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想いを「書く」とはどういうことか——まはら三桃『思いはいのり、言葉はつばさ』

拝啓

あまりの暑さに茫然としているうちに、7月も終わろうとしています。御身体の具合はいかがですか。無沙汰は無事の便りと落ち着いてはいられない炎暑です。

こちらは終日室内にいられるものの、ここしばらくは忙しさに心をなくしています。読書する心を取り戻そうと、まはら三桃『思いはいのり、言葉はつばさ』を手に取ったところ、今度は無性に手紙を書きたくなったのでした。

男尊女卑が強かった、中国のある山間部の農村。女性は文字を読んだり、書いたり、学ぶことを禁じられていたそうです。だから女性たちは、自分たちで文字を発明し、伝え、学び、書き、送り、残しました。それは「女書にょしょ」と呼ばれる女性専用の文字。男性が学んだり、男性に教えたりすることも認められていません。本書『思いはいのり、言葉はつばさ』は、10歳の少女チャオミンがこの小さく端正な「女書」(物語中ではニュウシュ)を学ぶことで、「書く」とはどんなことか、人にとって言葉はどのような意味があるかを考え、知り、成長していく児童文学です。

トビラ内側には、端正な「女書」が。

物語では、チャオミンが「女書ニュウシュ」を初めて学ぶ日から、文字の在り方を考えさせられます。当時、結婚式の3日前に、結婚する娘の母や伯母、義姉妹などがお祝いや別れの言葉や歌を「三朝書」という冊子につづりました。口から発した言葉はその場かぎり。しかし想いを文字にしておけば、読む人はいつまでも書いた人のことを思い出せる。想いと寄り添って生きていける。だから書いて贈るというのです。

当初は文字を学べる嬉しさが勝っていたチャオミンは、彼女に「女書ニュウシュ」を教えてくれた年上の娘シューインが義姉妹になろうと申し出てくれた手紙を読んだとき、文字に託された言葉がどんなにか心にしみて、読み返すたびに心が躍るかを実感します。シューインが遠くの村へ嫁ぐことになり「三朝書」をしたためるときも、別れのつらさはもちろん、幸せになってほしいという溢れる想いを書けば書くほど、むしろ心は静まり、自分を見つめることができたのです。

その「三朝書」には、チャオミンの母、インシェンも言葉を寄せました。

つらいときは、書きましょう
苦しいときは、歌いましょう

p205

インシェンも嫁いできた身であり、結婚当初は姑と合わずに苦しみ、こよなく愛していた歌も言葉も失ったことがありました。苦しい胸の内を「女書ニュウシュ」で便箋に書きつけ、固く封をして秘めることで凌いだのです。

あらゆる表現は告白であり、自画像です。文字を書くこと。言葉をつむぐこと。その営みはそのまま自分を映し出します。

もちろん、文字も言葉も、先人から代々受け継いできたものである以上、独自性はありません。文字も言葉も、見栄えのよいものを探し出して飾り付ければ、自分を大きく、華やかに見せることもできるでしょう。

しかし、文字を書く線の一つひとつ、文章をつくる言葉の一つひとつに、誰のものでもない、自分だけの「想い」を込めたとき初めて、文字も文章も透きとおった水のおもてに自分自身を映し出し、かがやく光となって時も場所も超えます。「想い」が伴わない、とってつけたような文字や言葉は、濁った水の底に沈み、水面で反射することもありません。

絶対に、とはいえませんが、上手な文章を書く心構えがあります。それは「実在であれ、架空であれ、特定の相手に送り届けるように書く」こと。あの人に、この想いを伝えずにいられない。その「想い」を言葉に、文章に託すのです。だから私の書評の多くは、書簡形式なのです。

あなたとはお会いしたこともなく、街ですれ違ったとしてもお互いに気づくことはありません。それでもいいと思える唯一のことは、まさに言葉だけで、あなたに想いを伝えるために手紙が書けることです。

いま抱いている唯一の「想い」。それは、あなたの「言葉」がほしい。それだけ。

あなたからの手紙を、待っています。

敬具

既視の海


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