今野さん

今野さんのこと。

千駄ヶ谷ルノアールでの社長面接の後、話があるから事務所に来いとのことで初めて人力舎に行った。給料のこととかかなあ?
東中野駅から電話をして場所を聞く。訛りが凄くて聞き取り辛かったがチャンポン屋の2階というワードでなんとかたどり着いた。イソベコーポ。
おじいさんが迎えてくれた。強い東北訛り。あとで山形弁とわかる。
「そっかそっか、腹減ってるかあ?」
いや、それほどでも。
と、断ったが、シミだらけの汚ったねえストーブの上で餅を焼き始めた。
なんのシミかしら?
その間にお茶を淹れてくれた。
焼けた餅を洗わない手でぱんぱんやって皿にのせて醤油をひとたらし。
ほら食え。
結局餅は食べられなかった。
社長は近所に出かけているらしい。マルセ太郎さんという人と打ち合わせだと。
親子くらい世代の違うひととの二人っきり。まことに気まずい。
それが今野さんとの初対面だった。

今野さんは元芸人さんだった。
ポンコツ四重奏団というコミックバンドのサックス担当であり、リーダーでもあった。けっこうスターだったと聞いた。自分は全然知らなかったが。
九重佑三子版ドラマ「コメットさん」のゲスト主役になったこともあったという。
ドラマのレギュラーの話もあったが、北海道巡業とスケジュールがかぶり、メンバーの生活があるから断ったとのこと。
デスクと経理を任されていたが、さすが元芸人だけあってまことにいい加減。なのに細かいことでけっこう怒ってくる。一度、「この役立たず!」と罵倒されたこともあった。が、ショックだったが不思議と腹が立たない。
仕事の内容を聞いても、毎回「行けばわかっから」ばかりで全然要をえない。しかも強力山形訛り。
ブッチャーブラザーズに聞いた話。名古屋での仕事で、内容を聞いても「行けばわかっから」の一点張り。
行ってどうすればいいんですか?と問えば、
「えきがあっからそこで待ってろ」と。
いやいや、名古屋駅だし。ありますよ。「だがら、えきがあっから待ってろ」と。
いやいや、駅はわかりましたよ。待ち合わせ場所は駅のどこですか?広いですよ。
「だーがーらぁ、えきがあっから!」
もう、しょうがないからとにかく行くだけ行こう。業者の方がうまく拾ってくれるだろう。
携帯もない時代。会えなかったら仕事に支障をきたす。不安を抱えながら名古屋駅到着。新幹線の改札をでて前を見てアッと驚いた。これかあ。
今はすっかり変わってしまったが、当時の名古屋駅、新幹線改札を出た向かいに何やら大きな壁画がある一角があった。待ち合わせ場所としてよく利用されていたのだ。
壁画、へきが、えきが。壁画があるから、えきががあっから。
ただ訛っていただけかあ!
社長が強力な青森(南部藩)訛り、今野さんが強力な山形訛り、先輩マネージャーの相沢さんは訛ってないが宮城県出産。
東北人ばかり。
地方のイベンターに今野さんが電話をする。
「もすもす、こつら東京のぉ、ずん力舎ですけどぉ。」
どこが東京だい!
「お宅の事務所に行くとさ、なんか懐かしい気分になるんだよ。」と、いろんな人に言われた。
あら、どちらのご出身ですか?
「長野だけど。」
全然違うじゃねえか! とか。
いつもこの懐かしささえ感じる訛りでなんか憎めなくなってしまうのだ。なにがあっても。
「ひょうきん族」で有名なフジテレビ横澤彪プロデューサーが今野さんを探しまくっていた事がある。今野さんは「ここにいることは絶対内緒にしとけよ。ぐへへへへ。」と笑っていた。何があった?
今野さんのエピソードは枚挙にいとまがない。

ビシバシステムにいい感じに仕事が入っていた89年に特番ドラマの仕事が来た。
「ウルトラマンを作った男たち」。制作会社はオフィス・ヘンミ。実相寺昭雄原作。主役は三上博史。実相寺監督の半自伝的ドラマだった。ビシバの住田はイデ隊員、西田はアラシ隊員役だった。この作品はオンエア後、ATP賞グランプリを獲得する。
ここでやらかしてしまった。
撮影も半分終わったころ事件はおきた。
前日自分はミスター梅介の仕事。いつものように仕事終わりで一杯いった。しこたま飲んで25時過ぎ就寝。
朝電話をもらう。5時半だ。酒はまだ残っていた。西田からだ。
「今ロケ地の三崎いるんだけどスタッフ見あたらないんです。」
三崎? いや今日は別な場所でしょ。何やってんの?
「え?昨日確認したらここだって。」
はあ?
当時はタレントも少なかったので、事務所に「念押しノート」って呼んでいたものに全てのスケジュールを書き込んで、誰が見ても把握できるようにしていた。タレントは前日に必ず事務所に連絡するのだ。マネージャー個々が手取り足取りスケジュールを伝えていなかったが、なんでこんなことになったのか? 電話で確認していればこんな事態には絶対ならないはずなのに。
三崎から向かっていたらだいぶ時間もがかってしまう。やばいぞ。
暫くして助監督から電話が。怒っている。
今向かっていると伝える。
2時間後西田から電話。着いたけどいないと。はあ?
その後助監督から怒りの電話。まだか!?
着いたらいないって言ってます。
「ロケ場所変更、昨日連絡しただろうが!」
聞いてないよお…。どこすか?
「てめえ、今すぐ来い!」
ひいぃ、はいぃ。
西田から電話。やっと正確な場所を伝える。そしてロケ場所に向かう。
世田谷のとある河川敷。ビシバのふたりは既にロケの真っ最中だった。
空き時間に助監督が鬼の形相でこっちに来る。殴られると思った。けつの穴がキュッどなった。今石炭入れたらダイヤモンドになるな。結局殴られなかったが罵倒され続けた。
5時間遅れでビシバは入ったという。
ロケが終わった瞬間、ありえないくらいの量の雨が降ってきた!
ゾッとした。
あと5分遅ければ再撮とか取り返しのつかないことになっていただろう。
雨の中びしょびしょになりながら平謝り。
殴られないだけマシだと思っていた。
さて、その後事務所に行きましたよ。確認しましたよ。どうしてこうなったか?
どうやら今野さんが西田に前々日のスケジュールを伝えてしまったらしい。
こ、今野さあん、そりゃないよ。
「ぐへへへへ。」
あったまきたが、笑い顔を見ているうちに怒る気にもならなくなっていった。
この人ならしょうがない。なんでこうなったの?

その4年ほど前の事だ。現場から事務所に戻ると来客が。蝶ネクタイの上品そうなおじいさんがいた。鈴木さんといった。
今野さんの昔の仲間、軍隊にいた時に楽隊を一緒にやっていた、いわば戦友だとのこと。軍楽隊ほどのエリートではなかったらしいが、あちこち慰問に行っていたらしい。詳しいことは聞かなかったが。
聞けば、経団連のトップらへんの人たちと仲がいいらしい。大企業の名前がばんばん出てくる。土光とか井深とか稲山とか守岡とかの名前も。
で、間近に迫ってきた「つくば博」、正式には「国際科学技術博覧会」、そこでのアトラクションでいくつか相談を受けているのだという。
今野さん、すこぶるご機嫌のご様子。
詳しくは知らないのだが何回か上品ジジイが来社しているうちにとんとんと話は進んでいったみたい。
新会社を作った。今野さんの息子さんが社長のイベント会社だという。
息子さんは新宿コマ劇場に所属していた。いわゆるコマ劇ダンサーズ。
コマ劇場での北島サブちゃんやら小林さっちゃんとかの歌手の興行ではアンサンブルとして出演していた。第一部がお芝居、第二部歌謡ショーのパターンが多かったので、ダンサーやコーラス以外に役者としても出演していた。歌もダンスも芝居も一流と言ってもいいと思う。
それを投げ打ってきた。
今野さんを陰で「コンジイ」なんて呼んでいたが、息子さんは「コンオジ」なんて呼んでニヤニヤしていた。
そしてどんどん準備は進む。打ち合わせにつぐ打ち合わせ。おしゃれジジイの持ってくる案件は実に細かい。芸人、バンド、歌手などのキャスティング。スケジュール調整。
けっこう儲かりまっせ、こりゃ。自分は所属タレントのことばかりやって手一杯だったので、売り上げにさほど貢献できなかったので悔しかったなあ。
そして、つくば博まで1ヶ月近くになった時、急におしゃれジジイが顔を見せなくなった。あれ?
「なんか忙しいんだろ。」と今野さん。
だが、どうしても確認しておきたいことがあったので直接主催に電話してみた。
「そういった企画はありません」「そんな人知りませんが」
…………。
これ、だまされたんじゃね?
おしゃれジジイ、目の前で電話してたよな。言ってたとおりに開催の詳細が展開していったよな。おしゃれジジイ、蝶ネクタイ毎回替えていたよな。
結局全部嘘。
おしゃれジジイにいくら払ったかわからないが、今野さんの息子のために新会社を作っていろいろやることで一千万以上は使っているはず。
大変だこりゃ。
内心はどうかわからないが社長は何事もなかったかのように淡々と事後処理していた。
大赤字の原因を作った今野さんは暫くはしおらしくしていたが、1ヶ月もしたら相変わらず「ぐへへへへ」と笑って屈託のないご様子に。
先輩マネージャーの相沢さんだけがずっと「許せねえ」と言っていた。「クビだろ普通は。」とも。
だよね。一千万だもんね。息子さんの生活奪ったんだもんね。
自分は、今野さんのやることだからなあ、なんだか怒れないんだよなあ、と思っていた。ただなあ…、この会社大丈夫か?潰れねえか?
結局我が社に来たつくば博の仕事は少なかった。
自分とつくば博の関わりは、間下このみのトークショーで桂竹丸とぶるうたすコンビで司会をやった時に現場に行っただけ。どこのパビリオンだったかはちいとも覚えていない。
イベント終了後、真っ暗な舗装もされていない駅への道を客と一緒に帰りながら、せこい博覧会だなあって思った。
パビリオンは明るいが周りは真っ暗。
そんなもんだよなあ。会場全体が煌々と明るく輝いているわけじゃないんだ。「科学技術」って……。
この「つくば博」事件から今野さんは、表面的には通常運転のままに見えたが、今考えると仕事に対してどこか熱を失っていったような感じだ。
そんなこともあったので、ビシバシステムのドラマの「やらかし」も今野さんのせいと責めることはできなかった。腹もたたなかったし。
このあと、護送船団方式というか、来た仕事は事務所の仕事という感覚はやめてマネージャー個人が仕事の確認するようになった。
「念押しノート」の役割りも薄くなっていった。
外部タレントに割り振っていた仕事も少なくなっていったことも原因の一部だ。
自分が入社して、新人育成に力を入れるようになったことも原因だろう。
エージェント形式からプロダクション形式に変わっていったのだ。
つまり「デスクの今野さん」というピースの役割も薄くなっていったのだ。

昭和天皇崩御が1989年1月。「ウルトラマンをつくった男たち」同年3月放送。 
今野さんは大正15年だったか昭和元年に生まれている。
なんかさあ、まるで昭和とともにフェードアウトしようとしていたみたいだった。

だが今野さんはこの後役者の道を行くことになったんだよ。

今野さんのことを考えているとその他のへんな記憶が呼び起こされてくる。
今野さん、面白い人だったなあ。
池上本門寺にお墓があるが一度も墓参りに行ったことがない。

今野さんの話はまだまだたくさんあるのだ。

この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,445件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?