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非一般的読解試論 第一回「読み解き・身ぶり・踊り」

 これは「非一般的読解試論」という連載です。わたしの実験的な創作活動です。手を変え品を変え、やっていきます。そこで第一回である今回は、この試論は何を目的としているのかを説明することから始めようと思います。よろしくお願いします。


1.共感とは欲望である

 小説を読んでいるとき、漫画を読んでいるとき、誰かのツイートを読んでいるとき、誰かのnoteを読んでいるとき、ひとは「読んでいる」という行為をしている。

 それだけではない。文字に限らず、記号があれば、ひとは何かを「読む」ことができる。つまり、映画を見ているときも、アニメを見ているときも、絵画を見ているときも、ひとは何かを「読んでいる」と言える。

 これからわたしは、この「読んでいる」ということを考えていく。さらに、「読んでいる」ことを考えることを「読み解き」と呼びたい。「読み」について「考える=解く」ということ。

 では、読みについての「何を解く」のか。

 たとえば、小説の読みについて考えてみよう。わたしたちは小説を読んで、主人公に起こる出来事に共感する。悲劇があれば悲しくなり、喜劇があれば笑う。しかし、小説を読んで共感することは、そもそも不思議な現象である。なぜなら、主人公の苦悩や葛藤はフィクションであり、「わたし=読者」には全く関係のない出来事なのだから。それでも、わたしたちは主人公に共感してしまう。主人公に起きた出来事は自分の問題なのだと内面化してしまう。この内面化現象は次のように説明できるのではないだろうか。つまり、「なぜ共感してしまったのか」、そこには「共感したい」という「わたし=読者」の欲望がある。

 読み解きは、この「欲望」について考えることである。なぜ共感したのか、なぜ内面化してしまったのか。それを解く。

 しかし、解くためには、「解かれる何か」がなければならない。つまり、読者の欲望はどのようにして「顕れる(あらわれる)」のだろうか。


2.身ぶり、踊り

 欲望は、どのようにして顕れるのか。それは意外と身近なところにある。

 何かを読んでいるとき、はっと気が付いてツイートする、友人に話す、noteを書く、メモを取る。言葉を選ぶ。自分が感じたことを「文字にする」とき、その瞬間に読者の欲望は顕れる。

 「これを読んで良かった」、その一言のツイートには「欲望の身ぶり」がある。そして、「なぜ良かったと感じたのか」を考えて、もっと長い文章を書き繋げれば、それは感想文となる。感想文は、いくつかの身ぶりが繋がることで生まれる。まるで身ぶりが繋がって踊りになるように。つまり感想文とは、「欲望の踊り」に他ならない。

 文字化とは欲望の身ぶりであり、文章化とは欲望の踊りである。


3.泥濘み(ぬかるみ)

 なぜ文字化するときに、欲望が顕れるのか。それは、文字化しようとするとき、ひとは自分の欲望という「泥濘み(ぬかるみ)」に脚をとられてしまうからだ。

 田んぼに落ちてしまったときのことを想像してみてほしい。田んぼの泥濘みに嵌まってしまって、思うように動けない。動けば動くほど深く沈んでいく。バランスを崩し、脚が前に出ない。そこに風が吹きつける。風が吹きつけるなか、カカシのように両腕を水平にひろげて、バランスを取ろうと試みる。前にすすむたびに風にあおられて、ひろげた腕が空を斬り、まるで下手な踊りを踊っているかのようだ。泥濘みの中で強いられる可笑しな身ぶり。そして、可笑しな身ぶりが繋がって、奇妙な踊りになる。

 何かを読んで感じたことを文字化するとき、自分の欲望に足をとられて、何かの身ぶりを強いられてしまう。

 読み解きとは、文字化された欲望を解くことである。文字化に顕れる身ぶりや踊り。その可笑しな動きの根本にある「欲望=泥濘み」を解くこと。


4.読み解き

 「文字化」は必ず欲望の影響を受ける。それは、「ひとの性格」が育った環境の影響を受けるのに等しい。

 従って、読み解きは個別的で、個人的で、特殊なものになるだろう。つまりこれは、非一般的読解の試みなのである。

 この試みの中で、わたしは何を読んでいくのか。実は、読み物はすでに決まっている。まずは、わたしの友人でもある、同人小説家の「ごひにゃん(@gohi_nyan)」の作品を取り上げたいと思う。ごひにゃんの作品は体裁こそ小説であるが、わたしには「詩」のように見える。

 何故わたしは「詩」として読んでしまうのか。これが、当面の問題である。そこでは「交換」、「時間」がキーワードになるだろう。さらに言うなら、それは「失敗する交換」であり、「進まない時間」である。


つづく

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