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文体を欠いた思想家はシンフォニーを創り出せない

日本の哲学者は、論理は尽くすが言葉を尽くしていない。観念を合理的に述べれば十分だと思い込み、定義付けさえすれば専門用語を勝手に発明しても構わないという姿勢は極めて安易だ。詩人は専門語など勝手に発明しない。日常の言語を使う。永続性を願って詩を作るのにふさわしい文体を考えなければならないのと同じに、思想を語るには文体が欠かせない。小林秀雄は、このような状況を「文体侮蔑」と呼ぶ。

これについてはすでに、1937(昭和12)年に発表した『文化と文体』『現代作家と文体』(ともに「小林秀雄全作品」第9集)という二つの作品で、文学における文体への軽蔑、侮蔑が深まっていると指摘している。

文体の「体」は姿、形ととらえてよい。つまり文体は、文章の姿、形である。文体について小林秀雄にインタビューしたり、小林秀雄のレトリックを分析したこともある国語学者の中村明によれば、文体とは「作品の奥で言語的な在り方を規定する力」だという。

『文化と文体』『現代作家と文体』では、象徴主義における美文に反発したわが国の自然主義文学が、極端なリアリズム、すなわち細かな描写を重視したことと並行して、科学的思想によって現実を整理・単純化したことで、かの「論理は尽くすが言葉を尽くしていない」文学になってしまったと小林秀雄は嘆く。

この『私の人生観』では、文学ではなく思想家の文体について指摘している。思想家が平和や人道、自由という観念を語ろうにも、それらが普遍的な観念である限り、人々を沈黙させたり、共感させる力はない。合理的にしゃべっているつもりでも、もともと厳密な定義から出発していないので、たとえ「平和」を語ろうにも、逆に論戦が生じてしまう。

そこに必要なのは、観念を語るために都合よく作られた言葉ではなく、日常の言語である。詩人の作る詩が、日常の言語を用いても永続性を得ているように、思想家も日常の言語を用いて普遍性のある観念を語れというのである。

文体を欠いた思想家は、思想という「物」に決して到る事は出来ませぬ。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p188

小林秀雄はここで、真実の思想が現れるのは、シンフォニー(交響曲)が鳴るのと同じだという。ベートーベンの観念だけでは誰も感動しない。彼は音という「物」の秩序をどのようにして創り出そうかと苦心する具体的な技術をもって、思索を尽くす。その結果、シンフォニーが創られる。ベートーベンにとってシンフォニーこそ思想だという。それに人々は心を動かされるのだ。

小林秀雄が近代批評の神様と呼ばれるのは、それこそ「論理は尽くすが言葉を尽くしていない」批評ではなく、小林秀雄の文体をもって、一つの作品として批評を著わしたからだ。逆説を多用し、相手を挑発し、小気味よく作品を斬る。そのように評価されたのではない。「文体侮蔑」を語るのに、ベートーベンのシンフォニーを持ち出す批評家がほかにいるだろうか。小林秀雄は詩人のように言葉を求め、尽くし、批評を書いた。一個の文学として観賞に堪え得る作品を書いたのだ。

(つづく)

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