夏海と拓海

夏海と拓海 10

「マム、出かけてくる」
 ワンピースを纏ったわたしはそう母にいうと玄関に向かった。
「どこいくの?」
 階段を下りたところで母に尋ねられた。
「ちょっと逗子に。図書館でもいこうかなって」
「図書館?」
 母は首を傾げた。
「うん、日本にいる間にちょっと本でも読んでおこうかと思って」
 わたしはビーサンを穿きながら答えた。
「お昼、どうする?」
「てきとうに済ませるかも。もしかしたらショウさんのところに寄るかもしれないし」
 わたしは水着なんかを詰めたバッグを抱えた。
「ねぇ、なに読むつもり?」
 母が興味深げに訊いてきた。
「吾輩は猫である」
「え?」
「だから、夏目漱石」
 わたしはそう答えると家を出た。
 元町のバス停でバスに乗るとそのまま逗子駅までいった。
 終点で降りるとバスターミナルをぶらぶら歩きながらあたりの様子を見た。逗子は夏の間、多くの人で賑わう。もちろんそのほとんどが海水浴客だ。
 もう八月が終わるというのにまだ多くの人が逗子を訪れていた。
 そのまま新逗子駅の方へ向かい、踏切を渡ると図書館へいった。
 図書館に入るとひんやりとした冷気がわたしを迎えてくれた。エアコンがほどよく効いている。
 一階は雑誌や児童書のコーナーになっていた。
 わたしは階段を登って二階へ向かった。
 書架がずらりと並んでいる。
 わたしはその書架をひとつひとつ確認しながら見て廻った。ここにはいろいろな種類の本がある。
 小説のコーナーを見つけると、夏目漱石の本を探した。
『こころ』を見つけるとそれを持って、空いているソファに座ってページをめくった。
 ハワイにいるときには英語の本を読むことが多い。日本語の活字をこうしてきちんと読むのは久しぶりだった。
 夏目漱石はわたしの好きな作家のひとり。二三年前に『我が輩は猫である』を読んでファンになった。
 一時間ほどそうして『こころ』に没頭した。
 ふっと顔を上げると、ここがどこだか一瞬解らなくなった。小説の世界に埋没することができると、ときどきこういう感覚に襲われる。自分が誰で、いまどこにいるのか解らなくなってしまう喪失感。
 まるで海の底にいて、そこからゆっくりと浮き上がりながら、しばらくして海の上へ顔を出すような感じ。
 ほっとひと息つくと、わたしはようやく貝津夏海に戻った。
 この感覚、わたしは好きだ。
 またしばらく本に没頭した。
 気がつくといつのまにか昼を過ぎていた。
 わたしは本を元に戻すと、外へ出た。
 図書館を出た途端に熱気がわたしにまとわりついた。でもこの暑さもそんなに嫌いじゃない。
──どうする?
 もちろん海へいきたかった。
 空を見上げるとまだまだ夏を思わせる陽が輝いていた。蒼い空に白い雲。くっきりとした天気。
 わたしはそのまま清水橋を渡り、京急の踏切を越えると、亀岡八幡を通って、銀座通りに出た。
 途中のピザ屋でテイクアウトするとそのままオーシャンズに向かった。
 クラブハウスに着くとガラス戸を開ける。
「あ、ワンピース着てる」
 カウンターのところにいたショウさんが、まるでなにか珍しいものでも見たような声を上げた。
「え、普通だもん」
 わたしは不服を唱えた。
「こうやってみると女の娘なんだね」
 ショウさんが笑いながらいった。
「なによ、そのいい方」
 わたしはそういいながちょっと乱暴にベンチに座った。
 机の上にピザを広げる。
「これからお昼?」
「うん」
 わたしは頷いた。
「なにか飲む」
 そういいながらショウさんが近づいてきた。すぐ横に冷蔵庫がある。
「それじゃ、アイスティ」
「今日は奢ってあげる」
 ショウさんはそういいながら冷蔵庫からペットボトルを取りだした。
「やさしいんだ」
「レディにはね」
 ショウさんはウインクした。
「じゃ、これから毎日ワンピで来るわ」
「奢るのは三回だけ」
 ショウさんはそういって笑った。
 わたしはペットボトルを受け取るとキャップを開けて口を付けた。
 それからピザを食べる。
「ショウさんも食べる?」
「ぼくはもう済ませたから大丈夫」
 ショウさんはやさしく答えた。
 ピザを食べ終えると、わたしはロッカーの鍵を借りて水着に着替えた。
 今日はオレンジのビキニ。
「ボードは浜?」
 クラブハウスを出る前にショウさんに訊いた。
「なにに乗りたい?」
「そうだな、今日はNaish」
 わたしはちょっと考えて答えた。
「Manaのエイトテンなら浜にあるよ」
 ショウさんがいった。
「ありがとう」
 わたしはそういうと浜へ出た。
 もしかしたらいるかもしれないと思い、いつもふたりして座り込んでいるあたりを探したが姿がなかった。
──おーい、ビキニだぞ。
 そうひとりごちた。
 わたしったら、なにいってるんだろ。
 ボードとリーシュを確認して、右足首に巻くと、そのまま海へ出た。
 今日は波もほとんどなくて落ち着いている。ゆるやかなオンショア。
 ゆっくりとパドルを漕ぎながら、葉山の灯台の方へと向かった。行きは向かい風だが、帰りは追い風になる。といっても、そこまで気にするほどの風じゃなかった。
 ボードに波があたる音がする。
 心地いい音だ。
 鐙摺を過ぎたあたりで周りを見渡してみた。何人かパドルを漕ぐ人たちがいる。今年はSUPを楽しむ人が増えたみたい。こうしてクルージングしていても、よく見かけるようになった。
 すれ違うときは挨拶をする。
 ただ会釈をする人がいれば、パドルを掲げて挨拶してくれる人もいる。
 わたしは軽く手を振って、挨拶を返す。
 灯台のところまで来ると、今度は方向を変えて大崎へと向かう。
 あっちにもパドルをしている人がいる。
──いないな……。
 拓海の姿はなかった。まだ膝の具合が悪いのかな?
 大崎の近くまでくると、そのまま逗子マリーナへと向かう。江の島が近くに見える。その向こうに富士山も見えた。
 碧い海の上から見る江の島と富士山は格別だ。
──日本にいるって実感するんだよ。
 ダッドは富士山を見るといつもそういっていた。
 由比ヶ浜が見えるあたりまでいくと、そのままUターンして帰ることにする。
 逗子マリーナを過ぎて、再び大崎の近くに。
 海がゆったりと呼吸しはじめているのがわかる。
 ちいさなスウェルがときどき入ってくる。
 ボードがゆっくりと持ち上げられ、そしてゆっくりと降ろされていく。
 もしかしたら明日は波ができるかもしれない。
 大崎の先、浪子のあたりにもスウェルが入ってきているのがわかる。
──いいぞ、明日はちょっとだけ楽しめるかもしれないわ。
 不如帰の碑のあたりまで戻ると海水浴エリアに入らないようにして東浜へ向かう。
 空を見上げると、まだそこには夏の陽があった。真っ青な空が眩しい。
 沖でいったんパドルを漕ぐのを止めると、わたしは両足をボードから垂らすようにして腰を下ろした。パドルをボードの上に上げて、そのまま海をわたる風を浴びる。
 浜からは海水浴客たちの喚声が聞こえてくる。けど、海の上は静かだった。ボードに波が当たる音が微かに聞こえる。
 もう一度、空を見上げた。
 鳶が二羽大きく旋回をしていた。鳴き声が聞こえる。
──八月も終わっちゃうんだね。  
 なんとなくそんなことを思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?