夏海と拓海 2
ダッド……。
本堂に安置された祭壇の上に遺影があった。
喪服姿の母はこれを見て怒ったようにいった。
「カメラマンのくせにどうして自分の写真をきちんと撮っておかなかったの……」
引き伸ばされた写真はまるで借りてきたもののようにぼんやりとしていた。一昨日の朝、森戸海岸で一緒に海を眺めていたときの顔とは確かに別人だ。
──ダッド、どうして逝っちゃったの?
「一枚ぐらい残しておいてくれてもよかったのに……」
今度は淋しそうにいった。
「紺屋の白袴」
わたしは母の手をそっと握っていった。
「夏海、よくそんな言葉知ってるわね」
母は呟くようにいった。
「ダッドが、英語を話せればいいって思ってちゃだめだよ。日本語をきちんと勉強しておきなさいって、よくいってたから」
わたしはぼんやりと写っている遺影を見ながら答えた。
「そういう人だったわ」
母は納得したように頷いた。
明かり取りに暮れていく夕陽が当たっている。
父が倒れたと聞いたのが一昨日の夜。それからめまぐるしく時は過ぎ、今日の午後になってようやく落ち着いた。
精神的にも肉体的にも一番疲れてるはずの母は、ときおり淋しげな表情はするものの、しかし淡々とやるべきことをこなしていた。
そしてこれから身内だけでの通夜が始まる。
身内といってもその人数はごく限られている。わたしたち母娘に、長女の家族、それに長男の家族と次男。それに、元の妻。
わたしたちはハワイにいることが多いから、この人たちと会うことはほとんどなかった。
「亜弓さん……」
祭壇の前で座っていたわたしたちのところへ長女の河西沙也香がやってきた。そういういい方をするのであればわたしの姉ということになる。母とは同い歳だ。
「沙也香さん、この前は病院に駆けつけてくれてありがとう」
母は沙也香さんに向かって手をついてお辞儀をした。わたしも一緒に頭を下げた。
「いいのよ、娘なんだから当然。でも、突然すぎるわよね、こんなの」
沙也香さんも会釈をしながらいった。
「ほんとう、あまりにも急なことで……」
母はまた遺影を見つめた。
「お父さん、昔から突然なにかをしはじめたりって、よくしてたけど、こういう突然は嬉しくないわ」
沙也香さんも祭壇に向かってつぶやくようにいった。
「亜弓さん、この度はどうも」
沙也香さんの横に、ご主人の結人さんが座った。すぐうしろには息子の拓海がいる。
「こちらこそ、いろいろとお気遣いいただき、ありがとうございました」
母はお辞儀をした。
「心臓だって?」
結人さんがそっと訊いた。
「ええ、出版社で打合せ中に。救急車を手配してくれて、その場で心臓マッサージもしてもらったようだったけど、そのまま……」
母はそういって淋しげに微笑んだ。
やがて読経がはじまった。
本堂に低く太い僧侶の声が響く。
わたしはじっと座ったまま、ダッドの写真を見ていた。
カメラを構える彼の姿が好きだった。ファインダーを覗いているときの真剣な横顔が特に好きだった。写真を見つめていると、彼のいろいろな表情が甦ってきて胸がいっぱいになってしまった。
ふっと気になって母の顔を見る。
母はぼんやりと遺影を見ていた。
焼香が終わると、別室で通夜振る舞いになった。
家族が集まりテーブルを囲む。末席には別れた前の奥さんもいる。こういう集まりははじめてだ。なんだかぎこちない空気を感じた。
それでもアルコールが入ったからか、みんなは父の思い出話をいろいろとしていた。母はそんな人たちの相手をこなしていた。
ダッドのエピソード。わたしの知らない話がいっぱいあった。孫がいる歳だったからあたり前といえばあたり前だ。わたしが彼と一緒にいたのは、その人生の五分の一とちょっと。もっと一緒にいろいろなことを楽しみたかったのに、もういない。
しばらく話を聞いていたわたしは、席を離れると本堂に戻った。
祭壇の前に座り、線香に火を点けると供えて、改めてダッドの遺影を見た。
──ピントの甘い写真になっちゃったのは、ダッドのせいなんだからね。マムもいってたけど、きちんと自分の写真を撮っておけばよかったのに。海ばっかり撮ってるんだから。
なんだか答えが返ってくるような気がしてそんなことを心の中で呟いてみた。
けれど本堂は静まりかえったまま。ときおり別室から声が聞こえてくるだけだった。
人の気配がして振り返ってみると、そこに女の子が立っていた。長男、芳博さんの娘だった。
「菜々美ちゃんだっけ?」
「うん」
彼女は大きく頷いた。手にプリキュアの人形をもっている。
「あ、そのプリキュアおねえちゃんに見せてくれる?」
そう問いかけると彼女は大きく頷いた。
「叔母さんだろ?」
拓海だった。
「おねえさんでいいでしょ?」
笑顔を作ると言い返してみた。
「だってぼくや菜々美は孫だけど、お前は娘だろ? だったら叔母さんじゃん」
拓海は立ったまま答えた。
「おばさんなの?」
プリキュアを手にした菜々美ちゃんがわたしのところまで来て訊いた。
「おねえさんでいいよ。だって十六だもの。シックスティーンなの。おねえさんでしょ」
「うん」
菜々美ちゃんは頷くと、手にしていた人形を見せてくれた。
「勝手にすればいいよ」
そんなふたりを見ながら拓海はひとりごちると、また別室へ戻っていった。
「変なの」
わたしは思わず呟いた。
初七日が終わった翌日の朝。
階下から聞こえてくる物音で目が醒めた。枕元のiPhoneで確かめたら、五時をすぎたところだった。
短めにカットオフしたジーンズを穿き、Tシャツを着ると部屋を出た。わたしの部屋は三階にある。二階はリビングとダイニング、一階には父の仕事部屋と客間があった。
階段を一階まで駆け下りると、玄関横にある物置部屋へいってみた。母がSUPのボードをドーリーにセットしていた。
「どうしたの?」
「あら、夏海。早いわね」
手を休めずに母はいった。
「もう五時だから、あまり早くはないわよ。もしかして海?」
わたしは欠伸混じりに訊いた。
「ちょっとやりたいことがあってね」
ドーリーにボードをセットし終わると、わたしの顔を見て答えた。
「海ならわたしも付き合う」
「じゃ、着替えてらっしゃい。ボードは載せておくから」
母は笑顔でいった。
「わかった」
わたしは部屋に戻ると水着に着替えた。その上から長めのTシャツを被る。
一階に戻るとすでにボードのセットは終わっていた。「夏海、パドルとリーシュお願いできる?」
母はそういってわたしにパドルとリーシュコードを差しだした。
「いいよ、わたしがボード運ぶ」
「じゃ、お願い。いこうか」
母は頷くと物置部屋からそのまま外へ出た。
坂道をゆっくりと下りながら海へと向かう。バス通りを超えて細い道を抜けると森戸海岸だ。
海岸に着くとわたしはボードをドーリーから降ろした。母がそれぞれのボードにリーシュコードをセットしていく。
準備が終わるとTシャツを脱いで水着姿になった。手足を動かして、軽く準備体操をすると、ビーチサンダルも脱いで裸足になる。
母も水着姿になり、身体を動かしながらほぐしていた。
わたしはレインボーカラーのビキニ、母は白のビキニだった。ふたりとも海に出てばかりいるから肌はすっかり日焼けしている。
リーシュを足につけてボードを波打ち際に浮かべるとそのまま立ってパドルを漕いでいく。
「マム、どこまでいくの?」
並んでパドルを漕いでいる母に訊いた。
「とりあえず名島の先かな」
防水の小さめのバッグを背負っている母が答えた。
「ねぇ、そのバッグになにが入ってるの?」
「ドリンクのペットボトルと、あとは内緒」
母はそういうとにっこりと微笑んだ。
昇りはじめた陽射しが気持ちいい。海はとても穏やかで風もほとんどなかった。クルージングにはぴったりのコンディション。
母はのんびりと景色を楽しむようにパドルしている。わたしもそのペースに合わせてパドルを漕ぐ。
「マム、こうしてふたりで海へ出るのって久しぶりじゃない?」
母の顔を見ていった。
「そうだったかしら?」
母もわたしの顔を見て答える。
「そうよ。でもマムのビキニ姿、なかなかいかしてるわ。とても十六歳の娘がいるとは思えないわよ」
そういってわたしはウインクした。
「母親をからかわないの」
母はそういって微笑んだ。
やがて名島が大きく見えてきた。赤い鳥居も見える。
陽射しが少しずつ強くなってきたせいか、パドルを漕いでいると汗が流れてくるようになってきた。
「ねぇ、夏海。喉渇かない?」
母がパドルを持つ手を休めて訊いてきた。
「喉は平気だけど、ちょっと暑くなってきちゃった」
わたしは額の汗を拭いながら答えた。
「確かにそうね。名島を超えたところでひと休みしようか?」
名島を過ぎてからしばらくいったところで母はパドルを漕ぐのを止めた。パドルを右手に持つと、そのまま跨るようにボードに座った。
わたしも同じようにボードの上に座った。両足はそのまま海に浸からせる。じっとりとかきはじめた汗がゆっくりと乾いていく。
「夏海、はい」
すぐ横にいた母が背負っていたバッグからペットボトルを取り出すと渡してくれた。スパークリングウォーターのボトルだった。
キャップを捻ると、ふた口ほど一気に飲んだ。炭酸が喉をくすぐる。美味しかった。
「ねぇ、このあたりまでくるとなんだか海の真ん中に近づいたような気がしない?」
パドルをボードの上に乗せて休んでいた母がいった。そういいながら彼女も同じようにペットボトルに口をつけた。
正面には由比ヶ浜が見えた。左手には江の島が浮かんでいる。右は逗子マリーナと大崎。後ろを振り向くと、葉山の赤い灯台と葉山マリーナ、そして名島。奥には森戸海岸が見える。
太平洋の真ん中というわけにはいかないけど、確かに母がいうように、海の真ん中に浮かんでいる気がした。
「真ん中か」
そういってわたしは空を見上げた。真っ青な空の端の方に、真っ白な雲が湧きはじめていた。今日も暑い一日になりそうだった。
「よく彼とここに来たの。SUPはじめるようになってクルージングするときはいつもこのあたりまで漕いできて、そしてまわりの景色を眺めながらいろいろな話をしたわ……」
「うん……」
わたしはただ頷いた。
母はふいに黙りこくると、パドルを漕いで向こうを向いた。
「どうしたの?」
「このままでいさせて」
わたしが訊くと母は答えた。
よく見ると母の肩が小刻みに揺れていた。
──きっと泣いているんだ。
わたしはなにもいえなくなり、母の背中をただ見つめていた。
父が倒れてから今日まで涙ひとつ見せることなく応対をしてきた母。強い人だと思っていたけど、ただ強がっていただけだったのかもしれない。やさしい女だもの。
バッグをボードの上に置くと、ふいに母は足から海に飛び込んだ。
「気持ちいい」
ボードに両手を乗せて海から顔を出すと、わたしの方を見ていった。
「ずるい、わたしも」
そういってわたしも海に飛び込んだ。水はすこしだけ冷たかったけど、汗をかいていた身体には心地よかった。
わたしもボードに両手を預けると顔を出した。
「さてと」
母はそういうとボードの上に座り直した。
バッグからガラス瓶を取りだして蓋を開ける。
瓶を両手に持つとそのままボードの上に立った。ガラス瓶を傾ける。中に入っていたものがときおり吹く風に流されて飛んでいく。やや灰色がかった粉状のものだった。
「マム、それって?」
わたしもボードの上に立つと訊いた。
「そうよ、彼の遺骨」
母はにっこり笑うと、また瓶を傾けて散骨をはじめた。さらさらと零れていく焼骨が海に溶けていく。
「マム、わたしも」
そういってわたしは手を差しだした。
「じゃ、あとお願い」
母はそういうとガラス瓶を渡してくれた。
わたしは受け取ったガラス瓶を胸のあたりで両手で持つと、目を瞑ってダッドの笑顔を想い浮かべた。
わたしたちと同じように日焼けした父の笑顔。もっともっとこうやって一緒に海を楽しみたかった。
そっと目を開けると、わたしはガラス瓶を掲げるように差し上げて傾けた。
さらさらと零れていく音が聞こえる。父の囁きのようだった。
ガラス瓶を空にすると母の顔を見た。
母は納得したように大きく頷いた。
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