はるか昔の地震の話

地震の記憶

1964年の6月16日新潟地震があった。13月1分。マグニチュード7.5。震度5だったという。
同年6月6日から11日迄新潟国体があって、うちには他県の陸上の選手が泊まっていたりしてなんだか盛り上がっていたような気がする。
小学校3年生だった自分は、その国体で市内の小学生が強制参加されられた「雪ん子の春」なんてマスゲームが嫌でたまらなかった。
その頃は友達もいなく孤独だった。もともと入学式から1ヶ月間怖くて登校拒否していたくらいの内向的な性格だったのだが、なんとかできた町内近場の友達も幼稚園の時一緒だった奴の父が、ま、いわゆる親分さんといわれる人だったせいで、なんであんな奴と仲良くしているんだよ!と取り囲まれて至近距離から石をぶつけられてから疎遠になっていた。反社と繋がっているのでSNSで叩かれるより物理面でも心理面でも傷ついた。
その日の給食の後の昼休み。ひとりで時間をつぶした後、教室でハンカチがないことに気がついた。校庭の砂場に落としたかな。
通っていた礎小学校は、新潟の下町中の下町。市内に堀が縦横無尽に走っていた頃は一番栄えていた場所のひとつだった。こんぴら通りには映画館が2軒もあった。100メートルくらいの商店街なのに。だから同級生にはお商売をやっている家の子が多かったな。八百屋本屋甘味屋カバン屋表具店下駄屋電器屋親分不動産屋医院歯医者小さい旅館薬屋瀬戸物屋etc.
ロの字形で囲まれた校舎。小さかった。運動会のかけっこで対角線でとったコースがやっと50メートルくらい。
その一角の砂場にハンカチを探しに行った時それは起こった。ごごごごごごって音が聞こえた気がした。
揺れた。立っていられなかった。
校庭がどんどん盛り上がって地割れができた。ギザギザ。北校舎と南校舎の踊り場の部分に1メートルくらいの段差ができてズリズリしてる。壁が落ちてきた。ガラスが割れた。ドーーーン!と音が聞こえた。体育館の向こうの空にキノコ雲がもりもりもりあがってきた。コンビナートの石油タンクが爆発したとだいぶ後に知ったが、キノコ雲イコール原爆と考えた。親父の影響で大平洋戦史なんか読んでたし。
広い所へ逃げようと表通りに出た。向かい側にある文具店いちまる(新井満さんの実家だという)の前のアスファルトの道のあちらこちらに地割れが走ったと思ったら水がどんどん吹き出し始めた。
校舎から十数人が、走り出してきた。
あっちだ!とか言っている。
つられて自分もついていった。
典型的な群集心理か。とにかく人についていきがちの子だったんだ。
旧他門川、秣河岸の方へ。国体前に市内の川や堀が埋め立てられて道路になったりしていたが、そこはやや広めの駐車場になっていた。舗装整備はされてないただの広場。友だちに石をぶつけられた場所のすぐ近く。
そこまで行った。が、やがて地下水が噴き出してしてきて水に囲まれて孤立してしまった。どこへも行けない。心細くて泣き出す女の子もいる。ただ同級生の鹿野くんだけは駐車している車の屋根に登ったりして楽しそうだった。
信濃川の向こう側のキノコ雲は噴火雲のように黙々と立ち上り続けている。不安なまま60分以上たったろうか、担任の梅津先生たちが助けに来てくれた。腰下まで水に浸かっていた。点呼とったらいないことがわかり探しに来てくれたのだと。
学校に戻り親からの迎えを待った。校舎はあちこちがガタガタで立ち入り禁止の場所があちらこちらにできていた。校庭は盛り上がり体育館は水浸し。校門の近くに大きな穴が空いていた。吹き出した地下水が引いてあけた穴だ。そこらじゅうが泥だらけだった。

母の迎えは遅かった。兄貴を先に家まで連れていったのだ。
家に着く。家の前に段差がある。1メートルほど家全体が隆起していた。お向かいさんの蝋燭屋で工場も併設している浜田さんの家は沈み込んでいる。
着替えていると右隣の紙業で貸本屋もやっているツバメ屋さんが、売っていたアイスクリームが停電で溶けるから町内の子供に無料で配っていると聞き飛び出した。
怖い経験した後の甘いものは無敵だね。
甘いものはいつでも最高だけど。
とにかく落ち着けた。
停電断水、ガスもこない。トランジスターラジオだけが情報源。
古くて大きい町屋造りの家だった。文化財的価値があると解体する時調査したら、天井裏の梁に「万延元年」と書いてあったらしい。あ、フットボールするやつ、って筒井康隆を思い出すよね。
だから大奥に出てきそうな燭台やら、平置きもできてカモイにもかけられる可変性燭台やら蝋燭もたくさんあって、照明には不自由しなかったな。お向かいは蝋燭屋さんだし。
夕飯をどうしたか全然記憶は無い。何やら非日常性にワクワクし始めた。
父親も帰ってくる。
父は、トイレ中に地震発生、前日の酒のせいで二日酔いでフラつくのかと思っていたとのこと。母はアメリカ軍の艦砲射撃が始まったと思ったとのこと。祖母は右手に箸左手に茶碗を持ったまま土間にころがっていたとのこと。
津波が来るというということで市内中心部の人たちは海岸の方まで避難したらしいがうちは避難することはしなかった。自分たちの迎えが遅くて避難する時期を逃したのだ。新潟中心部では海岸の近くが小高くなっている。今回の能登の地震の時もそこへ避難した人が多かったという。
で、先週聞いた話。
古町の元大和デパート後のビルが避難場所に指定されていてそこに避難した人も多かったのだが、そこまで行く体力のないお年寄りがたくさんホテルのイタリヤ軒に行ったという。ここは元々老舗の洋食屋が大きくなっていったところ。
そこではやはり市内では明天。ふかふかベッドやふかふか布団だけではなく、カレーやらシチューやらも振る舞われたという。
お年寄りたちの噂話は広まるのが速い。次の大地震の時はそこへ避難しよう、と。
楽しみだねえ、と。
何言ってんでしょう?

それはさておき新潟地震。被害のデテイルが分かってきてだんだんそれに合わせて生活を修正していった。
歩いてすぐのところには電気も水も通っていた。家から3分ほどの古町に行けば銭湯が営業していた。普通に生活ができている場所がモザイク状に市内で点在していた。
昭和橋は落ちたし市営住宅はドミノ倒しみたいに倒れていたが、ぜんぜん影響を受けていない所が多かったのだ。その状態が1ヶ月近く続いたように思う。
学校は再開されたが礎小学校自慢の給食施設は再開されなかった。水浸しになった体育館や北校舎とかは立ち入り禁止。
石油タンク火災はなかなか鎮火しなくてずうっと黒煙を噴き上げ続けていた。
家中の襖や障子の枠は平行四辺形になって取り壊すまで細い三角形の隙間が空いたままだった。
全国から衣料品が届いたがどれもボロ着だった。義援金が集まりそれで県民会館というハコモノができた。そこで高三のときマイルスデイビスのライブを観た。ピートコージーのギターが狂っていた。
この地震がキッカケのように、こんぴら通りは衰退していく。学校区の人口も少なくなっていき礎小学校は98年に閉校した。

後々新聞には、地震兵器なんて言葉が載っていた。高度成長期の無理な地下水の汲み上げが地震の被害を大きくしたのだと。液状化現象なんて言葉はまだ発明されてなかった。
震源地は粟島沖。能登の地震の震源地につながっている場所。地下水汲み上げでの影響はあったと思うが結局、新潟は所詮「潟」。川が運ぶ土砂と砂でできた所。砂の島だ。水と砂との闘いはつきもの。断層というトリガーがすぐ近場にある。ずうっと喉元に匕首をつきつけられてんのよ。
そして断層ってやつぁ全国にある。火山列島なんて言われてもいる。この国で安全なところなんかあるのかねえ?
「想定外」なんて成立するのかねえ?

新潟地震。その4ヶ月後に東京オリンピックは開催された。
国民は熱狂したが、まだ新潟は復興途中だった。

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