見出し画像

非一般的読解試論 第五回「図式論3 常に、同時に」

こんにちは、デレラです。

第五回 非一般的読解試論をお送りします。

非一般的読解試論では「読書感想文を書く」という個人的で非一般的な営みについて考えています。

「感想」って不思議だと思いませんか?

たとえば友人と映画を観に行っても、お互いに抱く感想は違いますし、友人がいなくとも、自分が中学生の時の感想と、今の感想とが違ったりもします。

インプットするものは一緒なのに、アウトプットが異なる。

このことに気が付いたら、頭から離れなくなっちゃっいました。

だからnoteで連載記事を書いて考えてみることにしたんです。

実際に記事を書いてみると「感想」には「図式」が関係してるんじゃないかと思いつきました。

でも、急に「図式ガー、関係シテテー」とか言っても意味不明なので、図式論へとジャンプするために、助走から始めることにしました。

その助走が、第三回と第四回、そしてこの第五回です。

この三回では「分からないもの=未体験」について考えています。

行ったことのない街、会ったことのない人、観たことない映画、読んだことない本、聞いたことない音楽、未だ体験していないこと。

「分からないこと=未体験」に出会ったとき、どんな反応を示すだろう?

これが根本にある問いです。

そして過去二回では、この問いをじっくりコトコト煮込んだ結果、「意味を閉じること」と「意味を開くこと」などいくつかのキーワードを抽出することができました。

今回は、過去二回で手に入れたキーワードを、さらに深く検討してみたいと思います。

何が飛び出してくるのか!!楽しみだね!!

今回も最後までお付き合いいただけたら幸いでございます!

どうぞごゆるりと、読んでやってください。

ではさっそくスタートだぜっ!!


1.「意味を閉じること」と「意味を開くこと」

まず最初に、過去二回で抽出したキーワードを一度まとめておきましょう。

「分からないこと=未体験」
知らない街に行ったり、知らないひとに会ったり、知らない映画観たりしたときの状態です。未体験を目の前にすると、何が起きるか「不安」になったり、何が起きるか「ワクワク」する。未体験には、ひとを「不安」にしたり「ワクワク」させる二重性がある。

「不安」
どれ選んだらいいか分からない、どこ行ったらいいか分からない、何を聞いたらいいか分からない状態。

「ワクワク」
好きなものを選びたい、好きな場所に行きたい、なんでも聞きたい状態。

「意味を閉じること」
分からなくて「不安」な時、意味を「一つに」確定すること。「分からないこと」が「分かること」に変化する。以下「閉じること」と呼びます。

「意味を開くこと」
分からなくて「ワクワク」な時、意味が「多様で」確定していないこと。「分かること」が「分からないこと」に変化する。以下「開くこと」と呼びます。


これを読んで、あなたはどう感じるでしょうか?

これはわたしの実感ですが、最近は「個人」を重視する社会的な傾向があるんじゃないかと思っています。

若者に向けた「やりたい夢を叶えよう」という学校の宣伝や、あるいは、働く世代に向けた「自分のやりたい仕事を見つけよう」という転職サイトの宣伝。

または、高齢者向けの「新しい趣味を見つけよう」という観光の宣伝など。

これらの謳い文句には、共通点があります。いわゆる「個人の多様性」というやつです。

「男」であるべき、「女」であるべき、結婚すべき、大手企業に就職すべき、老後は安静にすべき。

こんな「べき」は無視して、「好きなこと」を選ぼう、というメッセージをよく見かけます。

誰かに決められたような、「べき」という考え方は、最近では避けられる傾向にあるようです。

わたしはこれに反対はしませんが、このような社会傾向のなかで、「閉じること」と「開くこと」を二つ並べると、「閉じること」が悪いことで、「開くこと」が良いことのように映るのではないか?そう感じます。

というのも、意味を一つに確定する「閉じること」は、「べき」と相性が良いし、意味を一つに確定しない「開くこと」は、「個人の多様性」と相性が良いからです。

しかし、わたしは意味の「開閉」が、そのまま優劣を表しているようには思えません。

だから、まずは、これを問いにしましょう。

「閉じること」と「開くこと」に優劣はあるのか?


2.価値と事実

「閉じること」は悪くて、「開くこと」は良いことなのでしょうか?

この問いを少し言い換えましょう。

「開閉」は、「価値」の概念なのでしょうか?

もし、「開閉」が「価値」の概念であれば、必ずどっちかが良くてどっちかが悪いはずです。

さっそく、例を出して検討してみましょう。

わたしは大学生のときコンビニでアルバイトしてました。

当時の時給は691円!地方とは言え恐ろしい!!(笑)

当時のコンビニ店員は「691円で働く人間」でした。

コンビニ店員の意味は確定しているのです。691円。

意味が閉じてしまっているので、どれだけ働いても、どれだけ見栄えるポップ(手書きの値札)を作っても、お客さんに接客態度を褒められても、ほかのコンビニ店員と「おなじ691円」です。

わたしは691円じゃない!働いているとき何度も思いました。

この例からは、意味が確定されちゃうと「良くないなー」って気がしますよね。

やはり、閉じることは「悪いこと」なのでしょうか?

次は、こう考えてみましょう。モノの意味が決められていなかったら。

もし意味が確定していないコンビニで、100円のおにぎりをレジに持っていくと、店員にこう言われるでしょう。

店員「こちらのおにぎりは130円です。」

わたし「ほへっ?だって100円って書いてんじゃん?」

店員「意味は多様で、あたなの収入や、需要や、社会貢献度や、(中略)などを考慮すると、こちらのおにぎりは、あなたにとっては130円です。」

わたし「・・・」

極端で恣意的な例ですが(笑)、この例をみてみれば、意味が確定していない状態は、とっても不便に思えます。

蛇口を捻ったら水がでる。赤信号は止まれ。電気屋さんには家電が売っている。

これらの意味が開かれてしまったら、、、。

蛇口を捻れば水が出るかもしれないしポンジュースが出るかもしれない。赤信号は止まれかもしれないし、進めかもしれない。電気屋さんには家電が売っているかもしれないし、売っていないかもしれない。

こういう風に意味が開かれてしまっている世界は、まるで「不思議の国のアリス」のような世界です。

その名の通り、「不思議」な世界。

意味が開かれていれば良いってわけじゃありません。

つまり、「開閉」には、どちらも良い面があるし、悪い面があるようです。

そもそも、「良し悪し」を決めているのは、別のロジックです。

別のロジック、いわゆる「権力論」です。魅力的なテーマですが、今回は権力論には立ち入りません。

※ごく短くまとめておきましょう。「良し悪し」を決めるのは「権力」です。「権力」は王様や石油王や資本家のような、いわゆる偉い人に限りません。「大衆」だって権力者です。「大衆」は良し悪しの雰囲気を作り出すのが得意!メディアやSNSや井戸端会議。最近だと、「不倫」や「外出」は雰囲気で悪いことになってますよね。もっと知りたい人は、思想家のオルテガやフーコーの本を読もう!!

閑話休題。

やや恣意的でしたが、ここでは「開閉」は価値の概念ではないことが分かりました。

では価値の概念でなければ、どんな概念なのでしょうか。

結論を先取すれば、「開閉」は「事実」の概念です。

次章では、「事実」の概念について考えてみましょう。


3.「開閉」のスイッチ

事実の概念とは、そもそもどんな概念でしょうか?

簡単に言えば「腹が減る」ってことです。

空腹は、身体の構造上、否応なしに生じる現象です。好き嫌いに関わらず生じます。大失恋して悲しいときでも、腹は減ります。

つまり、どんだけ「意味に開かれていたい」と思っていても、勝手に意味は閉じるし開く、ということです。

空腹の事実性は身体の仕組みを知ることで理解できます。

だから「開閉」の事実性を確認するには、「開閉」の仕組みを考えてみる必要があります。

だからこの章の問いは、こうです。

どういう仕組みで意味は「開閉している」のか?


さて、実は前回の記事に「仕組み」に関するコメントをいただいていました。

それは、次のようなコメントです。

「意味を閉じること」と「意味を開くこと」は、アナログ的というより、デジタル的にスイッチングしている印象を受けた。

わたしは、このコメントから、とても良い示唆を受けました。ありがとうございます。

せっかくなので、「アナログ的」と「デジタル的」をキーワードに「開閉の仕組み」を考えてみましょう。

「アナログ的」は、ピタゴラス〇ッチを想像していただくのが分かりやすいです。

簡単に言うと、オンオフをするのが大変だ、ということです。

一度オンにしたあとで、オフにするのが難しく、またその逆も難しい。

何故なら、スイッチングのためには、最初の動力因が必要になるからです。

ピタ〇ラスイッチで言えば、ボールがレールの上を走るには、まずレールの「スタート地点にボールを置くひと」が必要になります。

この「ボールを置くひと」が、動力因です。ボールが動き始めるための原因ですね。

しかし、「デジタル的」は違います。

デジタルはアナログの反対、つまり物理的なものではないので、動力因は不要です。

デジタル的ということは、「スイッチは常にオンまたはオフだ」と言えます。

一言で言えば、「どっちにも簡単に切り替わる」のです。

これを意味の開閉に当てはめてみましょう。

意味は常に開閉する。

では、「常に開閉する」とはどういうことでしょうか?

例をあげて考えてみましょう。

ようやく梅雨も開けたことですし、太陽を例にしましょう。

太陽の意味って何でしょうか?

太陽系の中心にある恒星。東から上って西に沈む。熱い。などなど。

太陽を見たときに「これは太陽だ」というイメージってありますよね。

太陽を見たとき、わたしたちは「これは太陽だ」と意味を閉じます。

でも、いつも見ている太陽が別の意味に見えるときってありますよね。

たとえば初日の出。たとえば長い梅雨が明けた後の太陽。

そのときは「これは太陽だ」と意味を確定しながら、「なんだか、神々しい」ようにも見える。

太陽の意味はタイミングや状況によって様々に見えます。様々に見えますが、同時に「これは太陽だ」という意味が崩れるわけではありません。

この太陽の例のポイントは、意味は確定しているけど、同時に別の意味にも見える、ということです。

海外旅行で初めての街に行っても、全然分からないんだけど、あの角を曲がれば地下鉄がある、とか、海外で百貨店に入っても、あっち側にトイレがある、とか分かったりします。(実体験)

これも、意味の開閉が事実概念であることを示しているでしょう。

少し突飛ですが、「比喩」のような文学的表現は、この意味の開閉の仕組みによって可能であるとも言えるでしょう。

たとえば詩の表現は、単語の意味を、解放することによって、成り立っているとも言える訳です。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を読んだとき、「雨」は、いろんな意味に開かれていますが、空から降ってくるあの雨のイメージが崩れるわけではありません。

むしろ、この「意味のズレ」こそ、詩的表現の一つと言えるでしょう。

さて、「意味の開閉」は、価値概念ではなく、事実概念だと分かりました。

そして、事実として、意味が閉じたり開いたりするのは、「常に、同時に」起きていることも分かりました。

わたしたちは、「未体験」を目の前にすると、常に意味を「閉じたり」同時に「開いたり」してしまうのです。


4.図式の場所

お付き合いありがとうございました。

今回はここまでです。

意味の開閉は、事実として、常に同時に起きている。

これが今回の結論です。

これは文学的な表現の源にもなっていると思います。

さて、ここから図式論にジャンプしましょう。

図式は、この意味の開閉に関わっている。

次回はついに図式について考えていきます。

意味はただ開閉しているのではない。

意味は「図式」を蝶番に開閉しているのではないか。

これが次回の問いになるでしょう。

ではまた次回!!


スペシャルサンクス
戸蒔秋二さん、前回いただいたコメントを勝手に記事のネタにしました。
おかげで議論を深められました。ありがとうございました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?