夏海と拓海

夏海と拓海 13

 ボードを積んだドーリーをぼくが運ぶ。
 ラッシュを着た夏海はパドルとリーシュを持っている。
 彼女の家を出て坂道を下り、バス通りを超えて細い道を抜けると森戸海岸に出た。
 子どもの頃、一度、ここで遊んだ記憶がある。
 ドーリーを砂浜に駐めるとボードを降ろして海へ出た。葉山マリーナを右手に見ながら、まっすぐ大崎を目指す。
 ブーツを履いてボードに乗るのははじめてだった。ちょっと足の位置が気になる。けれどボード自体はショウさんから譲り受けたものと同じサイズだった。スタボのConverse、ナインだ。
「ねぇ、そのボードはどう?」
 葉山の灯台をすぎたあたりで夏海が訊いてきた。
「うん、いつもと同じだよ」
 ぼくは夏海の顔を見て頷いた。
「ダッドが使っていた同じモデルだからね」
 夏海は納得したように頷いた。
 大崎まで、逗子海岸からいくのと同じぐらいの距離だった。近づいていくと、だんだん波の様子がわかってきた。確かに大きな波ではなかったけど、いまのぼくにはちょうどいいサイズだろう。
 波ができるポイントのちょっと手前のところで夏海はパドルを漕ぐのを止めるとぼくに話しかけてきた。
「大崎でサーフしたことはある?」
 ぼくはただ首を横に振った。
「ここはポイントが狭いって訊いたことはある?」
 今度は頷いた。
「ショウさんにいわれてる。沖に戻るときは大きく迂回するように、って」
「いま、あそこ、ほら波が立っているところがあるでしょ。あそこがちょうどポイントなの。正面の崖を見て。階段が見えるでしょ。ここがレギュラーのポイント。この下に大きな岩があって、ここだけ急に浅くなっているの。沖からきたうねりがここまで来て、浅くなったところで波が立つようになっているわけ」
 夏海はそういうとぼくの顔を確かめるように見た。
 確かに正面の崖のところに階段があった。
「あと、逗子マリの方にもあるけどあっちはグーフィーね。波の方向がこことは違う。それから浪子の方にも沖のアウトのポイントと手前のミドルのポイントがあるけど、あっちは波がちょっと難しいの。だから最初に練習するとしたら、この大崎の階段前が一番いいわ」
 そういうなり夏海はゆっくりとパドルを漕ぎはじめ、やってきたうねりを見ながらポイントに近づき、すぐに波に乗った。
 いつ見ても綺麗な乗り方だった。
 崖の手前でプルアウトすると、大きく迂回するようにして戻ってきた。
「あっちの浪子が難しいって、どういうこと?」
 ぼくは近づいてきた夏海に訊いた。
「波の方向が変わることがあるの。このセットでいけると思って待ち構えていたら、方向がずれちゃうとか、いろいろね。経験が必要になるわ。それから、浪子のアウトの方が大きな波が立つの」
 夏海は頷きながらいった。
「ここより?」
 ぼくは訊き返した。
「そう、大きく巻いている波が海岸から見えるときは、だいたい浪子のアウトのやつ。綺麗にチューブができることもあるわ」
 夏海はそういうと笑顔で頷いた。
「あとひとつ。ここは底が浅いことはいったわよね。それから海胆がいっぱいなの。だから落ちるときは足からいかないように。意外な浅さで怪我したり、海胆を踏むことがあるから。落ちるときは身体ごと落ちてね」
 夏海は真顔でいった。
「でも、ブーツ」
 ぼくは反論した。
「過信しちゃだめ。ふつうなら大丈夫でも、ブーツ突き破って刺さることがあるから」
 夏海は釘を刺すようにいった。
「わかった」
 ぼくは大きく頷いた。
「ねぇ、波が来るわ」
 そういって、夏海はまたパドルを漕いで波に乗った。
 ぼくもその次のセットにチャレンジしてみた。
 最初は慎重に。
 そんなに大きな波じゃない。
 タイミングを合わせて、ボードの方向をきちんと真っ直ぐにして波を捉える。
 足下からバシバシという波の音が聞こえはじめ、ボードのノーズが沈んだ。すっと右足を後ろに引く。
 ふいに後ろから強い力で押し出されたようにぼくは波に乗った。ボードが滑るように走り出す。
 風を身体全体に受ける。
 そのとき、世界から一瞬音が消える。
 ぐんぐん正面の崖が迫ってくる。
 ぼくはパドルを後ろに放り出すようにしてブレーキを掛けると波から降りた。
 バランスが崩れてそのまま海に落ちる。けれどこういう落ち方だと足からいくことはない。
 すぐにボードに乗ると、まず足を確かめた。
 一本だけ海胆の棘が刺さっていた。でもブーツの上からだったのであっさりと取れた。
 ボードの上に立つとそのまま迂回するようにしてポイントの近くまで戻る。
「どう?」
 夏海が確かめるように訊いてきた。
「うん、いい感じだよ」
「そう」
 夏海は笑顔で返事をした。陽射しを浴びた夏海の笑顔は輝いていた。ぼくは一瞬、写真集で見た亜弓さんの笑顔を思い出してしまった。
『もう彼女に恋していたのですか?』
 お袋の書いた手紙の一文が頭に浮かぶ。
──違う、海が楽しいだけだよ。
 ぼくは心の中で大きく首を振った。
「もっと乗ろうよ」
 夏海はそういうとまた次の波を捉えた。
──恋している?
 ぼくはもう一度頭を振ると、次のセットをポイントで待った。
 すごくいい波だった。さっき乗ったやつの倍のサイズはある。
 一瞬怖じ気づいてしまったが、逃げるつもりもなかった。
 そのままパドルを漕いで波に合わせる。
 ボードのノーズがぐっと下がる。さっきよりもさらに落ちていく感じだ。ぼくは引いた右足にさらに体重を掛けて、腰をもっと落としてみた。
 ボードが蹴り出されたように飛んでいく。
 滑っているんじゃない。すっ飛んでいっているような感じだった。
 強烈だ。
 音が一瞬かき消えた。
 でも次の瞬間ボードが横に傾いた。
 あっと思ったときには海中にいた。どっちが上なのかわからなくなった。
 そのとき足が底についた。
 ようやくのことで海面に顔を出したとき、セットの次の波が続いてやって来ていた。
 そのままその波に押しつぶされるようにして巻かれた。
 もう一度、なんとか顔を出す。
 周りを見てボードを確認した。
 ちょっと離れたところで裏返しになっていた。
 沖を見ると、また次の波がやってきていた。さっきの波よりもさらに大きかった。
 リーシュを引っ張ると、ボードを捕まえて、裏返しのまま乗った。
 波が襲いかかる。
 ぼくはまたボードごと巻かれた。
 藻掻くようにして顔を出す。
 沖を確認したが、まだ波はなかった。次のセットが入るまで少しだけ間がありそうだった。
 ぼくはボードを捕まえると、ひっくり返してその上に乗って、迂回するようにしてポイントの近くまで戻った。
 散々だった。
 波に弄ばれた。
 翻弄された。
 ぐしょぐしょになりながらぼくはボードの上に座り直すと息を整えた。呼吸が荒くなっていた。
 落ち着いてきたところで、ひとつ大きく息を吸う。
 ふと見ると次のセットが入ってきた。
 夏海がそのひとつを上手く捉えて、また乗っていく。綺麗なライディング。
 難しい……。
 でも、楽しい。
 いや、波に巻かれるのが楽しいわけじゃない。揉みくちゃにされて、息が切れそうになり、ボードもどこかにいって、それで波と格闘して、なんとか這い上がって、いったい自分がなにをやっているのか判らなくなる。
 だって波に乗りたいんだもの。
 でも乗れたときのあの感覚はやはり素晴らしい。波とやり合うだけの価値はある。
 そうやって波に揉まれながら、それでも何本か納得のいくライディングを楽しむことができた。
 陽が暮れはじめる前にぼくらは戻ることにした。
 森戸海岸に辿り着くと、ボードをドーリーに乗せて夏海の家に戻る。
 ぼくがドーリーを運び、隣をパドルとリーシュを持った夏海が歩く。ふたり並んで上り坂を登っていく。横を見ると夏海がいる。なんだかすこしだけ照れ臭いような、それでいて嬉しいような感じ。
 ただ一緒に歩いているだけなのに、すぐ横にいる夏海のことを妙に意識してしまう。
「さきにシャワーを浴びちゃって」
 家に戻り、ボードを片付けると夏海がいった。
「夏海は?」
 ぼくは訊いた。
「大丈夫よ」
 夏海はそういって微笑んだ。
「わかった」
 ぼくは頷くと、リビングに上がり、自分のバッグを抱えてバスルームにいった。
 脱衣室にバッグを置いて、バスタオルだけ取り出すと水着のままバスルームに入った。
 シャワーのコックを捻り、お湯になるまでしばらく待つ。その間に水着を脱いで裸になった。水着をシャワーで軽く洗うと、手で絞って浴槽の縁に置いておいた。
 すこし熱めのお湯を頭から浴びる。
 気持ちよかった。
 シャワーを浴びながら、今日のライディングを思い出す。二本ほど納得のいくものがあった。
──あとは駄目だな。
 乗り方もそうだが、落ち方もあまり褒められたものじゃなかったし、また波に巻かれたやつもずいぶんあって満足はできなかった。
 それでも夏海とふたりで海で楽しんだことにぼくは喜びを感じていた。
 シャワーを浴びながらバスルームを見廻した。
 浴槽のところには大きな窓があり、ここからも海が見えるようになっていた。いまはブラインドが降りている。
 シャワーの側にはシャンプーやボディソープが置けるようになっていて、いくつかボトルが並んでいる。
 窓の向かい側には大きめの鏡があった。
 ぼくの姿が湯気の向こうに映っている。
 海へ出るようになってずいぶん日焼けしたからか、前ほどまだらにはなってはいなかった。
 鏡に映る自分の身体を見ながら、まだ海で日焼けするまえのことをちょっと思い出してみた。はじめてSUPに乗ったときから、もうずいぶん日が経っているような気がしたけど、一週間とちょっとだ。
──夏海もこうやって鏡で自分の姿を見たりするんだろうか?
 もちろんそうだよな。そのための鏡なんだから。
 ふとそんなことを考えると、夏海の笑顔が頭に浮かんできた。それはじいちゃんが撮った亜弓さんの笑顔とどういう訳かダブっていた。
 夏海の笑顔。日焼けした身体。パドルを漕ぐときの横顔。ビキニ姿。Cカップ。
──駄目だって、こんなところで……。
 いったん夏海の姿を想像しはじめると止めることができなくなった。
『もう彼女に恋していたのですか?』
──そう、恋してるんだ。
 シャワーを浴びながらぼくは勃起していた。
 いつにも増して硬くなっている。
 でも、こんなところでなにもできない。
 夏海の姿を振り払うようにシャワーの温度を下げて浴びた。けれどなにも変わらない。
 目を瞑ると夏海の裸体が頭の中に浮かんでしまう。笑顔とそして綺麗に日焼けした夏海。
 目を開けると鏡にはペニスを硬く勃起させたぼくが途惑った顔をしてこっちを見返していた。
 痛くなるぐらいに硬くなっている……。
──そうなんだよ、夏海のことが好きでたまらないんだ。
 ぼくはバスルームを出ると身体を乱暴に拭いて、とりあえずバスタオルを腰に巻いた。
 ペニスは硬く勃起したままだった。
 そのままリビングにいった。
 夏海がソファに座っていた。
 長めのTシャツだけを着て、濡れた髪をタオルで拭いている。艶めかしかった。
「夏海……」
 ぼくは掠れた声でいった。
「どうしたの?」
 夏海は不思議そうな顔で僕を見た。
「夏海」
 そういってぼくは近づいた。
「ねぇ、なんだかおかしいよ」
 夏海はソファに座り直すと怪訝そうな顔をした。
「夏海、ぼくはキミのことが……」
 声が掠れて上手く話ができなかった。口の中が乾いて、喉の奥がくっつきそうだ。
「ちょっと待って」
 夏海はソファの上で正座した。両手を膝の前に置く。「抱きたい……」
 なにをいってるんだか自分でも判らなくなっていた。頭もあそこも爆発しそうだった。
 目の前に夏海がいる。
 手を伸ばして彼女を捕まえて、そのまま抱きしめたかった。
「ストップ」
 夏海が強い口調でいった。
「いやだ、お前のことが好きなんだ。だから抱きたい」
 ぼくも言い返した。ここまできたら後戻りできなかった。
「違う!」
 夏海は首を振ると、ぼくをじっと見た。
「好きなんだ」
 ぼくはそういってまた近づいた。
「駄目! それ以上近づいちゃ駄目!」
 夏海の語気の強さにぼくの足は止まった。
「拓海はわたしのことが好きなんじゃなくて、ただ女の娘を抱いてみたいだけなのよ。女の娘の身体に興味があるだけ。いいの、みんなそうなのよ。男の子は女の娘のスカートの中に手を入れてみたいだけなのよ」
 夏海はすこし早めの口調でいった。
「そんなことはない。ぼくはキミのことが好きなんだ。その笑顔が大好きなんだ。世界で一番笑顔が似合うキミのことが大好きなんだよ」
 ぼくは言い返した。
「よく考えて。あなたはわたしのなにを知ってるの?
わたしがどんな娘で、普段なにをしていて、なにを考えているのか知ってる?」
 夏海は諭すようにいった。
「人を好きになるのに時間も理由も必要ない」
 ぼくは首を振って、また近づこうとした。
「お願いだからそれ以上近づかないで。でないと、わたし、とっても酷いことをあなたにいわなくちゃならなくなるから」
 夏海はそういうと硬い表情に変わった。
「でも、ぼくはどうしたらいいんだ……」
 ぼくは頭が混乱したままだった。
「ねぇ、女の娘は力では男に敵わない。だからそのまま力ずくで押し倒されたら身動きができなくなっちゃう。でもね、わたしはあなたの心を傷つけることができる。そうじゃないわね、傷つけることでしか自分を守ることができないかもしれない」
 そういって夏海はじっとぼくを見た。
「だからそれ以上近づいたり、いまのままわたしに触れたりしたら、とても酷いことをいうわ。あなたを傷つけるとても酷いこと。あなたのプライドがずたずたになるような言葉を投げつける。あなたはこのあと、誰かとても好きになった人を抱こうとすると、まるで呪いをかけられたように、わたしの言葉を思い出すことになる。そして、凋れてなにもできなくなる」
 夏海は優しい顔になって続けた。
「そんなことを、わたしにさせないで」
 それだけいうと夏海はぼくの顔を見つめた。
 ぼくのペニスは硬いままだったが、しかしぼくの心は萎えていた。
「あっ」
 気がつくと、ぼくの鼻から水が垂れていた。ぼたぼたと垂れる。
 バスタオル一枚で夏海の前に立っているだけでもなんだかみっともないのに、こんなところで水を垂らすなんて情けないことこの上なかった。
 ぼくは両手で鼻を押さえるとそのままバスルームに駆け込んだ。
 脱衣室にあるバッグから服を取り出すと慌てて着た。
 水着とバスタオルをバッグに突っ込む。
 そのままバスルームを出ると、ぼくはなにもいわずにリビングルームを抜け、階段を駆けおりた。
「拓海」
 夏海がぼくを呼ぶ声がしたけど、立ち止まることができなかった。あたり前だ。
 玄関で靴を履いているといきなりドアが開いた。
「あら、拓海君?」
 亜弓さんがぼくを見て驚いたような顔をした。
「失礼しました」
 叫ぶようにそれだけいうと、ぼくは夏海の家を飛び出した。

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