。古今東西の書物が並ぶ書斎でラザールとシキは時を忘れて過ごした。知識の受け渡しをする濃密な時間。ラザールは遠い昔に失ってしまったコヨミとの時間を埋めるように、シキにありとあらゆることを教えた。天文学だけではない、数学も、本草学も、詩歌も、哲学も。持てる知識の泉を、シキという甕に移し替えるように。
 ラザールが目をみはるほどシキは優秀だった。素直な性格が幸いしたのだろう。ラザールの言葉をなぞって素読し暗唱し理解した。あと数年もすれば、もう教えることはなくなるのではないか。年が明けて十三歳になれば、正式に星夜見士ほしよみしの試験を受けることができる。合格はまちがいないだろう。いま星夜見寮にいる十人の星夜見士の誰よりもすでに、シキは星の巡りに精通していた。皆がシキの聡明さに舌を巻き、「行く末はラザール様のあとを継いで星司長せいしちょうですね」とその将来を嘱望した。
 だが、それはあり得ない。いかに星夜見の士服がゆったりしていようとも、声変わりもせず髭も生えぬシキを不審がる者は早晩現れよう。どうすればよいのか。この才を女というだけで活かしてやれないのは、なんとも口惜しかった。

 学ぶことは楽しい。
 シキはラザールについて学ぶことで、親を亡くした悲しみを、天涯孤独の寂しさを埋めようとした。からっぽだった自分のまわりが満たされていくようだった。シキが文字を覚えるたびに、天文の知識を理解するたびに、ラザールは喜んだ。シキはラザール様のお役にたてることがなによりうれしかった。
 だが、それもあと数年しかできない。女は月のさわりがあるから、神聖な星夜見ほしよみに穢れを持ち込むとされている。シキはふくらみはじめた胸を見るのが怖かった。どんどん大きくなっていくのが、おぞましかった。「そなたが男であれば」とラザール様は近頃ため息をつかれることが増えた。胸を晒できつく巻いているけれど、いつ露見するやもしれぬ。その前に身を引かなければ、ラザール様が失脚してしまう。
 月夜見寮つきよみりょうに知られてはならない。
 国のまつりごとの卜占を司る季夜見府こよみのふには、星夜見寮ほしよみりょう月夜見寮つきよみりょうがある。星夜見寮は星の運行を、月夜見寮は月の満ち欠けをもとに卜占をなす。星と月の動きは互いに補い合って観るべきなのだが、二つの寮は昔から反目していた。
 レルム・ハン国の王宮は王都リンピアのノルムの丘にあり、どの方角からの攻撃にも堅固な六芒星ろくぼうせいの形をしている。星夜見の塔は南の頂点にそびえ、月夜見の塔は北の頂点を守る。二つの塔は、王宮の物見櫓でもあった。星夜見の塔は月夜見の塔よりも高い。南の海からの敵襲を見張るため遥か遠くまで見渡す必要があるゆえだ。ひるがえって北には二千メートル級のノリエンダ山脈が天蓋のごとく聳え、天然の要壁となっている。未だかつてノリエンダ山脈を越えて敵が侵入したことはない。そのため月夜見の塔を高く堅牢にする必要がなかった。だが、それが月夜見寮の不満をつのらせる。二つの寮を統べる季夜見府こよみのふの長官である大臣はこのところ何代にもわたって星夜見寮から輩出していた。そのこともまた、月夜見寮の対抗心を煽っていた。
 ことに当代の月司長げっしちょうエランダは、なにかにつけて星夜見寮ひいてはラザールの足を引っ張ろうと画策しているふしがある。「大臣にはエランダがなればよいではないか」とラザールは気にも留めていなかったし、シキも政治的な駆け引きはわからなかったが、それでもラザールになにか厄災がおよぶのは嫌だった。どうすればいいのかわからないが、月夜見寮に目をつけられないよう気をつけなければ。周囲は星夜見士の受験を勧めるけれど。これ以上、目立ってはならない。
 シキは受験するつもりがなかった。

 シキは銀水の手桶を提げて星の径をたどりながら蒼く沈む空を見あげる。十日前に耳にした、星夜見士のダンさんとロイさんの会話がずっと気になっている。
 シキはラザールから頼まれた書類の整理をしていた。ふたりは窓辺にもたれアチャの実茶を啜りながら話していた。
「ここんところ、レイブンカラスどもが塔のまわりをうろついてないか」
「俺も気になってた。月夜見つきよみのやつらがまた何か企んで、カラスに偵察させてるんじゃないか」
「ちっ、相変わらず汚ねえな、月夜見は。レイブン隊も二年前の、天卵は海に沈んだっていう報告の真偽で窮地に立たされてるからな」
「そりゃそうさ、星占ほしうらに出ちまったからな。『天はあけの海に漂う』って」
「エステ村領主の娘だったか、天卵を産んだのは」
「ああ。領主のイヴァン殿がまた巽の櫓に幽閉されたらしいぞ」
「お気の毒なことだ」
 天卵の伝説は、文字を習いはじめたころに『黎明の書』を素読して知った。その三年後に伝説と信じられていた天卵をエステ村の少女が産んだと聞いて驚いた。少し前に星が四つ流れ、星夜見寮は騒然となったから覚えている。あのときもラザール様はここ数日のように、幾日も星夜見の塔に籠られていた。レイブン隊が天卵と少女の追跡に向かったと知ると、早馬でも二日はかかる西の果ての白の森の方角を眺め、「なんと愚かなことを」とこぼされた。傾きかけた陽がその裾足を塔の内部に伸ばしラザールの横顔に翳を落としていた。
 なぜラザール様が「愚かなこと」とおっしゃったのかわからなかった。けれども、領主のお嬢様でも星が宿っただけで運命が激変することがあるのか、星とは何なのかと思ったことは覚えている。
「星占はさまざまなことを予見してくれる。だが、その予見をどう扱うかは人しだいなのだよ。よく心得ておきなさい」
 星占に現れたことは絶対だとシキは思っていた。そうではないのだろうか。
 そういえば、「天はあけの海に漂う」という星占をなしたのは副星司長のオニキスが当直の夜だった。重大な星占が出たと明朝、一番鶏が時を告げるのも待たずに王宮に奏上され、宮殿は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。登庁直前に報告を受けたラザールは、卜占の内容とそれがすでに王宮に奏上されたことを知り、こめかみを押さえ天井を仰いだ。「なぜ奏上前にひと言相談を……愚かな」と聞き取れぬほどの声でつぶやいたのをシキは耳にした。「急ぎ、出廷する」と言いおいて、ラザールはすでに多くの貴族が衆愚となり騒ぎ立てている御前会議の広間へ駆けつけたのであった。
 ラザールはオニキスを探した。だが、広間に足を踏み入れるやいなや貴族たちに囲まれた。口々に星占の意味を問う。「あけの海に漂うとはどういうことなのか」「天とは天卵のことを指すのか」と。適当にあしらいながら、きらびやかな衣装のあいまを縫って……オニキスを見つけた。
 広間の中ほどで十重二十重に取り囲まれ、蒼い士服の腕を大きく広げ、口角をあげ大仰に星占について演説していた。東雲しののめの光が彼の顔を紅潮させている。国を揺るがすほどの卜占をなし、得意の絶頂にいるのだろう。愚かなことだ。己の手柄よりも、国の行く末を深慮せねばならぬのに。
 オニキスはあからさまな野心家だった。ユイマール男爵家の四男に生まれたオニキスに爵位を継ぐ順が回ってくる希望などなかった。養子の口を探すよりも自らの力で生きていく道を選択し星夜見士をめざした。家柄にあぐらを搔いている兄たちを馬鹿にし、ゆくゆくは季夜見府こよみのふの大臣になると公言して憚らなかった。
 ラザールは星司長の座になんの未練もこだわりもなく、オニキスに譲ってもよかった。だが、オニキスの出世や権力に対する露骨さが、よくない輩につけいらせる隙になり、ひいては星夜見寮を揺るがす事態を招きかねぬとの懸念を払拭できずにいた。今朝のように手柄に逸るあまり軽率なふるまいをするところも往々にしてあった。オニキスは左の副星司長だが、五歳年若の右の副星司長のルアンは実直で思慮深く、ラザールはオニキスよりもルアンに期待していた。かといってオニキスを飛び越しルアンを次の星司長に指名すれば、ルアンに執拗な嫌がらせや報復を図ることは火を見るよりも明らかであり、不穏な星の動きの頻発するいま、よけいな騒動を引き起こす火種を巻くわけにはいかなかった。
 ラザールは広間を見渡す。大理石の柱の陰にエランダと月夜見寮のものたちがかたまり、得意満面のオニキスを苦々しげに見つめ、あたりを窺いひそひそと話している。薄く開いた窓からレイブンカラスが一羽ひそりと忍び入ると、月夜見のものたちが背に隠した。それを偶然目にとめたラザールは不穏なものを感じ、眉をひそめる。
 銅鑼どらが国王ウルの登壇を告げた。玉座に向かっていっせいに跪拝する。
 ラザールはもっとも末席に控えた。オニキスが滔々と卜占について披瀝し終えると、「天卵は海に沈んだのではなかったのか」「レイブン隊の報告は偽りだったのか」「天卵と娘を逃したのではないか」「大いにありえますな」「カラスは信用ならぬ」「虚偽罪を問えるのでは」「王に対する反逆罪ですぞ」レイブン隊を非難する声が轟々と飛び交った。
 隊長のクロウを引っ立てるべきとの声が一段と高くなったとき、黒い鳥が一羽すーっと音もなく広間にすべりこみ、誰に気づかれることもなく玉座の前に舞い降りた。その不気味さに一同がぎょっとして口をつぐむ。 
 クロウは翼を広げオニキスを睨み、「その星夜見は確かなのですかな」とすごんだ。小さき鳥ではあるが全身から場を圧する迫力がみなぎっていた。たじろぐオニキスを認めると末席からラザールが進み出た。
「ご不信はごもっとも。国の命運に関わる卜占。念には念を入れ今一度、やり直しをいたしましょう」
 ラザールはレイブン隊の行動のすべてを認めているわけではない。だが、きらびやかな衣装をまとって居並び、口先だけで責任のなすりつけ合いをする貴族どもよりも、ずっと彼らのほうが国のために働いている。国の行方を祈り卜占をなす季夜見府こよみのふと、めざすものや手段が異なり相容れないことがあろうとも、国のために働いているという一点において近しいものを感じていた。そうはいっても、此度こたびのことでレイブン隊が星夜見に恨みを抱いたことは想像がつく。気をつけねばなるまい。
 その後も形だけの議論は紛糾したが、辺境警備軍の派遣が妥当であろうと落ち着いた。辺境警備軍を統括する内務大臣のダレン伯が妙に乗り気であったことも後押しした。
 散会するころには昼をとうに回っていたが、その間、王はひと言も発しなかった。
「陛下の忠実なるしもべであるこのアーシー・ダレンが、我が身命を賭して必ずや陛下のために禍の種を摘んでまいりましょう」
 でっぷりと太った体躯を揺らしながら両手を広げて己を誇示すると、胸の前で手を組んでこうべを垂れ恭しく跪拝した。道化の演技さながらの大仰な所作に、ラザールは嘆息する。天卵を禍玉まがたまとなすような最悪の事態を招かぬことを祈るよりほかなかった。

 王宮での評定の仔細については、帰宅したラザール様よりうかがった。名誉を取り戻したいレイブン隊が、月夜見寮の企てに加担する可能性も警戒せねばならぬとおっしゃっていた。
 カラスは何を探っているのだろう。私が女であることがばれたのだろうか。
 胸に宿った不安に気を取られていると、うっかりとみちをまちがえそうになりシキはあわてた。いけない、今夜の星は左の径を照らしている。右に曲がりかけた歩を戻す。径をあやまてば、銀水を霧散させるところだった。ラザール様がお待ちだ、急がなければ。シキは宵闇に蒼白く光る星を見あげる。「星のみちは、星の未知でもあるのだよ」とラザール様はおっしゃっていた。わからないこと、未だ知りえないことを教え導いてくれるのだと。
 
「ラザール様、遅くなって申し訳ありません。銀水をお持ちしました」
「おお、シキ。早く星盤に銀水を。今宵はまた星の動きがおかしい」


第3幕「迷宮」 第10章「星夜見の塔」
<完>

第11章「禍の鎖」に続く。


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