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1995 ネパール -1-
遂に、という言葉しか思いつかない。やっと、ではない。
私は遂に、ネパールはカトマンズに到着した。格安航空チケットを手に入れるため、バンコクを経由してネパールを目指したのが、1995年8月。意気揚々と旅行代理店に向かい、カトマンズ行のチケットを握りしめる予定だった。
バンコクには長くても一週間か。いや、万が一と言うことも考えて、3ヶ月のビザは取っておこうか。。
思ったことは実現するとはこの事で
1995 ネパール -2-
飛行機の窓側の席。着陸まであと少し。外を眺める。いや、これは。。
空港というものは広く開かれた所にあるものだと思っていたが、カトマンズ空港は盆地にあるようで、ラーメン丼ぶりの底というよりも、ワイングラスの底に滑空していくようなスリルを感じる。
因みに、私が一番ストレスを感じたのは、この一見無理とも思える着陸ではない。ネパール人が全く着席せず、歩き回り、井戸端会議をそこここでして、機内アナウンス
1995 ネパール -3-
空港で出会った関西弁を話すネパール人のオジサンは恐らくはかなりエッジが効いていたのだ。その後は多くの場合、英語で話して何の不自由もなかった。流石はエベレストを筆頭とする観光立国だと唸らせられた。
私が泊まるホテルを紹介してくれた彼は、近所の食堂に連れて行ってくれたり、面倒見が良かった。
ホテルの部屋は3階あたりだったか。勿論階段しかない。毎日ロビーと部屋を行き来する。メイドさんがマメに掃除をし
1995 ネパール -4-
何で?なんで結婚しないんだヨ!?
沈黙、膠着、押し問答。
果たして、俺は、無事にここを脱出できるのか。。。
メイドさんと約束をした日、待ち合わせて彼女の家にに向かう。歩いて行った位だから、カトマンズの市街地だったのだろう。
ドアを開けて驚いたのは、部屋の天井の低さだ。そして、暗い。裸電球。
私は既に3ヶ月、まぁ、もっと長い間彼女もいなく、禁欲生活を良しとしていた。それもあって、正直、ハプニン
1995 ネパール -5-
カトマンズからチトワン国立公園を目指す。念願だったタルー族に会えるのだ。
そもそも、なぜ今回ネパールに来ようと思ったのかと言えば、当時久米宏がキャスターをしていたニュースステーションで、タルー族の民族衣装を紹介していたからだ。動機が単純過ぎて恥ずかしい。
ただ、余りにも美しいその民族衣装は、私をネパールに誘った。ただこの目で見たい。それだけのために、日本を離れた。
カトマンズからチトワン国立
1995 ネパール -6-
細かい会話は覚えていないが、宮沢りえは私の助けを必要としていた。彼女はチトワン国立公園に滞在していて、そのホテルなのかバンガローなのか、そこにパスポート他貴重品を忘れてポカラ行きのバスに乗ってしまったらしい。
そのことは、ポカラ行きのバスが途中休憩で立ち寄った、いわばドライブインのような場所で知らされる。
私はたまたまポカラを拠点にしていたキムタクに似たガイドさんとチトワン国立公園で仲良くなっ
1995 ネパール -7-
ポカラについて、私がやりたかったことの一つ。それは、ヒマラヤ山脈を見ながらポカラ湖で船に揺られながらギターを弾くこと。
楽器や歌や踊りは、その国や地方のエッセンスが詰まっていると思う。あるいは、初対面の知らない者同士の共通言語を見つける近道だと思う。
そんな事はあとから分かったのだが、暇を弄ぶことのないように、海外の一人旅ではとりあえずフォークギターを必ず持ち歩く事にしていた。
タイにいたと
1995 ネパール -8-
キムタクと宮沢りえはどうやら恋に落ちたようだ。まぁ、私から見てもどちらも美男美女だし、宮沢りえは気になる存在では有りつつも、私の出る幕はない、とそう思っていた。
が、出番が回ってきた。しかも、トンデモナイ頻度で。出る幕どころか、幕が閉じる暇もない。もはや、出ずっぱりの主役級とも言える。そして、私が演じることになった役は天使であった。
コンコンとドアをノックする音が聞こえる。
Come in!
1995 ネパール -9-
もし私にとっての宮沢りえがチトワン国立公園の宿に貴重品を置き忘れていなければ、宮沢りえと同じバスでポカラに向かっていたとは言え、私はチトワンで知り合った俺のキムタクとポカラで再会を果たすため、宮沢りえとはバス停で別れたはずだ。
彼女が貴重品を忘れたことがきっかけとなり、私を通じて宮沢りえとキムタクの接点が生まれた結果、彼らの人生は大きく変わることになる。
その二人に偶然関わる事となった私は、運
1995 ネパール -10-
私にとっての宮沢りえとキムタクに静かに別れを告げて、別の宿を見つけた。椅子しかない殺風景な屋上テラスだが、宿が小高いところにあるため、そこからの眺めは中々良かったので、そこでダラダラ過ごす事にした。
もう、あの二人に出くわすのが半ば怖くて街中にいくのが億劫になっていたのだ。
そのホテルで私は生まれて初めての産みの苦しみを味わう。タダより怖いものはないということも知った。
そのホテルに食堂はな
1995 ネパール -11-
アレ?
そう言えばここのところご無沙汰だ。例のチャパティ食べ放題の食堂に通い始めて数日が経って気がつく。
ま、まさか。。
そのまさかがこんなにも恐怖となって襲いかかってくるとは。
タイにいた時は、とりわけ辛いわけでもない料理であっても、食べた後にトイレにて催すモノは、ほぼ水のようなもので、紙のお世話は不要。ハンドウォッシュレットだった当時、むしろありがたい程であった。もし固形だとしたら、私の
1995 ネパール -12-
もうかれこれ何日目だ。オシリからコンニチハ!の声をとんと聞かなくなってから。コンニチハ!はしないものの、ヤツらがそこに隠れていることは間違いない。顔は見せないが存在感は抜群だ。
次第に何とも言えない体調不良感が出てきた。最初は軽く考えていたが、事の重大さを感じるようになって来た。
さて、と。。。
いよいよやるしかないな、これは。
私は意を決し、ヤツが潜んでいるハズの棲家をこちらから訪ねること