シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのご

だんだんと曖昧になっていく記憶をたどったり思い込みだけで書いてみる。

竹中直人さんが人力舎に入る経緯は諸説あるのね。
「お笑いをやりたがってる奴がいるので会ってくれ」とディレクターに紹介されたと社長から聞いた気がする。
が、その話をしたら、「あいつ、人力舎に紹介したのはオレだぜ。」とミスター梅介さんに怒られたことがある。
錦糸町だか新小岩のスナックの営業で一緒になった時に「面白ぇ奴だなと思って玉川さんに紹介したんだよお、べらぼうめ!」と。
TBS「ギンザNOW!」の「素人コメディアン道場」での破壊的ブルース・リーモノマネでチャンピオンになった後、NTV「TVジョッキー」などの素人参加企画に出演したりした後に誰かが声かけて仕事を回したんだろうなあ。
目ざとい人がたくさんいるのがこの業界。これいけそうだと思えば安いギャラを提示して間でピンハネするのね。

社長はさっそく東中野の事務所の近くの稽古場でネタを見る。
「東中野会館」という、町内会費さえ払っていれば誰でも使える場所。最近あまり見かけなくなったけど、昔はどこの町内会でも持っていたよね。お祭りの打ち合わせとか踊りの稽古とかで使っていたりしたような場所。軽いステージもある。
もひとつ、「新日本文学界」というお堅い雑誌を作っている出版社が稽古場として倉庫を貸していた。そこは「劇団暫」でもシティボーイズでもよく使っていた。
ここで思い出したことがある。ある女優さんが舞台で使ってみてはどうかと、発売されたばかりのサザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」を持って来た。つかこうへい方式で、「暫」も稽古場には小さいレコードプレーヤーを持ってきていて、シーンに勢いをつけるためによく音楽をかけていたのだ。
この曲に真っ先に大竹まことさんが食いついた。
「何だこれ!めちゃくちゃじゃねえか!面白いな。」とご満悦。きたろうさんは気のないかんじで「おもしろいね。」と。斉木さんは何か蘊蓄を言いたそうだが無反応。岡本麗さんは「これいいわあ。」
大竹さんはさらに「うれそうじゃねえか。」とも言っていた。大竹さんは見る目があるのね。
それはさておき。
竹中さんのネタを見た社長は全然食いつかなかった。
「モノマネだけ?」
他所ではバカうけするブルース・リーも他のモノマネも全然ピンとこなかったんだと。
なんせ人力舎の精神的支柱・マルセ太郎さんがモノマネがイマイチ好きでない。
猿の携帯模写で往年はテレビで引っ張りだこだったのに……。
笑い話でまことしやかに語られているのだが、マルセさん、ある営業現場に行ったら、舞台も作ってなくて、木が一本植えてあるだけの場所だったとか。
パントマイムから芸人人生に踏み出したマルセさんの携帯模写が、いかにリアルだったかを物語る笑い話である。
猿の携帯模写も、実は「人間には猿型人間と鳥型人間がいて立ち居振る舞いで分類される」というテーマのネタがあるからやっていたんだとのこと。
つまり、マネてるだけじゃダメなんだよと。
「他になんかできることあんの?」と社長。
「自分、役者なんで演技はできます。」と竹中さん。
これには社長、驚いた。当時のお笑い界としては演技ができることが凄いことだったと社長は言っていた(今では全然普通のことだと思いますけど)。
ま、それもそのはず。竹中さんは既に西田敏行さんも所属していた「劇団青年座」の座員だったのですよ。
で、どんな演技ができるのかいろいろやってもらう。
酔っ払いの演技が面白みがあるので、酔っ払いがいろんなモノマネしたらどうだろうか?と社長がアイデアを出す。竹中さんが電車の中という設定を足して、さらに吐きそうになるが呑み込む演技も足していく。
ただのモノマネに変な人というキャラクターが足されたのだ。
そんなふうにしてネタ作りをしていったんだと聞いた。
有名になった後トーク番組なんかに出演した時には、常に何かしらのキャラクターを演技していた。素の自分で出るようになったのはだいぶ後のことだったと思う。
つまり最初っから芸人ではなかったのだよ。面白いことができる役者さんだったのだよ。面白いキャラクターを完璧に演じられた。これ、重要。

そして玉川社長はテレビ朝日「ザ・テレビ演芸」に出演させようと計画した。ちなみにテレビ朝日は玉川社長の原点とも言うべきテレビ局。テレビ朝日に出入りするようになったので独立して起業するきっかけを得たんだのね。これば別の場で書く。

そしてもうひとつ仕掛けを考えた。
当時の「テレビ演芸」は3週勝ち抜けばチャンピオンになるシステムだった。
1週目勝ち、2週目に勝ったあと、3週目の収録の時、雑誌や新聞の取材をたくさん呼んだのだ。かつて取材で知っている記者も全然知らない記者にも、片っ端から声をかけた。
これは私見なのだが、イッセー尾形さんが一躍時の人になったのは雑誌の力が大きかった。それを念頭に置いていたのだろう。
イッセーさん、「お笑いスター誕生!」からどんなに人気が出ても、CM出演で知名度が上がっても、自身の定期的な公演を頑なにキャパシティ180席しかない「渋谷ジァンジァン」でやることにこだわった。やがて公演は予約困難、プラチナチケットとなる。やがて「最もチケットの取れない舞台」と話題になる。それが転じて「これを観ておかないと遅れている」という空気になっていく。何か話題はないか?と常に情報を集めている雑誌編集者が食いつく。ある時期の雑誌のモノクログラビアはイッセー尾形さんばかり特集されたのだ。
これを狙った。
これがハマった。チャンピオンになった次の日の新聞、まだオンエアすらされてないのに記事になった。次の週には雑誌グラビア掲載。取材ラッシュとなり一躍時の人になった。
社長はアイデアマンだった。「そのに」で「怪物ランド」のことを少し書いたが、彼らは「お笑いスター誕生!」でチャンピオンになって一躍有名になるのだが、出演を強く勧めたのも社長だった。
「自分らチャンピオンになれますかねえ?」と不安になっている3人に、
「お前ら学生劇団だったろう。学生なら友達たくさんいるだろう。そいつら毎週収録に呼んで満員にしろ。笑えっていっとけ。」
4週目くらいから友達以外も笑っていたんだって。仕掛けを超えて成功した例だ。

さて、本筋に戻る。
話は前後しまくるが、その竹中さんが「シティボーイズショー」に出たのはチャンピオンになる数ヶ月前だった。人力舎での多分2回目の公演「シティボーイズの他ではできない大人の遊び」。観てないけど。
この稽古中に竹中さんが「同級生で作家やっている奴がいる。」と紹介してきた人間がいた。
それが宮沢章夫さんだった。

続くか。

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