今日で28歳になりました。筋トレ大好きサラリーマンYukiです。 〜Full ver 40,000文字〜
はじめに
みなさん。はじめまして。Yukiです。
私のnoteを読んでくださり、ありがとうございます!
日頃何をしているの?何者なの?どうして筋トレしているの?
と聞かれることが聞かれることが増えてきたので、自身のキャリアについて振り返ろうと思います。
これまでもnoteにてキャリアの棚卸しは行ってきたので、それらを繋ぎ合せているのが今回のnoteになります。Full ver40,000字越えで、長いので落ち着いたShort ver 10,000字を作成します。笑
改めて自己紹介を書こうと思ったきっかけはTwitterで見つけた、こちらのnoteです。
25歳にして年収1,000万円を稼ぐキラキラOLいくさんのnoteを読み痺れたからです。こんなnoteを自分も書きたい。そして、読んだ人にプラスの影響を与えたい。そういった一心で書くことを決めました。(リスペクトの意味を込めて型は真似させていただいております。)
最初に自己紹介させてください。
川崎生まれ川崎育ち 現在は東京住み
1994年生まれの28歳。6月8日が誕生日なので今日で28歳になりました。
(お祝いのコメント、プレゼントお待ちしております。笑)
仕事はRA(リクルーティングアドバイザー )兼 採用コンサルの営業。
副業でパーソナルトレーナーとして働いています。
※転職したい人、パーソナルトレーニングを受けたい方は遠慮なく連絡ください!
やりたいと思ったことは何でもやります。これまでに世界一周、滝行、ボディメイクコンテスト、バンジージャンプ、メキシコ勤務とやりたいと思ったことはやるタイプです。
いまやりたいことはトライアスロン。
今年中にやります!
「出来ない理由ではなく、出来る理由を考える。」を大切に生きています。
ウェルビーイングな生き方に興味があり、豊かさを大切にしています。
一度きりの人生を有意義に過ごしたい方、毎日を最高に過ごしたい方は僕と一緒に最高の毎日を送っていきましょう!
幼少期〜小学生時代
エリートな父親とエネルギッシュな母親から生まれました。幼少期から「勉強しなさい」と言われたことはほとんどなく自分がしたいと言ったことはゲーム以外であれば比較的やることのできる自由な家庭で生まれ育ちました。
そのため幼少期には英会話教室、水泳、合気道と色々な習い事をしていました。ただ、どれも自分からやりたいとは言ったものの、辛いことに対する忍耐力は全くなく、唯一続いた水泳も途中から自分の意志でやっているよりも辞められないからやっているような状況でした。
水泳はある程度長い年数やっていたこともあり選手コース(プロの卵の卵のようなコース)で通っていました。
ただ、自分の意志でやっていないので全く芽がでず、歳下にも追い越されるのなんて日常茶飯事。それでも辞めないでいたのは、辞めるということを自分の口から言えなかったからです。
この経験は今後もずっと続き、辞めずに物事を継続する日々が続きます。辞めないのに人一倍努力をしないから全く才能が開花しない。そんな自分が嫌いで幼少期の頃から自己肯定感が低い子供でした。
何よりも熱中したカードゲーム
ただそんな私にも誰よりも熱中できるものがありました。それが遊戯王やデュエル・マスターズといったトレーディングカードです。どのように自分のデッキを構築し、どういった戦略で勝つのかを考えるのがすごく楽しく自分の今の強みでもある情報収集で誰よりも多くのカード情報が頭の中に入っていました。
誰よりもカードの情報が頭の中に入っているので、どのカードとどのカードを交換すれば自分が得をするのかを考え、レアカードと交換したりしていました笑 今思えば本当に性格が悪いですね。(汗)
小学生の時は本当にカードゲームが好きで、当時仲の良かった友人と一緒にカードゲームをクラブを立ち上げて学校終わりにもカードゲームをしていました。
そんなに好きなカードゲームであっても大会に出たら優勝できるほど強い訳ではなく、小さな大会でも良くて3位止まり。うだつのあがらないカードプレイヤーでした。
当時仲良かった友人は地元で1番優秀な高校に入り東大へ進学。幼少期は同じことをしていたのに今となっては何でこんなにも差がついてしまったのだろう。。ただカードゲームは自分の意思で夢中になることができた幼少期の良い経験です。
中学時代
カードゲーム友達がバスケ部だからバスケ部へ入部
中学校に進学すると何故かみんなが入る部活。
幼少期からの経験を考えると水泳部に入ることが妥当でしたが、水泳を辞める良い機会だと考え、水泳部は選択肢から除外。
サッカー部と野球部はすでに幼少期からやっている人との能力差と興味がなかったから除外。
何かしらのスポーツはしたいと考えており、当時仲の良かったカードゲーム友達が「バスケ部に入る」と言っていたのとスラムダンクを読んで素人からの可能性を感じることができたからという理由でバスケ部に入部を決める。
自分と同じような考え方をしている人は意外と多く入部当初にいた25人くらいのうち20人前後は初心者でした。
最初はまともにドリブルもシュートもできないので基礎中の基礎をひたすら練習する日々。水泳を自分都合の理由で辞めたからバスケだけは最後までやりきると決めていたし、何よりも出来ないことが少しづつできるようになってくるのが楽しかった。
NBAを知ったことでより一層バスケが好きになった青春時代
バスケ部の友達がNBAというアメリカのプロバスケリーグがあることを教えてくれました。Youtubeで見たNBAの動画はどれも圧倒的でNBAに夢中になるまでは全く時間がかからなかったです。素人の方でもNBAの良さがわかる動画を貼っておくので良かったら見てみてください!
NBAを知ってからはバスケのことがもっと好きになり、バスケ部の仲間と一緒に電車に乗って体育館に行っては一緒に練習をしていました。ipodの中にクリップボックスを使ってNBAの動画を沢山いれてずっと観ていました。特にアイバーソンとカーメロアンソニーが好きで彼らのハイライトプレイを毎日観ていても全く飽きなかったです。
NBA好きでもバスケは上手くなく全く試合に出られなかった
NBAをきっかけにバスケに対する愛は強くなりましたがバスケが、劇的に上手くなる訳ではなく、試合には全く出場することができなかったです。
当時は試合に出れなくてもバスケが好きだったし、NBAが大好きでした。
部内の誰よりもNBA好きだった自信はあったがバスケは全く上手くならない。
それなのにNBAもバスケもあまり興味ない同期が試合には出れることにはかなり嫉妬心を抱いていました。ある日の練習試合であまりにも試合に出させてもらえなかったので試合に出れなかったメンバーと結託し、練習試合の途中で帰ろうとして叱られ、試合に出してもらったことを今でも覚えています。
自分なりには努力をしてきたつもりだったが圧倒的に足りていなかったです。言うならば、ただの自己満。
引退試合には最後の30秒だけ、試合に出場する機会をもらうことができましたが、何もできずに中学時代のバスケ生活は幕を閉じました。
試合終了後、当時レギュラーだったチームメイトは号泣していましたが僕は号泣するどころか虚無感にかられていました。負けても悔しいとも思わなかったです。
それよりも、同期と一緒に大好きなバスケができないと思う方がよっぽど辛かったし、自分が試合で活躍できずにチームが負けた現実に納得がいかなかったです。
バスケ部での生活が終わり受験をすることに
最後の大会が終わってからはみんな高校受験に向けてシフト。
バスケ部の同期は意外と将来を見据えている者が多く、レギュラーだったメンバーはMARCHの付属校へ進学。
試合に出ていなかった頭の良かったチームメイトは早稲田の付属高校へ進学。
そんな中で僕は当時の内申が34/45となんともパッとしない成績を常に維持しており、高校受験も全くやる気がなく「とりあえず偏差値60超えていればよくね?」という甘い考えで志望校を選んでいました。(今思えばこの時に必死で勉強して早慶の付属高校に入っておけば良かったと猛烈に後悔しています、、)
高校でもバスケをしたいという思いは当時からあったのと仲の良かったバスケ部のレギュラーのメンバーが國學院久我山にスポ薦で入るので第一志望は國學院久我山(偏差値70)。
当時は「受かればいいかな〜」っていうくらいでしか考えていなくて久我山に受かるために勉強を必死でしたという訳ではありませんでした。
今となっては考えられないが高校受験の直前で英語の"However"の意味をすぐに答えられないくらいバカでした。それくらいバカだったので当然のごとく久我山の試験には落ちました。
2回の受験を経て何とかして偏差値60を超える高校に入学
滑り止めの高校は当時の偏差値が64くらいあったが何ともパッとしないイケていない高校だったので行くのを断念。國學院久我山には受からないかもしれないが系列校には受かるかもしれないという甘い考えを持っていました。
國學院高校と國學院久我山は同じ國學院がルーツの高校だが学力もスポーツも圧倒的に違います。。
そんな「國學院高校になら俺でも受かるだろう」という甘い考えを持っており受験に臨んだがあっけなく不合格。
滑り止めの学校に進学することになりそうになるが再度、國學院高校の2回目の受験があることを知っていたので再度受験することに。
1回目に受けて落ちた人が2回目に受験する場合は15点の加点があるという謎の制度。受験において1点ですら命取りになるのに15点追加って大盤振る舞いすぎる笑
その15点の加点があったので2回目の合格発表では自分の受験番号が記載されており何とか合格。
滑り止めの高校を蹴り國學院高校に入学することを決意しました。
高校時代
同じ中学校出身の人が10人いたマンモス高校
僕が通っていた中学校は1学年10クラスもあったので高校でこんなに人数が多くても全く違和感がありませんでした。そんなマンモス中学からマンモス高校へは10人もの同じ中学出身の人がいました。
そんな中で、野球部の友人とクラスが同じでした。中学時代からもそこそこ仲の良かった彼ですが高校のクラスが同じになったことによりさらに仲良くなります。
彼は頭が良かった。早稲田の付属校に一次面接に受かり二次面接で落ち、僕とは違って勉強ができました。初回のテストで彼は学年で550人中5位。自分はドベから数えた方が近い成績でした。ただ、この時も勉強ができないことに対するコンプレックスは特になく、「留年しなければよくね?」というスタンスでした。
当然のごとくバスケ部に入部
バスケ部には日大豊山という強豪校から入学したメンバーもいて、部員数は20名を軽く越えていました。
バスケの上手いやんちゃな同期が5人ほどいて居心地はあまり良くありませんでしたが顧問と衝突し、一年もしないうちにいなくなりました。笑
今でもですが基本的に「若い時にやんちゃしてきました!(ドヤァ!!!)」って人は苦手です笑
一個上の先輩でバスケの上手い人は2人だけいてその人たちとは放課後もよく一緒にバスケをしていました。この頃から自分よりもで出来る人と一緒にいることで自分の自尊心を保つというしょうもないことをしていたように思います。
高校でも試合に出れない日々
一度だけ他のメンバーがいなかった為レギュラーとして試合に参加することが出来ましたが、試合に慣れていないので全く活躍することが出来ず使えないやつの烙印を押すきっかけに。
それ以降僕のバスケ人生でレギュラーになったことは一度もありませんでした。中学時代に比べて試合に出れないことからバスケに対する熱が少しづつ落ち始め、将来のことを考え勉強することにフォーカスし始めました。
テレビで見た慶應生のインタビューで勉強心に火がつく
いつものごとくテレビを見ていると現役慶應大学生のインタビューが行われていました。慶應が頭の良い大学であることは当然のごとく知っていましたが自分とは無縁の世界だと思い込んでいました。
そのインタビューを受けていた慶應生は元々勉強が出来たわけではなく、努力したことで合格したことを語っていました。その番組では「英単語を覚えることが何よりも大切」と語られていました。これなら自分でも始めることができると思い勉強を開始。
当時、英単語テストは誰もまともに勉強していなく、出来なくても当たり前の風潮が強く少し勉強すれば簡単に点を取ることができました。
この小さな成功体験が僕に勉強をすることの面白さを教えてくれ勉強にハマるきっかけになりました。
クラスで2番目になれる程の実力に成長
少しづつ自分の努力が形になることに対して喜びを覚えて勉強することにハマっていきます。
高校3年生時の英語クラスでは1番上のクラスだったり、日本史の模試の偏差値が70を超えたりとで完全に優越感に浸っていました。
成長カーブの鈍化による焦り
英語と日本史の偏差値が65近くあったものの国語の偏差値が伸びず、焦りを感じる日々を過ごしていました。以前には自分よりもできないと思っていたクラスメイトも勉強に本腰を入れ始めどんどん出来るようになっていき完全に人と自分を比較し嫌悪感に陥っていました。。。
そしていざセンター試験
立命館にセンター利用で受かって今後に勢いをつけようと考えていた受験でしたが国語で悲惨な目にあいます。
現代文のみで80分使え、誰よりも時間に余裕がありましたが全く問題を解くことができませんでした。この国語がきっかけで完全に自分のペースを崩され得意科目だった日本史と英語も全くできず撃沈。。。
英語に関しては直前の模試で9割取れたにも関わらず6割5分くらいしか出来ませんでした。。。センター試験の失敗を機に更に焦る日々が続きました。
いざ私立群の入試へ
高校受験の何万倍も力を入れて勉強した大学受験だっただけに合格できなかったのは本当に悔しかったです。
プライドだけは高く実力もない自分でしたが、唯一補欠だったのが学習院大学。
過去問を解いている時から相性がよく受験当日も合格をしたと確信していましたが蓋を開けると補欠。「補欠ってなんだよ。合格じゃないのかよ。。」と当時の自分は思っていました。全部の試験に落ちた当時の最後の頼み綱は学習院大学の繰り上げ合格のみでした。。
学習院大学の2度目の受験
受験日は3月10日とかなり遅く高校の卒業式は3月1日でした。皆が受験が終わり春への期待と高揚感で賑わっている中、自分は次の再試のことで頭がいっぱいであまり卒業式の記憶がありません。
試験に向けてひたすら国語の勉強をし、学習院大学の他学部の国語の問題を毎日解いて過ごしていました。そして受験当日を迎えます。
当日は国語だけなのでこの為だけに全力を注いで試験に臨みました。終わった時の手応えはそれほどありませんでしたが、できる限りのことをしたので後悔はなかったです。この試験に落ちたら浪人して慶應を目指そうと考えていました。
運命の合格発表
合格発表は掲示板で行われるものではなく、パソコンで調べて番号がづらりと並べれる形式のものでした。
自分自身の受験番号を父親と一緒に探したのを今でも覚えています。無事に自分自身の受験番号をパソコンの画面で見つけることができ僕の受験は幕を閉じました。
志望していた経済学部経営学部ではなく経済学部経済学科でしたがこれまでの努力が報われた瞬間でした。
父親に「合格おめでとう!良かったね!すごいね!」と言われたことを今でも覚えています。父親は一橋大学に一浪で入学しているため私より学歴は上にも関わらず現役で受かった大学はありませんでした。本来であれば自身の方がすごいとマウントを取りたくなるはずなのに自身に対して「すごい」と言う父親の偉大さを痛感しました。
高校受験、大学受験を2回の受験の末に合格するというかなり崖っぷちな受験期でした。ただ、自分自身の中で1番努力したのにも関わらず学習院大学しか受かることができなかったコンプレックスは今の僕を突き動かす原動力となっています。
あの時に慶應大学に受かっていたらそれはそれで幸せだったかもしれませんが、どこにでもいる平凡で慶應生であることで天狗になっている大学生になっていたかと思うと一度鼻をへし折られて良かったのかもしれません。
大学受験は私の原動力に間違いなくなっていますし、今後話させていただく大学生編での行動する原動力になっています。
大学時代
誰も挑戦したがらない体育会バスケ部という挑戦
レギュラーとして全国大会出場経験が有る同期や先輩がいるのは当たり前の環境。東京都の大会で2回戦負けかつ試合に出たことがない私との実力差は明白で、毎日毎日ボコボコにされる日々が続きました。
身長も高くない、身体も強くない、これといったスキルがあるわけではない、勉強も真面目にしないと本当に今思えばダメダメな大学生でした。
ハードな練習に慣れておらず、疲労がピークに達し遅刻したことも数回あり、大学生にして人生で初めて坊主にするという経験もしました。ただ、不思議とバスケ部を辞めるという選択肢はなく、もがきながらも継続する日々でした。
同期が本当にいい奴らではなかったら一瞬で辞めていましたが同期に恵まれたので継続することができたのだと思っています。
何よりも無力感を感じた1年目の4年生引退試合
入部してから半年程経つと最後のリーグ戦を迎えました。当時の部員16人いる中でベンチ入りすることが出来るのは15人。ということは必然的に1人だけベンチアウトになります。
言うまでもなく、そのベンチアウト要員に選ばれたのは私でした。
ベンチアウトになったメンバーは応援、雑務を任されます。私が行なったことは最終試合のビデオを撮影すること。
ビデオ撮影すること自体に抵抗は有りませんでしたがみんなと一体感を得ながら試合を観戦できなかったこと、何よりも4部優勝をし、メンバー全員が感極まっている中でその輪に入ることが出来なかった時に感じた無力感を今でも忘れません。
先輩達が引退試合を終え、感極まっている中、私は1人馴染むこと出来ずにいました。
人生について考えるきっかけになった一冊の本
サークルで大学生活を謳歌している友人を羨ましく思いながらも「いまの苦労は絶対にいつかの糧になる。俺はあいつらとは違う。」という大学生ながらも完全に痛いキャラでした。常に何かに挑戦し、人よりも苦労しないと報われないと考えていた私でしたが、ある日、本屋に立ち寄ると一冊の本に出会い人生が一変します。
その本のタイトルが「僕らの人生を変えた世界一周」という後に学生スタッフとして携わるTABIPPOが出版する本です。
タイトルが胡散臭いと言われたらそれまでですが、当時の私にとってこれほどまでに影響を与えた本は有りませんでした。この本は大学時代に世界一周旅行をした大学生や大人のエピソードが15個ほど掲載されています。
どれも当時の自分にとっては新鮮で1日でも早く旅に出たい気分にさせてくれた本でした。親父に「20歳の誕生日に何が欲しい?」と聞かれた時に「世界一周したい!」と言ったのを今でも覚えています。ドメスティックな親父から返ってきた返事が冷たかったのは言うまでもありません。笑
TABIPPOの本を読んだ日から世界一周をすることを公言するようになり、周りの人から頭おかしい人扱いをされるようになりましたが、TABIPPOのメンバーは誰も否定することなく、「羨ましい!」「良いね!楽しんで!」「俺も世界一周したなー。懐かしいなー。」とプラスの声をかけてくれることが多くとても居心地が良かったのを今でも覚えています。
1年間の休学と休部をして実現した世界一周
常に公言していた世界一周を実現すべく様々な障壁がありましたが、一つ一つ向き合うことで乗り越えてきました。
この時に学んだことは結局はやるかやらないか。
世界一周するのが夢なんですっていう人はいるけど、そんなのは夢でもなんでもないかなと。結局はやるかやらないかであって。
世の中の大概のことは行動すれば何とでもなることをこの時に学びました。
世界一周をするために半年間はアルバイトをし、半年間で世界一周することにしました。アルバイトは朝から晩まで働く日々でしたが、このバイトを通じて知り合った人たちとは今でも交流があるくらい仲が良いですし、もう一つのバイトはメキシコで働くきっかけになっているので、人生何が起こるのか分かりません。
半年間の世界一周では東回りで27カ国の国々を回りました。今思えばもっと時間を取って少ない国に行けば良かったのですが当時は1カ国でも多くの国を自分の目で見て感じたい気持ちで一杯でした。
数えきれないほどの思い出が詰まっている世界一周。行動した先には必ず何かがある。あの時に旅をしなかったら見られなかった景色、出会えなかった人がいる。後悔しないで生きるためにも行動しよう。周りに批判されようが揶揄されようが自分の意志で動いた先には必ず希望がある。
帰国して復部したバスケ部を中心とした生活
旅を終えた後は大学3年生(同期は4年生)として過ごしました。旅から帰ってきて1番感動したことは自分の家で湯船に浸かることができたこと。
それ以外で感動することは全くなく、部活を中心とした同じような日々の繰り返し。
1年間全くバスケの練習をしていなかったのでただでさえ下手くそなバスケのスキルは更に落ちていました。もちろん試合に出れるわけでもなく、Bチームとして練習する日々が続いた。同期が4年で最終学年として2部昇格を目標としている中、モチベーションの差で衝突することもあり、ひたすらに居心地が悪かったのを今でも覚えています。
リーグ戦での成績は芳しくなく2部昇格どころか、4部降格が危ぶまれる成績で3部残留という結果で同期の最後のリーグ戦は終了しました。
同期との最終試合で一緒にコートに立ってプレイする資格がないことは分かってはいましたが、いざ実際に立てないと儚い気持ちで一杯になりました。
最後の円陣で国体選抜で一年次からレギュラーとして活躍していた主将が涙をしながら話していた姿には感銘を受けたことを今でも覚えています。
彼が心からバスケットボールを愛しているのが伝わった。一度も公式戦で一緒にプレイすることが出来なかったの。自分の実力不足だったのは言うまでもないが死ぬまで思い出話についていけないと思うと何ともはがゆかった。
そういったこともあり、今でも大学時代の同期とは、あまり会わないようにしている。試合の時の感動や喜びを当事者として分かち合えないことほど辛いものはない。これはスポーツに限らず全てにおいて当てはまることのように思います。だからこれをバネにして生きると決めました。
あの時に一緒に味わえなかった感動を越す感動を何かしらの形で手に入れると。まだその感動は手に入れられていないがいつか手に入れるために。
同期がみんな去り過ごした1年間のバスケ部での日々
同期がみんな去った後の1年間は本当にしんどかったです。
1年間多く後輩と過ごすことが出来たことだけが唯一良かったことでそれ以外は全てしんどかったです。
当然のことながら試合に出ることはできないし、コーチには罵倒される日々。しまいには「お前は何のために生きているのか?」と問われる始末。。当時は何のために生きていたのかは今でも分かりません。
強いて言うなら幼少期に水泳を辞め、バスケを最後まで続けると決めた自分との約束のためでしょうか。自分との約束を果たすためだけではないがバスケをしていたというよりもさせられていたといった方が正しいのかもしれません。
最終試合の日は情けで試合に出場することが出来、僕のバスケ人生で最初で最後の公式戦出場でした。試合終了後の円陣で何を話したのか全く何を話されたのか全く覚えていません。5年間過ごしたバスケ部での生活はあっけなく終了しました。
5年間通った大学の卒業式
5年かけて通った学習院大学経済学部経済学科の卒業式。1年間休学していた為、同期は1年早く卒業。
部活の同期以外ほとんど友達が大学内にいなかった為、卒業式は終始ぼっちで退屈で仕方なかったです。
部活の後輩が卒業を祝ってれたのが唯一の救いでした。
1年目の単位修得が20単位で半分以上単位を落としましたが何とか留年を卒業をすることができました。
社会人1年目 大手人材会社
総合商社、証券会社に落ち何とか
掴み取った人材会社の内定
「学習院大学」「体育会出身」「世界一周」これだけの武器があれば就活でも間違いなく戦えると思っていた当時の自分をぶん殴ってやりたいと心の底から思います。
肩書きや経歴で内定がもらえる程、就活は甘くないです。特に誰もが行きたがるような総合商社や大手証券会社なら尚更です。心のどこかで総合総社は無理でも採用人数の多い大手証券会社なら部活の同期も内定をもらっていたし受かるだろうと思っていました。
現実はそんなに甘くなかったです。体育会で苦しみながら、耐え抜いたエピソードを武器に面接の駒を進めることは出来ましたが、最終面接、三次面接で蹴散らされ、全く内定をもらうことが出来なかったです。
学習院大学では奇跡的に三井物産に内定をもらった人がいました。彼はきっと自尊心と満足感で一杯なのだろうが、将来の出世競争で学歴が周りよりも低いという理由で出世コースから外れるのはあまりにも切ないです。
残酷だがこれが就活で人気のある業界の実態のようで学歴フィルターは確実に存在します。総合商社出身で日東駒専以下の人を一度も見たことありません。残念ながらそれが現実です。
学歴がない人こそ周りの環境や何かのせいにして生きてきた人が多い印象を持ってしまうことがあります。
楽して難関大学に入る方法なんてないのに、それがあたかもあるように平然と語る人もいます。学歴は努力を表す立派な勲章だし、受験よりもフェアな戦いを僕は知りません。
大前提として学歴が全てではありません。その点は、しっかりと強調します。
話を戻しますが、僕は悉く面接に落ちました。落ちた社数で言えばゆうに30社を超えます。どこかから内定をもらえるだろうという安直な考え方は身を滅ぼします。就活生はそんな甘ったるい考え方を捨て、どうすれば内定をもらえるかを脳みそから血が吹き出る程考えることをおすすめします。頭を使って考えた経験は今後の人生にきっと活きてきます。
面接に落ちまくった僕はたまたま校内で募集のあった、名前を言えば就活生なら誰でも知っている人材会社を受けることにしました。
この時、4年生の8月頃で内定0。(いま、就活で苦しんでいる学生はどうか諦めないで欲しい。)
意識だけ高く就活に取り組んでいたが全く内定を獲得できなかった。そんな中で、採用担当の方と意気投合し、順調に面接を突破し内定をいただきました。
4年生の9月中旬に僕は大手人材会社の内定をもらって就活を終えました。
正直言って就活は本当に辛かったです。
自分ならもっと良い会社に受かると思っていたし、もっと選択肢があると思い込んでいました。現実はそんなに甘くなかったです。
自分と同じような想いをする人を1人でも減らしたい。同じような失敗をして欲しくない。という想いからOB訪問を引き受けるアプリを通じてこれまでに100人以上の就活生の相談に乗ってきました。自分の話が就活生の人生を変えるほどインパクトがあると思ってはないが、どんな人でも受け入れ、アドバイスしてきた自負はあります。
人材会社での内定者研修
何とかもぎ取った人材会社での内定者研修はテレアポのロールプレー、採用担当の悩みのコンサルティング、営業メール作成といった内容。
基礎中の基礎を怠ったところで良いことは一つも起こりません。
あまりにも不真面目に受けていたため、補修を受けさせる始末。そして研修担当にはできない新卒の烙印を押されてしまいました。
今考えれば当たり前ですが、研修は会社が配属先を決める大切な判断材料です。
研修で良い評価を受けていない人は当然ながら自分が希望する部署に配属されることはありません。その結果、1番行きたくなかったアルバイト・非正規雇用の求人広告の部署に入社式の際に配属を発表される結末に。
今思えばあの研修をしっかりとやっていればよかった。ただ、この部署に配属されていなかったら会えなかった人がいるのでそれを考えると置かれた場所で花を咲かせる力が大切なのかもしれません。
部署を代表してスピーチするほど意識だけは高い新卒
大学を普通の人よりも一年遅く卒業し、体育会だったにも関わらず自分が全く志望する会社で働くことが出来なかった当時の僕はかなりの野心家でした。
「絶対に表彰される人材になる!」と意気込んでおり、内定者研修の時とは比にならないほど真面目に研修に取り組みました。
何か質問や気になることがあれば誰よりも先に挙手をし発言していました。周りの同期の目なんか何も気にならなかったです。自分が成長することだけにフォーカスしていました。その姿勢を研修担当の方々に認められ、部署を代表してスピーチする機会をいただきました。
その時に一緒にスピーチした女の子は見事に表彰されましたが僕は表彰とはかけ離れた成績で一年目を終えました。
スピーチに関しては事業部長や営業部長といったお偉いさんを前にテンパり話すべきフレーズが全部吹っ飛んだことを今でも忘れません。(スピーチすると頭の中が真っ白になります笑)
あれほど屈辱的だったことはなかったです。みんなの前でプレゼンする度に緊張するというよくない癖が出来てしまいましたが、何度もバッターボックスに立ったことで少しずつ克服することが出来ました。
初日から頭がおかしい扱いをされる新人
スピーチが終わり、配属初日に女性の営業部長との間にトラブルが起こります。会社用のパソコンが盗まれないようにするために、鍵がかけられており、それを開けるカギがスペアキーを含め新人には渡されます。
そのスペアキーを各課長に預けるのですが、そのカギにマークをするために付箋に名前を書いて貼るのだが、僕は付箋を持っていませんでした。。そこで「〇〇さん、付箋持っていますか?」と女性の営業部長に聞きました。
当然のごとく、その営業部長は「持っていない。」と一蹴。
当時の僕はこの一連の出来事に何も違和感を感じていませんでしたが、後になって、この一連の出来事を当時の課長をはじめとする方々から「ふせんを持ってるか聞くなんて失礼すぎる!」「新人としての自覚が足りない」などとかなり言われました。
今となっては自分の至らなさを受け止めることができますが当時の自分には受け入れることが出来ませんでした。
毎年開催される名刺獲得大会という謎イベント
営業職として現場に配属されてから毎年恒例の名刺獲得大会が開催されました。
名前の通り、1日外に出て営業をし、1枚でも多く名刺を獲得した者が勝利というシンプルなルール。
担当が渋谷区だったこともあり、109をはじめとしたモールを狙えばいけると思っていたが名刺交換をしているところ警備員に声をかけられ、営業禁止令を受けました。
その後も何軒か飛び込み名刺交換をしてもらえるように頼み込むも効率が悪く名刺が全く集まりません。結局集まりきることができず、順位も何位かわからないで終了。70人いた同期のうち2人はその名刺獲得大会で初受注を決めていました。
70人いる同期の中から3番目の初受注に到るまで
恒例の名刺獲得大会が終了すると現場に配属されました。新卒営業の初仕事は新規クライアントの獲得。新規クライアントを獲得する方法は電話してひたすらアプローチするのみ。
非正規雇用における求人広告を扱っていたので電話をかけるところは個人経営の飲食店や中小企業、ベンチャー企業がメインでした。
同期が1日100件テレアポする中でその倍である200件をこなしていました。不動産投資の営業だと1日に300件かけるところもあるらしいからまだ緩かったのかもしれません。
200件電話したとしてもアポイントを取れるのはせいぜい2件。
当時誰よりもテレアポが苦手なこともあってアポが全く取れなかったです。ただ、誰よりも数をこなしアポイントを獲得することに集中しました。
配属され3日目に「明日15時に来て。」と中華料理店の店長に言われ先輩と一緒に同行し、次の日に向かいました。
到着すると60歳超えのおじいちゃんが対応してくれました。
初めての商談で何を話せばいいのか全く分からなかった僕は先輩の話をただひたすら聞いていました。
先輩の話がある程度進んでから「そしたらこのプランでお願いします。」の一言が。同期で3番目に初受注が決まった瞬間だった。
契約書を書く手が震えて先輩に引っ張ったかれたのが懐かしい。自分の努力が報われた瞬間ではあったが何も出来なかった自分に虚無感を感じた瞬間でもありました。
一件の受注で140%の達成率を叩き出すことが出来たのはラッキーでした。翌月もラッキーパンチが炸裂し、1週目でノルマを達成。その翌月も100%で達成しました。
表彰を受けるには100%の達成率じゃ全く足りません。表彰式の期間までやりきったが表彰には全く届かず一年目の秋を終えました。
秋になってからは1人で商談にも行けるようになり1人で受注できるようになっていました。ノルマは以前に比べるとどんどん上がり、引き継ぎもあったがノルマを達成するだけで精一杯の日々を過ごしていました。
課のメンバーで達成した全国達成率1位と虚無感
ノルマを達成することに余裕がなくなり表彰どころか売れない落ちこぼれ社員になりかけていた頃に課のメンバー(自分含め4人)が140%達成していました。
そんな中、自分は100%達成することで精一杯。完全に自分の力不足を恨んでいました。チームに貢献するべく新規の開拓には誰よりも力を入れ平均受注単価の5倍近くの額を一回で受注することで何とか100%を達成しました。
周りのメンバーに恵まれ、2ヶ月に渡り全国の課で達成率1位となった。全国1位はとても喜ばしいことだけど自分自身の力不足を改めて痛感するきっかけとなりました。
1位になった、お祝いでみんなと一緒に食べに行ったUSHIGORO Sはこれまでの人生で食べたどの肉よりも美味しかった。
あの時に課のメンバーで写真を撮らなかったことを今でも後悔しています。
あの時のメンバー程恵まれた環境はなかったです。
モチベーションがそぎ落とされた下半期初月
目標であった表彰式の舞台に立つことができず、敗れ去った10月。リベンジすることに闘志を燃やしていたが全く売上を立てることが出来ずこれまでの中で1番低い売上を叩き出すという負のスタートっぷり。
リベンジを意気込んでいただけにショックも大きく、毎日トイレに篭っては自分の人生を憂いていました。
勉強も仕事も結局は自分との戦いであり、より良い結果を出すために精進するだけなのに周りの目ばかりを気にしていました。
癖の強いクライアントと叱られる先輩
退職した同期の企業に片っ端から電話をし勝手に引き継ぐという社内的にはありだがかなりセコいやり方で営業をしていました。
その中で受注見込みのある企業にコンタクトを取ることができ先輩と一緒に訪問することに。「忙しいこともあるから事前に電話して欲しい」と伝えられており、訪問前に電話をし、訪問可能の承諾を得て、訪問しました。
かなり癖のある人で同行してもらった先輩の「〇〇っすね」「確かに〇〇っすね。それは。」といった口の聞き方が気に食わなかったのか途中でブチギレて「その話し方何なの?いつもそんな話し方で営業してるの?俺、君よりも年上何だけど!」と言い放ち、商談の場は凍りついた。
「君(先輩)じゃなくて君(私)が説明して」と言われパンフレットを見せながら商談を行うことに。帰り道に同行してくれた先輩がそのクライアントの愚痴を言っていたのは明白です。
実際にオフィスに戻り、いつものごとくお礼メールを送り、溜まっていたタスクを終えました。その日はいつもよりもタスクが溜まっておりオフィスを出たのは22時を過ぎていました。オフィスを出た後に社用携帯を確認すると19時半ごろに一件の不在着信が。
本来であれば明日かけ直せばいいのだが、当時の僕は何も考えずにその場で連絡することに。電話した先に出たのは訪問した癖の強いクライアントでした。
会話の内容は「発注しようと思っているが割引はできるのか」という内容。
少し機嫌が悪いことが伝わったが、この時間でも仕事をした俺を褒めて欲しいと思いながら何も気にせず電話を切りました。
自分の未熟さを痛感するアクシンデント、部長の謝罪
次の日に何事もなかったかのように出社し仕事をし企業訪問を終えオフィスに戻ると、部長に呼び出されました。
「お前が昨日夜に電話したクライアントからかなりお怒りの電話が入った。そもそも何でそんな遅くに折り返し何てしたんだ?」と言われました。
自分の中では何も悪気はなく、今すぐにでも対応しなければならないという使命感から来た行動でした。
先輩の言動による叱責及び自分の行き過ぎた行動による決定的なミス。この2点がクライアントの癪に障り、クレームの電話。受注する可能性があったもののこの一連の出来事で当然のごとく失注。
自分が謝りに行くと部長に伝えるも、何にも関係ない部長が謝りに行くことに。
自分がしたミスなのに部長に責任を取らせてしまったことの申し訳なさと、自身の未熟さを痛感。部長から「これ、お前のために買ったんだから覚えておけよ」と虎が描かれた紙袋を渡された。そう。老舗銘菓とらやの羊羹。
僕はこの一連の出来事が起こるまで謝罪する時に、とらやの羊羹を持って行くことを知らなかったです。社会人にとっては当たり前かもしれませんが大学生や新入社員なら分からないと思います。知らなかったなら覚えておくことをおすすめします。
部長が謝罪に言ったあとの一言が「お前がクソなことしたせいで何で俺が謝りにいかなきゃなんねーんだよ。次やったらぶっ飛ばすぞ!」「マジでこんなこと一生すんなよ!おめーのせいで誰に迷惑かかってる忘れんな!」と言った叱責の言葉ではなく、
社内のHPにも掲載されるような人で毎年表彰されているスーパースターの部長。こんなにも懐が広い人を僕は知らないし、この人の下で働くことができて本当によかったと心の底から思う。
もちろんこの出来事だけではないけれど、常に誰よりもクライアントと部下のことを考え、弱音を絶対に吐かない5年目という最速で営業部長になった彼のことを今でも心から尊敬している。
自分の人生に悩み始めた時に再会した
ベンチャー企業経営者
クライアントのクレームの一連の出来事、全く上がらない営業成績、自分の人生を何とか変えたい願望。これら一連の出来事があり、出社しては毎日トイレに篭って自分の人生を憂いていました。そんな時に大学時代アルバイトをしていたカフェ&バーを経営し、メキシコで会社経営している社長と偶然の再会を果たします。
と言い、その日はたまたま髪を切りに行く用事があったので一度髪を切りに行きました。
髪を切っていた時も、さっき話した社長との会話を思い出し、自分の人生について考えました。中南米で働きたい!スペイン語を使って仕事がしたい!と言っているのにも関わらずスペイン語を全く勉強していないし、今後も時間を取ってする予定もない。
今後も人生について悩みながら悶々と仕事をするよりもいっそのこと転職をして20代最後の挑戦をしてみよう!と素直に考えました。
「人材紹介事業を新規事業で始めようと思っていて、インターンだったらいいよ。」と言われジョインすることにしました。
前職の給与の10分の1だがメキシコで働けること、人材領域における新規事業を行えること、尊敬している社長の下で働くことができるという理由からその日に転職することを決意しました。
転職を決意してからは先輩に転職を伝える必要があったのですぐに伝えました。お世話になった先輩に恩返しが出来ていないまま転職するのを気がひける人多いと思うがそんなことは全く関係ない。
転職先の会社で成長し恩返しをすればいいだけです。
それよりも自分が本当はやりたいことや挑戦したいことがあるのに我慢しながら働いていることの方がよっぽど失礼のように思います。
転職する旨を伝えた上での部長、課長との面談
転職を伝えた後に部長と課長に呼ばれ面談をすることに。「メキシコで働こうと思っているから会社を辞めて転職したい」と伝えると、「お前が転職するか転職しないかについて迷っているなら止めようと思ったけど、決めているんなら俺は止めないよ。それに今の話している顔の方が普段のお前よりもよっぽどいいよ。」と言われました。
相変わらず懐が大きくて、いつか絶対に、この人に恩返しをしないといけないと心の中で勝手に誓った。
組織において退職者が多いことは良くありません。それに前職の会社は離職率が高いことが課題としてあり、70人いた東京エリアの同期は一年が経過すると55人程になっていました。
退職をすると先輩や上司にばつがつきます。部長の部下で同期がすでに1人退職していたので自分を含めると2名になります。
これは正直に言ってかなりのマイナスになります。出世に影響が出てもおかしくないことであります。それにも関わらず、部長と課長にばつがつくのが申し訳ない旨を伝えると、「そんな小さなことはお前が気にすることじゃない」の一点張り。
見栄を張っていたのかもしれないが、本当に感謝しかない。自分のわがままでこんなにも迷惑をかけてばっかりで頭が上がらない。この一連の流れを経て私の転職は受理されました。
意外とあっけなく終わった最終出勤日と挨拶回り
退職することが決まってからの最後1ヶ月ノルマも課されることなく、自分がこれまでに担当してきたクライアントの引き継ぎを行ないました。引き継ぎを行うといってもこれまでに担当してきたクライアントの数はあまり多くなく、一週間あれば全部訪問出来るほどの数でした。
個人的にプライベートでもお世話になった方に挨拶に行き
私:「今の会社を退職してメキシコに行こうと思っています」
ク:「そうなんだ!俺の友人もメキシコにいるんだよね。こいつなんだけど。」
その方のフェイスブックを調べると今働いている会社の社長と繋がっていた。後述するがメキシコにおける日本人のコミュニティは本当に狭いです。なんせメキシコにいる日本人の数は12000人しかいません。(1万人に1人の割合。)
他のクライアントにも挨拶に行きましたが、当然のごとくメキシコに知り合いがいる方はいませんでした。
それどころか「メキシコってどこにあるの?」「メキシコ語話せるの?」
と言われる始末。
やはり日本においてメキシコのプレゼンスは間違いなく低い。
ちなみにメキシコではなく、メキシコ語ではなくスペイン語が日常的に使われています。
そんなこんなでクライアントとの挨拶周りを終え、最終出勤日を迎えた。
最終日にも関わらず、全く準備が終わらず最終日はバタバタで1日が終わりました。定時が終わった後は一人一人に挨拶周りを行い、思い出話をして終了。
もっとこの会社で働くという選択肢もありましたが自分が決めた道を正解にできるようにしないといけないと心の中で誓いました。
自分が少しでもやりたいと思ったことや心が動いたことをしないともったいない。
もちろん、今でも前職を継続していたらどうなっていたのだろうか。と考えることもあるが時間の無駄でしかない。人生は一度きり。行動するしかない。
社会人2年目 メキシコ時代<24歳>
4年ぶりに降り立ったメキシコという異国の地
学生時代に一度メキシコに来たことはありましたが一週間くらいしか滞在していなかったのであまりメキシコの印象がありませんでした。
世界遺産都市のグアナファトには訪問したことがあり、ピピラの遺跡は光り輝いていたこと、タコスを食べたことくらいしか記憶がありません笑
活動の拠点がレオンになるため、バヒオ空港に降り立ちました。社長に空港まで迎えに来てもらい感動の再会を果たした後はグアナファトに運営するホステルに訪問し、挨拶回り。
長旅における疲れと時差による疲労感がありましたが、メキシコに対する高揚感の方が勝ち、ある種の興奮状態でした。と思ったのも束の間で、自分のスマホがないことに気づきます。。
メキシコ初日に来てスマホをなくすという失態。。。メキシコ人に空港にないか聞いてもらうも当然のごとく見つからない始末。
完全に自分のやらかしであって、翌日にインターン生にスマホを買いに連れて行ってもらいました。
スペイン語においても来る前に勉強はしていたものの現地人が使うスペイン語と自分が知っているスペイン語には大きな乖離があり、初日は"avisar"という初歩的な動詞も分かりませんでした笑。
ちなみにavisarは"知らせる"という意味のスペイン語の動詞です。結構よく使います。
スマホを購入し、数日経過したところに社用車の中にスマホが見つかるという嬉しいハプニングが。。スマホを買う前に見つかって欲しかった・・・・
そんなこんなでメキシコでの生活がスタートしました。
ブランディングの為の金髪
新規事業の立ち上げ及び営業として配属された私でしたが、営業職には2人しかおらず1人はファーストキャリアCAで訪問国数70ヶ国越えのコミュニケーションモンスター。
もう1人は癖しかないレゲエ大好きタトゥー大好きタバコ大好き、お笑い大好き、キャバクラのボーイ経験ありというこれまたコミュニケーションモンスター。
そんなパンチしかない強烈な2人にキャラ負けしないためにも何かブランディングしようということに。
人生において一度は挑戦してみたかった金髪でブランディングすることに。
メキシコの美容院に行くものの閉まっており自分でやることにやることに。大学時に一度も髪の毛を染めたことがなかったので人生で初ブリーチ。ブリーチをしすぎると禿げるという話を聞いて妙にビビっていたのが懐かしい。
金髪にしようと試みるもあまり綺麗に色は抜けず、オレンジ色というか茶髪みないな感じになり、大学デビューみたいな感じになってしまいました。。
帰国子女の優秀なインターン生と過ごす日々
これまで出会ってきた大学生の中でも抜群にできる女の子と一緒に業務を行う日々。彼女は様々な業務を兼任しており、社長の右腕のような存在。
一緒にいる時間が多く彼女の何がすごいかを言語化するのであればスペックが高いのに全く努力を怠らない、常に会社のためになるように考えている、何を自分が残せるのかをという仕組みづくりを考えきることができる、資料作成がコンサル並みに綺麗で見やすい、仮説思考力がはんぱない、と挙げだしたらきりがないです。
はっきり言って前職時代の同期の何万倍も優秀で頭が切れました。今思うと頑張ること=行動すること=根性みたいな風土が前職にはありましたが、彼女の場合は付加価値をつけるために必要な施策の中からインパクト×必要時間で考えて最も効率の良い施策を実施するというスタンスでした。
頭を使って仕事しないと付加価値がないということは社長から何回も言われている台詞ですが改めてこの台詞の重みを実感する出来事でした。
海外インターンシップの準備と実施
大学生の夏休みを対象とし、メキシコにおいて海外インターンシップを実施しました。
プログラムの内容は
①日本食レストランの売上を120%にする施策を考えて実行すること
②メキシコでの起業家インタビューの実施
③スペイン語授業。
事前の準備においても起業家の方との日程調整、内容調整を行なったり、メキシコ人のスペイン語教師に対して授業をしてもらえるように調整するといった仕事がメインでした。
イベントって参加する側は楽なんですけど、開催側は本当に色々とやることがあって大変だということを学ぶ良い機会でした。
この経験から自分がイベントに参加するときはどういう工夫がされているのか、どういった広報を行なっているのかといった新しい視点を手に入れることができるようになったと思います。
個人的にこのイベントを通して嬉しかったことは参加前は1番パッとしなく、就活時には大手の企業に入ることを周りに勧められていた子がプログラムを通じて自分の意志を持って行動できるようになったこと。帰国後に休学をし留学をするという新しい選択肢を提示し、可能性を広げることができたことです。
教育の可能性を感じた瞬間で、ヒトが成長し変わることの可能性、その気になれば出来ないことはないということに気づききっかけになりました。
スカイプを通じた電話面談とリアルを通じた面談
人材紹介を行なっているので求職者との面談を頻繁に実施します。日本人の方もいればメキシコ人の方もいればペルー人の方もいれば日系人の方もいればと多種多様な方の面談を実施します。
もちろん使う言語は日本語、英語、スペイン語の3か国語です。言語はツールにすぎないと言いますがこの仕事をしていると痛感するのはツールにすぎないができないと何も始まらないということです。
本人の主張が汲み取れなければいけませんし、自分の理解不足による認識の違いがあってはいけません。対面の場合と電話の場合では聞き取りやすさが違ったりするので難しいところの一つです。
メキシコに来ている時点で簡単な仕事をするつもりもありませんですし、壁は高い程面白いと思うのが僕の性なのでメキシコでの生活を楽しめていました笑
日本人とメキシコ人は完全に違うと割り切っているのでどんなことが起きても驚きませんし、カオスなのがメキシコの良さなんです!
メキシコでのクリスマス🎅🎄
無職時代<25歳>
コロナによって無職になった
世界中を困惑させているコロナウィルスの影響でメキシコ🇲🇽から帰国し、2020年4月から2020年9月30日まで無職になりました。
2020年7月頃からはUber Eatsの配達員をしましたが月収5万円程度とかなり苦しい生活を行っていました。
ここからは3月末に帰国してから11月23日モデルジャパン大津大会にて日本大会のチケットを獲得するまでの話しを月ごとに振り返ります。
2020年3月:一時帰国のつもりで日本に帰国
2020年3月末にメキシコ🇲🇽より一時帰国しました。当時はコロナのニュースで持ちきりだった為、2週間程の隔離生活。帰国したにも関わらず友人と会うことが出来ず、悲しみに耽っていたのを覚えています。メキシコで戦っている彼を取り残してしまったのは本当に申し訳ないことをしたなと思っています。
2020年4月:欠便によりメキシコに戻れない日々

4月に入り、メキシコに再度戻ろうとするもののコロナの影響で欠便。予定変更を余儀なくされました。 4月はこれといってすることがなかったので 友人とランチ🍽、大学生の就活相談、自己理解といったことをしていました。
自己分析の本は世の中に数え切れない程ありますが、やぎぺーさんの
世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方 人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッドが一番おすすめです。この一冊だけやり込めば自己分析は大丈夫です。
2020年5月:遅れてやってきた人生の夏休み
5月に入ってからもこれといってすることもなく、コーチングのインプット、キングダム、大学生の就活相談に乗っていました。
5月6日の予定に【ベストボディ 計画表】と書いてたので、この辺りからコンテストは意識していたと思います。
そして5月12日にパーソナルトレーナーの友人と久しぶりに再会。その時にベストボディに興味がある事を伝え、色々と教えてもらいました。
久しぶりに会った彼の姿は驚きを隠せないくらい変貌を遂げており継続することの大切さを痛感しました。。
2020年6月:26歳の誕生日とそれとなく自己研鑽に打ち込む日々
これといってすることがなく、友人と会ったり、家族に誕生日を祝ってもらったり、簿記の勉強したり、TOEICの勉強したり、転職活動をしたりしてました。6月6日にパーソナルトレーナーと2回目の食事に行っています。
4-6月はガチモンのニートで何も仕事をしていませんでした。お金は実家暮らしで何とか賄っていたのと、祖母から仕送りをもらいながら生活してました。本当に感謝でしかありません。
2020年7月:焦りを感じアルバイトを受けるも不合格。それなのに筋トレを始める。
友達に会うと大抵「いま何しているの?」と聞かれることが多くなり、ニートしているというのが億劫になり、「アルバイトでもいいから稼がないと!」という意識が猛烈に強くなりました。
ジムのバイトと税理士事務所の面接を受けるものの不採用。この時にバイトすら受からない自分って”何のために生きているんだろう?”、"生きてる価値あるんだろう?って本気で考えていたし、本当に辛かったです。
それにUber Eatsで稼いでいたのに事故してチャリの修理代で7,000円近くかかってその日に稼いだ額よりも払ったこともあった。
とにかく自分を変えたくて7月にエニタイムフィットネスに入会。いま見ると酷い身体ですね。。
8月:第一志望に3回目の不合格。好きだった元カノに気持ちを伝えられず。
これまでに2回受けて、見送りになっている企業がたまたま人事職で採用をしているのをWantedlyで見つけて、応募。3度目の正直を達成すべくやれることは全部やった。時間をかけて資料を作って面接前に送付もした。 その時に作った資料。
誰よりも熱量を込めて面接に臨んだし、やれることは全部やりきった。面接をした日は8月6日。予定を確認しなくても鮮明に覚えている。
面接が終わった後に面接では伝え切れなかった自身の想いを伝えようと2,000字超えのメールを作成。
送った後に返ってきたメールに、『想いは伝わりました。』と書かれてあったことを今でも覚えてる。
残念ながら採用は他の候補者の方に決まり、3回目の見送りという結果に。
やるべきことはやったから後悔はないが、素直に悔しかったし、自分の不甲斐なさを痛感した。
そんな状況でも筋トレは継続して行っていたし、8月15日から減量を開始した。人生で初めての減量。減量スタート時の体重は71.5.kg。
大学生の時に1ヶ月だけ付き合うことができた元カノに以前からちょくちょく連絡し続けており、久しぶりに会えることに。元カノは現在福岡に住んでいるが出身が千葉なので、今回たまたま会うことができた。
久しぶりに会った時に前よりも綺麗になってた。本人曰く痩せたとのことだが、恐らく3-4kgは痩せているように見えた。
一軒目は中華料理を食べ、お互いの近況報告やこれからについて話した。二軒目は近くにあったキリンシティに行ってたわいもない話をした。一軒目も二軒目も恋愛の話は敢えてしなかった。
好きな人の過去の恋愛に興味がある人は多いと思うが、僕は興味ないので聞かなかった。
後で分かるのだが、実は彼氏がいて福岡で同棲中とのこと。
告白するタイミングすらなく振られた気分になり、意気消沈。
今なら手に職すらない状況で告白しようとしたいた自分にグーパンチをかましてやりたい。
8月下旬にたまたまツイッターを眺めていると、未経験の人事職募集のツイートが目に留まった。
このツイートを見た瞬間にDMを送りアポイントを獲得。
本来であれば空いていないところ、DMを送った次の日は奇跡的に空いており、次の日にお会いすることに。
実際にお会いして、人事職の話を聞くのと同時に紹介してくださった会社にも興味があったので話しを聞くことに。
会社のバリューとして"踏み込む"というのがあり、初対面にも関わらず根ほり葉ほり聞かれたのを今でも覚えている。
自身にとって耳の痛いことも多々言われたが、一回話しただけでこんなにも見抜けるのか!と感激した。その日にお礼のメールを送り、オフィスを訪問することになる。
2020年9月:転職活動が動き出す
これまで全くうまくいっていなかった転職活動が徐々に動き出す。8月に面談した会社や、人材企業の営業職の募集で応募すると選考通過率が格段に上がった。
9月は面接をいくつかこなしながら経過した。
DMを送った企業のオフィスに実際に訪問し、働いているメンバーと話をする。
同年代の人々が多く、平均年齢もかなり若い。仕事の話や、メンバーから見た社長の話など、ざっくばらんに話をした。この時に、ここの会社で働きたい!と思えたし、何となく自分が働いている未来が想像できた。
面談を終えた後に日程を調整して、社長との最終面接を実施。
今でも鮮明に覚えているのは
「転職者に対して期待していることはありますか?」という質問に対して「特に期待していることはない。」とズバッと言われたこと。もちろん、悪気がある訳ではない。だが、あまりにも強烈すぎて忘れることができなかった。
この時も自分の魂を込めて書いたメールを送付した。
面接を終えてから数日後にフィードバックをしたいとの連絡があり、zoomにて面談。その場で内定をいただくことができ、半年間に及ぶニート生活に終止符を打った。
ここの会社で働くんだろうなぁと何となく想像をすることはできたが、内定をもらえたときはびっくりした。これまでにカジュアル面談を含めると50社近く受けてきたので、やっと終わったという安堵感が半端なかった。
転職活動で次が決まっていないとメンタルをえぐられるのを身を以て痛感した。
※こんな私でよければいつでも転職相談に乗るので遠慮なく連絡してください。
社会人3年目3社目 【26歳】ベンチャー企業
2020年10月:新たな始まり
1日から勤務スタート。慣れない環境もあってか1日は神経をすり減らしすぎて本当に疲れて終了。
新しい環境に飛び込むことは嫌いじゃないが順応するには時間がかかる。一通りオリエンテーションを受けた後に、商談に同席。
最初は何を話しているのかちんぷんかんぷんで隣にいても愛想笑いしかすることができなかった。。
10月になっても筋トレは継続して行なっており、週6日は行っていた。
心から尊敬する同世代との出会い
彼に会ったことで『この人と対等に話せる人になりたい。視座をもっともっと上げないと!』と思うようになった。
これは決して
"他の人と比較して優劣を決める"という訳ではなく、自分ともっと対話して言語化できるレベルを上げないといけない!と思ったということ。
11月:初めてのコンテスト出場
ベストボディジャパン奈良大会・大津大会に向けて本格的に準備を進めていく。何もかもが初めての経験なので、右も左も分からないがパーソナルトレーナーが丁寧に教えてくれた。
この時の減量に関しては本当に大変で毎日そばとコンビニのサラダチキンを食べていた気がする。
※当時食べていた減量飯
職場にタッパーではなく、ガラスの容器に弁当を持っていったら見事に粉々になっており、ガラスの破片を食べながら昼ご飯を食べた。
ガラスのジャリっとした食感は氷を食べている感覚に似ていた。恐らく今は身体に残っていなかったので大きな問題はなかったはず。それ位、身体作りに必死だった。
実際に割れてしまったガラスの弁当🍱
大会直前:最後の最後まで準備をした1日
最終調整の3日前から水抜き、塩抜きが始まる。水があまり飲めない上に塩分を取れないという拷問が始まる。
何かを得るためには何かを失わないといけない。
過去の自分に負けたくないという一心だけが自身を突き動かす。
前日はオンラインにて最後にできることを教えてもらい、最後の最後まで準備。その後は支度をしてサウナへ🧖♂️♨️
そこでしっかりと整えた後にbrothersでカットして気合を入れる。見た目は強面かもしれないが実際に話すと本当にいい人達だし、人生に対する覚悟の大きさが違う。本当にかっここいし、尊敬しかない。
その後は空港へ向かう。
空港は何回行ってもテンションが上がる場所。
夜の便で大阪に到着。
大阪に到着してからはホテルへ向かう。
その途中にあるペッパーランチでステーキを食べ、明日に備える。
普段食べるもののより遥かに美味しくて感動した。我慢した後の喜びは格別だ。
ホテルへ戻り、ポージングの最終練習をして就寝。
大会当日:初めての大会出場と挫折
当日は会場に11:00頃に到着。初めての会場の雰囲気に圧倒された。マッチョがひしめきあい、みんな全力で最後の追い込みをしている。
中でもずば抜けて身体の大きい選手がいて、この人はやばい。と僕のスカウターが咄嗟に反応した。
蓋を開けると、その選手ですら決勝進出止まりだった。
ベストボディのレベルの高さと自身のレベルの低さを心から痛感した。
本番の直前まで必死にパンプアップし、自身の全力を尽くしたにも関わらず結果は予選敗退。
決勝進出できるかできないか、ボーダーラインの人が呼ばれる"ピックアップ審査"にすら呼ばれずに落ちた。これまでにない位の大敗だ。
本番は翌日に開催されるモデルジャパン大津大会であったため、切り替えてできることを行った。
ベストボデイジャパンとモデルジャパンの違いを簡単に説明すると求められる筋肉の大きさが違う。
ベストボディジャパン >モデルジャパンで筋肉量を求められる。目標としていた全国大会出場の枠数、参加人数も違うのも特徴の一つ。
ベストボディジャパンが25人中2人しか全国大会に出場できないのに対してモデルジャパンは15人中9人が全国大会に出場できる。
大会によって参加人数の変動はあるものの、僕が参加した大津大会の場合はこのような感じだ。
数値だけで見てもモデルジャパンの方が全国大会に出場できる可能性は高い。もちろん数値が全てはないがレッドオーシャンで戦うよりはブルーオーシャンで戦う方がいいのは戦略の基本中の基本。
その戦略が功を奏したこともあり15人中9人に選ばれることができ、決勝進出に駒を進めると同時に全国大会のチケットを獲得した。
このように書くとすごい人のように思われるかもしれないが、全くもってすごくないし平凡でしかない。
バスケを中学から大学まで10年間続けたが、試合に出れたのは3回程。それ以外はずっとベンチかベンチアウト。
大学のバスケに限っては5年間在籍して公式戦に出場できたのは最後の試合の残り1分程。
人生でこれといった成功体験や誇りを持って言える経験がなかった自分が本当に嫌いで、自分に自信が欲しくて、筋トレに対してはこの5ヶ月間、手を抜かずに頑張った。
"自分を変えたい"と思う気持ちこそが原動力だったし、無職になって人生のどん底を経験したからこそ「絶対に筋トレを通じて人生を変える!」と思っていた。
友人と会うときにBCAAを持っていったら「何それ?身体に悪そうな飲み物じゃない?大丈夫?」「筋トレして何を目指しているの?それって意味あるの?」的なことを言われたこともある。友人じゃなくてもそういう風に思う人が大半だと思う。
意味があると信じているから全力で筋トレをするし、やりきる。前は恥ずかしくて言えない部分もあったが、全国大会という大舞台に出場できる実力をつけてからは批判や冷やかしが声援に変わった。
ヒトは本当にわかりやすいもので、『成果を残した瞬間に手のひらを返すんだなぁ』とその時に思った。ただ、それと同時に自分がここまで行ってきたことは間違いじゃなかったと心から思えたし、まだ目標を達成したわけではないが、努力が少しだけ報われた瞬間だった。
このnoteを読んでくださる方へ
何かを始めるのに遅いということは絶対にありません。今日が人生の中で一番若い日なのだから、今日から始めたら間に合います。結局のところやるかやらないか。
やらない理由なんていくらでもあるけど、行動しないと何も変わらない。
僕は無職になって『将来、絶対成功したい』と思ったし、『他の人が見れないような景色を絶対に見てやる!』って神に誓ったし、『一度きりしかない人生を全力でやりきって後悔のない人生を送ってやる!』って自分と約束しました。
筋トレを通じて努力をすることの大変さ、辛さ、苦悩を知ったけれど、それ以上に努力をして何かを成し遂げた時の達成感、喜び、周りの人に対する感謝、応援してくれる人がいることの有り難さを学びました。
無職だった僕ですら血の滲むような努力をしたら人生を少しだけ変えることができたんです。
このnoteを読んでいる、”あなた”にできない訳がありません。一度きりしかない人生、本気を出して全力で楽しみましょうよ。
過去の自分が一番良いとかというダサい生き方をするんじゃなくて
”今の自分が人生の最高点”って胸を張って、誇りを持って言えるような人生を送りましょうよ。
僕にできることがあれば全力でサポートさせていただきますし、遠慮なく連絡してください。
2020年12月の日本大会が終わり更にトレーニングに没頭するようになった
トレーニングを本格的に始めて5ヶ月で日本大会という場に立つことができたのは自身の中の成功体験の1つです。ただ、予選敗退という不甲斐ない結果に終わりました。この敗退が自身のトレーニングに対するモチベーションの根源になり今でもトレーニングを行なっています。
大会終了後に当時勤務していた上司との面談の場が設けられ異動に。
日々の業務ではなく、トレーニング中心の生活になっていました。自身の人生で一番大切な日だと言える日本大会が終わった2日後に上司と面談。ワークライフバランスを鑑みて分社化するタイミングで異動することになりました。元々営業職として勤務するものの自身のバリューを発揮することができず、トレーニングに向き合うことで、日々の業務から逃げるような日々を送っていました。そんな時に告げられた突然の異動。
異動部署はオペレーション部で上司は外国人
異動した部署はオペレーション部で上司は日本人の方もいましたが、同い年の外国人。業務内容はデータ入力がメインのルーティーンワーク。いかに効率的に正確にやり遂げるかを求められていました。
再度上司との面談を経て在籍しながら転職活動をすることに
リモートワーク×定時退社という恵まれた環境にいながらも業務に対してやりがいを感じることなくこなすだけの日々。トレーニングすることに全神経を注ぎ込みという生活。そんな時に上司と再度面談を実施し、在籍しながら転職活動をすることに。期限に関しては3月末。
パーソナルトレーナーとして働くことを目標に転職活動開始
トレーニングが好きだからという安直な理由でパーソナルトレーナーの求人に片っ端から応募。コンテストで全国大会の実績はあるものの未経験だった為、書類選考で落とされることもしばしば。数あるパーソナルジムの中から内定をいただくことができたものの条件面を考慮し、即断することができず保留。(後になって連絡したらコロナの影響でジムを閉めるとのことでした。)トレーニングが好きなこととパーソナルトレーナーとしての素質があることは旅行が好きだから旅行会社で働くという位おかしなこと。当時は分かっていたものの、そのような行動をしてしまっていました。
誕生日メッセージをきっかけに月額制のジムを知る
その際に紹介していただいのがいま勢いのある月額制のジムでした。代表の方は以前より知っており、自分とは無縁の世界だと思っていましたが実際に働かれている方との面談で背中を押され挑戦することに。
書類選考を無事に通過し一次面接へ。エネルギーに満ち溢れる男前な方と面接を実施。これまでの過去の経歴や世界一周での話し、日本大会の話しをしました。他の面接との違いとしてはBIG3を聞かれたこと、面接終了後に当日中に感想文を求められたこと。感想文に関しては当日中にびっしりと書き込み送付。無事に通過し二次面接へ。二次面接でも同じようなことを聞かれ、終了後に感想文を記入し提出。手応えはあまりなかったものの無事に通過し最終面接へ。
自身の本質を見透かされた最終面接
自分の中では準備をしたつもりでしたが、あくまでもつもり。今思うと詰めが甘かった。最終面接に進んだのだから内定をもらえるだろうという自身の中での甘い部分が露呈してしまいました。
紹介してくださったとの面談によるフィードバック
紹介してくださった方に最終面接のフィードバックをいただきました。端的にまとめると、〇〇(ジムの名前)っぽくない、BIG3が弱い。圧倒的な成功体験がない。3月に退職するというデッドラインが決まっている&すぐに変更することができないという2点から再度挑戦するのではなく、他の会社を受けるという選択をとりました。
企業とパーソナルトレーナーの面接を受けながらトレーニングする日々
3月末日に退職するという期限がある中で面接を受けていました。次に入社する会社はとても大切になるので、慎重になっていました。ただ、どんだけ忙しくてもトレーニングを怠ることはなく、最低でも週5日はジムに行っていました。面接を通じてパーソナルトレーナー(業務委託)としての内定をいただくことができましたが条件面をすぐに受け入れることができず、内定承諾の期限を延ばしていただくことに。
レンタルスペースを借りてのトレーニーオフ会の開催
転職活動をしている傍、トレーニーの方々を集めてお花見を実施することに。本来であればお花見を通じたオフ会を実施する予定も、コロナの影響で中止に。トレーニーの方々が繋がるイベントを行いたいと考え、レンタルスペースを借りて実施。当日は25名を超える方々にお集まりいただきました。
オフ会に来てくださった方々、サポートで入ってくれたMASALOGには感謝しかありません。定期的に開催しているので興味ある方は連絡ください!次回は2022年8月7日(日)予定です!
次の進路が決まっていない状態で最終出社日を迎える
3月の末日の最終出社日を迎えましたが進路は決まっていない状態。選考が進んでいる企業があるものの進路は確定せず。明日から無職になるという不安はありましたが、自身の未来はきっと明るい!という謎の自信はありました笑(※転職は会社を辞める前に行いましょう。これは鉄則です。)
半年いう短い期間でしたが、多くのことを学ばせていただきました。本当にありがとうございました!
4月1日から始まる人生2回目の無職生活
面接を行いながらトレーニングする日々を送っていました。面接に行った企業の社長から「君の市場価値は君が思っているよりもある。」という言葉をいただき自身の行ってきたことが間違ってなかったと痛感。ただ、その企業で働きながらトレーニングを並行するのは難しいという理由で断念。面接の際に「合うと思うから、ここの企業(パーソナルトレーナー職)を受けてみたら」と言われ、受けることに。
業務委託としての仕事が一気に2つ決まる
Wantedlyを眺めているとスカウトメールが。内容はセールス責任者のポジション。興味本位で話を聞き、2回の面接を通じて内定をいただくことが出来ました。そのタイミングで以前に教えていただいた企業(パーソナルトレーナー職)の業務委託としての内定をいただくことが出来ました。この2つの内定を通じて生活していくだけのお金は確保することができることに。無職になった時の心配は次の就職先が決まることもあるのですが、それ以上に日々の生活によって消えていくお金です。よくお金が全てじゃないと言いますがそれは必要最低限のお金があってこそ。やっぱりお金は大切。
週2日パーソナルトレーナーの研修を受け、週3日セールスとして働きながら転職活動する日々
サラリーマン時代と比べると給与水準は下がりますが、働くことで生活はすることが出来ました。週2日は恵比寿にある月額制のパーソナルジムにてトレーナーの研修(解剖学、栄養学、接客ロープレ等)、週3日はSNS研修サービスを提供するベンチャー企業にてセールスとして勤務。
ボディメイクを行うことは費用がかかるので生活は厳しい。フリーランスとして働くことの大変さを痛感。(フリーランスで生計を立てている人は本当にすごい。尊敬です。)
正社員に復帰すべく、フリーランスになりながらも地道に転職活動を行なっていました。僕が使っていたのはエージェント2社(どちらも個人でやっているところ。大手のエージェントは使っていません。)とWantedly。
個人的にリクナビネクストやマイナビ転職といった大手サイトもいいですが、Wantedlyがおすすめです。
理由としては、①カジュアル面談から始めることができること、②履歴書ではなくプロフィールの記入で書類選考してもらえること(履歴書・職務経歴書の選考も、もちろんありますがファーストタッチは自分で記入したWantedly上のプロフィールです。)の2点です。
僕の場合は転職回数が多いのでしっかりと背景をお伝えしないと書類選考で切られます。(自分が面接官の立場でもそうする笑)
しっかりとプロフィールを作り込み、これまでにどんな経験をしてきたのか、なぜその選択をしてきたのか、これから何がしたいのかを伝えられれば書類選考を通過できる確率は一気に上がります。そんなことから僕は基本的にWantedlyで選考ですすめていました。内定をいただいた2社はWantedly経由での応募になります。
絶対に落ちたと思った企業から内定通知をもらう
組織コンサルを行なっている企業の新規事業としての人材紹介ポジションに応募。面談を実施し、その後は役員との面接。自己紹介、この職種で活かすことができることについて話すも15分という異例の短さで終了。これまでに受けてきた面接の中でも異常な速さで終わり、落ちたことを確信。また、一から転職活動を頑張ろうと思った矢先、会社からメールが。そこには内定通知の記載。自身の目を疑った。送る人を間違えているのではないか。
Wantedly上でやりとりするも、合格の模様。一度しか面接しなかった上に、15分という速さで面接が終わったのに内定。
後日のオファー面談で内定理由を聞くと、「15分だろうが、1時間話そうがその人のことを全ては分からない。素直かどうかで判断した。」とのこと。世の中にはこんなことがあるんだなと感じた。
内定をもらった1週間後にオファー面談にて働き方や福利厚生、年収について説明を受ける。前職での年収に比べ、100万円程アップした額がそこには記載されていた。同世代に比べると決して高額とは言えないが自身の価値を適切に評価していただいたことが素直に嬉しかったし、自分がやってきたことは間違いなかったと改めて認識。
知らない方のために記載すると、私は以前に大手人材会社で勤務したのちにメキシコで人材紹介事業の立ち上げを行なっていました。メキシコでは週6日働き給与は月3万円(現地の給与水準かつ雇用形態が正社員ではなかった為)。年収を10分の1にしても、海外で働くという気概とロマンと経験にベットしてきました。その時の経験がこうして企業に評価されるのは素直に嬉しかったです。メキシコ時代の話しはこちら。
HRコンサルタントしてのオファー
Wantedly経由にて応募したグローバル人材総合サービスを展開している企業様よりHRコンサルタント(ベトナム🇻🇳勤務)のオファーをいただきました。
オファーをいただいた背景を聞いたところ、①メキシコという海外での就労経験かつ、売上を出すまでやり抜いたという経験②トレーニングを通じてやり抜いた経験を評価していただきました。
筋トレをしていたからオファーをもらえた訳ではありませんが、筋トレをしていたことをプラスに評価してもらえたのは事実です。筋トレをしていたよかったと思えた瞬間の1つです。
社会人4年目4社目という選択
2018年に1社目を経験してからこれまでに数多くの会社で働いてきました。(社内異動、業務委託期間を含めると5社)。転職に対するハードルが下がりつつある昨今。個人的にはなるべく転職しないことをお勧めします。ノリと勢いは大切ですが、それだけではどうにもならないことがあります。
何より社会は未だに転職回数が多い人に対して厳しいのが実情です。転職すれば悩みが全て解決する訳ではありません。
僕の好きなエンゼルバンクの言葉を借りるなら「転職はチューニング」です。給料、やりがい、労働時間、将来性、安定性の5段階をチューニングできるのが転職であって、仕事の悩みを全て解決できる魔法の杖ではありません。
自分の人生の主人公は常に自分であるので、人の選択を否定するつもりは毛頭ありません。
今回、私が内定を2社からもらえたのは過去の経験を活かせると判断していただけたらです。中途採用は基本的に即戦力採用になります。もちろん、未経験職種でも転職をすることはできますが、ある程度の意思表示(日頃から何かしらの形で学んでいる。資格を持っている等)が必要だと考えています。そのうえ、未経験職種は年収が下がることが前提になります。
私は一時、気の迷いから人事職のポジションで何社応募をしましたが見事に全部落ちました。これまでの経験である営業×人材業界というカテゴリーに絞って転職活動を行ったところうまくいくことが増えました。なので基本的には同じ業界、同じ職種で転職するのをおすすめします。ただ、業界か職種のどちらかを変える軸ずらし転職も個人的にはありだと思ってます!
そしたら何でお前は何回も転職するんだ!!という声が聞こえてきそうなので、お答えすると「20代という貴重な時間を通じて自身のスキルを高めていきたいから。」これまでに営業職(BtoB,BtoC)、新規事業立ち上げ、オペレーションと幅広い業務に携わってきました。その中で自分自身の得意とすること、強みとなることが見えてきました。そのような強みを活かし、自身のスキルを高めることで市場価値の高い人材になりたいと考えております。
私の考える市場価値の高い人材は会社という看板がなくても自身に対して仕事の依頼があり、価値を提供できる人物です。
転職相談、パーソナルを希望の方は遠慮なくコメント、DMください。
社会人4年目 4社目【27歳】
・トレーニング仲間と迎えた27歳の誕生日
2021年6月8日に27歳の誕生日を迎えました。僕はトレーニングを通じて知り合った仲間とジムで27歳の誕生日を迎えました。そして、鶏胸肉に蝋燭(上記写真)を刺して誕生日を祝ってもらった。誰かに誕生日を祝ってもらえたこと、次の就職先がしっかりと決まっていたこと(2年連続誕生日を無職で過ごしています。)、人生が好転し始めていたことが何よりも嬉しかった。
周りは新卒で入った会社で活躍し始めていたり、起業して日々奮闘しているのに27歳の自分は無職。不甲斐ない気持ちとこれから始まる27歳に対して期待と不安で一杯だった。
・週5日勤務.週6日筋トレ.週2パーソナル
企業のサポートをするRA職として入社したと思ったらまさかの求職者と面談をしてサポートするCA職として勤務開始。毎日のように求職者の転職相談を聞く日々。求職者それぞれのキャリアがあり、生き様は多種多様。それを知り、その人のやりたい事のサポートをするのが何よりも面白い。
サラリーマンとして週5日働く傍、週2日はパーソナルの研修を受ける日々。さらにコンテストに向けて週6日ハードなトレーニング。
それに加えてトレーニーオフ会の企画及び開催。慣れない環境、多忙すぎる日々。大学時代は体育会バスケ部だったので体力には自信があったが流石に限界だった。自身のキャパオーバーで友人のMASALOGとの合トレの約束に寝坊して遅刻した。(本当に申し訳ない。)
これが出来るのは自分がやると決めたから。20代で過ごす時間の濃さが今後の人生を決めると本気で思っているからこそ、やり切れる。自身の人生を良くしたいと強く思っているからこそ出来る。
・半年間で合トレ・パーソナル100回越え
そんな生活をしていると「すごいね。ストイックだね。」と言ってもらえることが多い。ただ、僕は全くもってストイックじゃないし、むしろ自分には甘い。だからこそ、自分を追い込む環境に身を置かないといけないと考えている。1人でトレーニングするよりも誰かとやった方が強くなれるため。だからこそ、合トレには拘る。相手がどのような考えで日頃からトレーニングをしていて、どういうスタンスでトレーニングをするのか、何を工夫しているのかを徹底的に観察して盗む。それを自身の中で言語化し伝える。TTP(徹底的にパクる)を実践する。そうする事で最速で成長してきた。
・コンテスト出場までの苦悩
自身の中では最速で成長することが出来たとしても目指すレベルには到底及ばない。一緒にトレーニングする仲間はどんどん成長していく。慣れない環境。減量のストレス。休む余裕のない時間ぎっしりのスケジュール。そんな環境が僕の身体をどんどん蝕んでいく。減量のストレスに耐えられなくなり、深夜に3,000kcalを越える爆食をした回数は計り知れない。爆食をしたことで一時的な食欲を抑えることができることが、その先に待っているのは更に絞らないといけない義務感と期日が迫っているという焦燥感。正に負の連鎖の始まり。そんな負の連鎖を断ち切ったのはコンテスト一週間前を切った時。ここで断ち切れたとしても準備不足なのは明白。
自己最低体重にて迎えた8月28日
前回の8月8日比べると体重こそは減っていたものの絞り切れていない。身体に張りがない。自身の弱さに負けた証拠。ポージングを振り返ってみても前回の課題が全く治ってない。なんなら悪化していた。自身のピークを持ってくることが出来なかった。連戦で体調をキープすることの難しさを痛感した。
この日は終わった後にピザ🍕とケーキ🍰を身体が満たすまで食べた。翌日には食べないように切り替えるつもりだった。。。
抜け出せない適応障害
次のコンテストは9月23日のNABBA。自身が目指してきた大会で最も規模が大きいもの。
去年のコンテストが終了してから、この大会のために身体作りをしてきた。
本番まで時間がない中で如何に絞り切るかが課題であった。食べ物を抑制しなければいけないという理性と食べたいという本能。その2つに常に板挟みだった。コンテストが終わった翌日なら大丈夫。そう思って食べる。次の日もまだ大丈夫。そう思って食べる。完全に負のスパライルに陥った。
仕事のストレスと減量のストレス、それらに耐えきることが出来なかった。2日に1度は好きなものを無意識に食べるようになっていた。周りの人達が死ぬ気でトレーニングしているのを横目に食べていた。
食べ終えた後の満腹感というよりも禁忌を犯してしまったという居た堪れない気持ちになっていた。
懺悔の気持ちを込めて有酸素をするものの全く絞れない。辛い思いをしたことにより、甘いものが欲しくなる。甘いものを食べて、一時的に満たされる。そしてその後にくる倦怠感。完全に負のスパライル。
前回と同じことをやってしまっているからこそ、どうなるか分かっている。それでも辞められなかった。自身の弱さだ。
コンテスト17日前には体脂肪が12%だった。
3%以下にするのが当たり前の世界なのに12%だった。間に合うはずがなかった。
コンディションが直近の中で1番悪かった。むしろ今年最初のコンテストの時が1番良かった。
正直に言うと出場するかどうか悩んだ。絞り切れていない身体で出るのは団体に失礼。これまでに教えてくれた人、一緒にトレーニングした人たちに失礼。
ただ、ここで逃げたら何も変わらないし次に活かすことが出来ない。そう考え、出場者することを決めました。
迎えた9月23日のNABBA
絞りが甘い。筋肉量が圧倒的に少ない。そんな理由で入賞にかすりもしない結果で終了。この日のためにずっと頑張ってきたのにやりきれなかった。自身の甘えが過食につながり、最高のコンディションに持っていくことができなかった。やってしまったことは仕方ないので反省して次に活かすのみ。
去年の日本大会で負けてから勝つことだけを考えてトレーニングに取り組んできました。勝ちにしか価値がないと思っていた。ただ、そうじゃないことに気づけたことが今回の一番の財産です。来年に向けて今は準備期間。毎日の積み重ねが大切だからこそ1日1日を丁寧に過ごす。最後までお読みいただきありがとうございました。僕の挑戦はこれからも続いていきます。
2021年10月
連戦を終えてオフシーズンへ。本当はもう一つ大会に出る予定だったけど、辞退。それくらい身も心も限界だった。コンテストに出ることは決して簡単なことではないと理解していたつもりだったが、これほどまでに過酷だと思っていなかった。辛い生活の反動からか10月、11月はあまり思い出のないのが正直な感想。筋トレは継続して行っていたもののどこか気が入らなかったりしていた。ただ、合トレの時はしっかりと良いトレーニングをすることができていた。
2021年11月
週7日働く生活には慣れてきてはいたもののコンテストに向けて頑張るといった具体的な目標がなくダラダラと過ごしてしまっていた。オフシーズンの過ごし方をいかにするかで来年が決まる。それなのに明確な目標がないまま過ごしてしまったことに後悔。心と身体の充電期間。
2021年12月
筋トレをしているのに中々身体の変化がないのは高重量を扱っていないという至極当たり前のことに今更ながら気づき、ゴールドジムのノートを購入。前回扱った重量とレップ数がしっかりとわかるので前回の自分を上回ってトレーニングしようという気になれる。もっと前からやっておけば良かったと後悔。バチェロレッテから観ていて、念願の黄さんにお会いすることが出来たのも12月の思い出。ずっと行きたかったUVERworldのコンサートにも行けて良い月となりました!
ざっくりと振り返るとこんな感じの2021年でした。一言で表すとするならば「筋トレを通じた出会いに感謝。」です。トレーニングを通じて数えきれない人と出会うことが出来ました。
自身の人生をよりよくしたいという素敵な考えを持っている方ばかりで刺激に溢れた日々を送ることができました。本当に感謝しかありません。一人一人感謝を伝えたいところですが、この場を借りてお礼を言わせていただきます。
今年の目標はしっかりと決まっていて
の3点。健康に過ごすことは前提としてありますが、上記の目標に向かって突き進んで行く2022年にしていきます!1年後の2022年に全て達成することが出来ました!っていうnoteを書くことができるように精進します。
上記の目標を達成するための計画は1月1日に行っていきます。
2022年1月から2022年4月での減量
今年の元旦から減量を開始し3ヶ月程で−5kgを達成。身体の変化も写真を見れば分かるレベルになりました。
2022年6月12日に開催されるNABBAに向けて現在も絞っています。(残り4日!)
昨年の9月に悔しい思いをしたからこそ今年こそはやりきり後悔したくない。そんな気持ちでやっています。2022年6月12日を人生で最も良かった1日にします!
最後に
ここまで4万字越えの文章をお読みいただきありがとうございました。
感想やコメントをくれた方にはお礼としてハーゲンダッツあげたい位です笑
無職になり人生のどん底を味わった時にトレーニングを通じて人生を変えると自身と約束しました。決して満足はできていませんが少しづつ良い方向に進んでいることを実感しています。
一人でも多くの人に豊かな日々を送り人生に潤いを与えたい。キャリアの相談、ダイエット、トレーニング、コンテスト出場のサポート等あれば遠慮なく連絡してください!
一度きりの人生を一緒に最高に楽しみ尽くしましょう!最後までお読みいただき本当にありがとうございました!最高の誕生日にします!
(お祝いのコメント、プレゼントお待ちしております。笑)
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