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「女」であることからの解放、「女」でいることの自由 〜彩瀬まる「川のほとりで羽化する僕ら」を読んで〜

 「女」っていう言葉から連想されるのは、とてもとても、女性のごく偏った面だけだと思う。特に、「女性」という言葉以上に、より身体的な性別としての意味合いが色濃く響く気がするのは多くの人が頷くところだろう。

 あとは、「女はすぐ泣く」「女は論理的じゃない」「女は感情的になりやすい」といった偏見。

 まあ、まあ、わかる。現に、私は夫よりも自分の方が感情的になりやすいと強く感じる。
 でも、考えてみてくださいよ、と言いたくなるのは、男性よりも女性の方が1カ月内でのホルモンの変動が非常に激しく複雑(というグラフを見たことがある)だから。そのホルモンとやらに支配された身にもなってほしいよ、という反論が口からこぼれそうになる。
 けれど、これは、男性がよくいう「男は自らの遺伝子を残すという生存競争のために、種をばら撒かなくてはいけないから、浮気する生き物なんだ」という言い分と同じくらい、頼りない
 なぜって、女性にだって浮気する人はいるし、論理的で感情を抑えられる人はいるし、男性にだって浮気しない人や、感情的な人はいるから。

 要は、「女は〜」「男は〜」と十ぱ一絡げにするのがよくないという、いわゆるジェンダー論に繋がってくる。

 私がジェンダー(社会的な性)論を大学時代に一般教養として学んだ(だけなので、深くない知識で申し訳ないけれど)のは、もう10年以上前のこと。
 あれから時が経ち、イクメンなんて言葉が生まれたり、そのあと男女ともに我が子の育児に参画するのは当然なのだから、イクメンという言葉が存在すること自体がおかしいという論争も生まれたり生まれなかったり・・・と男女での役割の意識はどんどん変化してゆくのに加え、メイクをする男性が若い人の間で出現するようになったり、近年の女性の理想の体像を覆すように、ビッグサイズ専門のモデルが人気を博して、そのままのそれぞれの体を愛そうという動きがあったりと、体に関する美の意識も、男女でくっきり分かれなくなったり、固定概念に当てはまらない考えが増えてきていると感じる。

 時代によって、何が美しいとか、何をよしとするかとかの価値観は変わってゆくものだけれど、画一的でなくなっているのは事実だ。

 さらに、LGBTQの方達への意識も高まってきており、以前よりも性(身体的性も社会的性も)のあり方は多様化している。
 けれど結局は、あの10年以上も前に学び舎で教わったジェンダー論の根底「男とか女といった紋切り型で考えてはならない。個々人、人それぞれである」という本質により近づいていると言える。

 彩瀬まるさんの最新作「川のほとりで羽化するぼくら」を読んでいたく感動するのは、特に男女における、世代間で存在する性(特にジェンダーの方)への意識のギャップ、時代ごとに存在した性への意識の歴史を踏まえた今の流れ、この温度感を見事に表現しているところ。

 そして、男らしさ、女らしさ、というみんなの共通認識がガタガタと崩れてゆく中で、私たちがどうありたいか、に寄り添ってくれている。

 と同時に、私たちに問うてもいる
 「男性らしさ」と「女性らしさ」の境界線が曖昧な現代、それでも残る性差はなんなのか。境界線が曖昧な中、それでも人が人に惹かれるというのはどういうことなのか。

 一方で思うのは、従来の「女性らしさ」「男性らしさ」のにも魅力を感じて、愛する人たちももちろんいるということだ。私もその気持ちはわかる。
 いわゆる画一的な「女性らしさ」の例で、艶やかで長い髪、曲線を描く体のライン、といった身体的特徴も、ああ美しいなぁと思う。

 そして個人的には、私自身がベリーダンスという「女性らしさ」を凝縮したようなダンスを長年やっていることもあり、従来の「女性らしさ」に込められた美しさ、芸術性に魅力を強く感じている。それは、しなやかな手つきであったり、艶かしい腰の動きであったり、全身をくねらせるその妖しさであったりキュートな仕草であったりだ。
 一見、セクシュアルな意味合いに取られやすいこうした動きの特徴も、私にとっては「女性らしさ」という名がつけられた一つの型、一つの表現だ。こういった型・表現を、男性を誘うためとか、そういったものから離れて、ただ芸術の観点から美しいと感じて、ダンスの中で楽しむのも一興ではないかと思うのだ。

 話が少々、逸れてしまった・・・。

 何を言いたいかというと、昔は、その時代その時代で背負わされた「男」や「女」という画一的な性に、生まれた時から「なっていて」「そうあり続けるべき」だった。
 でもこれからは、従来の「女性らしさ」「男性らしさ」を押し付けられることから解放されて、自分が心地よかったり好きだと思うあり方がそのまま受け入れられるとともに、時には、従来の「らしさ」を、完全否定するのではなく、あくまで選びうる表現の一つと考えて、オケージョンによっては纏ったり(例えばファッションとして)楽しんだり(例えばダンスとして)を男女の枠を超えて、誰もが好きにできる自由もあると考えられたら、さらに広がりがある世界なのではないかと思う。

 そして、最後に残される「らしさ」は、特別無理することもない各々の「その人らしさ」なのだと皆が思えて、「こうあるべきだ」をこえ、「こうあってもいい」をこえ、「どうあってもそのままを楽しむ」となれば、私たち人は、もっと多様でもっと自由でもっと軽やかでもっと深みのある存在になるに違いない。


#読書の秋2021  
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#ジェンダー
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