夏海と拓海 5
部活が終わるとぼくはピッチ脇のベンチに腰を下ろして、ボトルに入っていたアクエリアスを一気に飲み干した。
汗でべとべとになった練習着を脱いで、上半身裸になった。
昨日、海で遊んだせいで日焼けして真っ赤になっていた。それまで焼けていたところとまだらになっている。
なんだかみっともない。
つい、綺麗に焼けた夏海と比べてしまう。
しばらくそうやってぼうっとしていると、カジが近づいてきた。
「よう、お疲れ」
カジはそういって隣に座った。
「きつかったわ、今日は」
カジはそういって、ボトルに口をつけた。
「たっぷり走ったからなぁ」
ぼくはカジの顔を見た。
「でもお前、真ん中にいるんだからそこまで走ってないだろ」
そういいながらカジはぼくに肩をぶつけてきた。
「サイドバックだけがきつい訳じゃないぜ」
ぼくもそう答えてカジに肩をぶつけた。
「なあ、昨日なんともなかったか?」
カジがぼそっと口を開いた。
「なんともなかったかって、どういうことだ?」
ぼくは首を傾げた。
「夜、久しぶりにりり子と逢ったんだよ。一週間ぶりに。で当然そうしたいわけじゃん」
カジはすこし照れたようにいった。
「のろけたいなら、他のやつにいってくれ」
ちょっとふてた感じでぼくは答えた。
「それがいたせなかったのよ」
カジがぼそっといった。
ふたりがどんな交際をしているのか、詳しくは知らなかった。そんなことを聞いてもなんにもならないし、カジもべらべらとふたりの関係を喋るようなやつじゃなかった。
それでもなんとなく想像はついていた。
「どうして?」
ぼくはつい訊いてしまった。
「それがさ、夜になってもなんだかゆらゆらゆらゆら揺れてるんだよ。頭の中がゆらりゆらり揺れちゃって、気持ちが悪くなっちゃってさ、りり子を抱きしめても集中できなくて、あそこがね、お役に立ちそうになかったわけだ」
カジが頭を掻いた。
「そうか、ゆらゆらした感じ、残ってた。ぼくもそうだ。机に向かっててもなんだか波に揺られている感覚が残ってて集中できなかった」
ぼくは思い出しながら頷いた。
でも、その揺れはぼくにとっては心地のいいものだった。
「船酔いしたみたい。たぶんSUP続けられないわ」
そういうとカジは立ち上がった。
「夏海ちゃんと一緒に海で遊びたいけど、オレ、浜で見ているだけにする。彼女のビキニ姿」
そういってぼくの肩を軽く叩いた。
「なんでそうなるんだよ」
ぼくは答えた。
「いや、ともかくSUPはパス。拓海、お前だけ楽しんでくれ、ビキニの夏海ちゃんと」
カジはそれだけいうと部室へ歩いていった。
──ラッシュ着てただろ、昨日は。ビキニの夏海と一緒にいたいからSUPした訳じゃないって。
ぼくは自分にそういいながら立ち上がった。
脱いだ練習着を肩にかけると、ぼくも部室に向かった。
いつものように渚橋の近くにあるコンビニでサンドウィッチを買うと、カジとふたりで東浜に腰を下ろして食べはじめた。
「いないね」
ぼくと同じようにサンドウィッチを頬張りながらカジがいった。
確かに夏海の姿はなかった。そういつもいつも海にいるわけでもないだろう。彼女だっていろいろとやることがあるに違いない。
でもなにがある?
あいつ学校はハワイだろうし、宿題なんてあるのかな? いやそもそもアメリカの学校って、秋が新学期じゃなかったっけ?
「なんか夏海ちゃんがいないだけで、海岸が寂しく見える」
カジがペットボトルに口をつけながらいった。
「お前、大袈裟だって。まだビキニ姿の女の娘、いっぱいいるじゃないか」
そういって海水浴エリアのあたりを指さした。
「いや~、格が違うんだよ、夏海ちゃんとじゃ。脇役だらけの映画見てるみたいだ」
カジは首を横に振った。
あながち的外れでもなかった。
「船酔い?」
しばらく経ってからぼくは訊いた。
「うん、船酔い……」
そういいながらカジは砂を握ると、ゆっくりと手を開いて零していく。
海岸から海の方へ緩やかな風が吹いている。オフショアだ。その風に流されるように砂が落ちていく。
「船、苦手だったのか?」
カジの顔を見ると、ぼくは尋ねた。
「船かぁ、よく考えたら船に乗ってどこかへいった記憶、ないんだよね。せいぜいディズニーランドのジャングルクルーズぐらいかも」
カジは砂を掬いながら答えた。
「確かに、ぼくもそうだな」
ぼくも頷いた。
「拓海、どうする?」
カジはぼくの顔を見ながら訊いてきた。
「どうするって?」
ぼくもカジの顔を見た。
「SUP。オレはパスするからさ」
カジはまた砂を掬いながらいった。
「楽しくなかったか? 海の上をさ、まるで散歩しているみたいでさ」
ぼくは海を見ながら訊いた。
「そりゃ楽しかったよ。夏海ちゃんも一緒だったし。ビキニじゃなかったけど。でも、船酔いじゃあな。楽しさも半減。夜、なにもできなかったし……」
カジは項垂れるようにして答えた。
「わかった」
僕はそういって立ち上がった。
「まぁ、そういうことだ」
カジも一緒に立ち上がった。
「ショウさんのところへちょっと寄ってみるけど、どうする?」
ぼくはバッグを肩に担ぐと尋ねた。
「全面的にパス。帰るわ」
カジはそういうとバッグを手にそのまま歩いていった。
ぼくはカジの姿が見えなくなるまでぼんやりとそこに突っ立っていた。
夏海のことはともかく、SUPをもうちょっと楽しんでみたかった。それほど昨日の体験は刺激的だった。いままで味わったことのない感覚。とても楽しかったのだ。
ぼくはひとり頷くと、オーシャンズのクラブハウスに向かった。
ガラス戸を開けて中に入ると、机のところにショウさんがいた。ベンチにひとり座って、グラスに入ったガラナを飲んでいた。
「やぁ、どうしたの?」
ぼくの顔を見ると、右手を挙げて挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
ぼくはぺこりとお辞儀をした。
「こっちに座りなよ」
真っ黒に日焼けしたショウさんは髪をかき上げながらいった。
「はい」
ぼくは頷いて、ショウさんと向かい合うようにベンチに腰掛けた。
「なにか飲む?」
「いえ、大丈夫です」
ぼくは首を横にふった。
「そういえば今日は夏海ちゃん見かけないな」
ショウさんが笑顔で口を開いた。
「ちょっと相談があるんです」
ぼくはそっと顔を上げてショウさんを見ながらいった。
「どんなことかな?」
ショウさんはテーブルの上で手を組んだ。
「ちょっと真剣にSUPやってみようかと思うんですけど、なにがというか、上達するにはどうしたらいいかと思って」
なにを尋ねたらいいのかぼくの頭の中できちんと整理できていなくて変な質問になってしまった。
「そう、SUP続けたいんだ。だったら、ただ乗り続ければいいよ」
ショウさんはにこりと笑った。
「部活もあるし、学校はじまったら時間もそんなになくなるだろうし……」
ぼくはぼそっと呟いた。
「学校、どこ?」
「あっ、海成です」
ぼくはすぐに答えた。
「なんだすぐそこじゃない。だったら、開いている時間を見つけて、ボードに乗ればいいよ」
ショウさんはこともなげにいった。
「でも、ここのクラブに入会したり、月謝払ったりしなきゃいけないですよね」
ぼくはおずおずと口を開いた。
「もちろん」
ショウさんはきっぱりと答えた。
「あとは、ボードのレンタル代とか?」
ぼくは伺うように尋ねた。
「そうだな、高校生にはちょっと高いかもしれないね」
ショウさんは腕組みをした。
「あの、夏海は?」
「ああ、彼女は特別。というのも、このクラブを設立するときに、駿さん、きみのおじいさんね、彼が資金の一部を出資してくれているんだ。だから彼女はこういういい方でいいかどうかわからないけど、クラブ側の人間なんだよ。だから、夏海ちゃんは特別」
ショウさんはかみ砕くように話してくれた。
「そうなんだ」
ぼくはひとりごちた。
「高校生か。ぼくの一存で決めることはできないけど、学割みたいな感じの扱いができるかどうか確認してみようか。せっかくやる気になっているなら、応援したいし」
ショウさんはしばらく考えてから口を開いた。
「ありがとうございます」
ぼくは素直に頭を下げた。
「ボードとパドルはねぇ、ぼくがもう使っていないやつを譲ってあげるよ。それで練習するといい」
ショウさんが頷きながらいった。
「どんなボードですか?」
ぼくは思わず身を乗り出して訊いてしまった。
「この前乗ったやつあるでしょ、スタボのテンファイブ。同じメーカーのやつで、もうちょっと短いやつなんだ。幅は同じ三十インチだけど、長さが九フィートのもので、Converseというシリーズのボード。SUPに慣れるにはぴったりかもしれない」
ショウさんが提案してくれた。
ぼくは大きく頷いた。
「そういう形でやるなら真剣に取り組んで欲しい。ただ遊びたいだけなら、話は別。それと、まだ未成年なんだから、親の了承をきちんともらってくること。それならぼくが応援してあげる」
ショウさんは真面目な顔でいった。
「わかりました。あらためてお願いしにきます」
ぼくはそう答えると立ち上がり、ありがとうございましたとお礼をいってお辞儀をした。
「待ってるから」
ショウさんも立ち上がるとそういって頷いてくれた。
その日の夜、夕食を終えてからぼくはお袋に相談をした。
お袋はぼくの話をじっと聞いてからぼそっと返事をした。
「おとうさんと相談していいかしら」
「もちろん」
ぼくは頷いた。
「ひとつ確認だけど、夏海ちゃんに誘われたの?」
お袋はぼくの顔を見つめて訊いた。
「そうじゃないよ。カジが彼女にSUPやってみたいって頼んだら、体験できるクラブを紹介してくれたんだ。彼女に誘われたわけじゃない」
ぼくは自分に言い聞かせるように説明した。
「夏海ちゃんとはよく会ってるの?」
お袋が不審そうに尋ねた。
「会ってるわけじゃない。たまたまだよ。だいたいぼくの学校が逗子で、彼女はよく逗子の海にいるから見かけるだけで、話をしたのは一二度だけだよ。そのときカジがやってみたいからって」
ぼくはちょっと必死になって説明した。
「四十九日までは日本にいるっていってたし、見かけるのは仕方ないわね」
お袋はそうひとりごちた。
「四十九日まで、って?」
ぼくは訊いてみた。
「この前、亜弓さんから聞いたのよ。ハワイの家を空けておくわけにもいかないし、四十九日が終わったら戻りますって」
お袋はそう答えると立ち上がった。
テーブルの上の食器を片つけて洗い物をはじめる。
「おとうさん帰ってきたら、相談するから」
お袋の言葉を聞きながら、ぼくはリビングを離れた。
自分の部屋に戻ると机に向かった。
あとすこし宿題が残っていた。
デスクライトを点けるとテキストを広げた。数学の問題集だ。あと五ページでこいつは片付く。そのあとは英語。それから……、あとすこしじゃなかった。
数学の問題集を二ページやったところでドアをノックする音が聞こえた。
親父だった。
「いいか?」
そういいながら親父が部屋に入ってきた。
「宿題?」
そう訊きながら親父はぼくのベッドに腰掛けた。
「いま、話してもいいか?」
親父がいった。
「ああ」
ぼくは頷いた。
「どういうつもりか聞かせてくれ」
「どういうつもりって?」
ぼくは親父の顔を見ていった。
「学校があって、部活があって、それでさらに海で遊びたいということなのか?」
親父は静かに腕を組むと訊いてきた。
「海で遊ぶって、まぁ、そういういい方になっちゃうとなんだかちょっと違う気もするけど……」
ぼくはそう答えた。
「じゃ、いい方を変えよう。マリンスポーツをはじめたいと」
親父はすこし笑顔で尋ねてきた。
「とても楽しかったんだ。海の上を散歩するようで、はじめての体験で、なんだかとてもワクワクして、それでもっともっとやってみたいと思って」
ぼくは真剣に答えた。
「そうか。そのショウさんだっけ、真剣に取り組むなら応援してくれるって話なんだな」
親父は確かめるようにいった。
「そう、じいちゃんが出資しているクラブの人なんだ」
ぼくは頷いて答えた。
「そのクラブのことなら聞いてるよ」
親父も頷いた。
「夏海ちゃんのこと、かあさんが気にしているのはわかるよな」
親父は続けていった。
ぼくは黙って頷いた。
「亜弓さんはとてもいい人だし、夏海ちゃんも可愛い娘に育っているし、個人的になにかあるわけじゃない」
親父はそういうとベッドの上で座り直した。
「ただ、かあさんにしてみると、お前のおばあちゃんと別れて、おじいさんは亜弓さんと結婚したわけだし、どうしてもそのことでわだかまりがあるんだよ。確かに、離婚したあとで亜弓さんと知りあって結婚したんだけど、かあさんにしてみると、釈然としないなにかがある。しかもその亜弓さんとは同い歳だし」
親父はそういって頷いた。
「SUPのことではなくて、そっちの方が気になっちゃうのかな」
ぼくは机の上で手を組むと訊いてみた。
「理屈になってないことは、かあさんも解ってるんだ。でも、彼女にしてみると、自分の父親を亜弓さんに取られたような気になってしまうんだと思う。しかも、離婚までさせたということにね」
親父はぼくの顔を見て、すこしだけ笑った。
「でも、四十九日でハワイに帰るんでしょ?」
ぼくは訊いた。
「そうらしい」
親父はそういうと立ち上がった。
「とりあえずかあさんの気持ちだけはわかってあげてほしい。その上で、お前が本気でやりたいことがあるなら反対はしない。ただ、それでいままで続けてきたことを中途半端に投げ出すなら話は違ってくる」
親父は確かめるようにいった。
「わかってるよ」
ぼくは大きく頷いた。
「やるならきちんと楽しんでほしい」
親父はそれだけいうと部屋を出ていった。
親父が締めたドアを見ながら、ぼくは夏海のことを思い出していた。
海の上で話をした夏海は、いままで見た中でも一番輝いていた。あんなに美しい娘を見たのははじめてかもしれない。
──夏海……。
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