夏海と拓海

夏海と拓海 6

 八月もあと五日。
 その日、わたしは午後いっぱいを小坪港の近く、大崎で過ごした。ちょっと気の早い颱風がフィリピン沖に発生してくれたお陰で、いい波が来ていた。
 沖からのスウェルが大崎でとても綺麗な波になる。
 ふだんは静かなこのあたりもサーファーやサッパーたちが集まって、ちょっとした賑わいをみせていた。
──明日はもっと大きな波ができるといいな。
 何本か満足のいくライディングを楽しむと、わたしは森戸海岸までパドルを漕いで戻り、海岸においてあったドーリーにボードを乗せた。
 バス通りを過ぎると上り坂が待っている。ボードを乗せたドーリーを引っ張りながら家まで戻った。
 外から直接出入りできる物置部屋にボードとパドル、リーシュコードを片つけると、そのまま家の中へ上がる。
 二階にあるバスルームでシャワーを浴びる。シャワーを浴びながら、浴室にある鏡に映る自分の裸身を見てみた。
 日焼けした肌とビキニの跡を見較べる。
──そろそろ肌の手入れのこと考えたら?
 ハワイの友だちにこの頃よくいわれるようになっていた。
──年頃なんだから。
 でも、わたしはまだ海を楽しむ方を取りたい。確かにちょっと日焼けしすぎているかもしれないけど。
 今度は日焼けしていないバストを軽く持ち上げてみる。
──ここはもうすこしボリュームが欲しいな。せめてマムぐらいは……。
 そう考えてじっと鏡を見てみる。
 なんだかそこに写っている自分が癪に思えて、思わずベロを出してみた。
 シャワーを終えると、バスタオルを身体に巻いて、三階の自分の部屋へいった。
 ドライヤーで髪を乾かす。
 そういえば、もうずいぶん髪をカットしていない。そのせいですっかり色も落ちて、ほとんど真っ黒に戻っていた。黒髪も好きだけど、たまにはちょっとカラーリングを楽しみたい。
──今度、逗子のどこかでカットしてこようかな。
 ドライヤーを終えると下着を着けて、タンクトップを頭から被る。いつものカットオフしたジーンズにしようかと思ったけど、今日は気分を変えてスカートを穿くことにした。
 長めの巻きスカートを着てみた。
 紺色のタンクトップに絞り染めのロングスカート。姿見で確認してわたしは頷いた。
 そのとき、母の呼ぶ声が聞こえた。
 部屋のドアを開けて、返事をすると二階へと下りた。
「ああ、夏海。今日はウッドデッキで食事しない?」
 わたしの姿を見て、台所で料理をしていた母がいった。
「いいね、そうしよう。今夜はなに?」
 わたしはそう答えると調理している母の後ろからのぞき込んだ。
「今夜はカレー」
 母は振り返ると答えた。
「わぉ、マムのカレー好きなんだ。それも日本にいるときのカレーが」
 わたしはそういうとスキップをしながら窓へと近づいた。
 ダイニングの前の窓を大きく開ける。そこにはウッドデッキが設えてあり、食事をするための机とベンチがおいてある。
 もう半分ほど沈みかけた太陽がそのデッキスペースから見える。海が赤く染まったままキラキラと輝いていた。向こうには江の島と、それからさらにその奥に山並みが見える。ひときわ高いシルエットは富士山だ。
 この眺望を楽しむためにダッドはこの家にウッドデッキを設えたんだそうだ。
 確かにすばらしい眺めだった。
「夏海」
 母の声に振り返ると、食事の用意をしているところだった。
 わたしも手伝って、用意を終える。
 向かい合うようにしてベンチに座る。
「ちょっと飲んでもいいかしら」
 母はそういうとビールのキャップを開けた。プリモ──ハワイのビールだ。ダッドはいつも瓶のキャップを開けるとそのまま口をつけて飲んでいた。
 母はグラスに注ぐと、グラスごと持ち上げてわたしに乾杯の仕草をして口をつけた。
「美味しい」
 ひと口飲むと、ほっとした笑顔でいった。
「夏海も飲む?」
 母は冗談ぽくいった。
「何歳だと思ってるの?」
 わたしは肩をすくめて答えた。
「まだ付き合ってもらうには早いか」
 母は笑顔で頷いた。
「どうしたの、今日は? ここで食べるの珍しくない?」
 わたしはサラダを口にしながら尋ねた。
「ちょっと気分変えたくてね。夏海こそどうしたの? スカートなんか穿いて、女の娘みたいよ」
 母はグラスにビールを注ぎながらいった。
「なんだかショウさんと同じようなこといってる。たまには女の娘らしい格好したらっていったのマムだよ」
 フォークを口にしたままわたしはいった。 
「そうだった?」
 母もサラダを食べながらいった。
「そういうマムこそ、いつもTシャツにジーンズのミニスカート」
 わたしはサラダを食べ終えるといった。
「だって仕事しているときはスーツ着たりするじゃない。だから家にいるときはこのかっこうがいいのよ、なんだかホッとして」
 母はまたグラスに口をつけた。
「そんなものなのかな。あっ、美味しい」
 わたしはカレーをひと口食べていった。
「ありがとう、美味しいっていってくれるのが一番なのよ」
 母は嬉しそうに微笑んだ。
「だって理屈抜きに美味しい」
 わたしはカレーを口に運んだ。
「美味しいって、彼もよく嬉しそうに頷いてくれたわ」
 そういうと母はなにかを思い出すように頬杖をついた。
「なんでハワイで作るのと、日本で作るのと味が違うんだろう?」
「どうしてもね、ハワイで手に入らないルーがあるの。だから味がちょっとだけ違うのよ」
 母はそういうとグラスを空けた。
「そうなんだ」
 わたしは頷きながらカレーを食べる。
「もう一本、飲んじゃおうかな」
 母はそういうとキッチンに戻り、冷蔵庫からプリモを持ってくると、またグラスに注いだ。
「呑兵衛だね」
 そういってわたしは母の顔を見た。
「たまにはね」
 母は軽くウインクをしてグラスに口をつけた。
「ねぇ、お代わりしていい?」
 わたしはそういうとカレー皿を手にキッチンに戻り、ご飯をよそってカレーをかけた。そのままウッドデッキに戻るとテーブルに皿を置いて、座り直した。
「今日はなにしてたの?」
 サラダを食べ終え、カレーを口にしながら母が訊いてきた。
「スウェルが入りはじめたので大崎でサーフィン。明日はもっといい波になるかもしれない。マムもいく?」
 わたしはカレーを食べながら訊いた。
「サーフィンか」
 そういって母はしばらくなにかを考えていた。
「だめ、明日、用事があるのよ。出版社にいって写真集の打ち合わせしなきゃいけないんだった」
 母は首を振った。
「写真集って、ダッドの?」
 わたしはお代わりしたカレーを食べ終えると訊いた。
「そう、彼の遺作……」
 母はちょっと寂しそうに微笑んだ。
 じっとグラスを見つめると、また口をつけた。
「ねぇ、マム。どうして知り合ったの?」
 わたしは食べ終えた皿を横にどけると、手を組み、その上に顎を乗せるようにして母を見つめて訊いた。
「話してなかったっけ?」
 グラスを手にしたまま母はいった。
「仕事で知り合ったとしか聞いてない」
 わたしは頷いた。
「仕事で……、そう仕事で知り合ったのよ。わたしはウインドサーフィンのインストラクターをやっていて、それで彼と出逢ったの」
 母はそういってまたグラスに口をつけた。
「ちょうど海の写真を撮りはじめた頃ね。それまでの広告の仕事ではなく、自然を相手に写真を撮りたいって。海だけじゃなくて、サーファーたち、マリンスポーツを楽しんでいる人たちも撮りたいから紹介してほしいと、わたしが働いているクラブに来たの」
 母はそういうとなにか懐かしむように遠くを見た。
「それで?」
 わたしは組んだ手の上に顎を乗せたまま尋ねた。
「いろいろな人たちの写真を撮っているうちに、君も撮らせてくれないかっていわれて、モデルになったの。湘南のいろいろな海岸でウインドやったり、サーフィンしたり。ひと月ほどだったかな。写真を撮ってもらった」
 母はそういうとグラスを持ったまま立ち上がった。ウッドデッキの端まで歩いて、柵の上にグラスを乗せると、大きく伸びをした。
「いい夜ね」
 わたしも立ち上がると母の隣まで歩いていった。
「それで、どうしたの?」
 わたしは訊いた。
「撮影が終わった次の日かな、お礼に食事に付き合ってといわれたの」
「やった、デートじゃない」
 わたしがそういうと、母はちょっと照れたように笑った。
「そうなるのかな。食事して、それから別の店でお酒を飲んで、いろいろな話をして。それで家まで送ってもらって……」
 母はそこまでいうとグラスを一気に飲み干した。
「ねぇ、それで?」
 母はわたしの顔をまじまじと見つめると、ぼそっと口を開いた。
「いやだ、もう。照れるじゃない。そこまでいわせる気?」
「マム、照れてる。かわいい」
 わたしは母に抱きついた。

 翌日、五時に起きると軽い食事を摂り、わたしはすぐに海に出た。
 パドルを漕いで森戸海岸から大崎へと向かう。波の様子を伺いながらパドルを漕いだけど、どうやらサイズダウンしてしまったようだ。
 昨日の方がいい波が来ていた。
 それでも大崎に着くと、よく顔を見るサーファーやサッパーたちがいた。
 腰ぐらいのサイズの波。
 タイミングを合わせる練習にはちょうどいいかもしれない。
 セットでやってくる波を確認しながらボードの上で待つ。ふたつやり過ごしたあと、ターンをしてパドルを漕ぐとスピードを乗せて、やってくる波に合わせる。
 ボードのノーズがぐっと沈む。波を捉えた瞬間。
 それまで揃えていた右足を後ろに引いて、腰をすこし落とす。
 ボードが走りだす。
 このとき世界の音が一瞬だけ消えてなくなる。
 感じることができるのはわたしの鼓動と波だけ。
 後ろからやってくる波がボードに当たる音がしたあと、わたしはまるで飛んでいくように波とともに滑っていく。
 ほんの僅かな時間のはずなのに、とても長く感じるこの瞬間。
 海の存在をとても大きく感じる。ここにあるのは自然だけだ。海と波。ほかにはなにもない。
 すぐに崖が迫ってくる。
 わたしはパドルを使ってブレーキを掛けると、波からプルアウトした。
 わたしを運んでくれた波がそのまま崖にぶつかり、砕け散っていく。
 わたしはターンをすると、大回りをして、また波を待つ位置まで戻る。
 次のセットがやってくるのを待っていると、近づいてくる人がいた。パドルを漕ぎなから声をかけてくる。
「夏海ちゃん、どう?」
 ショウさんだった。
「ちょっとサイズがね。昨日の方がよかった」
 わたしはそういって首を振った。
「今日まで残ってくれると思ってたんだけどなぁ」
 ショウさんも残念そうに沖の方を見た。
「今日はこれから?」
「そう、スクールがあるからそれまでの時間ちょっと遊ぼうかと思ったんだけどね」
 そういってショウさんは頷いた。
「午後、クラブハウスにいくよ」
「待ってるよ。そうだ拓海がくるかもしれない」
 ショウさんがいった。
「拓海が?」
 わたしは思わず訊き返した。
「うん、部活が終わるとね、毎日のようにボードに乗ってる」
 ショウさんはそういうなり、ターンをはじめた。
「これ、もらうよ」
 そういってショウさんはそのまま波に乗っていった。
 すこし大きめのサイズの波だった。
 腰を屈めて波を捉えると、細かなターンを繰り返しながら乗っていく。綺麗なライディングだった。
──さすがショウさん。
 わたしは思わず心の中で拍手した。
 すぐに次のセットがやってきた。
 わたしもまたターンをして、波を捉えた。
 ボードのノーズが沈む。すぐにボードが走りだす。
 世界の音が一瞬だけ消えていく。
 この瞬間がたまらなく好きだ。

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