夏海と拓海

夏海と拓海 4

 Tシャツにカットオフしたジーンズ、それにビーチサンダル。水着やタオルを入れたバッグを肩に担ぐ。
「たまには女の娘らしい格好したら」
 母が出かけようとしているわたしに声をかけた。そういう母もTシャツにジーンス姿。同じような格好している。
「マムもね。たまにはひらひらのスカートでも穿いたら」
 そういってわたしは家を出た。
 坂を下りバス通りに出ると、通り沿いを逗子に向かって歩く。ちょっとだけ距離はあるけど、バスに乗るほどでもない。葉山マリーナを過ぎて鐙摺あたりまでいくと、もう逗子のエリアだ。
 渚橋の交差点を渡ってから左に折れる。国道沿いの歩道を少し歩いて、東浜へと降りていく地下道をちょっと過ぎたところにSUPのスクールがある。
「Oceans SUP Club」
 ちょっと奥まった一軒家の一階がクラブハウスになっていた。
 ガラス戸を開けると中にはインストラクターのショウさんがいた。──松木彰太。もともとはサーフィン雑誌の編集長をしていた人だ。父ともよく一緒に仕事をしていた。
 ハワイにもよく取材に来ていて、わたしがちいさな頃から海のことをいろいろと教えてくれたひとりでもあった。
「今日は昼から?」
 ショウさんが笑顔で訊いてきた。
「うん、知り合いが今日、SUPやりたいっていうから頼もうと思って」
 クラブハウスは入ると左手に受付のカウンターがあり、右手には大きめの机とベンチが置いてある。そのベンチから立ち上がるとショウさんは受付のカウンターの方へと向かった。
「友だち?」
 カウンターの中からロッカーの鍵を取り出しながらショウさんが尋ねてきた。
「知り合い」
 わたしは右手を差しだしてロッカーの鍵を受け取りながら答えた。
「男の子?」
 ショウさんがいたずらっぽい笑顔で訊いた。
「まあね」
 わたしはそのまま机の奥の方にあるロッカーに向かいながら答えた。
「彼氏?」
 ショウさんがわたしの背中に声をかけた。
「だから、知り合い」
 わたしは振り向くとショウさんの顔を見て首を振った。
「そうなんだ。夏海ちゃん女性用のシャワールームは右側だからね」
「知ってるって。いつまでも子ども扱いしないでよ」
 わたしはそういってベロを出した。
「だったら、さっさとボーイフレンドでも作りな」
 ショウさんは笑いながらいった。
 ロッカーに貴重品を入れて鍵を掛けると、またカウンターの方へと戻り、ショウさんに鍵を返した。
「ちょっと迎えにいってくる」
 そういってショウさんにバッグを預けると、わたしはクラブハウスを出た。
 国道沿いの歩道を戻り、東浜へ抜ける地下道をくぐって、浜へ出た。
 昨日、ふたりがいたあたりを探してみた。ふたりは立ったままなにか話をしていた。そのまま近づいて声をかける。
「待った?」
「夏海さん、こんにちは」
 カジ君がすぐに返事してくれた。
「こんにちは」
 わたしも笑顔で返した。
「どうすればいいの?」
 拓海が訊いてきた。
「国道の向こうにクラブハウスがあるんだ。そこで乗り方も教えてもらえるから」
 そういってわたしはまた地下道へと歩き出した。
「なんていうところなんですか?」
 カジ君がわたしの後ろを歩きながら訊いてきた。
「Oceans SUP Club。みんなオーシャンズっていってる」
 わたしは歩きながら答えた。
「道具なんかもそこで?」
 拓海もうしろから訊いてきた。
「そう」
 わたしは頷いた。
 国道沿いを歩いて、そのままクラブハウスに戻る。
 ガラス戸を開けて、ふたりを中に入れた。
「ショウさん」
 カウンターに座っていたショウさんに声をかけた。
「夏海ちゃん、この子たち?」
 ショウさんが笑顔で尋ねてきた。
「拓海君とカジ君」
 わたしは素っ気なく答えた。
「あっ、カジです。梶山隆宏。よろしくお願いします」
「河西拓海です」
 ふたりはそれぞれショウさんに挨拶をした。
「ぼくは松木彰太。よろしく。まずね、スポーツ保険なんかに入ってもらいたいので、この用紙に名前と住所を書いてくれるかな」
 そういってショウさんはふたりに書類を渡した。
 書類を受け取ったふたりはバッグをもったまま机のところまでいき、ベンチに隣同士で座ると、書類を書きはじめた。
「いい子たちじゃん。どういう関係?」
 ショウさんがふたり分のロッカーの鍵を取り出すと渡しながら訊いてきた。
「だからダッドの孫」
 わたしは腕組みをして答えた。
「どっちが?」
「拓海君」
 わたしはただ答えた。
「そうか、面影あるわ」
 ショウさんはそっといった。
 書類を書き終わったふたりにロッカーの鍵を渡すと、シャワールームの場所を教えて、わたしもバッグを持ってシャワールームに入った。
 服を脱いで水着に着替える。
 今日はブルーのシンプルなビキニ。
 その上からラッシュガードを着た。
 部屋へ戻るとすでにふたりはいなかった。
「ふたりは先に浜にいかせたから。夏海ちゃん、リーシュ頼めるかな。ぼくはパドル持っていくから」
 ショウさんは出かける用意をしながらいった。
「いいよ。ボードは?」
 わたしは頷きながらいった。
「浜に出ているやつ使うから大丈夫。そうか、夏海ちゃんはなにに乗る?」
「Bill Footeがいい」
 すぐに答えた。
「エイトツーでいいなら浜に出てる」
 ショウさんが大きく頷いた。
 ショウさんと一緒に浜へ出ると、水着姿のふたりが浜でふざけ合っていた。サッカー小僧というだけあって贅肉のない引き締まった身体をしていた。でも腕と足の一部を除いて真っ白だった。
 近づいていくとふたりが振り返りわたしたちを見た。
 ラッシュを来ているわたしを見て、ふたりの笑顔がすこしだけ冷めたものになった。
──やっぱり男の子だったんだな。
「それじゃ準備体操しようか」
 ショウさんがふたりに声をかけた。
「まず両手を合わせて人差し指を突き出すと、そのまま上に持っていって背伸びをしよう」
 三人が体操をしている間、わたしはボードの準備をする。
 浜にあるスクール用の大きめのボードにリーシュコードをセットした。それからわたしが乗るボードにもリーシュをセット。
 ショウさんが持ってきたパドルをそれぞれのボードのところに置いていく。
 今日もいい天気だ。じりじりと照りつける太陽がとても眩しい。その陽射しが碧い海に反射してキラキラと輝いている。
 わたしは両手を広げて大きく伸びをした。
 緩やかなオンショアの風が頬を撫でていく。
 体操を終えた三人がボードのところへやってきた。
「それじゃ、これからパドルの操作を教えるね」
 ショウさんがそういいながら、ふたりにパドルを渡した。
「先に海に出てるね」
 ショウさんが頷くのを確認してから、わたしはリーシュを足につけるとボードを持って海に出た。
 波打ち際にボードを浮かべるとそのまま上に立つ。
 パドルをゆっくりと漕いで波打ち際から離れる。
 逗子海岸はシーズンの間、海水浴エリアが設けられていて、ボードは入れないことになっている。
 そのエリアに入らないようにして、すこしだけ沖に出ると方向を変えて浜を見てみた。
 ふたりがちょうどボードに乗るところだった。
 リーシュをつけてボードの上に正座して、パドルを漕いで沖に出る。
 ショウさんは歩きながら海へ入り、ふたりに声をかけている。
「じゃ、そこで方向転換してみよう」
 座ったままのふたりはパドルを漕いでまた浜へ戻っていく。
 何度か往復して、今度はボードの上に立つ。
 ふたりともおっかなびっくりのようだった。ちょっとへっぴり腰になっている。
 はじめてボードに乗るときはだれでも同じだ。
 海の上に浮いているボードは意外に揺れる。はじめはちょっとしたことですぐにバランスを崩して落ちることになる。
 立って漕ぎはじめたふたりだったが、浜からちょっと離れたところで何度か落ちた。
 そうやって何度も落ちてやがて身体が勝手にバランスを取ってくれるようになる。自転車の乗りはじめと同じだ。
「それじゃ、沖へ出てみよう。まず葉山の赤い灯台が目標ね」
 そういってショウさんはふたりを送り出した。
 ふたりはすこしだけ慣れたようで、パドルを漕ぎながら沖へと出ていく。
 わたしもそんなふたりに近づいて、一緒に漕いでいく。
「どう? 慣れた?」
 わたしが声をかけるとカジ君がわたしの方を見た。
 わたしの方へ顔を向けた瞬間、バランスを崩して海へ落ちた。
「うわっぷ」
 カジ君がパドルを持ってボードにしがみつくと、藻掻くようにしてボードに上がった。
「けっこう難しいです」
 しゃがんだままカジ君が答えた。
「話しかけるなよ、気が散るから」
 拓海は前を見たままわたしに文句をいった。その気持ちはすこしだけ解る。
「まっすぐ前を見てるとバランスを取りやすいわ」
 わたしはカジ君にいった。
 カジ君はやっとのことでボードの上に立つと頷きながらパドルを漕ぎはじめた。
 はじめはぎこちない感じのふたりだったが、運動神経はいいんだろう、すぐに慣れたようでパドルの操作もスムーズになってきた。
「いい感じじゃない」
 うしろから追いかけてきたショウさんがふたりにいった。
「もうちょっといくと、左側に鐙摺の浜があるからそっちにいこう」
 ショウさんがいった。
「はい」
 前を向いたままのカジ君が答えた。
「お前、よく平気な顔して漕げるな」
 すぐ横にいるわたしの顔を見て拓海がいった。
 その瞬間、バランスを崩して拓海は海に落ちた。
「うわっぷ」
 ボードにしがみつくと、拓海はわたしを見上げた。
「でも、楽しい」
 そういうと拓海はボードに上がり、そのまま立った。
「筋はいいと思うよ、ふたりとも」
 わたしはそういって頷いた。
「そうですか」
 まだちょっとだけおっかなびっくりの感じでカジ君が答えた。
「お前は最初どうだったんだよ」
 拓海が訊いてきた。
「どうって、わたしは物心ついた頃からサーフィンやってたから、あまり考えたことないわ」
 わたしはパドルを漕ぎながら答えた。
「ショウさんはどうなんですか?」
 カジ君が尋ねた。
「ぼくもサーファーだったからなぁ。ボードの上に立つのは慣れてたし」
 ショウさんは笑顔で答えた。
「お前のおばさんは?」
 拓海が尋ねてきた。
「マム? 上手だよ。この前も一緒にクルージングしたし」
 わたしは頷いた。
「じいちゃんは?」
 今度は小声だった。
「ダッド? もちろん彼も上手だったわ。SUPわたしに教えてくれたの、ダッドだし」
 わたしは父のことを思い出しながら答えた。
「そうか」
 拓海はただ頷いた。
 鐙摺に着くと、湾の中で、またパドルの使い方をショウさんがふたりに教える。方向転換が主だ。ふたりはショウさんに教えられながら、ボードの上に立ったまま何度も方向転換の練習をした。
 パドルを半円状に漕ぐと大きく周りながら方向を変えることができる。もっと早く方向を変えたいときには、逆方向に漕ぐ。
「逆に漕ぐときは三回までね」
 ショウさんの口癖だ。慣れないときにリバースをやると方向が判らなくなることがあるらしい。
 最後にブレーキを教わっている。
 パドルを漕いでスピードを出しておいて、パドルをそのまま海の中に入れるとブレーキがかかる。
 小一時間ほど鐙摺で遊んで、浜へ戻ることになった。
 ふたりともかなり慣れたようで、顔を見ながら話しをしている。
「お前の乗ってるボードってどんな感じなの?」
 鐙摺を離れてしばらくしたところで拓海が訊いてきた。
「これ軽いよ。どちらかというと波乗り用だから」
 わたしは頷いて答えた。
「長さとか、幅とか関係あるの?」
 拓海が興味深げに尋ねてきた。
「安定感は幅と重さね。幅広い方がバランス取りやすいし、重いとバランスが崩れにくいのよ。長いと真っ直ぐ進みやすいわ」
 わたしは答えた。
「なるほど、確かにそうだろうなぁ」
 拓海は納得したように頷いた。
「あっ、海月」
 すぐ足下に海月がいっぱいいた。
「どこ?」
 拓海が顔を下に向けた。
 その瞬間、バランスを崩して拓海は落ちた。
「うう~。落ちちゃったよ」
 そういいながらボードに掴まった。
「ごめん、よけいなこといっちゃった?」
 わたしは素直に謝った。
「いや、大丈夫。だけど、もうちょっと馴れが必要だな。顔を下に向けただけでバランスが崩れるなんて」
 拓海は自分に言い聞かせるように答えた。
 浜に戻るといったんみんなボードを浜へ上げて、それぞれリーシュを取った。
「いままではスクール用のボードだったけど、普通のボードにも乗ってみる?」
 ショウさんがふたりに提案した。
「あ、ぜひ」
 拓海がすぐに答えた。
「じゃ、あそこに黒いデッキパッドが貼ってあるやつあるでしょ、あれに乗ってみよう」
 ふたりは大きく頷くと、それぞれボードを持ってきて波打ち際へ浮かべた。リーシュをつけてボードの上に立った。
 Star Boardのテンファイブだ。安定性抜群でクルージングなんかにはぴったりのボードだ。葉山の家には同じメーカーのもうちょっと短い九フィートのボードがある。Converseというシリーズのボード。ダッドが愛用していた。
「どう、乗り心地は?」
 パドルを漕ぐ拓海の近くまでいってわたしは訊いてみた。
「いや~、けっこう細かく揺れるわ、これ。やっぱりスクールのボードと違うんだね」
 拓海が答えた。
 そのときすぐ近くをウインドサーフィンが横切った。
 その瞬間、拓海はバランスを崩して落ちた。
「なかなか難しい。でも」
 ボードに掴まるとわたしを見上げていった。
「でも?」
「めちゃ、楽しいよ」
 拓海が笑顔で答えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?