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音のない輪舞曲——アンナ・カヴァン『氷』【書評】

音のない輪舞曲が耳から離れない。

世界が氷に閉ざされる直前のモノクロームなパ・ド・トロワ(バレエにおける3人の踊り)であるアンナ・カヴァン『氷』を読む。

こういう物語だと明確に要約できるようなプロットは存在しない。国境を越えて諜報活動をしている(らしい)「私」。母親からの虐待の影響で精神の発達が未熟だが、アルピノで美しい銀白色の髪を持つ「少女」。そして強大な権力を持ち、少女を連れ去っていく「長官」。主な登場人物はこの3人だけだ。

異常気象により強烈な寒波が押し寄せている。地球が氷に閉ざされる前に、「私」はかつて結婚まで考えた「少女」と会いたい。しかし、彼女を探し、追うたびに、強大な力を持つ「長官」が立ちはだかり、「少女」を連れ去る。いざ追いつくと、「少女」への熱情は冷めてしまい、かえって不信や憎しみまで抱き、距離をおいてしまう。それでも地球が凍りつつあると感じるたびに、またもや「少女」を求めてしまう。それを繰り返している。輪舞曲のように。

語り手は「私」であるが、少女を追っているとき、あまりにつよい思慕のために彼女を壊したい妄想に駆られ、現実との境界が見えなくなる。また、「私」が長官のことを語っていながら、長官が自らの妄想を『私』という主語を用いて語っているようにも読める。さらに「私」は長官と対立しながらも、ともに少女を求めていることから、ときに相手の気持ちが読めたり、共感し合ったりすることもある。少女からすると、二人はいつも自分を苦しめる存在である。「私」と長官、「私」と少女、長官と少女、それぞれが敵対者であり、共犯者でもある。凍りつきそうな世界で、3人がいつも踊っている。パ・ド・トロワのように。

1967年に発表された本作は、時代背景、土地、歴史、風土を細かく調べ上げ、これでもかと細かい情景描写を連ね、姿かたち、体の動き、しぐさ、食べ物や衣服への好みなど人物描写も細かく、さらには生理的な感覚を用いた豊かな心情描写も書き込んだ「描写こそがリアリティ」という現代小説とは全く相容れない。「私」「少女」「長官」の3人には、名前すら与えられていない。どの国の出来事か、なぜ寒波が地球を襲うのか。なぜ「少女」は「私」を嫌い、求めるのか。「長官」はなぜ「少女」を連れ去るのか。そんな因果関係もほとんど説明されていない。

しかし、現実にいま自分が暮している街の風土、文化、歴史などを細かく把握しているだろうか。なぜ桜の開花がこんなに早まったり、4月だというのに夏日になったり、寒の戻りがあったりするのを、科学的に理解しながら生活しているだろうか。なぜ、想う人には想われず、想わぬ人に想われるのか。そんな恋や愛を分かっていると、自信をもって言えるのだろうか。

人は極限に追い込まれたときに、はじめて本質が現れる。分からないものは分からない。自然の摂理も、人間の運命も、心も。現実と妄想の境目もあいまいなとき、呼吸している自分の存在でさえ確信できない。

私にはわかっている。逃亡の道はない。氷から、私たちを最後のカプセルに包みこんでゼロに近づいていく時間の残余から、逃れるすべはない。私はその残された時間を最大限に活用する。時間と空間が飛ぶように過ぎていく。

バジリコ刊単行本p234

生きる目的から解き放たれたとき知覚するものこそ、真実かもしれない「私たち」すなわち「私」と「少女」は、何を直観したのだろうか。

今回はバジリコ刊の単行本を10年ぶりに再読した。他方、ちくま文庫版の序文を書いたクリストファー・プリーストは、この物語をやはり「パ・ド・トロワ(三人の舞踊)」と呼んでいたのが興味深かった。

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