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自分の思考の力だけを頼りに勝負する

「批評」なんて、まったく読まなかった。

もっとも根本にある思いは、たとえば文芸批評なら、小説を書いていない、書いたこともない人間が、その小説の良い悪いを論じることができるものかという疑念だった。

読者として、この描写はすばらしい、この登場人物の行動と心情は現実的にありえない、ストーリー展開が雑だ、というように感じることは構わない。でも、それは単なる読書感想文でしかない。

さらに文学理論をふり回し、日常ではまず出会うことのない専門用語や術語を多用し、訳語をたしかめようともしないカタカナ語で締めくくる。そんなもの、自分で「批評」と呼んでいるだけだ。

一方で、実作者なら、他人が書いた作品も的確に批評できるのかという疑問もあった。

先日も、ある著名な歌人による現代短歌の「評論」を読んでいたら、その歌人は、非歌人の「読み」つまり批評や解釈は物足りない、歌詠みにしか分からない「感覚」を持っていないからだ、と断じていた。しかし、その「感覚」が何なのか、まったく明示していない。「感覚」だから言語化しなくても良いのか。実作でも批評でも指導でも人気のある歌人の言説なだけに、心底落胆した。

そんな逆説的な疑念を払拭するきっかけとなったのは、やはり批評家の加藤典洋による『僕が批評家になったわけ』を読んだことだ。

批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い。(中略)あるできごとが価値あることか、価値ないことか。何が善で何が悪か。その判断にも、究極的には、本百冊を読んでいるかいないかは、関係してこないのではないか。そうでなければ、考える、ということの意味が、なくなるのではないか。

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波現代文庫、p15

小林秀雄と加藤典洋の共通点は、徒手空拳で対象に臨み、思考をもって批評していることだ。アカデミズムを根っこに持たず、また群れないところも通じている。

徒手空拳で臨めるゆえに、誰にでもできるのが「批評」だ。だから自称「批評家」もはびこる。小林秀雄による「直観」という言葉を「『惚れる』こと」だと論じるのは、まさに言語明瞭・意味不明瞭でしかない。自分の思考の力というものだけを頼りにしているとも、とうてい思えない。

もちろん、本百冊を読んでいるかいないかは関係ない。しかし、ベルクソンの著書や解説書から「考える」ことをしてもいい。ベルクソンの知識がないから論じてはならないということではない。小林秀雄がどのように感じ、考え、書いたのかを「思い出す」ために、小林秀雄が熟読玩味したベルクソンを読むことは、それこそ徒手空拳で可能なのだ。

そんな、うわっつらだけの「批評」が跋扈ばっこする文壇を、1948(昭和23)年当時の小林秀雄も憂えたのか、それとも呆れたのか。

確かにこの(批評しようとする心の)働きは、ジャアナリズムの上に現れて、そこに文化の花が咲いている様に見えもしよう。併し、実は、およこらしょうのない精神が、烈しい消費に悩んでいるに過ぎず、しかも何かを生産している様な振りを、大真面目でしているに過ぎない。まことに巧みな巧んだ精神の消費形式の展覧である。何が文化活動でしょうか。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p166

『私の人生観』においては2度目となる「文化」についての言及である。

(つづく)

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