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非一般的読解試論 第十三回「記号的、象徴的(後編)質感を覚えている」

こんにちは、デレラです。

非一般的読解試論の第十三回をお送りします。

前回から「記号的、象徴的」と題しまして、「記号」と「象徴」について描かれた小説や表現物を取り上げながら、「記号」と「象徴」の違いについて考えております。

今回は、「質感」がテーマです。

質感とは、「記号」と「象徴」の間にあるものです。まず最初に、その説明から始めます。

次には、質感の具体例として、印象派画家モネの絵画「日本の橋」を取り上げようと思います。

そして、最後には、わたし自身が「質感」を描きたいと思います。おそらく、詩的なものになるでしょう。

これは挑戦です。わたしがこれまで享受してきた、詩と散文とエッセイと、、、様々なモノをごった煮にして、わたしなりに出力してみたいと思います。

ということで、今回もよろしくお願いします。

早速、質感の説明から始めましょう。


1.質感を覚えているか

さて、今回は「質感」について考えたいと思います。

まずざっくりと定義しちゃいましょう。

質感とは、「記号」と「象徴」の間にあるものである。

どういうことか。例を出しましょう。

「美しいもの」と言えば何をイメージしますか?

わたしは「青空」をイメージします。「青空」は「美しさ」の象徴のひとつと言えるでしょう。

では、「青空=象徴」を想像してみてください。

あなたも「青空」を見ると「美しい」と感じるでしょう。

あなたは、青空の「美しさ」に満たされています。

一方で、「青空」は、太陽光のうち四百五十ナノメートル程度の波長をもった青い光の波が、空気中で散乱して、あなたの目に届いているに過ぎません。

太陽光のうち四百五十ナノメートル程度の波長をもった青い可視光線です。

「青空」は、「美しさの象徴」でもあるけれど、同時にそれは「四百五十ナノメートル程度の波長をもった可視光線」でもあります。

この「四百五十ナノメートル程度の波長をもった可視光線」が、青空の「記号」です。

青空の象徴性=美しさ 青空の記号性=可視光線

つまり、「可視光線=記号」が目から入ってきて、心で「美しさ=象徴」を感じている。

では、この「可視光線」はどのように、「美しさ」に変換されているのでしょうか?

また、可視光線が身体を通るとき、あなたは「可視光線が通るルート」を感じるでしょうか?

身体のルート。可視光線が通る道筋。

可視光線が、目から入って、脳へと至るまでのルート。

さらに詳しく言うなら、青空の可視光線が、目の中にある水晶体から眼窩に入り、網膜にあたり、錐体細胞と桿体細胞が反応し、軸索(視神経の束)を通って、脳へ伝達する。この道筋。

この青空の可視光線がたどるルートを、あなたは感じることができるでしょうか。

いや、できないでしょう。

青空の「美しさ」は感じられるけれど、「可視光線がたどるルート」は感じられない。

では、「美しさ」と「可視光線がたどるルート」は全く別々のモノでしょうか?

たしかにこの二つは別々のモノでしょう。

なぜなら、青空を見ている時は、可視光線だけが身体に入ってきているわけではないからです。

吹く風の強さ、気温、体温、空腹感、様々な情報が身体に入ってきている。しかも、それを避けることはできません。

身体は必ず外界に触れていて、いわば勝手に様々な情報が入ってきてしまうからです。

つまり、青空の記号は「可視光線」だけではない、そのほかたくさんの「情報=記号」があって、目以外からも、しかも勝手に入ってくる。

じつは、いろんな「情報=記号」が「青空」として身体に入ってきている。

そして、それぞれの「情報=記号がたどるルート」の総体が「青空の美しさ」として心に現れている。

「青空の美しさ」=「情報がたどるルート」の総体

あなたは「情報がたどるルート」のどれかひとつを取り出して、「この情報が通るルートが青空だ」と名指すことはできません。

いわば、「青空の美しさ」は、「情報がたどるルート」のひとつひとつを捨象して、情報を一つにまとめることで、感じることができる。

さて、わたしたちは、「青空の記号」がどうやって「美しさ」に変換されているのか、について考えていました。

どうやら、様々な青空の「情報=記号」が身体のルートを通る、その総体が「美しさ」に変換されているようです。

さあ、ここで、問題の「質感」です。

わたしは、この「美しさ」に変換される前の、「情報がたどるルート」の総体が、「美しさの質感」であると考えています。

「情報がたどるルートの総体」=「美しさの質感」

「外界の情報=記号」と、「美しさ=象徴」の間にある「ルート=質感」です。

「記号」は「ルート=質感」を通って、「象徴」になる。

そう思えるです。

わたしたちは「美しさ」を感じることができるけれど、「質感=ルート」を感じることはできません。

わたしたちは、そのルートでは、どうやら「記号」が「象徴」に変換されているようだ、ということをただ知っているだけです。

とうことを知っているだけです。

「記号」が「象徴」に変換される境界線。

では、わたしたちは、ほんとうにこの「ルート=境界線=質感」を感じることはできないのでしょうか?

わたしは、印象派の画家モネは、この「境界線=ルート=質感」に近づいた画家なのではないか、と考えています。

さて、次は、モネの話をしましょう。


2.モネ、日本の橋

モネの「日本の橋」という絵画をご存じでしょうか?

モネは白内障を患いながら、画を描き続けた印象派の画家です。

「日の出」や「パラソルを差す女」、「睡蓮」などが有名でしょうか。

宗教画や人物画ではなく、「風景画」を描く画家です。

わたしは、2015年に東京都美術館で開催されてたモネ展を観覧したことがあります。

そのモネ展で、わたしがもっとも強く惹きつけられたのが「日本の橋」でした。

モネは、自宅の庭に池を造成しました。

先ほど挙げた「睡蓮」などは、その池を描いたものです。

その池に掛けられた橋、それを描いたのが「日本の橋」です。

日本に訪れて描いた橋ではなく、自宅の庭に作った「日本っぽい橋」です。

わたしは、その「日本の橋」を見たとき、強烈に「あの質感」を感じました。

「日本の橋」は何枚も描かれています。なかには、ちゃんと「橋」と「池
」と「周りの植物」などの「風景」が識別できる作品もあります。

しかし、わたしが、強く惹かれたのは、風景が識別できない「日本の橋」でした。

(良ければググってみて下さい)

その「日本の橋」は、紅葉しているからでしょうか、画面は赤が強く、その隙間を縫うように別の色が顔を出しています。

この絵が、「橋」を描いたものだ、と知らなければ、中央に配置されている茶色のウネウネを「橋」だとは、分からないでしょう。

色の鬩ぎ合い。モネの網膜に映った色を、「橋・森・池」といった「象徴」を通さずに、もろにキャンバスにのせる。

風景の色を、記号として、生のままキャンバスに描いている。

わたしは、そう感じました。

風景画であるのに、何の風景なのかちっとも識別できない。風景の象徴性を欠いている。

風景の象徴性を欠いた風景画。それは、網膜に映った色をそのまま描こうとした風景画なのではないでしょうか。

先ほど、わたしは、「象徴」と「記号」の間には「ルートとしての質感」があると言いました。

モネは、網膜に映った色をそのまま描こうとすることで、図ってか、図らずか、その境界線である「ルート=質感」に近づいたのではないでしょうか。

「風景=象徴」を描きながら、「風景性を欠いた画=記号」を描く、その矛盾性だけが、「ルート=質感」に近づく。

でも、わたしは「ルート=質感」を感じることはできないので、モネの「日本の橋」をみて、この絵画が「ルート=質感」である、と断言することはできません。

「近づいたと思う」と言うことしかできないのです。

だから、わたしも近づいてみたい。それが次章での、わたしの挑戦です。


3.記号的、象徴的

どこから始めようか。

今まで、これまでの人生で、たくさんの記号が、わたしの身体を通っていった。

記号は、わたしの身体=ルートを通って、象徴になった。

わたしには象徴が記憶として、心に降り積もっている。

象徴が降り積もって、地層のように堆積している。

地層の記憶を思い出しても、それは象徴でしかない。すでに記号は捨象されている。

しかし、わたしは象徴ではない、その手前の境界線を見つけたい。記号と象徴の間。

どうしたら良いだろうか。

わたしは、モネにしたがって、矛盾したやり方で挑戦しよう。

モネは、「風景=象徴」を描きながら、「風景性を欠いた風景画=記号」を描いていた。

ならば、わたしは、記憶を掘り起こしながら、記憶から象徴性をはぎ取ってみよう。

できるだろうか。はじめましょう。

昨日食べたレンコンの歯ごたえ。

子どものころ、雪の上を歩くたびに、靴がならす小気味よい音。

体育館でバレーボール、ボールが床で跳ねる音。

雨。

レコードの針が落ちる。

森林の匂い。木の皮の割れ目。

夕焼けの後の紫色の空。

飛行機のエンジン、慣性の法則で感じる、重力。

熱いお湯に火傷してしまった日の夜、寝るときに感じる患部の火照り。

炭酸の喉ごし。

運動会のピストルと匂い。

硬水のシャワー。

だめだ。だめだ、だめだ。

記号を描きたいのに、描けば描くだけ、象徴となってしまう。

わたしの手から零れ落ちていく。

キータッチのたびに、わたしは記号性を捨象してしまう。

あ、こ、ら、句、祖、盧、地。

極端な象徴性の欠如は、反動的で、記号に寄りすぎてしまう。

その間にある、記号的で、象徴的なもの。それを描くにはどうしたら良いのだ。

言葉でよいのか。

言葉とは何だ?記号か?象徴か?

言葉こそ、記号的で、象徴的なものか。

言葉を手放しては、おそらく質感にたどり着けないだろう。

わたし、わたし、わたし。

わたし、思うゆえに、記号あり。

違う、これも違う。このやり方じゃない。

思い出せ。何を?

思い出せ。裸足の記憶だ。

裸足の記憶。あの記憶。

思い出せ。あれは、青い。そう青い。

空は青い。正午は、過ぎた。外が明るい。室内が暗い。

外へ出る。わたしは外へ出る。テレビの音が少しずつ遠くなる。

家の隣にあった公園。緑。芝の新芽が、足の裏を刺す。

ちくちくとした感触。走る。走りを欲望する。

わたしは走りたい。このちくちくがわたしを走らせる。

あの記憶の総体。

「走り出したい」という気持ちの総体。

なぜ走りたいのか。裸足の記憶。

天高い空。空気は緑の香りと、何かが焼けて焦げた匂いが混じってる。

声、聞こえる。誰かは分からない。サイレン、鳴る。何かは分からない。

右頬をなでる風。ぬるい。汗、つたう。頬。

向こうに見える、ブランコ。青と赤の二色。

風で少し揺れる、風が右頬をなでる。匂い。焦げている。

芝、足裏を刺す。わたし、ブランコを見る。

ブランコ揺れる。鳴る。金属がこすれる。

空、ひろがる。青。広い。

走れ。わたし。走りたい。わたし。

走れ。


おわり

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