身を賭して成し遂げるものは何か——かんべむさし『車掌の本分』、上橋菜穂子『バルサの食卓』
拝啓
夏至をすぎれば梅雨も折りかえし。ただ近ごろは、そぼ降るよりも篠突く雨ばかりに思われて、伊勢物語に出てくるような長雨が恋しくなります。
お忙しいようですが、お身体は多少癒えましたか。
健康のことは、わたしよりもあなたのほうが十分にご理解なされているでしょう。目の下に隈をつくって「守り人」に耽ることはないとお察ししますが、バルサに劣らぬ頑丈な身体は、まず食から。上橋菜穂子・チーム北海道『バルサの食卓』はお手元にありますか。冒険ファンタジーでありながら、バルサやチャグムが口にする垂涎の料理を再現したレシピ本です。ぜひ試してみたいのが、「ノギ屋の弁当風鳥飯」。
この鳥飯は、食べるというより「かきこむ」ほうがふさわしい。再現写真を見るまでもなく、「腹ぺこ」になってきます。滋養もつきそうです。
さて、あなたも国語教科書を丸ごと読むのが春の恒例だったと知り、頬がゆるみました。いっそう、あなたが好きになりました。『ごんぎつね』の最後は、たちのぼる青い煙とともに静かに胸にしみわたります。『少年の日の思い出』は、あなたが感じた苦々しさで、私の記憶もよみがえりました。教科書は国語という大河を流れる文学の良質な蒸気船、国語便覧は優秀な水先案内人。ああ、ここでもマーク・トウェインですね。
かつて国語教科書で読み、もっとも強烈な印象を残した作品はなにか。向田邦子の随筆でもなく、茨木のり子の詩でもありません。それは、かんべむさし『車掌の本分』です。これが収録されていたのは光村図書の中学3年生の教科書。かつて光村の教科書に載っていた作品のアンソロジー「光村ライブラリー【中学校編】」に収録されているのを知り、それこそ中学3年生のとき以来、久しぶりに読んでみました。
登場するのは、遊園地の大人気アトラクション「モンキートレイン」を毎日走らせているサルの運転手と車掌。ある日、車掌を務めている老サルが、列車に乗りたくないとつぶやきます。もちろん、車掌という仕事に誇りを持っています。働かなければ「食う」こともできないとも分かっています。しかし、モンキートレインがあまりに人気なので、来園客の期待に応えるべく車両が増設されてしまったことで、「オレは車掌の本分を果たしていない」と考えてしまうのです。なぜそう感じるのか。老サルにとって、その「車掌の本分」とは何か。そんな心のうちが語られています。
学ぶことも、働くことの意味もわかっていなかった義務教育の最終年。その人が本来尽くすべきつとめである「本分」という言葉とその考えに、強い衝撃を受けました。物語の最後で、この老サルはある想像をしながら、「(そうすれば)わしは死ぬまで本分を尽くすだろう……」とつぶやくのです。
自分にとっての「本分」とは? 中学3年生としての「本分」って何だろう。そして大人になって、死ぬまで尽くすことのできる「本分」を見出せるだろうか? 春、始業式の当日に配られた真新しい教科書の、最初に載っていたこの物語に、胸を射貫かれたような強い痛みを感じたのです。
あなたは先日、沖縄戦について書かれていました。私の両親は生まれも育ちも東京ですが、母はいわゆる戦争遺児です。母の父親、つまり私の祖父がかの戦争で亡くなりました。そんな世代の両親に育てられたので、いまでは「そんなのは昭和の考えだ」と揶揄されてしまおうとも、私は幼いころから「分をわきまえる」「分相応」という考えを持っています。その「分」と「本分」は同じです。
自分の「本分」は何だろう? わきまえるべき「分」はどんなことか? それよりも、自分とは何者なのか? 「わたし」とは何か? まさに哲学の命題です。自分は何者かも分からないのに、自分を認めてほしいという、典型的な自意識過剰だった14歳の当時、自分の「本分」とは何かを考えるきっかけとなった物語でした。
そんな中学3年生以降、この物語を再び読むことは一切ありませんでしたが、自分は何のために生きているのだろう、なぜ働くのだろう、自分の身を賭して成し遂げたいものは何だろうと考えるとき、きまって思い出すのは、この物語の車掌だったのです。今回、読み直してみて、あらためて強く胸をゆさぶられました。
『車掌の本分』は、たった6年間しか教科書に採用されなかったので、あなたが影響を受けた作品と重ならないのが残念です。国語教科書というものは、出版社によって載せる作品が異なります。おなじ向田邦子でも『父の詫び状』を読む教科書と、『字のない葉書』を読む教科書があります。
そこであなたに教えてほしい。これは国語教科書で読みたかったなあと感じる小説や随筆、評論などはありますか。現実に、学校教科書に採用されたことがあるかどうかは問いません。この文章を中学生や高校生のときに読んでいたならば、その後の眼差しや、自分の選択が変わったであろうという作品です。
私の文章でよく触れる小林秀雄の『美を求める心』は、かつて小学6年生から中学3年生までの教科書に載っていたそうです。また、以前紹介した池田晶子の『言葉の力』は、2006年以降、現在まで中学3年生の教科書に採用されています。いずれも、私はいい大人になってから読みましたが、自分が中学生のときに読んでいたら、その後で自分が見る風景が異なったのではないか、また、それだけの感受性を持ち合わせていただろうかと考えてしまうのです。
書物や、物語と出会うのは、必然なのか、偶然なのか。長雨は嫌いなのですが、詩の言葉が欲しくなるのは、風情というものでしょうか。
敬具
既視の海
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