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ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

ヘブロンは, イスラエルが1967年6月以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら2021年の今も占領し続けるヨルダン川西岸地区にある。西岸地区は, イスラエル「建国」(1948年)の際の第一次中東戦争終結後は イスラエルが同地区をも占領する1967年6月までヨルダンが占領, 統治・併合し(ただし国際社会の殆どはこれを承認していなかった), それ以前の1918年から1948年までは イギリスがガザ地区や今のイスラエル領などと共に占領・統治していた(1920年からは「イギリス委任統治領パレスチナ」)。この歴史的「パレスチナ」地域, 更にその前に遡ると16世紀以降はオスマン帝国の支配下にあったわけで, 要するに同帝国が第一次世界大戦で敗戦国の一つとなり, 大英帝国, イギリスが戦勝国の一つとなったという時代背景がある。因みにパレスチナというこの地域の呼び名自体は, 紀元前10世紀以前の遥か古(いにしえ)の時代にこの地に住んでいたペリシテ人の名が由来と考えられており, 既に古代ギリシャの作家たちが「パレスチナ」の名を使っていた由。というわけで, パレスチナの名称自体は歴史が非常に古い。ただ, いわゆる「パレスチナ問題」(については本 note 第2章)の歴史はそう古いものではない。せいぜい19世紀末以降に動き出したものであって, 聖書の時代に遡るような幾世紀にもわたる民族間の争いや異なる宗教の信徒の間の争いなどでは全くなく, 要するに近代の, しかも「欧米列強」(特にイギリス, そして1948年のイスラエル「建国」後はとりわけアメリカ合州国)に大いに責任がある問題である。

なお, 何の写真か分かりにくい本 note タイトル写真。その全体像(もまぁ分かりやすいものではないけれど)は, 第3章の1983年10月11日ヘブロン見聞録の中。

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2)。

筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年のイスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて 翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels", その名も「異教徒たち」に収録している)。 

話を戻して, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 1983年10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), ナザレから「ハイファに戻って」(note *8), そしてハイファから向かったのはテルアヴィヴ(note *9, *10)。そしてテルアヴィヴに3泊4日滞在した後は, エルサレムに戻って旧市街を歩いたり近郊のキブツに出かけたり(note *11)。

本章, 以下は 関連 note リンク。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの 恥知らずなイスラエル支持ソング は, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。

なお, この一文は(文字通り「この一文」!), 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

*9 テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

*10 テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

*11 エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. 

ふーっ, と(自分が!)一息ついてから次章へ。

パレスチナ/イスラエル問題 概観

前章にもリンクを付した以下 note 投稿の中の「ハイファに戻って」旅 note に入る前の第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」(その前の第1章は「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」)。

次章でようやく, 1983年10月11日のヘブロン見聞録。

ヘブロン見聞録(旅日記と写真) 〜 1983年10月11日

1983年10月11日, 滞在地は引き続きエルサレム。この日はエルサレムから日帰りで, 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめ複数の安保理決議に違反しながら(2021年の)今もイスラエルが占領を続ける被占領地パレスチナの一部, ヨルダン川西岸地区の街 ヘブロン への旅。

旅日記 1/6

バス(もちろんアラビック)で ヘブロンへ。約1時間。着いて ちょっとした商店街に入り, すぐに声がかかった。「どこからだ? 英語しゃべるか?」 そいつの英語はオレのよりずーっと上。洋服の店をやってるようで 店へ招ばれた。
パレスチナ人か? 「もちろんだ。ここはほとんどがパレスティニアンだ。でもすぐそこのビルディングが ユダヤ人だけのものになってる。プロブレムだ」

以下が同日の旅日記の1頁目。 

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※ Bus 降りてすぐ, さっそく ソルジャーの監視所(道路わき)見た。

ソルジャー」というのはもちろん, 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら(2021年の)今も軍事占領を続けるイスラエルの国軍の兵士のこと。

旅日記 2/6

ジュイッシュ(ユダヤ人)のとったビルディングには 今は ソルジャーしかいないとのこと。Second floor(3Fかな?)を建築中。

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その後, 

しばらくワイワイ話したあと(英語をしゃべるのは 3人ぐらいだった), ひとり若いのが アブラハムモスクに連れていってやると言う。

「アブラハムモスク」と当時の自分の旅日記には書いているけれど, イスラームの人の言い方, 表記に倣えば, 「イブラーヒームモスク」もしくは「イブラヒムモスク」。

そこはそれから 10年と4ヶ月後, 1994年2月25日に, アメリカ合州国出身のイスラエル人(ユダヤ人)違法入植者バールーフ・ゴールドシュテインのライフル銃乱射によるパレスチナ人虐殺事件が起きた場所(死者29名, 負傷者125名)。

日本語版のウィキペディアにも出ていて, 

当時はイスラエルの右派政党リクードの党首で, 今や当時より更に悪名高いイスラエル前首相であるベンヤミン・ネタニヤフ(「前首相」というのは 2021年10月現在の言い方だけど, 因みにその意味における「現首相」ナフタリ・ベネットはそのネタニヤフよりも更に悪名高い極右シオニストで, 彼の両親は1967年6月のイスラエルによる東エルサレムを含む西岸地区・ガザ地区などの占領から1ヶ月後にアメリカ合州国から移住したユダヤ人夫妻)すら, 事件当時少なくとも口先の非難をせざるを得なかった極右シオニストによる残虐な事件だが, 一方でこの恐るべき(テロ以外の何ものでもない)犯行を支持する声が, 高校生や教師など当時のイスラエル社会を構成する人間の中に存在したことも記されている。

話を戻そう。上記の事件の10年4ヶ月前に。1983年10月11日の旅日記・ヘブロン見聞録に。

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出るとき, 欧米人の団体さんが ぞろぞろ入ってきた。彼らは, 知らないのだろう, くつを脱がずに入って行った。

旅日記 3/6

以下は, 上掲の旅日記 2/6 の最後の2行から 下掲の旅日記 3/6 にかけての見聞録の引用。 

それから少し歩くと 道が交差してるところに 石を積んで固めたようなものを見た。案内の彼によると ここで 数ヶ月前(3だか4だかと言った, 記憶不正確), ひとりの ユダヤ人が殺されたのだと言う。殺された彼のために, ユダヤ人が石を積んだ。殺された彼の名はグロス。そうだ, パルミラの Hotel で読んだ, 7月の News Week の記事に載っていた事件ではないか。

パレスチナ/イスラエルの旅に入る前の滞在国はヨルダン, その前はシリアで, シリアではアレッポとダマスカスとパルミラに滞在した。パルミラにいた1983年9月11日が, 自分の23歳の誕生日だった(以下の note で上記の件を特に書いているわけではないけれど!)。

再び話が飛んだ!

話を 1983年10月11日の被占領地パレスチナ, ヘブロンに戻して, 

案内の彼によると, 今 危険な状況。ここで ノーイスラエリ ということは非常に危険とのこと。また昨年, ヘブロン university で たくさんの パレスティニアンが殺されたと言う。もし パレスティニアンが ユダヤ人をやると次の日にはつかまるが, その逆のときは決してつかまらん とのこと。
ソルジャー はいつもいるのか? 「いつもだ」

しつこく書いておくけれど, 「ソルジャー」というのはもちろん, 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら(2021年の)今も軍事占領を続けるイスラエルの国軍の兵士のこと。

彼と別れたあと, 店でシャイをごちそうになり(おごってくれた人は英語はほとんどダメだったが, オカモトの名とアラファトの名を出した), 

「オカモト」というのは元日本赤軍のメンバー, 1972年に他の日本赤軍メンバー 2人と共に 3人であのテルアヴィヴ空港乱射事件(犠牲者23名)を起こした岡本公三のこと。1972年5月30日の事件。だから事件当時は筆者は小6のガキ。当然ながら日本でも大きなニュースになったことをよく憶えている。あの行為そのものは勿論, テロ行為以外の何ものでもない。まだパレスチナ問題の本質はおろか, その(問題の)存在すら知らなかった頃に見聞したニュースだけれど, 実に衝撃的な, 子ども心にも当時の記憶に嫌悪感や衝撃・恐怖などを残す事件だった。

話をまたまた戻そう, 引き続き, 1983年10月11日の被占領地パレスチナ, ヘブロン見聞録。

それから 1人で歩くうちに くだもの等のマーケット(スーク?)のエリアに入った。

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そこにある建物(1F, そこにも店あり)の上に 銃を持ったソルジャーがでんとすわってる。別の建物の上には イスラエル国旗が風にゆれ, 数人のソルジャーがいる。

ソルジャー」というのはもちろん, 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら(2021年の)今も軍事占領を続けるイスラエルの国軍の「ソルジャー」。

それはともかく, しかし, 

マーケットは それを無視するかのように活気がある。

マーケットの中でまたパレスチナ人たちと親しくなり, 上掲の旅日記の記述の通りで, しばらく話したりもした。

旅日記 4/6

ヨルダンに行くと, イスラエリ government に行って, 何してたのか報告しなくちゃならん。

「イスラエリ government に行って」とは, 勿論, 被占領地パレスチナのこの街ヘブロンに帰ってからのこと(1983年はまだイスラエルとヨルダンの間に国交が無かった時代)。

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オレが旅のことを話すと, 我々はどこにも行けんのだ と言った。彼は 17才。住所と名は 3ページ前。

彼が自分の住所について後半部に "West Bank ISRAEL" と書いたので, 

イスラエルじゃなく パレスチナと書きたいと言うと, don't write パレスチナ と言った。

要するに Palestine と書くことは彼にとって危険を伴うものだったし, そもそも郵便物が届くのか心配だったのだ。

彼は現在 大学入学前, 店で働いてる。

彼は背が高かったなぁ。164センチしかない俺の背が低いってこともあるけど(まぁしかし, 一応書いておくと, 右に写ってるパレスチナ人の彼は若干後ろなので写真の中での立ち位置は俺よりやや上; 細かい話だけど!)。

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イスラエリに店を閉められる場合, その期間は 2週間とか 1ヶ月。理由はそこから "石が投げられた"   ラマーラのおじさんの店も閉められたこと ある。今はそういう店はない, と彼は言った。

商店の強制閉鎖というのは, 第二次世界大戦前のナチス・ドイツがユダヤ人弾圧の際にやったこととまるで同じ

石を投げた人間がその店の人間だという証拠などなくとも, その方向から石が投げられたというだけで店は閉鎖されたわけだし, そもそも誰か(パレスチナ人の子どもであることが多い)から石を投げられた側のイスラエル国軍兵士やイスラエル軍のジープなどは, 要するに, 国連安保理決議にすら従わないで彼らの土地の占領を続ける「無法者」の国の兵士であり, その軍用車両なのだ。

さて, 

彼も含めて イスラエルのことを話すときも 全然 激しくない。普通に話す。また, たいてい こちらから話さないと口に出さない。声をかけてくるのも 特にイスラエルのこと話したいというより(それもあるかもしれんが), 英語を上達させたいとか, アラブ特有のもてなしであるような気がする。とにかくここで 声を上げて ノーイスラエリ と言うのは危険なようだ。 

旅日記 5/6

4時近くのバスで エルサレムへもどった。

下掲の旅日記, 以降の記述も, 引き続き ヘブロン見聞録

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旅日記 6/6

この頁は, エルサレムに戻ってからの「夜の小散歩」のことや, ヘブロン見聞 思い出し記など。

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1983年10月12日

宿代が 170シュケルになった。(昨日 150シュケルになったばかりなのに ← 140) 今日から物価が 50% up との話。

1983年10月当時はそんな経済状態だった, 占領国家かつ戦争国家イスラエル。

イスラエルはヨルダン川と地中海の間に存在する 「アパルトヘイト」 レジームである(イスラエル最大の人権擁護NGO) 〜 これに対しイスラエル「擁護」専門家の抗弁は?

あれから38年経って, この間にイスラエルは相当な経済成長をした。一方で, 今もパレスチナ人の土地を占領し, 占領地における違法入植地を増やし続け, ヨルダン川から地中海にまたがるアパルトヘイト体制をますます強化している。

以下は, 上掲 note で取り上げているイスラエル最大の人権擁護団体 B’Tselem の Executive Director を務める Hagai El-Ad による, 今年2021年5月の言葉(ビデオ, アメリカ合州国の番組 Democracy Now! の取材を受けた時のもの)。

アムネスティと並んで世界最大級の人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの Khulood Badawi (Israel and East Jerusalem Consultant at Human Rights Watch) が, 

今から 1週間前, 2021年10月26日(現地時間)の Hagai El-Ad の訴えをシェア。

ロック界のレジェンドの一人, 元 ピンク・フロイドのフロントマンで長年のパレスチナ支援者である Roger Waters も, Hagai El-Ad の訴えをシェア。

さてさて, 

今日も note の締めは音楽。

"You'll Never Walk Alone" (Gerry & the Pacemakers) 〜 "Fearless" (Pink Floyd) ♫

ピンク・フロイドの 1971年10月31日リリースのアルバム "Meddle" のLP, A面3曲目に収録されていたこの歌 "Fearless",

*因みに B面全てを使って収録されていたのが大作 "Echoes",

.. 話を戻して ♫ "Fearless" については,

https://en.wikipedia.org/wiki/Fearless_(Pink_Floyd_song) から引用すると, 本章の見出しに関わる説明が簡単。  

The song's slow tempo and mellow acoustic sound bear similarities to some of the other tracks on the first side of the album. Roger Waters performed the acoustic guitar parts using an open tuning in G major, taught to Waters by former member Syd Barrett.
Near the beginning and at the end of the song, a field recording of fans in Liverpool's Kop singing "You'll Never Walk Alone" is superimposed over the music. This Rodgers and Hammerstein song became the anthem of Liverpool F.C. after Gerry & the Pacemakers had a number one hit with their recording.

というわけで, 先にこちら,

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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Fearless 〜 from Pink Floyd's sixth studio album "Meddle" released on October 31, 1971

("You'll Never Walk Alone" sung by spectators in a soccer stadium, used: intro[0:26-34], and more clearly in outro[4:40-]) 

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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