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共同体における善のうつり変わりとそれへの対処法

「官僚たちの夏」という小説がある。60、70年代の官僚を描いたものである。ここで描かれているのは求められる官僚像の移り変わりである。主人公の風越、そしてそれをしたっている庭野、鮎川、牧などは理想主義的官僚。つまり、「天下国家」を叫びながら日本を超越的に動かす意思を持つ官僚像として描かれている。その一方で片山という、合理主義的官僚、つまり、言われたことを的確にこなすことが官僚の役目であるというウェーバーの描いた官僚像を思い起こさせるような官僚像も登場してくる。

この物語は先ほども書いたように、60年代から70年代にかけて、次第にその求められる官僚像が変化していく仮定が描かれる。理想主義的官僚たちは天下国家のもと無定量、無定限に働き続ける。しかし、片山のような定量、定限に働く官僚たちが政治家たちにも評価され、組織内でも評価も高まってくる。そして今まで組織のなかでもてはやされていた理想主義的官僚たちは物語の終わりにかけて衰退をしていくというなんとも悲劇的な姿が描かれている。

この傾向は、学術的にも確認されているらしく、それに関する論文も存在するようだ。現実においても、理想主義的官僚は70年代に入るにつれ、衰退をしていったとのことである。

今まで善いとされていたものが、何らその姿は変化することがないのに、その善というものがすたれていく。社会、組織においてもよくある現象ではないか。これについて、哲学者のマッキンタイヤの「美徳なき時代」のなかで述べられている英雄社会における諸徳が呼び起こされる。マッキンタイアは過去の歴史を観察して、英雄とはその人そのものの徳と社会が求める徳が合致したときに英雄になりうるとしている。

これを用いると「官僚たちの夏」において描かれているのは、理想主義的官僚たちが持つ徳の衰退ではなく、その者たちが属している社会、組織の徳の移り変わりとして捉えられるのではないか。つまり、理想主義的官僚の善が失われたのではない、それが属している共同体の善が移り変わったのである。

上のような、アリストテレスに端を発する目的論的な解釈においては内的善と外的善を区別する。内的善はその人が持っている、精神だったり、思想だったり、目的であったり、それに基づく実践、あくまでその人の内部からもたらされるものであり、その人のなかで完結するものである。外的善は反対に評価、地位、名誉、金などのもののその人が属している共同体からもたらされるものだ。結果的に言えば、この内的善と外的善が合致したときに「善」というものが完成するのである。上にあげた、風越のような60年代の理想主義的官僚たちはその共同体が求める外的善と自らの内的善が合致して最盛期を迎えていたのである。

さて、ここで生まれてくるのは外的善が揺らぐ社会、組織、より抽象度を高めて言えば共同体のなかでどのように生きるのかということである。これについて、心理学者のアダムグラントが「オリジナルズ」のなかで紹介していたハーシュマンの長年の研究における分析が示唆的である。彼は夫婦、会社、政府などの共同体と自らに齟齬があるとき人間の行動は4つであることを長年の研究から導きだしたようだ。「発言」、「粘り」、「離脱」、「無視」である。「発言」とはその共同体を積極的に変えようと行動することである。「粘り」とはその共同体の状況を受け入れて耐えることである。「離脱」とは共同体から抜け出すことである。「無視」とは何もしないことである。これを先ほどの善の議論に還元してみると、共同体の外的善の移り代わりには、自らの内的善をそれに合わせるか、逆に外的善を内的善に合わせる努力をするか、自らの内的善と求める善が違う共同体からは離脱するか、そこで只なにもしないかの4択であるというように考えられる。

何らかの共同体に属する私たちは結局のところ自らの善を考え、そして属している共同体の善を捉える。そうしたうえで今一度自分はどうしたいかを考え、選択するということの繰り返しなのではなかろうか。ハーシュマンの言葉を借りると、4つの選択は「自己決定権が自らにあるという気持ち(コントロール)」と「積極的に自らの直面している状況に関わりたいと思う気持ち(コミットメント)」によって決まるのである。

「官僚たちの夏」における風越をはじめとする理想的官僚像の姿はある種悲劇的ではある。しかし、それはある一場面を捉えた物語のなかの話であって、彼らがその後どのように行動するのかまでが描かれているわけではないということは、まだ現在進行形で物語を生きている私たちが踏まえておかなければならないことだろう。

【参考文献】


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