夏海と拓海 11
九月。夏休みも終わった。
今日は始業式だけ。部活も休みだ。
ぼくは学校が終わると、ひとり新逗子の方へと向かった。市役所の横の道を抜けると、そのまま踏切を越え、清水橋を渡って図書館へ向かった。
もしかしたらじいちゃんの写真集があるかもしれない。
──逗子近郊に住んでたんだから、写真集、逗子の図書館にあるんじゃないの。
カジの考えだ。あいつはときどきとてもいいことをいう。
でも、あのツーショットだけは許せないけど。
ここの図書館に来るのははじめてだった。だいたいは学校で事足りるからだ。
一階を見て廻ったが雑誌と児童書のコーナーしかなかった。ぼくはそのまま階段で二階へ向かった。
ここには書架が並んでいた。
これなら見つかるかもしれない。
ぼくは期待に胸を膨らませながら書架を見て廻った。写真集のコーナーがあった。
そんなに多くはない。
でも、そこに貝津駿也のコーナーが作られていた。なるほど地元のカメラマンだからちゃんとあるんだ。
ぼくは納得して、その一冊に手を伸ばした。
最初の写真集。『Oceans』。
それを手に空いているソファを探していると、意外な人がそこにいることに気がついた。
本を読み耽っていた。
ときおり長い髪をかき上げるようにして『三四郎』を読んでいる。
ぼくはしばらくの間、その姿に見とれてしまった。
ワンピースを着た夏海もかわいかった。
ぼくは写真集を抱えたまますぐ隣に座った。
彼女はぼくに気がつくこともなく、本に没頭していた。
「三四郎?」
ぼくはそっと呟いた。
彼女はその声に反応して顔を上げてぼくを見た。
しばらくの間、じっとぼくの顔を見て、やがてようやく目が醒めたような感じで口を開いた。
「どうして、ここにいるの?」
そういって夏海は首を傾げ、髪に手をやるとかきあげながら耳にかけた。
「本を探してた」
ぼくはそういうと頷いた。
「そうなんだ。どんな本?」
「これ」
そういってぼくはじいちゃんの写真集を見せた。
「ダッドの本……」
夏海は呟いた。
「写真を見たことがなかったから」
ぼくはそう答えた。
「なら家に来ればいいのに。全部あるよ」
夏海はこともなげにいった。
──夏海の家に?
考えたこともなかった。
「いってもいいの?」
ぼくは思わず訊いた。
「わたしは構わないわ」
夏海は笑顔で答えた。やっぱり可愛い。
「でもなぁ」
そう、お袋の苦虫を噛み潰したような顔が思い浮かんだ。
よりによって夏海の家にいったことがばれたら、やっぱりヤバイだろうな。
ぼくはそう思ってすぐに返事ができなかった。
「どうする?」
夏海が訊いてきた。
「どうするって……」
いい淀んでしまった。
「どっちでもいいのよ」
そういいながら夏海はじっとぼくの顔を見た。
「どうしよう」
ぼくが返事を渋っていると、すぐ隣に座っていた老人が癖払いをして、ぼくたちを見た。眉間に皺を寄せている。
静かにしろ、ということなんだろう。
「いこう」
夏海はそういって立ち上がった。
ぼくも思わず釣られてそのまま立ち上がると、彼女についていく。
「あ、ちょっと待って」
そういってぼくは本を書架に戻すと、夏海のところへ戻った。
図書館を出ると夏海は逗子駅前のバスロータリーへ向かった。ぼくも一緒についていく。
海岸回りの葉山行きのバスに乗る。
九月に入ったというのに、まだ海水浴客がいる。森戸や一色の海岸へいく人たちだろう、バスは混雑していた。
ふたり並んで吊革に掴まり、元町のバス停で降りた。
夏海の、というか、じいちゃんの家にいったことがあるのは、もうずいぶん前だ。小学校に入った頃だったろうか、夏休みに海へ遊びにいったことがあった。
でも、それっきりだった。
お袋がいきたがらなかったからだ。
バス停から上り坂を登っていく。
うっすらと記憶が甦ってきた。まだ小さかった夏海と手を繋いでこの道を歩いたことがあったはずだ。
「おばさんは?」
「マム? 出かけてる。次の写真集の打ち合わせ」
そういいながら夏海は坂を登っていく。
家に着くと、ぼくはじいちゃんの仕事部屋へ通された。
ドアの前で夏海はちょっとなにか考えるようにしてノブに手を伸ばして、そっと開けた。
部屋の中はちょっと暗かった。窓の近くに大きなデスクがあり、そこにモニタとMacBook Proが置いてあった。
デスクのこちら側には二脚の椅子がある。
壁側には本棚があり、すぐそばにソファのセットがあった。
「そこにあるからソファに座ってゆっくりと見るといいわ」
そういって夏海はぼくをソファに座らせた。
「ありがとう」
ぼくは返事をすると、本棚を眺めた。いろいろな本が並んでいる。棚の一番上に、じいちゃんの写真集が並んでいた。全部で五冊。
ぼくはいったん立ち上がると最初の写真集を手に取り、ソファに座り直した。
「暗くない?」
夏海が訊いた。
「大丈夫だよ」
ぼくはそう答えると頷いた。
「なにか飲む?」
夏海は立ったまま尋ねた。
「いや、いらない」
ぼくは首を横に振った。
「わたし、この部屋、あまり好きじゃないの」
そういうとドアのところへ歩いていった。
「仕事しているときのダッドを思い出すっていうこともあるけど、仕事してるときのダッドはちょっと気むずかしい顔をしていて、いつもの笑顔がなくて、なんだかちょっと怖い感じがして。だからこの部屋でダッドとなにか話をしようとすると、とても緊張して。それがまだそのまま残っているから」
そういって夏海は下を向いた。
ワンピースから覗く膝小僧がとてもかわいかった。
「時間は気にしなくていいから、ゆっくり見て。わたしは上のリビングにいるから」
そういうと夏海は部屋を出ていった。
ぼくは改めてソファに座り直すと、リビングテーブルの上に写真集を置いた。
化粧箱に収められたその本を取り出す。
表紙をめくろうとしたとき、中になにか挟まっていることに気がついた。
そのページを開いてみた。
そこには手紙が挟まっていた。
その手紙をそっと開く。
『パパへ。
こういう手紙を書くことがいいことかどうかよくわからないけど、でも、わたしの気持ちをきちんと伝えておく必要があると思ったので、書いてみます』
お袋の字だった。
『ママと別れたことは、ふたりの間のことだから仕方のないことだと思っています。ふたりの子どもとして、いつまでも仲良くして欲しかったけど、仕事のこととか、わたしたち子どものこととか、いろいろなことが積み重なって、ふたりで出した結論なのでしょう。だから、それは受けとめたいと思います』
なんだか覗き見をしているような気がしたけど、しかし読むのを止めることができなかった。
『受けとめたいとは思っていますが、素直に許せない気持ちがあることもまた本当なのです。なにか裏切られたような気が、どうしてもしてしまうのです。
亜弓さんがとてもいい人だということもわかります。いえ、いい人だからこそ、許せない感情が湧き上がるのかもしれません。
ごめんなさい。文句をいいたいわけじゃないのです。亜弓さんと幸せになって欲しいということも、また本当の気持ちなのです。難しいですね、人って、感情って』
親父がいっていたことと同じだ。ぼくだってそれなりに解るつもりだった。
『写真集おめでとう、という手紙を書ければよかったのですが、ここに載っている亜弓さんがあまりにも綺麗なので、どうしても「おめでとう」ということができません。写真を撮っているときのパパは、もう彼女に恋していたのですか? ママと別れたばかりだというのに、もう恋をしていたのですか? そんなつまらないことが気になって仕方ないのです。
だから、この写真集は返します。普通の気持ちで見ていられないから。これからもっと写真集を出すことになるんでしょう。でも、この気持ちがわたしの中から消えない限り、パパの写真集を見たいとは思えないのです。
写真集は遠慮します。もう送らないでください。
でも亜弓さんを大切にしてあげてくださいね。
あなたの娘より』
ぼくはその手紙を読み終えると、元の通りに折りたたんだ。
改めてその手紙が挟まっていたページを見てみる。
夏海のおばさん、亜弓さんが写っていた。
ウインドサーフィンをしている彼女の笑顔は、お袋がいうようにとても綺麗だった。しかも、夏海とよく似ている。眩しいほどの笑顔は母親譲りのものだったのだ。 だからお袋は夏海のことをどうしても気にするんだろう。
ぼくはなんだか落ち着かない気分になり、最初の写真集を閉じた。手紙を元通りに戻して、化粧箱の中へ収めて本棚に返した。
ひとつ大きく息をすると、次に出した写真集を手に取った。
それはハワイの景色をメインにした写真集だった。南国特有の空気感が見ているぼくの心に伝わってきた。
見ているだけで波の音まで響いてくる。
カラフルな色合いの花々。碧く煌めく海。それも一色ではない。碧という色が、どこまでも複雑で、そして美しいものなのかを感じることができる。
こんな海の色は見たことがなかった。
こんな海でボードに乗ることができたらどんなに幸せだろう。
ボードにあたる波の音まで聞こえてきそうだ。
写真がぼくになにかを囁いている。そんな気がした。
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