夏海と拓海 総合ページ
●第一章
アフロディテ。
確かにそれは八月の強い陽射しと、碧い海の輝きのせいだったのかもしれない。
でも、そのときぼくが観た彼女は、確かにアフロディテに思えた。
日焼けした身体に纏っているのはごくシンプルなビキニだけ。すらりと伸びた手足。長い髪を後ろに束ねて、ボードの上に立っていた。手にしているパドルで沖の方へ出ると、ちょうど波ができるあたりで向きを変えて、その波に乗る。
波はごくちいさなものだが、とてもスムーズに乗り、浜の手前でまた方向を変えると、沖へと向かう。
海水浴客で賑わっている海岸なのに彼女だけが輝いて見えた。ざわめきも喚声もぼくの耳には届かない。
ただ波の音とそしてその波に乗るビキニ姿の彼女だけ。
「拓海、あの娘、めちゃ可愛くない?」
カジ──梶山隆宏──がぼくのとなりでぼそっと呟いた。
●第二章
ダッド……。
本堂に安置された祭壇の上に遺影があった。
喪服姿の母はこれを見て怒ったようにいった。
「カメラマンのくせにどうして自分の写真をきちんと撮っておかなかったの……」
引き伸ばされた写真はまるで借りてきたもののようにぼんやりとしていた。一昨日の朝、森戸海岸で一緒に海を眺めていたときの顔とは確かに別人だ。
──ダッド、どうして逝っちゃったの?
「一枚ぐらい残しておいてくれてもよかったのに……」
今度は淋しそうにいった。
「紺屋の白袴」
わたしは母の手をそっと握っていった。
「夏海、よくそんな言葉知ってるわね」
母は呟くようにいった。
「ダッドが、英語を話せればいいって思ってちゃだめだよ。日本語をきちんと勉強しておきなさいって、よくいってたから」
わたしはぼんやりと写っている遺影を見ながら答えた。
「そういう人だったわ」
母は納得したように頷いた。
● 第三章
いつの間にか夏休みもあと二週間になっていた。まだ宿題はほとんど手つかずのまま。まぁ、いつものことだからなんとかなるんだろう。
相変わらず午前中は部活。そしてそれを終えると、こうして渚橋のコンビニでサンドウィッチを買って、海岸に戻ると座り込んでそれを食べ、それから自宅に帰る毎日。
ぼくのとなりにはいつものようにカジが座っていた。
「なぁ、今年は早くないか? もうおでん売ってるんだぜ」
カジはおでんを入れた容器を手にいった。
「確かに早いかも。って、夏によくおでんが食べられるな」
ぼくはすこしだけあきれたようにいった。
「だって、コンビニのおでん好きなんだもの」
そういいながらカジはこんにゃくを口に放り込んだ。
「熱っ」
「慌てて食べるからだよ」
ぼくは首を振りながらいった。
「でへへへっ。でもこの熱いところがいいんじゃん」
カジは懲りた様子もなく頷いてみせた。
お盆を過ぎた海岸。海水浴客もだいぶ減ってきていた。海にはクラゲがうじゃうじゃいるはずだ。ときおり波の荒い日もあるし、そういう意味ではシーズンは終わりかけているといってもいいだろう。
よく考えたら、今年はまだ海で遊んでいなかった。いつもなら友だちと連れだって二三日は海で遊んでいたのに。
今年は部活一色のような気がする。
サンドウィッチを食べ終えると、ぼくはペットボトルのアイスティーを飲み干した。コンビニの袋を丸める。
そのときふいに肩をやさしく叩かれた。
●第四章
Tシャツにカットオフしたジーンズ、それにビーチサンダル。水着やタオルを入れたバッグを肩に担ぐ。
「たまには女の娘らしい格好したら」
母が出かけようとしているわたしに声をかけた。そういう母もTシャツにジーンス姿。同じような格好している。
「マムもね。たまにはひらひらのスカートでも穿いたら」
そういってわたしは家を出た。
坂を下りバス通りに出ると、通り沿いを逗子に向かって歩く。ちょっとだけ距離はあるけど、バスに乗るほどでもない。葉山マリーナを過ぎて鐙摺あたりまでいくと、もう逗子のエリアだ。
渚橋の交差点を渡ってから左に折れる。国道沿いの歩道を少し歩いて、東浜へと降りていく地下道をちょっと過ぎたところにSUPのスクールがある。
「Oceans SUP Club」
ちょっと奥まった一軒家の一階がクラブハウスになっていた。
ガラス戸を開けると中にはインストラクターのショウさんがいた。──松木彰太。もともとはサーフィン雑誌の編集長をしていた人だ。父ともよく一緒に仕事をしていた。
ハワイにもよく取材に来ていて、わたしがちいさな頃から海のことをいろいろと教えてくれたひとりでもあった。
「今日は昼から?」
ショウさんが笑顔で訊いてきた。
「うん、知り合いが今日、SUPやりたいっていうから頼もうと思って」
●第五章
部活が終わるとぼくはピッチ脇のベンチに腰を下ろして、ボトルに入っていたアクエリアスを一気に飲み干した。
汗でべとべとになった練習着を脱いで、上半身裸になった。
昨日、海で遊んだせいで日焼けして真っ赤になっていた。それまで焼けていたところとまだらになっている。
なんだかみっともない。
つい、綺麗に焼けた夏海と比べてしまう。
しばらくそうやってぼうっとしていると、カジが近づいてきた。
「よう、お疲れ」
カジはそういって隣に座った。
「きつかったわ、今日は」
カジはそういって、ボトルに口をつけた。
「たっぷり走ったからなぁ」
ぼくはカジの顔を見た。
「でもお前、真ん中にいるんだからそこまで走ってないだろ」
そういいながらカジはぼくに肩をぶつけてきた。
「サイドバックだけがきつい訳じゃないぜ」
ぼくもそう答えてカジに肩をぶつけた。
「なあ、昨日なんともなかったか?」
カジがぼそっと口を開いた。
「なんともなかったかって、どういうことだ?」
ぼくは首を傾げた。
「夜、久しぶりにりり子と逢ったんだよ。一週間ぶりに。で当然そうしたいわけじゃん」
カジはすこし照れたようにいった。
●第六章
八月もあと五日。
その日、わたしは午後いっぱいを小坪港の近く、大崎で過ごした。ちょっと気の早い颱風がフィリピン沖に発生してくれたお陰で、いい波が来ていた。
沖からのスウェルが大崎でとても綺麗な波になる。
ふだんは静かなこのあたりもサーファーやサッパーたちが集まって、ちょっとした賑わいをみせていた。
──明日はもっと大きな波ができるといいな。
何本か満足のいくライディングを楽しむと、わたしは森戸海岸までパドルを漕いで戻り、海岸においてあったドーリーにボードを乗せた。
バス通りを過ぎると上り坂が待っている。ボードを乗せたドーリーを引っ張りながら家まで戻った。
外から直接出入りできる物置部屋にボードとパドル、リーシュコードを片つけると、そのまま家の中へ上がる。
二階にあるバスルームでシャワーを浴びる。シャワーを浴びながら、浴室にある鏡に映る自分の裸身を見てみた。
日焼けした肌とビキニの跡を見較べる。
──そろそろ肌の手入れのこと考えたら?
ハワイの友だちにこの頃よくいわれるようになっていた。
──年頃なんだから。
でも、わたしはまだ海を楽しむ方を取りたい。確かにちょっと日焼けしすぎているかもしれないけど。
今度は日焼けしていないバストを軽く持ち上げてみる。
──ここはもうすこしボリュームが欲しいな。せめてマムぐらいは……。
●第七章
部活を終えると、いつものようにカジとふたりで東浜に腰を下ろして腹ごしらえをした。
もう八月も終わる。
それでも逗子の海岸はいつまでも夏のままのような賑わいをみせていた。陽射しも、海の輝きもまだまだ強烈なまま。まだしばらくは暑い日が続くだろう。
サンドウィッチを食べ終え、カジと浜で別れるとぼくはクラブハウスへと向かった。
国道をくぐり抜け、歩道を歩いて、すぐに右に折れる。その奥まったところにクラブハウスはある。
ガラス戸を開けると、いつもとは違って人が多かった。
「やぁ、拓海。こっちにおいでよ」
ベンチに座っていたショウさんが立ち上がって手招きした。
「はい」
ぼくは返事をするとベンチに向かった。
ショウさんの向かいには夏海が座っていた。
髪を後ろで束ねて、今日もラッシュガードを着ていた。その夏海を囲むように何人かの人たちが屯していた。
「彼?」
夏海のとなりにいた男の人が口を開いた。クラブハウスで何度か見かけた人だった。このクラブの常連の人らしい。
「そう、駿さんのお孫さん」
ショウさんがそういってぼくの顔を見た。
「あっ、河西拓海です」
ぼくはお辞儀をした。
「そうか、夏海ちゃんの甥っ子だね」
●第八章
次の日。
午前中は葉山の自宅にいた。来客があるから出かけないでほしいと母にいわれていたからだ。
Tシャツにカットオフしたジーンズを穿いて、ベッドルームを出た。そのまま二階へ下りると、キッチンへ向かった。
食事の用意を手早くする。クロワッサンにサラダ、そしてフルーツ。大きめのカップにたっぷりとカフェ・オレを注ぐ。
今朝はウッドデッキで朝食を摂ることにした。
朝陽を浴びてキラキラと輝く海を遠くに眺めながらの朝食もいいものだ。
海は昨日までと違ってフラットなものになっている。 しばらくはクルージングを楽しむことになるのかな。 のんびりと食事をすると部屋へ戻った。
机の上に置いてあるiPadを手に、ベッドに寝っ転がる。アプリを起ち上げて、YouTubeの画像を眺めた。もちろんサーフィンのムービーだ。お気に入りのものがいくつもあって、暇なときにはそれを眺めて過ごすことが多い。
画像を画面いっぱいに表示させると、プロサーファーたちのライディングを収めた映像を観ていく。ボトムターンやチューブライディングを観ながら、昨日のことを思い出していた。
ショウさんのライディングはいつもポイントを押さえた切れのあるものだった。テイクオフのタイミングや、ターンするときのパドルの使い方なんかを思い出してみる。
頭の中で自分のライディングと比べてみた。
──やっぱりまだヒヨッコかな。
●第九章
不貞寝。
きっとその言葉が一番正しい。
朝、部活を休むというとお袋の小言が続いた。いつもなら叱ったとしてもあっさりとしているはずなのに、今朝は長く続いた。
夏海のことが引っかかっているのかもしれない。
そうじゃないと何度いってもだめだった。
サーフィンが楽しくて、そしてちょっと無理をした。ボードから飛び降りたとき、思いの外浅くて左膝を捻ってしまった。
ただ、それだけだった。
昨日はなんともなかったのだ。
だからそのあとも波に乗り続けた。きっとそれがいけなかったんだろう。
捻った膝を知らず知らずのうちに庇って乗り続けた。それでついバランスを崩して何度も巻かれた。そうやってまた膝を捻ってしまった。
歩く分にはなんともない。でも、サッカーは走る。そしてボールを蹴る。膝は命といってもいいぐらい大切な場所だ。踏ん張るにしても、蹴るにしても、また瞬間的に動かすにしても要の部分。
──無理をするのが一番いけない。
学校に電話して先生に伝えたとき、そういって今日はゆっくり休むようにいってくれた。
なのにお袋は文句しかいわなかった。
●第十章
「マム、出かけてくる」
ワンピースを纏ったわたしはそう母にいうと玄関に向かった。
「どこいくの?」
階段を下りたところで母に尋ねられた。
「ちょっと逗子に。図書館でもいこうかなって」
「図書館?」
母は首を傾げた。
「うん、日本にいる間にちょっと本でも読んでおこうかと思って」
わたしはビーサンを穿きながら答えた。
「お昼、どうする?」
「てきとうに済ませるかも。もしかしたらショウさんのところに寄るかもしれないし」
わたしは水着なんかを詰めたバッグを抱えた。
「ねぇ、なに読むつもり?」
母が興味深げに訊いてきた。
「吾輩は猫である」
「え?」
「だから、夏目漱石」
わたしはそう答えると家を出た。
● 第十一章
九月。夏休みも終わった。
今日は始業式だけ。部活も休みだ。
ぼくは学校が終わると、ひとり新逗子の方へと向かった。市役所の横の道を抜けると、そのまま踏切を越え、清水橋を渡って図書館へ向かった。
もしかしたらじいちゃんの写真集があるかもしれない。
──逗子近郊に住んでたんだから、写真集、逗子の図書館にあるんじゃないの。
カジの考えだ。あいつはときどきとてもいいことをいう。
でも、あのツーショットだけは許せないけど。
ここの図書館に来るのははじめてだった。だいたいは学校で事足りるからだ。
一階を見て廻ったが雑誌と児童書のコーナーしかなかった。ぼくはそのまま階段で二階へ向かった。
ここには書架が並んでいた。
これなら見つかるかもしれない。
ぼくは期待に胸を膨らませながら書架を見て廻った。写真集のコーナーがあった。
そんなに多くはない。
でも、そこに貝津駿也のコーナーが作られていた。なるほど地元のカメラマンだからちゃんとあるんだ。
ぼくは納得して、その一冊に手を伸ばした。
最初の写真集。『Oceans』。
それを手に空いているソファを探していると、意外な人がそこにいることに気がついた。
本を読み耽っていた。
● 第十二章
拓海が階段をゆっくりと登ってリビングに姿を現したのは一時間ほど経ってからだった。
様子を伺うようにしてやってきた。
「ゆっくりと見られた?」
ソファに座っていたわたしは立ち上がると訊いた。
「ああ、ありがとう」
拓海はそういうと頷いた。
「もうお昼だけど、どうする?」
「どうするって?」
拓海は首を傾げた。
「わたしはいまからお昼の用意をして食べるつもりなの。拓海は?」
わたしはそういいながらキッチンへと歩いていった。
「お昼か……」
拓海はソファの近くで立ったままひとりごちた。なにか考えあぐねているようだった。
「ひとり分もふたり分も手間は同じなの。でも、二回作るのは面倒なの。わかる?」
わたしは振り返り、拓海の顔を見ていった。
「いいのか?」
すこしだけ不安そうな顔をして拓海が訊いた。
「遠慮はいらないわよ」
わたしは笑顔で返した。
「じゃ、食べていくよ」
●第十三章
ボードを積んだドーリーをぼくが運ぶ。
ラッシュを着た夏海はパドルとリーシュを持っている。
彼女の家を出て坂道を下り、バス通りを超えて細い道を抜けると森戸海岸に出た。
子どもの頃、一度、ここで遊んだ記憶がある。
ドーリーを砂浜に駐めるとボードを降ろして海へ出た。葉山マリーナを右手に見ながら、まっすぐ大崎を目指す。
ブーツを履いてボードに乗るのははじめてだった。ちょっと足の位置が気になる。けれどボード自体はショウさんから譲り受けたものと同じサイズだった。スタボのConverse、ナインだ。
「ねぇ、そのボードはどう?」
葉山の灯台をすぎたあたりで夏海が訊いてきた。
「うん、いつもと同じだよ」
ぼくは夏海の顔を見て頷いた。
「ダッドが使っていた同じモデルだからね」
夏海は納得したように頷いた。
大崎まで、逗子海岸からいくのと同じぐらいの距離だった。近づいていくと、だんだん波の様子がわかってきた。確かに大きな波ではなかったけど、いまのぼくにはちょうどいいサイズだろう。
波ができるポイントのちょっと手前のところで夏海はパドルを漕ぐのを止めるとぼくに話しかけてきた。
「大崎でサーフしたことはある?」
ぼくはただ首を横に振った。
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