おがわしょうじ

株式会社オガラボ代表の小川祥二です。

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最近の記事

シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのろく

曖昧で極私的な思い込みと記憶なのかしらん? 前回のをも少し詳しく。 竹中さんに声をかけた後、社長は「シティボーイズショー」を観るように勧める。 観終わってから、竹中さんは「自分はあなた方のコントが好きです。でも、自分よりもっと好きになった友人がいます。」みたいなことを言ってその友人が作家だと伝えたのだ。役者臭というか、演技を積み重ねていって笑いを作っていくというやり方に同志として魅力をかんじたんでしょうかね。 宮沢章夫さんは竹中直人さんと多摩美術大学の同級生。一緒に8mm

    • シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのご

      だんだんと曖昧になっていく記憶をたどったり思い込みだけで書いてみる。 竹中直人さんが人力舎に入る経緯は諸説あるのね。 「お笑いをやりたがってる奴がいるので会ってくれ」とディレクターに紹介されたと社長から聞いた気がする。 が、その話をしたら、「あいつ、人力舎に紹介したのはオレだぜ。」とミスター梅介さんに怒られたことがある。 錦糸町だか新小岩のスナックの営業で一緒になった時に「面白ぇ奴だなと思って玉川さんに紹介したんだよお、べらぼうめ!」と。 TBS「ギンザNOW!」の「素人コ

      • Uという女

        その女とはシティボーイズがやった池袋PARCOのイベントで知り合った。仮にUとしておく。西武グループ系のイベント会社に勤めていた。 PARCO…、田舎者である自分にとっては完全にオシャレに響く魔法の言葉。 そのUは尋常ではない熱量でイベントを成功させようとしていた。台本があがってくるといちいち足を運んできて確認してくれといってくる。やたらリスペクト感強い。 実はわたし大ファンなんですよお。 と言ってくる。何故シティボーイズなのか?という企画書めいたものを見せられた。やたら長文

        • シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのし

          記憶。曖昧。適当。自分で聞いたやつだけ。 備忘録でしかないやつ。 「シティボーイズ」は人力舎所属する以前、何回か「シアターグリーン」でやっている。 ある回、市村さんに声をかけられて出かけていくと「予告編大会」みたいなものをやっていた。シティボーイズは冒頭に少し喋っただけだったと思う。呆れて記憶が曖昧になっている。これは色々な劇団が10分ずつ芝居のダイジェストみたいな予告編をやるだけというもの。知らない劇団ばかりだった。シティボーイズの三人の小劇場時代の煮こごりみたいなカンジ

        シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのろく

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのさん

          だんだんと曖昧になっていく記憶をたどって書いてみる。 前回でシティボーイズの名は、つかこうへい野球チームの名前だと書いたが(だってそう聞いたんだもん)、長谷川康夫さんの本「つかこうへい正伝」で興味深い記述を見た。 「劇団暫」の公演がない時頻繁に野球をやっていた。その野球チームの名を劇団主宰者の向島三四郎さんが「田園シティボーイズ」と名付けていたのだ。こちらの方がつかさんの野球チームより先だった。 「田園」と「シティ」のアイロニー。 三四郎さんに聞いたことがある。 「自分らの

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのさん

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのに

          だんだんと曖昧になっていく記憶をたどって書いてみる。 シティボーイズが人力舎に所属するまでを書いた。毎月決まったギャランティを保証することと定期的に舞台をやることが条件だった。 が、その頃の人力舎では、定額のギャランティーを支払っている場合は、実質「バンス」という形態になっていた。「バンス」=前借りですね。「上海バンスキング」なんてえ舞台も映画もありましたが、戦前戦中のジャズマンの用語でさあります。 つまり、仕事をして収入がなければ本人の借金が増えていくだけ、しかも会社のお

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのに

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システムのこと そのいち

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム だんだんと曖昧になっていく記憶をたどって書いてみる。 「あの3人、食えないからお笑い芸人になるんだって。きたろうさんが言ってた。」と市村朝一さんに聞いた。あの3人とは大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさんのこと。共に「劇団暫」での自分の先輩だ。 当時東宝芸能に入っていた市村朝一さん。その前は田宮二郎さんのマネージャーをやっていた。劇団暫の役者から制作に転向していて、よく着ぐるみショーのアルバイトを斡旋してもらって

          シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システムのこと そのいち

          MUTE BEATとかマルセ太郎さんとか

          J-WAVE深夜の「Tokyo M.A.A.D SPIN」は好きな番組。特に毎週火曜日の高木完さんの日はほぼ毎週聴いている。1月30日と2月6日は元MUTE BEAT のこだま和文さんがゲストだった。 MUTE BEAT好きだったなあ。いろんなことを思い出したよ。 86年。シティボーイズに、渋谷で同時多発的にやるイベントの出演依頼があった。 オーバーヒートレコードという会社だった。 ミドリヤの店頭でネタをやってくれてとのこと。雑踏の中でネタなんかやっても誰も聞いてくれないで

          MUTE BEATとかマルセ太郎さんとか

          ある新入社員

          名前はNとする。何年だったかも忘れたのだが、ある日社員募集という情報を知ってある男が会社に来た。 社長面接を側で聞いていたが、真面目そうだが暗い雰囲気で喋りも訥々としていて、なんかなあ、コミュニケーション能力が低そうな雰囲気。 社長は採用するつもりだという。 いやいや、続きませんよお。暗いですよ。 「でもな、広島大学出てんだぞ、あいつはよ。」 学歴関係ないって、社長言ってたじゃないですかあ。それに暗くないっすか? 「人間変わるもんだぞ。」 そりゃそうだけどさあ…。 と、あっさ

          はるか昔の地震の話

          地震の記憶 1964年の6月16日新潟地震があった。13月1分。マグニチュード7.5。震度5だったという。 同年6月6日から11日迄新潟国体があって、うちには他県の陸上の選手が泊まっていたりしてなんだか盛り上がっていたような気がする。 小学校3年生だった自分は、その国体で市内の小学生が強制参加されられた「雪ん子の春」なんてマスゲームが嫌でたまらなかった。 その頃は友達もいなく孤独だった。もともと入学式から1ヶ月間怖くて登校拒否していたくらいの内向的な性格だったのだが、なんと

          はるか昔の地震の話

          南部虎弾さんの訃報

          電撃ネットワークの南部虎弾さんが亡くなった。 もう40年近く前、キムチ倶楽部の頃に初めて会った。六本木のバナナパワーだったと思う。キムチ倶楽部は南部さんと後にダチョウ倶楽部になる上島肥後寺門の4人組。 迫力のある変な人だという印象。頭をぶつけたら鼻から髄液が流れ出たとか、稽古中の理不尽な発言などのエピソードもたくさん聞いた。 その後円山見番寄席でも一緒になった。今と違って若手の芸人の数が少なかった頃だったこともあって、何か現場があるとしょっちゅう顔を合わせていた気がする。飲み

          南部虎弾さんの訃報

          今野さんのこと追加/いろいろとキャスティングの話。

          今野さんのこと②/いろいろとキャスティングの話。 やがて今野さんは事実上定年ということになった。 そして今野さんは俳優業に転向して人力舎所属タレントとなる。 というのも、その前から今野さんには元芸人というキャラクターもあったので、たびたび何らかの出演の依頼が来ていた。 ビシバシステムは、「東京バビロン寄席」だったか「人力舎祭り」だったか「バカ爆発!」だったかで出演オファーをした。 昔取った杵柄、というより生活のタツキであったSAXをネタで吹いてほしいとのこと。 カッコつけた

          今野さんのこと追加/いろいろとキャスティングの話。

          養成所13期生のこと

          養成所13期生の時のある日。 当時自分は養成所の運営と、ライブ「バカ爆走!」の制作をまかされていた。 前任者が作ったライブの中のコーナー「ワイルドカード」のネタ見せも毎月やっていた。ネタ見せとはいわばオーディションのことね。 このコーナーは、人力舎所属以外の芸人たちが出演して1対1のネタバトルをやる。審査員は観客。5回勝ち抜くと「バカ爆走!」のレギュラーになれるという企画だった。おぎやはぎもこのコーナーがきっかけで人力舎所属となった。 まだ他事務所が積極的にお笑いライブをや

          養成所13期生のこと

          ネタバレありの極私的映画感想不快な思いさせてすいませんゴジラ

          自分は多分「へそ曲がり」って奴なんだろうと思う。人がいいと言ったものにはなにか懐疑的に見てしまう傾向にある。 素直に楽しめないのだ。 「ゴジラ−1.0」がそうだ。 凄く評価高いのは理解している。自分自身も映画そのものを楽しんだ。ポイントでは涙したりした。 が、やはり「シン・ゴジラ」と比べてしまっていた。 ここからはネタバレもするし、手放しで面白いと思っている人はこっから先は読まないで欲しいのね。あくまで個人の意見なので怒らないでよ。 飛び降りがあった翌日の新宿TOHOシネ

          ネタバレありの極私的映画感想不快な思いさせてすいませんゴジラ

          今野さん

          今野さんのこと。 千駄ヶ谷ルノアールでの社長面接の後、話があるから事務所に来いとのことで初めて人力舎に行った。給料のこととかかなあ? 東中野駅から電話をして場所を聞く。訛りが凄くて聞き取り辛かったがチャンポン屋の2階というワードでなんとかたどり着いた。イソベコーポ。 おじいさんが迎えてくれた。強い東北訛り。あとで山形弁とわかる。 「そっかそっか、腹減ってるかあ?」 いや、それほどでも。 と、断ったが、シミだらけの汚ったねえストーブの上で餅を焼き始めた。 なんのシミかしら?

          上京して演劇と出会う/パレスチナ

          大学受験に失敗して上京した。予備校通いながら初めて観たお芝居が「劇団暫」だった。兄の勧めだった。何かお芝居観たいなあといったらすすめてきた。兄のいる早稲田大で人気の劇団だと聞いた。 大学の隣りにある予備校に通っていた。大学校内でチラシをもらったので行こうと思った。 小中学校で同級生だったが中学の途中で転校していった協子ちゃんを誘って観に行った。ちょっと好きだった。 早稲田の6号館、国際学部の屋上に、69年くらい、学生運動の頃に長屋のように不法建築のアトリエが建てられていた。学

          上京して演劇と出会う/パレスチナ