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非一般的読解試論 第八回「ロックバンドおとぎ話と、子どもの記憶」

こんにちは、デレラです。

第八回 非一般的読解試論をお送りします。

この連載では、「感想文」について、あれやこれやと考えています。

ひとつ前の第七回で、わたしは、わたしの好きなロックバンドの歌詞を解釈し、感想文を書きますと宣言しました。

今回は宣言どおり、「おとぎ話」というロックバンドの歌詞を解釈します。

その前に、すこしだけ、前回のお話を復習します。

「感想文」とは何か、ということについて。


わたしは前回、感想文とは、次のようなものだと書きました。

観たもの、読んだもの、聞いたものから、「何か」を受け取り、

自分の中にある、これまでに受け取ってきた「何かたち」と混ぜ合わせて、

再構成して、文章として出力すること

一文で言い換えると次のようになります。

「何かが、何かたちと合わさって、文章になること」


また、「何かたち」を前回は「パッチワーク」だと言い換えました。

この「何かたち=パッチワーク」は、ひとによって様相が異なります。

つまり、わたしの「パッチワーク」と、あなたの「パッチワーク」は内容が異なる、ということ。

なぜなら、パッチワークはこれまでの体験によって作られるからです。

これまでに受け取ってきた「何か」は、ひとそれぞれ異なります。

だから、ひとつとして同じパッチワークは存在しないはずです。


そう、そしてさらに、わたしは、このパッチワークから、出力される「感想文」が、「一貫したイメージ」に収斂している、とも言いました。

一貫したイメージとは何か。

例えば、宮崎駿監督の映画を観ると、どれも「宮崎駿監督らしい作品だなあ」という感想を抱くでしょう。

つまり、映画を観た結果、「宮崎駿監督らしい」というイメージに収斂するのです。

でも、先ほども述べたように、パッチワークは、ひとそれぞれ違うのだから、わたしとあなたが「宮崎駿監督らしいな」と同じ感想を抱いたとしても、その内実は異なります。

感想文は、それぞれのパッチワークが異なるために、出力された内容(〇〇監督らしいなあ)が、同じでも、じつは内容が違う。

わたしにとっての一貫したイメージは、わたしにだけ一貫しているだけであって、それはたったひとつの真実ではない。

でも、わたし自身は一貫していると感じてしまう。

このことを次のように言い換えてみます。

感想文を書くときに感じる「一貫したイメージ」は、「フィクション」である。

つまり、感想文を書くという行為は、自分のパッチワークから、ひとつのフィクションを取り出す行為なのではないでしょうか。


さて、わたしは、これから二回に渡って、「おとぎ話」というロックバンドの歌詞から、ひとつのフィクションを取り出そうと思います。

今回が前編、次回が後編です。すこし長くなりますがお付き合いください。


ところで、あなたは「おとぎ話」を知っていますか。

2000年に結成され、今年で20周年を迎えます。(おめでとう!)

メンバーは以下の四人。

ボーカル・ギター 有馬和樹
ギター 牛尾健太
ベース 風間洋隆
ドラム 前越啓輔

古き良きブリティッシュロックを継承しながら、日本のオルタナティブロックの体現者ともいえる四人組です。(わたしの勝手な位置づけです)

さて、なぜ、今回「おとぎ話」を取り上げるのか。

理由はふたつあります。

ひとつは、「おとぎ話」という固有名です。

おとぎ話といえば、竹取物語や、不思議の国のアリスなど、「フィクション=物語」をそのまま表す固有名です。

感想文はひとつのフィクションを取り出すことです。まさに「フィクション=物語」の意味を持つ「おとぎ話」は、その題材にピッタリではありませんか。(笑)


そしてもうひとつは、「記憶」です。

彼らの歌詞をひも解くと、「記憶」というテーマを取り出すことができる。

「記憶」は、この非一般的読解試論でとても重要な概念です。

感想文は「パッチワーク」から出力されるのでした。

そして、そのパッチワークは、観たり聞いたり読んだりしたときに受け取った「何かたち」で構成されています。

つまり、このパッチワークとは「記憶」と関連しているのです。

これまでに体験してきたことの「記憶」をつなぎ合わせることで、パッチワークが生まれる。


つまり、「おとぎ話」の歌詞は、「記憶」をテーマのひとつにしている、だから今回の題材にしました。

さて、そろそろ本題に入りましょう。

次章からは、おとぎ話の歌詞には、どんなイメージがあるのか、具体的に歌詞を引用しながら考えていきます。

その前に、指針を出しておきましょう。

おとぎ話の歌詞に対するわたしのイメージをあえて、さきに提示します。

抽象的に見えるかもしれませんが、水先案内、目次の代わりとして。


おとぎ話の歌詞には、失われた「あの記憶」のイメージがあります。

「あの記憶」とは何でしょうか。

それは、いまはほとんど覚えていない、でも確かにあったはずの「あの記憶」です。

ほとんど覚えていない、失われた記憶。でも、おとぎ話はその記憶について歌っているのです。(第1章「ロックンロール・イズ・デッド」)

失われてしまっているため、その「あの記憶」の存在を積極的・肯定的に証明することはできません。

その存在証明は、積極的・肯定的ではなく、消極的・否定的に証明することしかできません。

消極的・否定的証明とは何か。それは「涙」です。(次回、第2章「オーロラ」)

おとぎ話は、消極的・否定的にしか証明できない「あの記憶」について、歌っています。

彼らの歌は、「あの記憶」を取り戻すための戦略なのです。

彼らは、「あの記憶」を取り戻すために歌い続けることで、「世界のひっくり返し」を狙っています。(次回、第3章「アップサイド・ダウン」)

彼らの歌を聞き続ければ、きっと別の世界に行ける。

普段しているものの見方を、ひっくり返すことができるかもしれない。

そう思わせてくれるのです。(次回、第4章「ニュームーン」)

上記のとおり、第2章から第4章は次回にまわそうと思います。

長くなっちゃうから。今回と次回、わたしのフィクションに、しばし、お付き合いください。

では早速はじめてまいりましょう。

ロックバンド「おとぎ話」、「あの記憶」についてのイメージ。

まずは、2007年の彼らのデビューシングル「KIDS」の歌詞へ。


1.ロックンロール・イズ・デッド

先ほど述べたように「おとぎ話」の歌詞には「あの記憶」のイメージがあります。

どのような記憶なのか。

早速、歌詞を引用してみましょう。デビューシングル「KIDS」より。

いつかは僕等も「大人」になる時が来るのならば
僕は夢の続きなんて忘れてしまうの?
いつかは僕等も死んでしまう時が来るのならば
僕は君の記憶なんて忘れてしまうの?
ー「KIDS」(『SALE!』)


さて、いくつか整理しましょう。まずは対立軸です。

この歌詞には明らかな対立軸があります。それは「大人」という単語、そして、「KIDS=子ども」というタイトルです。

「大人」VS「子ども=KIDS」の対立。

「忘れてしまうの?」という問いかけと、この対立軸から、「大人」になると「子ども」の記憶を忘れる、ということが理解できます。

登場人物の「僕」は、「子どもの記憶」を忘れてしまうことを恐れているのです。

もしかすると、「僕」は「子ども」ではなく、かといって「大人」でもない、中間の状態なのかもしれません。

中間にいる「僕」は、「大人」になると記憶を失うことを知っており、また同時に、自分も「子どもの記憶」を忘れ始めているのでしょう。

では、大人になると忘れてしまう「子どもの記憶」とは何でしょうか。

ここで少し飛躍します。

「子どもの記憶」とは何か、を考えるためには、その逆の「大人」とは何かについて考えてみる必要があります。

大人になってみると、毎日がつらいです。子どもが大変ではないと言いたいのではありませんが、やはり大人はつらいです。

なぜなら、大人に特有のつらさがあるからです。一言で言うと「モウ大人ナンダカラ」というやつです。

ドキドキ、ワクワクするようなことは差し置いて、モウ大人ナンダカラ、仕事しなきゃいけない、育児しなきゃいけない、親の面倒を見なきゃいけない、嫌な上司の話を長々聞かないといけない、毎日家族のごはんを用意しなきゃいけない、責任を果たさないといけない。

もうたくさんだ!!モウ大人ナンダカラ、の一言で、「責任」が降ってくる!

失礼しました、少し興奮しすぎました。

確かに、責任は果たさなければならないでしょう。

子どもの面倒を見る必要もある、仕事をする必要もある、親の、、、以下省略。

わたしは、現実的に、この「モウ大人ナンダカラ」から逃れることができない。

このリアリティーは、あなたにも理解していただけると思います。生活のリアリティーです。

ときに大変で、重荷になることもある。しかし、それから逃れられない。

わたしの生活世界からは逃れられない。

子どもの記憶とは、「大人の生活世界とは別の世界=外側の世界」の記憶なのではないでしょうか。

そして、大人は、生活世界にいっぱいいっぱいになって、子どもの記憶を失ってしまう。

そう、「モウ大人ナンダカラ」という一言には「忘却の力」があるのです。

それは「子どもの記憶」を忘れさせる力です。


では、「子どもの記憶」を失わないでいられる方法はあるのでしょうか。

別の箇所を引用しましょう。

あの空の真ん中で、君は何を見てるの?
裸足のまま飛び出して、君は何を見てるの?
ー「KIDS」(『SALE!』)

この箇所からは、「君」は、裸足のまま外に飛び出して空を眺めている「子ども」であることが連想できます。

さらに、ここで「君」に問いかけているのは、大人になりかけている「僕」であると思われます。

なぜなら、「僕」は「君」が「何を見ているか分からない」からです。

分からないから問いかけている。つまり、ここで「僕」は「子どもの記憶」を失いつつあると言えるでしょう。

その「僕」は「君」が「裸足」であることに気が付きます。

また別の箇所を引用しましょう。

裸足の感触は夢の近道
ー「KIDS」(『SALE!』)

「僕」も、「裸足」になれば、「君」が見ている「夢」を思い出だせるかもしれない。

「裸足の感触」が、かろうじて「君」と「僕」をつなぎとめてくれるかもしれない。

「子どもの記憶」は忘れてしまうかもしれない、だけど「裸足の感触」を忘れないでいることができるのではないか。

では、「裸足の感触」を忘れないためには、どうしたら良いのでしょうか。

「KIDS」の歌詞は、次の一文で終わります。

あの空は歌うのさ! いつまでも「少年のうた」を
ー「KIDS」(『SALE!』)

いつまでも歌い続けること。これが、唯一「裸足の感触」を忘れない方法なのです。


では、2007年以降、彼らはいまもまだ、本当に歌い続けているのでしょうか。

もし歌い続けているとしたら、どんなことを歌っているのでしょうか。

もちろん彼らは歌い続けています。

デビューシングルから約8年後、2015年に発売したアルバム『カルチャークラブ』。

このアルバムには、「KIDS」へのアンサーソングとも取れる曲が収録されています。

その曲は「少年」という曲です。

では、どのようなことが歌われているのか。引用しましょう。

助けてくれよロックンロールバンド
もう時代遅れになってしまっても
僕のそばで泣いててくれよ
ロックンロール・イズ・デッド
ー「少年」(『カルチャークラブ』)


かなり悲しい歌詞です。「僕」は「ロックンロールバンド」に助けを求めています。

なぜ、助けを求めているのでしょうか。

「KIDS」のころは、大人になりかけだった「僕」も、8年後には、もう大人になってしまっている。

そして、周りの友人や知り合いはみな、「モウ大人ナンダカラ」と言って、「子どもの記憶」なんて忘れてしまっている。

しかし、「僕」が頼りにしている「ロックンロールバンド」はすでに時代遅れ、ロックンロールは死んでしまっているのです。

このまま、「僕」は「少年のうた」を歌い続けることを諦めてしまうのでしょうか。

さらに引用しましょう。

十代、おぼえてるかい?
君は世界を敵にまわした
どうだい? 最高の気分さ
かかってこいよ、未来
ー「少年」(『カルチャークラブ』)


「ロックンロールバンド」は言います。

十代(=子ども)のころ、君は世界を敵にまわしたじゃないか、と。

君は「モウ大人ナンダカラ」という忘却の力を敵に回して、歌い続けると誓ったじゃないか、と。

そう、「おとぎ話」は、ロックンロールが時代遅れになってしまったいまでも、「少年のうた」を歌い続けているのです。


「歌い続けている」というのは、大げさな表現ではありません。

というのも、「おとぎ話」は、2020年の8月に東京で、厳戒態勢のなか、観客を入れてライブをしました。

コロナ禍で観客を入れてライブを行う決意をし、歌い続ける姿勢を示し、実行したのです。

わたしは、そのライブを、最前列でフェイスシールドをしながら観ました。

もちろん彼らは、そのライブでも「少年」を歌っています。

「おとぎ話」は、いまも本当に歌い続けているのです。

さて、今回はここまで。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

「おとぎ話」は「あの記憶=子どもの記憶=大人になったら忘れてしまう世界の記憶」について歌っています。

「あの記憶」を失わないために、歌い続けているのです。

彼らの歌詞を読むと、以上のようなイメージが出力されます。


次回は、第2章から始めます。

「おとぎ話」の歌詞の世界をもっと深く見ていきましょう。

彼らが「あの記憶=大人になったら忘れてしまう世界の記憶」をなんとか描こうとしていること。

そして、「あの記憶」へ向かうために「おとぎ話」は、さらに一歩踏み出すのです。


つづく

※歌詞はすべて、アルバムに付属している歌詞カードより引用しています。

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